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  • 99%営業のベンチャーでweb責任者になった。仕事で大切だとおもう2つのこと。 | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/10/31 99%営業のベンチャーでweb責任者になった。仕事で大切だとおもう2つのこと。 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 日々勉強。 新卒、特にベンチャーで働いて日が浅い人はきっと、 "何をしていいかわからない"現象に陥ってるのではないでしょうか。 僕もそうです。 配属後約9ヶ月たちましたが、 最初なんてもう…笑 そこで、簡単に軌跡をまとめて見ました。 新卒入社〜配属 一般的な人材業界営業として働く。 エクセルだったりは大学で少しやっていたので、そこらへんの業務もしながら9割営業。 配属〜1ヶ月くらい 引き継ぎしながらweb側の仕事。だいたい7:3でweb多めな割合。 1〜3ヶ月くらい やっと覚えてきた用語とかを見よう見まねで使ってみる。 あー、これってこういうことかとだいたいわかってくる。 やったことは、エクセル系のデータマイニング、フォトショップ、イラストレーションを使った簡単なバナー作成、LPの企画と政策、全体のディレクション、来期計画。 4〜6ヶ月 制作系は向いてない(というより外や他の人に任したほうが効率良し、本質的)ということでマーケティングやディレクション業務が主になってくる。やっとタグの意味や、どういう風にホームページが成り立っているのかがわかりはじめる。 この時に本当にわからないながらサービスを1つリリース。スケジュール管理の難しさ、ディレクションの難しさを痛感。というより何もスキルないなと本当に実感。 この間にテックアカデミーというプログラミング講座だったり、マーケティングのビジネス大学院に行かせてもらえる。 ただし多岐に勉強範囲を伸ばしすぎて逆に混乱してくる。 6〜9ヶ月←イマココ やっと業務分担がしっかりしてきて、ディレクションと分析、マーケティング業務が主軸。良い意味でも悪い意味でもいろいろな知識を得始めたので、便利屋さん的な位置としても確立。 自分のつけるべきスキルキーワードはマーケティングだったり、分析、ディレクション、データマイニング、そこらへんなんだなとようやく実感。 まずは分析をするために本を読みまくりながらセミナーに行ったりしながら日々勉強中。 ここまでにプライベート、ビジネス共に本当にいろいろあったのだけれど、簡単にまとめるとこんな感じです。 改めて思うことは、 webってやばい。 ということと ゴール設定ってほんとに大切。 ということです。 以前まではパソコンは触るほうではありましたが、webって領域ではほぼ自分で作ったりとかはしていませんでした。 そこでいろいろ触って見たり、聞いて見たりすると思うのです webってやばい。と 分析一言でいっても、まずは現状把握をしなければいけません、 自社でどんなデータがどこにあるのか、それはいつからいつまであるのか、 もちろん今まで専門がいなかったので、とっていないデータもたくさんあります。 そこでこんなデータはとれるのか、こんなことできるのか(例えば個人情報までではないけれど、それに近い人物像を把握してピンポイントに何かをするみたいな)みたいなできなそうなことまでほんと全部できるんですよね。 制作もそうです、 画像加工からサイト作りまで、こんなことできるのか!!!とweb初心者からすればびっくりなことしかないです。 しかも、同じことをやるにしても、 やり方はいくらでもあってその中で最適なものを選んだりプログラムの書き方1つで計算速度も違う… 本当に奥が深いのです。 なので webってやばい です。 そしてもう1つ ゴール設定って本当に大切 という話。 これは、配属9ヶ月程度たって最近思うことです。 具体的にはビジネスでいったらKGIとかKPIの話、まぁ目標ってことです。 そんなの当たり前じゃん! って思う方もたくさんいるかと思いますが、 webは営業と違って、売り上げのように比較的見えるもの、成果がわかりやすいものを扱うわけではないので、自分でどの指標か選ばなければいけない。 しかも、効果検証だったり、営業との連携、 そんないろーーんな変数が入ってくるので、目標立てればいいんでしょ!みたいな話ではないんですね。 そんなところを今もがきながらやっているので、ここは次回書いて見たいと思います。 