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- 私にとっては当たり前だったこと | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/9/17 私にとっては当たり前だったこと Facebook X (Twitter) リンクをコピー 今日、いろいろな話を母としながら 本などて症状とされるような、、それに近いことは ものごころついたときにはもう日常で 文献ではこの病気の発症は思春期前後が多いとされているけれど、私は3歳とかの幼稚園の頃から もうすでに それが非日常ではないくらいには 当たり前のことだった。ということ詳細を伝えたところ それは大変なことだ。 と言われた。 しかしその反応は 決して「そんな大変なことを今までずっと一人で抱えて 大変だったね、、」というニュアンスではなかった。 そんな状態なのに 今薬を絶っているなんて 危なすぎる。 と言われてしまった。 誰にも言わないで一人で戦ってきたことも コントロール出来るようになってきていることも 無いことかのように その攻める気持ちが外に向かったら本当に大変なことだ、、と言われた。 今まて、27年間生きてきて それをそのまま 外に向かわせたことなんて一度も無かったのに、、、 それを全部一人で対処して 自分への攻撃として受け止めてきたことへの労いは無く、いつも1人で頑張ってきたみたいに言うけど、それで体調崩したりしたあとの尻拭いは自分で全部できてないよね?と責められた。 正直、本当にやばい時に 自分で自分がしてしまったことの愚かさの事なんて 理解できてない。 言ってしまえば、つまり 私は尻拭いを 頼んだことなんて無い。 子離れ出来ないで 勝手にやった彼女の行動に 首を絞められたことだって ないわけではない。 私の当たり前を すごい形相で 恐ろしいことみたいに言われて 私はどうしたらいいか分からなかった。 すごく すごく 苦しくて 悲しい。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 第0章 はじめに ■■★■■ 定員割れ高校で偏差値45以下の私が、17歳の高校1年留学で人生が変わり、10年後にニューヨークでバリバリキャリアウーマンで働いている話。 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/8/14 第0章 はじめに ■■★■■ 定員割れ高校で偏差値45以下の私が、17歳の高校1年留学で人生が変わり、10年後にニューヨークでバリバリキャリアウーマンで働いている話。 Facebook X (Twitter) リンクをコピー はじめに。 現在 私は、某日系会社でProduction Planning Managerとしてアメリカ人の上司の下、ニューヨークで働いています。簡単に言うと「生産管理マネージャー」というポジションです。 私はこの会社に入り翌年、3年間連続で、「年間優秀社員賞」(年間数人)を取って、 4年目で、「社長賞」(年間に1人とれるか、もしくは誰も取れない。)をとってしまいました。 気づいたら、「良くできる社員の代表」として、素晴らしい賞を何度も頂いてしまった訳です。 学生時代 ただ、こんな私ですが、学生時代に頭が良かったわけではありません。 自分の中学の成績を見て、私は全体で中間以下かと落ち込んでのをよく覚えています。 高校は志望校に落ちて、昨年定員割れした公立高校に入ります。 周りのレベルが低いのか、中間の成績にはなったものの、 授業中に漫画を読む、テストはすべて徹夜越し、万引きをする、クラブに行く、タバコを吸う。 ・・・今、思えばヒドイものです。警察に捕まった友達も、何人かいました。 公務員の両親二人の間に生まれた娘とは、思えないほどの行動でした。 進路を決めるに当たって ですが、さすがの私も心のどこかでヤバい。っと思い始めていました。 それから、勉強はできないバカでしたが、自分は自分なりに良く考えている子供でした。 たとえば、こんなアホが、名の知れない私立大学へ行って授業料150万とか払うのは、 金の無駄使いだ。とくに日本の大学は、みんな勉強しないで遊んでいるのが気に食わなかったです。 そもそも、やりたいことが無いのに、なんで高校卒業したら大学に行くのか? その頃、アメリカではみんな「行きたくなったら大学へ行く」人が多いという話を聞いていたので、 自分もそうあるべきだと思い始めました。そもそも、日本に生まれたからって、なんで日本人がするように(高校卒業と同時に大学へ進学するなど)行動を共にしなくちゃいけないのか、理解ができなかったんです。 しかも、私の高校は大学進学はクラス40人中3~5人ぐらいといアホさ加減です。 もちろんですが、みんな名門・難関大学へ行くわけでもありません。 留学という選択肢 ひとまず日本で行きたい大学がないけど、高校を卒業して、途方にも暮れたくなかったので、 17歳、高校3年生の夏から、日本の高校を休学して、カナダの高校へ行くことに決めました。 これも、私が頭が悪すぎて、当時(2002年)アメリカ高校留学には応募できませんでした。 この時のアメリカ1年高校留学は100万、カナダが170万ぐらいだった気がします。 これを決めたのは、すでに15歳の時でした。 高校1年生ぐらいで応募することを決めて、3次試験まであるテストを受けます。 筆記試験、面接、英文小説暗記朗読などです。 (今思えば、非常に準備期間の長いよくできたプログラムでした。) その後、ニューヨークで留学カウンセラーの仕事に就くことになりますが(2009年) 自分は留学をするためにとても長い期間準備をしたけど、 最近の留学生は、かわいそうなぐらい心の準備ができていないんだなぁとよく思いました。 15年間続けた英語教育 ちなみに私は不良ではありません! 5歳からずっと英語を習っていて、まじめに二十歳ぐらいまで続けました。 英語に関しては、この習い事に行くのが大好きでした。学校よりも何よりも好きでした。 