それではまた次回! X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • 中二病を患った中卒の男が、大卒の収入を圧倒的に突き放した○○な話 | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 中二病を患った中卒の男が、大卒の収入を圧倒的に突き放した○○な話 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 拝啓、12歳の僕。 32歳になった僕には、最愛の妻がいます。びっくりだよね。まさか、この僕が結婚するなんて。 もうすぐ子供が生まれるんだ。パパになるんだってよ。楽しみだね。 それで……大変申し上げにくいんだけど、君がいつも夢見てた、「武道館のステージで歌を唄う」は、まだ叶えてあげられていないんだ。 でも、プロのボイストレーナーになってね。ボイストレーナーとしてなら、武道館のステージに立ったんだよ。 これもびっくりだろ? 君、歌下手くそだもんね。 でもね、今の僕は上手だ。 だから、少しだけ許しておくれ。 それで今は、ボイストレーナーとインターネットビジネスをやりながら、自由に楽しく暮らしているよ。 会社勤めじゃないから、いつだって妻と一緒にいれる。子供の運動会だって、ちゃんと応援しに行って、親が走る枠では全力疾走するつもりだ。 素敵な仲間も沢山いるよ。 バンドはちゃんと続けているから安心してください。ただ、年に2回位しかライブをやれていないけどね。 ところで、君は今、学校の皆からシカトされてるでしょ?嫌だよね、いじめって。 バスケ部の試合に行く交通費がなくて、恥ずかしくて仮病で休んだ日があっただろ?それが原因なんだよ。 家、めちゃくちゃ貧乏だったから。 きつかったよな……今、きついよな? 今でも鮮明に覚えてるよ。誰も僕に気付かなくて、僕はまるで幽霊みたいに。 誰かに気付いて欲しくて、皆に近づくんだけど、誰も僕の事見えてなくて。 たまに目が合った気がするんだけど、慌てて目をそらされてさ。 不思議な事に、担任の先生だけは僕が見えたのかな。 僕の名前呼んでくれたけど、声が出せなくて、返事しないもんだから、先生怒ってたな。 ……机がベランダに捨てられてた日もあったね。 頭が真っ白になってさ。視界が狭くなってきて、苦しくて、きついんだよな……。 でも、君は、頑張って乗り越える事が出来るから、そんなに暗い顔をしなくても大丈夫だよ。 これから、君が今日までどうやって生きてきたのかを、少しだけ詳しく話すから、時間のある時にでも最後まで読み進めて欲しい。 大丈夫。君が最後まで読めるように、出来る限り楽しい文章で綴っていくから。 それじゃあ、はじめよう。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • まず始めに | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/9/17 まず始めに Facebook X (Twitter) リンクをコピー 『虐待』 皆さんは、この言葉を聞いてどんなイメージを持ちますか? 児童虐待… 動物虐待… DV… すべてに共通して言えること。 それはとても痛くて、とても辛くて、とても悲しいものということです。 私、橋本隆生は"2つの夢"があります。 1つ目は、 『家族の幸せ』 家族から本当に僕を変えてくれました。 本当に本当に大切な僕の宝物です。 そして2つ目は、 『虐待のない社会をつくること』 僕は会社員をしながら、 虐待を受けた人限定のコミュニティの運営や NPOや心理学についての勉強をしております。 なんらかの事情があって家族に頼らず頑張っている若者を 応援する為の活動をしていきたいです。 では、なぜ虐待のない社会を作りたいのか? これについては僕の生まれ育った環境が、これまでの経験が全てを物語っています。 まずはそれについて書いていきたいと思います。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • インド アーユルヴェーダ 1ヶ月体験記 (7)写真集 | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/12/4 インド アーユルヴェーダ 1ヶ月体験記 (7)写真集 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 大先生と、隣の部屋に滞在するおじさん、Cさんと一緒に オーナムの日は、このように花を飾ります きれいですね~! 隣のおじさんとよく、冗談を言ったり歌をうたってます。 