週末も行っていたら、中学の友達にハブ(仲間はずれ)にされたこともありますが、 別に学校以外に友達いるし、まぁいっかと思ったぐらいです。 私にとって、この英語教室は非常に偉大でした。 ここが、私を成長させて、また英語を「勉強」じゃない方法で、自然に体で覚えたからです。 留学が決まって 話を戻しますが、留学試験はC判定でした。 そこには、現地の校長先生が受け入れ許可を出せばいけますという条件付き判定でした。 この「勉強のできない」高校生が、この留学試験だけはとてつもなく頑張りました。 (でもなぜか学校の英語のテストの結果は、悪い状態が続きました。) その頑張りが報われてか、希望していた高校からOKが出て、私の留学が確定します。 ちなみに、この時点で私の話せる英語はHelloとHow Are You?でした。 5歳から17歳まで英語を習っていたにも関わらず、あり得ない英語力だなぁと心でよく思っていました。 でもこの後、1年間で私の人生は変わります。 1年間、日本語を話さなくても死なないしっと思って、日本人とも英語で話しました。 損得感情が強く、無駄が嫌いな私は、170万円を無駄にしたくなかったのかもしれません。 (もう、なんなら日本語を全部忘れてもいいから、神様、英語を理解させて下さいとも思いました。) 何よりも現地の高校で友達ができないのが嫌でした。 友達できないとかダサいし、ダサい留学なんて嫌!絶対に嫌!っと、 ダサさを全力で拒否し続けた結果、 私はたった1年でTOEICを750点まで伸ばし、 留学生の中でも一番バカだったのに、帰国時はTOPで2番目の成績を叩き出しました。 帰国後の高校の英語のテストは勉強をしなくても100点でした。 頭じゃなくって、体で覚えた英語 そこからは、英語能力だけで、短大入試、大学編入、奨学金留学、就職活動、 何も苦労しない日々が続きます。 いや、苦労していたのかもしれないけど、カナダでの日々が辛すぎて、 そこからの日本生活は、何があっても、「辛い」と思うのが難しくなっていました。 ニューヨークで働きたい ニューヨークで働くことを決め、2009年に移住。 その後、うまく永住することができて、今に至ります。 ニューヨークでも初めについた職種「留学カウンセラー」がとてつもなく天職でした。 (お休み無しの、給料が月収12万じゃなかったら、きっと続けていました。) 最近は、「留学」自体が流行っているといいますか、行く人が増えていると思います。 でも、私が留学した当時2002年は、まだまだ「高校留学」なんてする人が少なかったです。 (周りには、頭がおかしくなったかと良く言われました。とくにバカな高校だったので。) ですから、2009年に「留学カウンセラー」になったときは、私はみんなの先輩でもありました。 英語の悩みから、ホームステイ先の悩み、仕事だけど毎日とても充実した仕事でした。 それから、いろいろとこの会社でもあって、転職することになり、いまに至ります。 留学について 学歴社会の日本では、「留学」という選択は、ある意味いい逃げ道でもあり、 お金さえあればできる「やり直し」でもあるのかもしれません。 「高校留学」させてもらえなかったら、私は今でもただの一般的な日本人で終わりでした。 「英語能力」は後からついてきましたが、何よりも当時、 ガラケーすらないカナダの田舎で1年間日本語をしゃべらない生活を送ったことが、 また辛いことをいっぱい乗り越えて、今でも連絡をとれる友達がいること、本当に感謝してます。 留学で伸びる英語力 具体的にですが、私は当時、 3か月でだいたい英語が聞けるようになり、 6か月で言いたいことが全部英語で言えるようになり、 9か月で、TheとかAを考えなくても正しく使いこなして、I Playとか、He Playsのsが考えなくても自然に口から出てくるようになりました。 帰国する時には、Native並みのCanadian Englishねと電話越しで話したカナダ人の女性に言われたのを今でも忘れません。 自分の子供にも、絶対に「高校留学」を進めます。 留学って、「大学生」になっちゃうとある意味もう大人なんです。 (それは「留学カウンセラー」の仕事をしているときに、毎日感じていました。) でも「高校生」でいったら、現地で「子供」として扱われるから、ある意味、自由だし、 また周りからも無条件でいっぱい愛情をもらいました。 (とくにアジア人の高校生は13歳ぐらいに見えますので。) この経験が無かったら、今の私は存在しないと思うので、ここに書きたいと思いました。 なにか海外留学・海外就職をお考えの方のためになればと思います。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- ジャマイカでラスタに出会いヨガに目覚めインドに瞑想修行に行った話 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/1/8 ジャマイカでラスタに出会いヨガに目覚めインドに瞑想修行に行った話 Facebook X (Twitter) リンクをコピー インド人でヨガをしているのはほんの一部だ ジャマイカでリアルラスタなのもほんの一部 日本人で和装で茶道をたしなむのはほんの一部であるように 私は日本人だ だけど多くのよくある若者と同じく 酒とタバコと夜遊びのトラップに長いこと かかっていた。それはそれで楽しかった。笑ってふざけて 平和 でしょ! さらに朝まで爆音のバーで働いていた私は 極めていた ともいえる。 「愚者も愚に徹すれば賢者となる」 普通に暮らしていたら養えないほどの原動力は そんな日々だから培えた、 今だから 冷静に そういえる。 かくして最高に荒ぶった神経で ジャマイカに飛びたったのは3年前のこと そのたった5日で 人生観が変わってしまうほどの ジャマイカ中毒をおこし 日夜ジャマイカを夢見 以後毎年ジャマイカに帰るようになる。 死ぬまでに一度、行けたらいいなくらいの 謙虚な気持ちだったのに 、、 まるで薬物依存者のようにあの国のバイブスを欲するようになり、、 その島は訪れる度に万華鏡のように 新しい柄で私を魅了した。 レゲエ ラスタマン アキアンサルフィッシュ ブジュ ケープルトン シズラ 二回目のジャマイカでは 一回目の帰り際に知り合ったジャマイカ人の山の奥の実家にホームステイした。 それがhit me ワンエイティー。 私の人生を変えた。 海だとか街だとか 観光で終わっていたら きっとこうはなってない。 「本気のリアルジャムロックに連れていってやるよ」 と連れていかれたのはセントメアリーの 急な山奥。 おーっきな葉っぱの茂る南国のジャングルは ジャマイカ人すらもよりつくことはない。なにせ、何も無いところ。 そこに住んでいる人だけが自然と共に存在する。日本人なんかみたこともないみたいで、 私はちょっとした見世物みたいになった程。 友人ジェイソン君の実家はピンク色のトタンの家で 部屋がいくつかあり、、 ジェイソン君のお母さんが引き取った孤児5人と暮らしている。 庭には雨水をためるタンクがあってその水が水道からでてくる。タンクの横にシャワーがあって 朝に庭で、雨水のシャワーを浴びたら 庭で火をおこして無農薬の庭先の野菜で優しい塩味の料理を作ってくれてココナツをナタでひとつとって飲みながら 宇宙的な虫の音と 爆発的な笑いと立場をわきまえた犬や鳥たち 歌がうますぎる少年と 灼熱の太陽。 「日本人はまた頭あらってる!洗いすぎだろ!笑」と笑われたりしながら 人間本来の在り方に少しづつ気がついていったんだと思う。 夕方になるとヤシの木の茂みの奥から甘い選曲のレゲエが風に乗ってきこえて 月の灯りだけが全ての庭先に腰掛けて みんなで歌ったり笑ったりして過ごした。 最後の日におばさんが出してくれた一杯のココティー。 庭のカカオの種でつくった手間のかかる 特別なチョコレートドリンクの味は 一生忘れない。 この旅に来るために休みなくいくつもの バイトをかけもちしすぎた私は 謎の皮膚病に悩まされていたけど 帰るころにはすっかりと治って、、 また スグに帰ってくる。 と誓って帰国したのだった。 ジェイソン君は本当にいい人で よくあるギャリス(いわゆるヒモのこと。先進国の観光客を狙ったジャマイカのナンパ男)とは違い ナイスなイケメンだった。 2週間一緒にいたけれど、フレンド。 リスペクトな地球の裏側の友達だった。 そして私には 彼氏がいた。 彼氏はジャマイカに熱をあげる私をさますためか、帰国5日後に 「君への誕生日プレゼント」と言ってなんとタイのプーケットへ連れていってくれた。 時は三月で寒かったし、南国に行けるだけまあ いっか とありがたくプーケットで5日を過ごした。でも、そこで心底知ることになる。 ここは ジャマイカじゃ ない‼︎‼︎ レゲエもない ジャマイカ人もいない バイブスのない これはただの 海辺です。 しかも 神様のいない 海辺。 すっごくキレーだけど。 ただ キレーな だけじゃん。 日が経つほどにジャマイカを恋しく思い ジャマイカの特別を思い知った。 それは言葉では言えない。 しまいめにはジャマイカじゃなさすぎて 彼とも別れることになる笑。 ちなみに以前ハワイでも同じ思いをする。 ただキレーなだけじゃん。 そこじゃないんだよ。私が欲しいのは。 キレーなのは 当たり前で その上での話 爆発感 てゆうのかな。 芸術は爆発だ 岡本太郎 そんな 魔法。 私のハートは彷徨っていた。 あの世をおもいながら この世にいる感じ。 ヨガのポーズでゆうなら プラサリータパドッタナサナ そう。ジャングルでのバイブスを胸に コンクリートジャングル大阪に帰国した私は ビルとビルに挟まれて先進国のスピード社会に息が詰まって死にそうになっていた。 そんな初夏のある日 ビルの一角にみつけた 素敵なヨガスタジオ 初回3回 千円、、、 気晴らしに いってみる? なーんの気なく なーんの気なく 門をくぐり、、、 これがまた私の人生を変えてしまうこととなる☆ いいね おしてね! つづく X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- バツイチ。ただいま独身。もう結婚しません。 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 バツイチ。ただいま独身。もう結婚しません。 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 私は、30才代前半に離婚しました。 一人息子の親権は父親がもつことになり、息子とは別の生活になりました。 今年になって、やっと息子ともLINEで連絡がとれるようになり、私にとっては夢のようなうれしい出来事です。いつかこんな日が来るとは思っていましたが。 離婚の原因は、私が「育児と仕事の両立」がうまくできなかったことです。 元夫、私ともに近くに両親が住んでいて、いろいろ協力してもらいましたが、それでもうまくできませんでした。 30才代は男性にとって気力もあるし、まさに「働き盛り」の時期です。 そして私は、まだ「女性の活躍」や「育児と仕事の両立」の時代ではありませんでした。 職場でも育児をしている人は、1人とまだまだ母親の立場である私が踏ん張らないといけない時期でした。 スーパーも夜遅くまで営業しているわけではなく、延長保育も無しで、17時シャープに仕事を終える毎日でした。 元夫は、0時過ぎの帰宅。 私は、仕事が終わって夕飯のメニューを考え、スーパーに行き、保育園のお迎え、息子を連れて帰り、夕飯の支度をして、ご飯を食べさせて、お風呂に入って。 仕事が終わってからが、バタバタの生活でした。 元夫が帰宅後に夕飯を食べるのですが、食べた後のお皿がシンクにそのままになっていて、毎朝、私は怒っていました。 保育園では、よく病気をもらってくるので、息子が熱を出したりすることはしょっちゅうで、小児科へもよく連れて行きました。元夫とどちらが休むかもずいぶんもめました。 両親の協力もたくさんありましたが、やはり私の負担は大きかったです。 職場でもまだあまり理解がなく、上司には睨みつけられたりすることもよくありました。 