いつも一緒にふざけてますが、実は敬虔なクリスチャンのようで、暇さえあれば 聖書を読んでらっしゃいます。 大先生の若かりし頃のお姿です。たくましい! X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • 第百四十二章 塾、予備校はどうして存在しているのだろう? | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 15/12/30 第百四十二章 塾、予備校はどうして存在しているのだろう? Facebook X (Twitter) リンクをコピー 第百四十二章 「塾、予備校はどうして存在しているのだろう?」 エピソード(1) 教師に人格者と呼べる人はほとんどいません。真面目に教育をしたくて教師になった人など極一部の人間だけですから。僕自身、小中高合わせても尊敬できる教師は1人しかおりませんでした。その他の教師は、自分の価値観を子供達に押し付けて、自己満足に浸っている人間の集まりでしたので、学ぶ事は何一つとしてなかったです。   長年生きてきた受験指導業界だが、どうして存在しているのか疑問に思ってきた。アメリカの社会にはほとんど存在しなかった。もちろん、日本のどの町にも塾があるのは、学校が機能不全に陥っているからだ。   では、なぜ学校が機能不全に陥っているか。それは、人々に信用されなくなっているかだ。私が、 「それは学校の先生に尋ねたら」   と提案しても、 「学校の先生は嫌い」  とか、 「学校の先生は学力不足」  とか 「進学情報など、ぜんぜん教えてくれない」  と、不平を漏らす子が多い。だから、塾の先生に親しみを感じ、解けない問題の解き方を尋ね、何番くらいならどの高校に合格できるか尋ねてくる。 エピソード(2) 小5~6の時は、クラス全員の前で私の体重を発表後、「こういう人のことを 肥満と言います」って言ったり、運動会前に走るのが遅いことを理由に、放課後居残りで一人だけ校庭を走らされたり、体育の球技なんかで私のいる チームが負けるとお前のせいだと罵られた。 他の生徒に対してのえこ贔屓も酷く自分の気に入らない生徒は徹底的に罵り、私にしたのと同じようなことをして、お気に入りには褒め称えて、通知表は いい評価ばかり。   あれは今思えばたんなる教師によるいじめだった。   おかげで私は高校で本当にいい先生に出会うまで全ての教師と言う人間に 大して強い不信感を持つようになりました。   それは、受験業界が信用されている証拠で、商売繁盛につながるわけだが、社会全体として良いことではないと考えている。なぜなら、塾や予備校は有料で、お金がない人には利用できない。   貧乏な人の子にも有能な子がいる。金持ちの子にも馬鹿な子はいる。   学校がダメな理由はいろいろある。たとえば、三重県では極左組織の「日教組」が日本一の組織率を誇っている。ほぼ100%。したがって、左翼でない人はそのような職場環境に入りたがらない。   日本全体の左翼の勢力は選挙を見れば分かるように2割以下だ。これは、 「三重県では2割の人材の中から教師のリクルートを行っている」   ということ。これでは、良い人材が集まるわけがない。 三重県の教師を世間なみの左翼教師2割以下に抑える。 クラブ活動を自由化して、学校にしばりつけない。 この2つは、緊急に実施する必要がある。 エピソード(3) 先生は机の周りで、取り巻きに対してこう言っていた。 「今回のテストで100点だった奴が2人いるの。でもその2人、勉強はできても人間性はダメ」 ・・・先生、こっちまで聞こえてるんですが。私は「100点なんかいらない!」って言って泣いたよ・・・ それに気付いた先生は、「あらあらどうしたの~」なんて言ってこっちにきたけど、  真剣に聞く気がないのは一目瞭然だったし、私も何も言えなかった。   ちなみにもう一人100点だった子にも、上記の会話は聞こえていたと思う。 その子も私ほどじゃないけど先生に嫌われていた。彼の心にも、きっと大きな傷が残ってるんだろうなあ。   高校からは選抜されるので、授業が成立する。しかし、中学校では授業が成立しない。メジャー級の選手と、草野球の選手が同じ練習メニューでいいわけがない。どうしても、同じ授業、同じ宿題というのなら、できるだけ早く学校から帰してやって自由にさせるべき。   無理やり同じ教室に閉じ込めるから、イジメも起こる。   そういう対策を次から次へと打たないと、中学校は近いうちに崩壊すると思う。国鉄はJRへ、電電公社はNTTは、郵便局も国立大学も国から切り離す方向に動くのは、なぜか。   