今、思うのは、「少しでも誰かにほめてもらいたかったな。」ということ。 自分の子どもを育てるのにがんばるも何もないのですが、正直、「よくやっているね」ぐらいの言葉は欲しかったです。 今どきは、「ワンオペ」と言うらしいですが、私はこの言葉はキライです。 「育児」が「業務の1つ」になっているような響きがあって理解できません。 そんな状況で、私の頃は、「育児と仕事の両立」のはしりの時期でした。 30代は離婚と息子との別離があり、とにかくずっと「闇の中」でした。 毎日、涙が止まらない時もありました。 その時に自分を励ましていた歌が、「上を向いて歩こう」です。 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように あふれ出てくる涙を拭うこともはずかしい時もあり、上を向いて涙を流さないようにしていた時がよくありました。 女性は、30才代に2回、厄年があります。 もう私は、毎年が厄年のようにどっぷり浸かっていました。 息子への罪悪感など、ひたすら自分を責めていました。 自殺を考えたこともありました。 40才近くになってでしょうかね。 息子は大きくなっていく。息子が大きくなった時に会っていろいろ話せたらいいな。 と、やっと思えるようになりました。 今、振り返ると、息子との別離は、私にとって「試練」だったと思います。 息子にはとても気の毒な思いをさせましたが、これから息子にはいろいろ返していきたいと思っています。正真正銘の親子なんですから。性格も私に似ているところがあります。 30才代は闇。40才代は家族の介護にシフトして。 もう大変過ぎて、「再婚」は、ほとんど考えていませんでした。 40代半ばぐらいに、ちらりと「婚活」をしたことがありますが、知り合う男性が自身を「盛り過ぎて」いて、かつ、「カラダ目当て」の人も多かったので幻滅しました。 その後も、「専業主婦」でいいからとガチのプロポーズも受けましたが、お断りしました。 40代になると相手の年齢にもよりますが、「介護」が浮かんでくるんですね。 あまり年上になると自分がその人の介護要員、もしくは相手の親御さんの介護要員だと考えるとげっそりします。 もう自分は、家族の介護をやりきったので、やりたくないです。 自分が介護されたい。 (笑) 今は特段、不自由はありません。 趣味の関係で年下の男性友人もたくさんいるので、飲んだり食べたり全く困りません。 同級生の男性だとごちそうしてくれます。(嬉) たぶん自分はこれからの人生もこんな感じでいくのだと思います。 結婚して姓を変えたりとか、もうめんどうでイヤです。 今の自分の字画が良いので変えたくないです。(笑) これからは、息子に金銭的援助ができるぐらいと自分が生活していけるお金があって生活できれば充分と思っています。 「看護師」という職業は、男性に好かれますね。(笑) X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 別れ話 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 13/3/20 別れ話 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 以前、付き合っていた彼女のことを題材にするなんて、自分でも未練がましく思うし、今の彼女に失礼な気もするが。 今の彼女には重々承知してもらっているので、ま、いいだろう。 そう、例のVOGUE のモデルだ。 国籍は中国返還前の香港だったので、イギリス。 3 歳の頃から日本で育っている。 5 つの言語を操り(日本語、北京語、台湾語、上海語、広東語)、中国圏アジアならどこでも通用する。 実の母親はすでに亡くなっており、80 歳以上の父親とその親族が生きていた。 一度離婚し、再婚したが別居中。 それぞれに、一人ずつ子どもがいる。 だが、会える状態ではなく、夫は離婚調停にも応じない様子だった。 二人が出会ったのは、私が23 か24 歳の頃。 3~4 歳年上だった。 きっかけは、私が勤めていた外車屋の社長が亡くなり、その愛人であった彼女が私と付き合うことになった。 しかし、彼女の身上を考えると、そのときの私には荷が重すぎた。 まるでこぼれ落ちてくる砂を両手で受け止めようと必死になっているが、指の隙間からどんどん砂がこぼれ落ちていくような感覚だった。 だが、彼女は強く、私に重たさなど微塵も感じさせまいと気丈に振舞っていた。 年上ということもあるが、彼女は何でも知っていた。 私の世界観や、人生を大きく変えた人だった。 私は、二度ほど香港へ行っている。 一度目は、母親の墓参りと彼女が家族と会うために誘われ、ついて行った。 二度目は、父親の死だ。 どうやら向こうの薬事法違反で捕まり、留置場で息を引き取ったらしい。 彼女の父親は、結構ワイルドな人生を生きてきたらしく、中国が共産党支配になるときに海を泳いで香港に来たらしい。 また、日本にいるときは芝公園の有名中華料理レストラン、留園で総料理長を務め、その後自分の商売で失敗しているらしい。 また、あるときは中国人留学生のビザ発行か何かの商売で、ヤクザに追われたことも。 このとき、彼女はチンピラにホテルに監禁されたが、ドアを蹴破り自分で脱出したらしい。 彼女もまた、ワイルドな人生を歩んで来たのだ。 そんな彼女と香港に行ったとき、私はその頃ロレックスのコピー品にはまっており、フリーマーケットなどでたびたび高値で売り飛ばしていた。 もちろん、時間を見つけてはコピー品業者とやり取りしていたのだが、ある業者にビルの10 階まで連れて行かれたその時、アタッシュケースを開けるとそこには品質の悪いコピー品ばかり。 私は、「これでは買えない」。というと、部屋のカギが閉められた。 ふと気付くと男が3 人、右手に大きなマイナスドライバーを持ってこっちに詰め寄ってくる。 私は終った、と思った。 その矢先。 彼女がなにやら広東語で、男たちにまくし立てている。 すると…部屋のカギは開けられ、無事生還。 