それは、公務員制度にしておくと組織が硬直化して腐敗していくからだ。中学校も同じこと。 エピソード(4) 高校の頃の話。有名進学校に少し無理して入ったんだけど、高1のときの数学教師が意地悪で数学の苦手な人に答えられないような質問ばかりする人だった。理系科目のセンス皆無だった自分はその先生に嫌われてて毎回授業の度に当てられ   わからないで考えてると「こんなの簡単だろ」「普通に勉強してれば解ける」っていつも言われた。 悔しくて数学はかなり努力して毎回平均点以上取ってたのに授業でその先生に当てられると後で考えれば簡単な質問にも答えられない…   今も「普通はできる」「簡単だから」とか言われるとあの頃の教室の沈黙が鮮明にフラッシュバックして怖い。   塾や予備校は、生徒や保護者の支持を失ったら閉鎖に追い込まれる。だから、絶対に学校の教師のような傲慢な態度はとれない。嫌われたら倒産する。全員に好かれるのは不可能だから、ターゲットを絞って支持されるために全力でいく。生活がかかっているのだ。  ところが、絶対につぶれない中学校など「日教組」の強い地区では左翼教育が盛んで、戦争反対の教育ばかりする。その結果、生徒がどういう被害を受けるか考えていない。自分の主張だけが大切なのだから。   塾業界に生きるものとしては、こういうムチャクチャな学校がある限り生徒の支持が塾講師に集まるので喜ばしいことだろうか。 エピソード(5) 中学生の時に戦争映画を授業中に見ました。映画というよりも、映像でした。とてもグロい表現があり、今でもトラウマです。内容は中学生向けではありませんでした。泣いてる子もいました。(戦争に対するもではなく、グロさに)今でも夢に出てきたり、グロいものを見ると吐き気とめまいがします。この教師は何がしたかったんでしょうか?   私は「教育学部」出身だから教師に知り合いが多い。長年、受験指導に当たってきたから知り合いの多くは教育関係者だ。だから、教師に幻想など抱いていない。平均的な人より非常識な人が多い。   社会で働いた経験がなく、職場はいつも自分より経験値の低い生徒たちだから傲慢になりがち。しかも、公務員で身分が絶対的に安定しているので自己研鑽に励む人が少ない。危機感などありえないのだろう。   ◆バカ教師事件簿ランキング 【1位】女子生徒の下着で験担ぎをした教師 ’10年。長野の吹奏楽部顧問が女子生徒の下着を験担ぎのために持ち帰り懲戒免職 【2位】盗撮画像をダシに人生をかけて告白した教師 ’09年。仙台の男性教師が女性教師のトイレを隠し撮り、画像を見せ交際を迫り懲戒免職 【3位】好きと言われて断れずモテない教師が淫行 ’09年。大阪府の男性教師が中2女子から「好きと言われて火がついた」結果、性行為 【4位】性欲に負けた買春教師が支払った8000円 ’11年。横浜の小学校教師が17歳少女に現金8000円を渡し、淫らな行為を働き逮捕 【5位】盗撮が見つかりSDカードを噛んだ教師 ’13年。スカート盗撮がバレた愛知の教師が警備員に噛みつき、SDカードも噛み砕く   四日市高校にしても京都大学にしても、チェーン店方式などありえない。一点もの。現実的に考えて、「良い指導者」「良い生徒」「良い学習環境」をそろえようとしたら、1県に1つでも困難だ。   各町ごとにある中学校など、指導できる人材も集まらないし、まともな生徒を集めることも出来ない。良い学校を作れる条件など最初からそろっていないのだ。   塾も同じことだ。80教室、100教室なんて、無謀もいいところ。そんなにマトモな講師がいるわけないし、まともな生徒がいるわけないのだ。ここ「いなべ市」は特に過疎化が進み人口が減っていく。  隣の「桑名市」と比べたら人材難は否めない。これは、以下のデータを見ても分かる。私の勝手な意見ではなくて、客観的な事実なのだ。 四日市合格者数                           H27   H26              1、陵成中学校(桑名市)      16    23 2、光陵中学校(桑名市)      24     9 3、藤原中学校(いなべ市)      6     6 4、東員第一中(員弁郡)        3     4 5、員弁中学校(いなべ市)       1     4  高木教育センター           2     3  6、 大安中学校 (いなべ市)      4    2 7、東員第二中 (員弁郡)        1    1   北勢中学校(いなべ市)        1    1  ※桑名市の中学校は、いなべ市の2倍くらいの規模のところがあるが、それを加味しても格差はヒドイものだ。   