あの時何を言っていたのか彼女に聞いたら、「私は日本人の買い付けガイドよ!!このバイヤーに何かあったら、二度とここには来ないわよ!!」 と、言ったらしい。 だてにサバイバルしていない。 彼女の日本での仕事は、モデルでもあったが主な収入源はホテヘルだ。 本番ありの。 まぁ、その美貌から主に芸能人や金持ちしか相手にしてなかったようだが。 最後は、二人で離婚届を偽造し、6 ヶ月後くらいに私の電話が鳴る。 「こちら、多摩中央警察署刑事課の知能犯係です。」 「Sさん、任意同行願えますでしょうか。」 容疑は「公正証書原本不実記載」「有印文書偽造」。 度重なる取調べと証拠品提出の後、私は東京地検に書類送検される。 そして、警察官が強く私に念を押した言葉は… 「今後一切あの女に近づくな。もっと大変なことになるかもしれない。わかったか」 私は幸い起訴を免れたが、彼女はその後どうなったのか今でも気がかりでしょうがない。 そして二人は別れた。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- paperboy&co.創業記 VOL.1: ペパボ創業からバイアウトまで | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 13/6/25 paperboy&co.創業記 VOL.1: ペパボ創業からバイアウトまで Facebook X (Twitter) リンクをコピー 12年前、22歳の時に福岡の片田舎で、ペパボ ことpaperboy&co.を立ち上げた。その時は別に会社を大きくしたいとか全く考えてなかった。家で仕事が出来て、仕事をしながら子育て出来ればそれでいいやと思ってた。当時サラリーマンをしてたんだけど、中学2年から引きこもり、対人恐怖症気味だった僕には、定時出社や同僚とのコミュニケーションが苦痛でしようが無かった。サラリーマンを辞めたいが為の起業。どちらかというと逃げ腰、後ろ向きの起業だった。 起業と同時にロリポップ を立ち上げた。最初は一人だった。デザイン、開発、サーバー管理、ユーザーサポートを全部一人でやっていた。息子が産まれた夜遅く、病室でユーザーからの凄い剣幕のクレーム電話に対応して、泣いた。 ユーザーは立ち上げからずっと順調に増えていた。そのうちユーザーサポートが回らなくなってきて、ネットで知り合った現ペパボ社長の健太郎(くわがた) に入って手伝ってもらった。僕がためこんだユーザーからのメールを、健太郎はストレスで血尿を出しながら返信していた。 サービスを作るのは楽しかった。元々デザイナー兼プログラマーだったし、一人でデザインや開発をして、それがユーザーからダイレクトに反応があるのはとても刺激的だった。学生時代は油絵をやっていて、将来は画家になりたいと思ってたけど、世の中に作品を出して反応を得る、という点に置いては会社経営もウェブサービス制作も表現活動なんじゃないかと思う。 その後もユーザーは順調に増え続けた。社員も増え、事務所を構えた。会社が大きくなっていくことに喜びを覚えはじめていた。併せて、責任も感じはじめていた。もう僕一人の会社じゃ無いんだ、と。急激に社員が増える中で、会社の制度が追いつかなくなってきて色々と問題もあったけど、まあ楽しくやっていた。 起業から2年後、急にライブドアの堀江さん、GMOの熊谷さんといった錚々たる方々からM&Aのオファーが届いた。最初は全部断る予定だった。でも滅多に会える様な人たちじゃ無いし、会ってみて断っても良いかなと思った。実際会ってみた中、GMO の熊谷さん に口説き落とされてしまった。経営者として、人間として、輝いて見えた。この人と一緒にやりたい、やってみたいと思った。 GMOインターネットグループに入った。決め手は熊谷さんの人格、そして「社名やブランド名は一切変えなくて良い、社風もそのままで良い、むしろGMOグループをペパボ色に染めてくれ」という熊谷さんの言葉だった。50.1%を譲渡した。全部持ち株の譲渡だと何だか会社や会社のみんなに申し訳無い気がして、半分は増資にしてもらった。オファーが来て1ヶ月後の出来事だった。普段からモットーとしている「やると決めたら後はどれだけ早くやるか」に従った。 上場企業とのM&Aなので、正式発表されるまで健太郎以外の誰にも相談出来なかった。発表された昼過ぎ、社員を集めて説明した。既にその日の日経朝刊などで知っていた社員も居て、自分の口から伝えられ無かった事を申し訳なく思った。「えーっ、まじで…」という声もあった。ムームードメイン を立ち上げて、GMOのお名前.comを敵視してやっていた中、その反応は当然だった。 会社、個人の銀行口座にそれぞれに数億円が振り込まれた。 僕らはGMOインターネットグループにジョインした。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- どうしようもないお母さんが歩いている! | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 13/11/10 どうしようもないお母さんが歩いている! Facebook X (Twitter) リンクをコピー モコちゃんのパパは、ガンでなくなってしまいわたしたちは否応なくふたりっきりの生活をスタートさせた。 当時、エディターだったわたしは、ちいちゃいモコちゃんを保育園に預けて仕事にいく。 わたしたちはいやがおうにもストイックな生活をすることになった。 だって、誰からも何も言われないふたりだけの生活。 わたしが子どもにしてあげようと思ったことはたった一つ。 朝自然に目覚められる人になる習慣作り。 わたしは、朝が苦手で苦労したから、モコちゃんは早起きが苦にならない人になれればいいなぁって思った。 だから保育園から帰って、お魚とひじきと玄米みたいなご飯を食べるとお風呂に入り、8時頃からお布団の中へ。 500冊くらい集めた絵本が壁一杯に並んでいるお部屋で、モコちゃんが選ぶ絵本を次々読んで聞かせた。 ぐりとぐら、ばばばあちゃん、どろんこはりー、こぶたのポインセチア、おさるのジョージ…。 お布団の中は温かくって、絵本の世界は楽しいし、わたし自身が癒される。 ある日、わたしは、自分の読みかけの山頭火の句集を3才のモコちゃんに読み聞かせた。 「分け入つても分け入つても青い山」 「すべつてころんで山がひつそり」 「どうしようもないわたしが歩いている」 …、 挿絵もない句集をただ読み聞かせていた。 おかげさまで、モコちゃんは早起きになった。 6時頃にはぱっちり目を覚ます。 そして、保育園の準備をしたら、朝ごはんはお向かいのベーカリーで。 香ばしいごまパンとリンゴジュースがモコちゃんのお気に入り。 カウンターの椅子からよっこいしょって降りて、歩き出す。 代官山保育園は公園のそばにある。 公園の中でわたしがモコちゃんの先になって歩いていたら、後ろからモコちゃんの声。 「どうしようもないお母さんが歩いている」 「!!!」 何と、本質を見切った言葉。 こんなモコちゃんとの日々は、わたしの人生の中でとても物語にあふれた時代。 懐かしい。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 世界一周中に出来たシリアのお友達。どんな時でも思いやりの心を持つ彼らに胸を打たれたストーリー | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/3/1 世界一周中に出来たシリアのお友達。どんな時でも思いやりの心を持つ彼らに胸を打たれたストーリー Facebook X (Twitter) リンクをコピー こんにちは(*^^*) 世界中の人と友達になることが世界平和に繋がると思い世界一周をしてきましたMONAです☺︎ 最近シリアの状況はますます悪くなるばかりですね。 私は世界一周中にシリアの若者と友達になる機会がありました。今回はそんなストーリーです。 トルコのイスタンブール。親日を通り越して日本崇拝国だと思ってしまうくらい、とにかく人が優しい場所にきました。 町並みもため息が出るほど美しく、夜になると、モスクがライトアップされ、アラジンの世界は空想だと思っていたのが、現実世界に本当に存在するのだと感動しました。 イスタンブールにはグランドバザールという、お土産屋さんがずらりと並ぶ場所があります。トルコ雑貨は乙女心くすぐられるものばかりで、買いすぎたあまりに、お土産を日本に郵送したほどです。バザールの人たちもみな陽気で明るく親切な方ばかり。 その中で、あるお店の男性と仲良くなりました。年も同じくらいだったため、すっかり意気投合をし、彼の仕事終わりに彼の友達も呼んで一緒にご飯を食べに行くことになりました。 そして夜になり彼の友人も合流して、3人で楽しくご飯を食べ、外の広間で散歩をしていると、彼の友人が私に「僕たち、トルコ人じゃなんだよ」と行ってきました。驚き聞き返すと、彼らは戦火のひどいシリアから逃げてきたのだと私に話してくれました。中東諸国で今尚繰り広げられている戦争。いままでニュースの中だけの出来事だったのが、今目の前にいる私のお友達が、まさに戦争真っ只中の国に住む人だったのです。 今、友達が、家族がどこにいるかも分からない。いつ帰れるかも分からないのだと言っていました。かける言葉が見つからず話を聞くことしかできません。 そして、トルコで2人のお世話をしてくれているというおじさんが、私たち3人を車で迎えにきてくれ、みんなで夜のイスタンブールをドライブしました。私のiphoneに入っている今流行りの洋楽をかけると、「この曲いいよね」と盛り上がり、私たちは一緒に歌いました。音楽に国境はないって、本当なのだと思った瞬間でした。 そして別れ際、2人は私に「君の幸せを祈っている。ずっと、その笑顔のままでいてね」と言ってくれたのです。彼らの祖国は戦争中。きっと私には想像も出来ないような、たくさんの心の苦しみを抱えているでしょう。私だったら、きっと自分のことでいっぱいいっぱいで、他人の幸せを考える余裕なんてないでしょう。しかし彼らは、そんな状況のなかでも、出会ってすぐの私の幸せを祈ってくれたのです。それを考えると胸が苦しくなって、涙をこらえることができませんでした。 私はまた夢が一つ出来ました。平和で笑顔が戻った彼らの美しい国で、彼らと再会する。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- ヘリコプターで帰って来い! その② | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 ヘリコプターで帰って来い! その② Facebook X (Twitter) リンクをコピー 91歳で亡くなった祖母の葬式はとても和やかだったそうだ。 86歳まで一人で暮らしていた祖母。一人娘の母が心配して、家族全員で、祖母の住む別府に引っ越してきたのは私が小学校5年生の時だった。 同居はせず、別世帯の家を建て、祖母の部屋も準備したが、泊まることはほとんどかった。 私は両親と住む家でなく、祖母の家に住民票を置き、校区外の小学校、中学校に通って帰りがけに祖母の様子を見守ることになった。 実際には両親の家から学校に通っていたので、朝からバス通学をしていた。今だったらヘルパーさんがしている仕事を小学生から毎日していたことになる。 その後、私は進学の為東京に出て、母や妹が続けていた見守りが、祖母の大腿骨の骨折で、看病とリハビリに変わった。 退院しても当時手術後のリハビリに通っただけでは一人で住んでいた祖母の自宅に一人で戻ることは出来なかった。 母と妹の住む家に初めて寝泊まりしてリハビリに通った。 自宅に戻りたいと言う祖母の懸命な努力でだいぶん回復した頃、また捻挫して寝たきりになり元に戻るという繰り返し。 入院したり退院したり、転院したり退院したりを繰り返していた。祖母も母もけんかしながら頑張っていた。 約、5年程の入退院ののち、最後は 眠るように亡くなった、と母が言った。 ボケる事もなく、ただ眠る時間が増えていった。 寝たままでも良いから生きていて欲しかった、と、しみじみ母は語っていた。 