とりあえず、「クラブの自由化」は緊急に必要だ。学校から生徒を解放してやり、勉強したい子は自由に勉強させないと地元の中学生に未来はないと思う。「愛」だ「絆」だという美名に隠されて、最悪の結末をむかえている。   残念だが、しばらく塾や予備校なしでは難関校の合格は難しいようだ。   ただし、こういう事案は双方の言い分を聞かないと公平ではない。教師の話(私の友人)を聞くと 「勉強のできないヤツは、すぐに責任を教師のせいにするクズだ」  ということが多い。  確かに、私の塾でも賢い子は教師など眼中に入ってない。勉強は自分でするものであって、誰が教師かなんて興味がない。質問に答えられる学力があるか否かが最重要なだけだ。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • 香港へようこそ | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 15/1/26 香港へようこそ Facebook X (Twitter) リンクをコピー こんにちは 今関です 昨日から私は香港入りしました 9/28まで満喫してこようと思っています とりあえず空港について タクシーでホテルまで向かっていて あまりのビルの多さにビックリしました! 初めての香港旅行ですが、 今まで行ったどの都市とも違う感じです 高層ビルがいっぱい立っていて、 遠くから見るとSFの映画のような気分になります 昨日は、川島和正さんと「う◯こディナー」 に行ってきました って言っても 別に変なものを食べてきたわけではなく Wo Kong Shanghai Restaurant という ミチュランで星つきのお店です Wo Kongだから通称「う◯こ」 だそうです(笑) ミシュランで星付きと聞いていたので、 めっちゃしっかりした服装で行きましたが 超くだけた大衆店でした 大衆店で星がついているのは逆にすごいです 私は上海料理を食べるのは初めてでしたが 食べるもの食べるものが全て美味しいです えっ、これだけ食べてこんなリーズナブル? って思いました 香港はかなりグルメが楽しめる街とのこと 今からすべての食事がめっちゃ楽しみです 食事の後は繁華街を散歩してきました 普通のアパレルショップなんかが 夜の11時まで営業していて、 ディナーの後でも買い物が楽しめます 11時過ぎてもたくさん人がいて、 活気にあふれています しかも、ご年配の方が 遅くまで遊びまわっているんですね なんとなく日本人って 自分の国をNo.1と思いがちですが この活気というかパワーというか 既に香港に負けてるんじゃないの!? って感じでした 東京より東京っぽくて、 海外旅行してる実感がまだわきません(笑) 今日も香港を楽しんできます 昨晩とは一点趣旨が変わって、 今日はトレッキングです X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • <明日、あなたの大切な人がこの世からいなくなってしまうなら> | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 15/6/6 <明日、あなたの大切な人がこの世からいなくなってしまうなら> Facebook X (Twitter) リンクをコピー ~今日があなたの最後の一日なら~ 当たり前は、当たり前じゃない。なんでこんなことを、僕が言うのか。僕自身が、今、体感しているから。 あなたが今日、「お疲れ様」といった相手。 あなたが今日、「ありがとう」と感謝をこめて、いった相手。 逆に、 あなたが今日、「ふざけんな」と怒ってしまった相手。 あなたが今日、「うるせーよ。」と怒鳴ってしまった足手。 そのどの人も、明日もし、死んでしまうとしたら、それでもあなたは、おなじことを言ったり、逆に何かもっと、その人のために言えた言葉、行動はなんだろうか。 長い人生でみた、その出会いは、自分が思っているよりも短くて、あっという間に過ぎてしまう。関わりもなくなってしまう。 だからこそ、 ただの「お疲れ様」だけじゃなくて、一緒にご飯を食べたり。 ただの「ありがとう」じゃなくて、それに手紙を添えたり。 逆に 「ふざけるな」じゃなくて、一旦、冷静になって、一度相手が受け取ったら、二度と取り返しのつかない、言葉を言うんじゃなくて、時には受け入れることだったり。 「うるせーよ」じゃなくて、なんで、そんなことを相手が言うのかを考えて、自分の行動、発言をまずは見直したり。 明日もし、あなたが、こんな風にいえる相手が、この世からいなくなってしまうなら、どんな行動ができて、言えるのか。 