アメリカから戻って来た私は、母と一緒に祖母の葬式の香典のお返しを買いに行ったり、お喋りして祖母との昔話を聞いたりして過ごした。 祖母の財産の手続きも母と一緒にあちらこちらに出かけて回った。 湾岸戦争が起こり、アメリカに戻らないで、と言われたり、雲仙普賢岳が爆発してテレビにかじりついて九州で起こっている災害に一喜一憂したりしながら過ごしていた。 そうして、また、アメリカに戻る日が来て私は母を残し旅立った。 が、次には母が入院して私は再び帰国した。 続く X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 3.11 志(こころざし)のバトンを引き継いでいく | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 13/3/20 3.11 志(こころざし)のバトンを引き継いでいく Facebook X (Twitter) リンクをコピー 震災や津波を経験し、それまでの生活がいかに平和で恵まれていたかを痛感できました。そして、今ここに命をいただいて生かされていることに感謝の念を抱かずにはいられません。 私は中国ビジネスが専門なので中国と関係する震災関連のニュースを一つ紹介します。 ご存知の方も多いと思いますが、宮城県女川町・佐藤水産役員の佐藤充さんは、地震直後に大連出身の中国人女性研修生20人全員を寮から誘導して高台の神社に避難させました。研修生の安全を確認した後、佐藤さんは寮に残した妻と娘を捜しに戻ったものの、残念ながら中国人研修生たちが見ている前で津波にさらわれ、帰らぬ人となりました。 ↓↓反日感情を変えた「女川町の奇跡」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2400 震災後一週間経って、女川の佐藤水産で研修していた20名の中国人研修生は中国に帰国しました。断続して発生する余震やまた来るかもしれない津波から逃れるためには仕方の無い選択でした。 女川の研修生のほとんどが中国大連市周辺の出身でした。ただ、中国では日本の原発事故を非常に深刻にとらえている人が多く、研修生のご両親は二度と日本には行って欲しくないと願っています。ところが、中国に帰国した20人のうち12月までに14人の研修生が女川に帰ってきました。 しかし女川町の漁業復興の道のりは険しく、再来日した研修生らの昼休みはわずか1時間で給与も上がりません。中国の両親には女川に帰ったことを秘密にせざるを得ない研修生もいます。両親を心配させたくないので、毎回実家に電話するたびに自分は中国の蘇州市にいると告げています。 ある研修生はこう語っています。「だけど、人は生きているなら良心が必要。佐藤さんがいなければ、私達は生きていなかった。皆さんに恩返しできることは、ここに帰ることだけです」 ↓↓「恩人」と苦難を共に 女川町に戻った中国研修生 http://j.people.com.cn/94473/7748673.html ケータイメールに愛が感じられる作品を年一回表彰するイベント、「ドコモ・iのあるメール大賞 第10回グランプリ」の作品を紹介します。 ・受賞: 第10回グランプリ ・From: 宇野 邦久さん(50代) ・Sub.: Re. 生きてるぜ 家流された。船流された。でも、 生きる意欲までは流されていない! 家族は、皆無事だから。 ・エピソード: 震災の後、やっと連絡がとれた漁師をしている知人からのメール。無事と知り、ほっとしました。 ↓↓「Re: 生きてるぜ」 iのあるメール大賞 第10回グランプリ http://ainoarumail.jp/pc/archive/index.php しかし、同じケータイメールでも、とても残念な結果となったものもあります。以下、共同通信のニュースを転記します。 ・東日本大震災の津波に襲われた宮城県南三陸町の防災対策庁舎で亡くなった町職員三浦亜梨沙さん=当時(24)=が、流される直前、交際していた男性に「大津波来た!」とメールを送っていた。 ・最初のメールは、地震発生17分後の午後3時3分、男性に「6メーターの津波きます。頑張って生きます」と送った。 ・男性が3時11分に「ぜってー死ぬなよ!」と返信すると、亜梨沙さんはその7分後「うん、死なない!愛してる!」と送信した。 男性は3時11分に「オレも愛してるよ」と返信。 ・津波は家々をなぎ倒し、3階建ての南三陸町防災対策庁舎の屋上にいた多数の職員が流されたのは午後3時33分ごろ。男性はその後もメール送信を続けたが、返信はなかった。 ↓↓大津波直前、緊迫のメール 交際相手に南三陸町24歳女性 http://www.kyodonews.jp/feature/news04/2012/03/post-6534.html 宮城県南三陸町の防災対策庁舎はもともと鉄筋コンクリート三階建てで、今では町に赤い鉄骨だけを残す建物です。津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道されてきました。屋上に避難した町職員ら約30人のうち、助かったのはわずか10人という悲劇の現場となりました。前述のメールの三浦亜梨沙さんも犠牲者のうちの一人です。 ↓↓防災対策庁舎の悲劇◆宮城・南三陸 http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_bosai-tyosya.html " また、同じ南三陸町危機管理課職員の遠藤未希さん(当時24)は地震後すぐ防災対策庁舎内の放送室に駆け込み、防災無線で「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」と呼びかけました。「6メートルの津波が予想されます」、「異常な潮の引き方です」、「逃げてください」と連呼、多くの町民の命を救いました。しかし放送室から退避して屋上へ逃げたものの、津波の後屋上で生存が確認された10人の中に遠藤さんはいませんでした。 将来のある多くの方々が津波の犠牲となりました。なくなられた方の無念さや残された家族のお気持ちは、想像するばかりでとても書き表せるものではありません。 陸前高田の八木澤商店は、200年以上続く醤油や味噌を作る老舗です。今回の津波で工場が全て流されました。9代目社長の河野通洋さんは復興を誓い、TV取材にこう答えていました。 「生き残ったものがあきらめず前に進むことで、なくなった方々の無念さに報いる。前に進む原動力は、怒りや悔しさが根底にあるかも知れない。」 心ならずも犠牲にならざるを得なかった方々はもっと生きたかったことでしょう。また、生き残った方でも志(こころざし)半(なか)ばにして夢をあきらめざるを得なかった人がたくさんいらっしゃいます。 こうして命がある私たちは、犠牲者の方々や一時的にも志をあきらめざるを得なくなった被災者の無念な気持ちを忘れずに生きていくこと、言い換えると、そういう方々の志(こころざし)のバトンを引き継いで生きていくことがとても大切なのだと感じます。 志(こころざし)のバトンを引き継いだ人には、自分だけで生きているのではないという大きな責任感が生じます。スポーツでいえばサッカーの日本代表のような気持ちというか、さまざまな思いを背負ってチャレンジするようなものです。「もし津波がなければ」という悔しい気持ちから、「自分がやらねば」という現実的な気持ちへと切り替えられると期待します。 では、志(こころざし)のバトンを受け取ったとしても、私たち一般人はどう生きていけばいいのでしょうか? ボランティアとして直接的に被災地を支援することも大切です。多忙なので被災地への寄付を行なうことも貴重な復興資金となります。また、しっかり働いて納税するだけでも、国の復興予算の源泉となります。 バトンを受け取った生き方として筆者は、『目前のことに対して、日々解決しながら淡々と生きる』ことだと考えます。自分ができることを日々淡々としっかりこなして生きていく、そういう姿勢が納税につながったり、何か他人のために貢献する余裕を生んだりしていきます。 志(こころざし)のバトンを受け取ったと自覚できる人は、きっと強く生きられる、そして思いを継続できる。少しでも多くの人が強く生き、思いを継続することで被災地の復興につながっていく、そう信じたい。 そして、バトンを受け取った私たちは、次の世代へこのバトンをいい形で渡していくため、自分ができることを淡々と継続して新たな局面を切り開いていかなければなりません。 (2012年3月11日にブログへ掲載した内容を再編集しました。 http://blog.livedoor.jp/john1984jpn/archives/51910401.html ) All rights are reserved @ John Ishii sailho.com X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 人生の醍醐味 195 韓国舞踊 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 人生の醍醐味 195 韓国舞踊 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 195 人生に偶然は付きものだ。 久しぶりに公演会の始まる二時間前にハワイ大学構内に到着、ゆっくり大学校内を歩き回った。 「今日の予定歩数である1万歩の8分通りをこなしてしまおう。」と、考えたのだ。 アジア太平洋諸島踊り祭りのプログラムでは今日は韓国の踊りを満喫できる。 12人程の殆どはアジア系の顔であったが、 一人だけ、背丈は完全にアジア風であったが、顔は白人系だ。 しかも、どうもその方が韓国踊りと音楽の指導者のようだった。 夜10時過ぎ、 公演会は終わり、運良くバス停がケネディ劇場の目の前にあったので、バスが来るのを一人で待っていた。 劇場前で公演後の一時を楽しんでいた人々もほとんど車で帰ってしまい、劇場前の明かりも消えた。 ホノルルは運良く夜遅くまでバスが運行している事実を知っていたので、 落ち着いて静かにバス停に立っていた。 すると、韓国踊りの指導者だと思しき西洋の女性がバス停に近づいた。 バスを待ちながらもまたバスの中でも我々は、会話を楽しんだ。 偶然、 彼女は東海岸にあるアメリカの首都ワシントンD.C.に隣接するバージニア州の郊外から、今回の催し物に参加するため、ホノルルに来たそうだ。 「私も、メリーランド州側ですが、ワシントンD.C.近郊に長年住んでいました。」と、私。 「踊りと言う芸術だけで生活を営む事は難しいので、普段は弁護士事務所勤務です。」と彼女。 夜遅く、バスの中から外の様子を見る事が難しく、話は中断、彼女の降りるバス停が来たので、 別れた。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 18歳から陶芸の仕事を始めて、営業、経理、運送、個展、陶芸教室教師を勤めて来た話 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/2/11 18歳から陶芸の仕事を始めて、営業、経理、運送、個展、陶芸教室教師を勤めて来た話 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 私は、18歳の夏から、仕事を始めました。 陶芸の仕事です。 最初は見習いからスタートしました。 まず、陶々堂(私の勤めていた会社です)で、基礎からみっちり学び、かつ即実践という仕事でした。 土練り3年ロクロ7年とよく言いますが、そのつもりで頑張りまして、 めきめき実力がついていきました。 客商売というものは大変な仕事で、クレームの嵐でしたね(笑) 吉子社長が、 「お客様を大事にして、お客様を怒らせたらアカン」 と口癖のように言っていました。 私は、まだまだ生意気な18歳の若造でした(笑) X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