今日はそんなことを感じる一日だった。 みんななら、今、この瞬間から、どんな言葉を発するように、行動ができるようにするだろうか。当たり前は、当たり前じゃない。 もっと、相手のために、言えること、できることがあるだろう。 人生を後悔するくらいなら、今があなたの全力を尽くすときで、明日はない。死ととなりあわせになってから気づくのじゃ遅いんだよ。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • ダイアログインタビュー ~市井の人~ 井上禄也さん8 | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 ダイアログインタビュー ~市井の人~ 井上禄也さん8 Facebook X (Twitter) リンクをコピー インタビュー日時:2016年11月11日 12時00分~16時00分 インタビュー場所:南相馬市立図書館内 喫茶「Beans」 天気:晴天 ◎パワーバランス    井上 最近、前よりSNSを使っての発信を増やしてるんですよ。Facebookなんかですね。新商品の案内であるとか。    ――前より更新は増えたようですね。    井上 「アイスまんじゅう良いね! 」「新商品のバニラアイス良いね! 」みたいに皆さん反応してくれるわけですけど。常にそうやって人から「これ良いね! 」と言ってもらえるようなモノや状況を作らないと、お客さんはその商品を買ってくれません。で、そうした情報の合間合間に、その日の出来事や僕自身の興味なんかの情報を挟み込んで出してるんです。あのページは僕個人の名前でやっているものなんですけど、井上禄也個人には、基本的に誰も興味を示さないですよね。    ――:そうかなぁ。そんな事は無いと思いますけど(正直、この考え方はシニカル過ぎると思っている)。    井上 やっぱり「松永牛乳株式会社代表取締役社長」の井上禄也だからみんな見てくれるし。僕は常にどこにいても、松永牛乳代表取締役社長の井上禄也でしか無いんですよね。    ――それが井上さんの肩書ですからね。    井上 プライベートでしゃべっていても、その肩書きは抜けないんですね。どこまで行っても、裸のキャラクターとしての「単なる井上禄也」というキャラクターは存在しないんです。戸田さんも“松永牛乳社長として、地域であれこれやってる井上禄也”の話を聞きたいと思って来てるわけでしょ(笑)。    ――まぁそうですね。それが井上さんの実像な訳ですから。    井上 そうなんですよね。それ以外の部分は別に無いから。SNSでの色々な発信にしても、ある種仕事みたいなところも感じながらやってます。ずっと周りの人に興味を持ち続けてもらうためにね。そのためには楽しんでもらう必要があるし、面白いと思ってもらうためにはどういう書き方をした方が良いかなと、考えながら記事を書いてます。読んでいる側も色んな人がいて、真面目な人もいるし、本が好きな人もいるし、アイスに興味のない人もいるし。そういう色んな所にアンテナを立てていれば、自然と自分のアンテナも磨かれて、自分の興味の範囲も広がっていく。あとはそれに従ってしつこく繰り返し発信していけば、色々な人に興味を持ち続けてもらえるかなと。だからあれは、さっきも言った通り「仕事の一環」なんです。    ――なるほど。    井上 「裸のキャラクターなんて無い」という視点で言えば、「市民と行政の連携」ってのは、僕はちょっと違うかなと思うんです。「裸の市民」って大した力は無いんです。地域を動かす事を考えたら、「行政と事業所」という括りになるかな。    ――そういう意味ですか。    井上 そういう視点じゃないと、地域って動かないんじゃないかな。こう言っちゃなんだけど、その辺のおばちゃんと行政が連携しても、それで動かせるものは九割方無い。やっぱり行政を動かすとなったら、行政の力を考えるとある程度の権力と理屈が必要。行政の力って大きいんで、それと渡り合う力って必要になってくる。そうなってやっと、両輪のバランスが取れるかなと思うんです。「市民と行政」という括りにしちゃうと、パワーの差が明らかなんですよね。という意味で、「市民と行政の連携」は、言葉としては「違うかな」と思うんです。井上禄也と行政が連携しても何もできないけど、松永牛乳と行政が連携すれば地域を動かせる可能性があるんじゃないかな。    ――実際のところは、行政と連携するのは「個人」なのか「事業所」であるべきなのかを考えると、そのどちらもだと思いますよ。事業所の構成員となっているのはその地域の市民だし、市民一人の力より、事業所としてまとめた方が意見は通りやすいけど、実際に街を動かしている力って、行政が受け持つ領域と地域の事業所が受け持つ領域以外の「隙間」的領域があるわけで、そこを個人としても市民が受け持っているというモデルが成り立っていると思います。「市民と行政の連携」と言った時、「市民」と「事業所」はほぼイコールな意味合いで使ってるんでしょうね。    井上 なるほどね。実際にどういう意味合いを込めてるのかは分かりませんけど、もしそうだとしたら、その事に無自覚な人は多いですよね。この地域で、会社の社長をしながら市民活動をしている人も結構多いけど、そういう人たちが何かとあちこち呼ばれているのも、その人の活動内容の素晴らしさも然ることながら、やっぱり「地域の会社の社長」「地域の名士」としての顔もあるからじゃないですか。そんな「地域の名士」が震災後にメッセージを飛ばした、だから話を聞くんですよ。そういう人はメッセージを飛ばす場所を知ってるし、飛ばす相手もいる。そういうものが無い人は、メッセージを飛ばしたくても飛ばせないじゃないですか。そうした事を自覚しているかどうかって、結構重要じゃないかなと思うんです。   ■ この辺りの話では、井上さんと私では「力」の認識に違いがあるのかなと感じた。井上さんがここで言う「力」とは、行政や世の中に働きかける「具体的な力」の事で、私がここで言う「力」とは、もう少し情緒的な、「想い」「エネルギー」のようなものを指している。この辺りの違いは意図的に変えているわけでは無いので、はっきりと「こう違う」とは言えないのだが、ニュアンス的にはこういう違いがあるのではないか。 ただ、私たち二人が「概念の違う力」について語っていたとしても、どちらの力も街づくりでは必要不可欠だ。「具体的な力」を動かすには「想い」が必要だし、「想い」を実現させるには「具体的な力」が必要だ。これもやはり、両輪が揃わないとならないのである。 ~つづく~ X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • ワレモコウを聞け! | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/1/24 ワレモコウを聞け! Facebook X (Twitter) リンクをコピー 喜寿を迎えた母は、以前、家族六人が暮らしていた家に一人暮らしをしている。 「一人のほうが気楽でええ」 母は言い、にわかに忙しくなった僕は、しばらくの間、会いにいかず電話もしなかった。 あるとき、母から電話があった。 「あんた、ワレモコウを聞いたか?」 僕には何のことかがわからなかった。そして、つまらないことから口論となり、きつく叱られ、喧嘩別れになった。このままではいけないと思い母の家へと車を飛ばした。しかし、さらに激しい口論となってしまい、 「ワレモコウを聞け!」 母は僕が理解できないことを言って怒った。 このときから犬嫌いだった母が座敷犬を飼い始めた。犬の世話をすることと、犬の世話をどうすればよいかと近所に聞くことに母は忙しくなった。 「エサは重いし、どれを選べばいいかわからんから、一緒に買いにいってあげるほうがええよ」 妻に言われても、乗り気がせず母に会うことを避けた。 「ばあちゃんにな、あやとりを教えてもらいたいやけど」 幼稚園に通っていた長女にせがまれ、僕はようやく重い腰を上げた。 長女を母の家に連れて行くと、子犬が一人暮らしには広過ぎる家を走り回っていた。母は楽しそうにあやとりやお手玉を教えた。 ワレモコウとは「吾亦紅」という歌のことであると知ったのは、それからすいぶん経ってからのことだった。その歌詞は、仕事が忙しいことを理由に母に会いに行かなかったことを死後に詫びるというものだった。 僕は母の本心を垣間見たように感じ、何とも言えない脱力感に襲われた。 その日から僕は、毎週末に母に会いに行くことに決めた。忙しいとは決して言わず、語らずに。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • 伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】 | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/11/9 伝説のメイドインJAPANゲーム「スペースインベーダー」が世界を侵略した日【前編】 Facebook X (Twitter) リンクをコピー Appleの創業者スティーブ・ジョブズが19歳だった頃、 ジョブズ 「おれを雇うまで、帰らないからな」 そう言って、オフィスに居座った会社があったのをご存知だろうか? 社名は「アタリ」 、ビデオゲーム*の開発会社だ。アタリ全盛期の企業成長スピードは、Apple、Google、Facebookをも凌ぎ、アメリカ史上最速 だったと言われている。 (*ビデオゲーム: モニター画面に表示される内容に従って進めるタイプのゲーム。ゲームセンターなどのアミューズメント施設でプレイするゲームから、テレビに接続して家庭でプレイするゲームまでを指す。) 1970年代前半、この「アタリ」社のビデオゲームが世界を席巻していた。その頃の日本はかなりのゲーム後進国。今でこそ、プレイステーションやWiiなど、日本は世界一のビデオゲーム立国と言っても過言ではないが、当時はアメリカにずいぶんと劣り、ビデオゲームにおける開発技術力は、ほぼ皆無だった 。アメリカが開発したものを輸入し、外観だけを差し替えるというローカライズ販売をしていたくらいだ。 しかし、1978年、そんな状況をうち破り、アメリカを始め世界中にメイドインJAPANの名を轟かせたビデオゲームが誕生 した。「SPACE INVADERS」━ 通称、インベーダーゲーム。 生みの親は、パシフィック工業株式会社(当時)の開発技術者、西角友宏 だ。 彼が約40年前に創り上げたこのゲームは、日本ゲーム業界に技術革新をもたらし、 2016年の今までにおよぶ、ビデオゲーム立国ジャパンの地位を築くきっかけとなった。 さらには、今ではお馴染みとなった、ゲームの設定や方程式も創り上げてきた 。 ・ゲームスコアを他プレイヤーと競い合う ・敵の攻撃に当たると負けてゲームが終了する ・コンピューターが自分を"狙って"攻撃してくる スマホゲームでもよく見られるこれらの設定は、実はスペースインベーダーによって根付いたものだ。 名だたる大御所ゲームクリエイターの中には、 スペースインベーダーにハマったことがきっかけで、ゲーム業界に入ったという者も多い。 「ゲームクリエイターの育成」 から「技術革新」 、さらには「100円玉の消費量爆上げによる、日銀100円玉緊急増産」 まで引き起こしたと噂される伝説のゲーム「スペースインベーダー」。 今回は、その生みの親である西角友宏氏にインタビューすることができた。 彼はどのような人生を歩み、このゲームを生み出すことができたのか。 裏には、どんな苦悩があったのか。 当時のブームの様子は? インベーダーブームが去ってから、彼が辿った道とは。 「コンピューター」「ビデオゲーム」「テクノロジー」 全世界が新しい時代の幕開けに向かう中、 戦後復興中の日本から世界を舞台に一時代を築き、ゲーム開発に人生を捧げたこの男に、尋ねてみたいことはたくさんあった。 「私は、黒川と言います。ゲームクリエイターへの取材やインタビューをよく行っています。今回インタビューしたのは、スペースインベーダーの生みの親、西角友宏氏。これまで語られてこなかった彼の半生をSTORYS.JPに綴ります。」 父親の作業場で工作遊びに明け暮れた幼少期 「だんじり祭り」で有名な大阪府は岸和田市、 職人の父と教師だった母の間に、西角友宏は生まれた。 「おい、友宏!どこへ行くんだ。遊びに行く前にちゃんと勉強しろ」 父親は大工道具を修理する職人。作業場は自宅にあったため、いつも自宅にいる。学校から帰ると決まって、 父 「友宏、勉強しろよ!」 と言葉が飛んできた。 父親の学歴は小学校中退。学歴で苦労したことがあったためか、勉強、勉強と口すっぱく言っていたのは、息子にはちゃんと教育を受けて欲しかったからなのだろうと、西角は語る。 しかし、当時小学生だった西角少年は、大の勉強嫌いであった。 父 「どこ行くんだ?」 西角少年 「...友達と勉強してくるよ!」 ごまかしながら、よく友達と遊びにでかけた。 そんな彼の遊びアイテムは、父の仕事道具。 西角は、父親の作業場から見つけた廃材や空き地で拾ったものなどを使い、父のトンカチで木に釘をうちつけて木製パチンコを作るなどしていた。 当時は戦後10年たらずで、日本には何にもない時代。 「あるものを使って、ないものを創って遊ぶ。」 というのが、当時の日本の子供にとって、当たり前の価値観だった。 一方、西角の家には、当時としては珍しいレコード・プレーヤーなどがあり、高校に上がった西角は音楽にハマっていく。アメリカ音楽の日本語カバー、いわゆる和製ポップスがヒットしていた1960年代の初頭の話だ。 戦後復興の真っ最中、日本を占領していたアメリカ進駐軍が持ちこんだものから、アメリカをはじめとした西洋文化が日本へ浸透した時代。 今では、マクドナルドやiPhoneなど、海外発の商品を目にするのは当たり前だが、当時はとても珍しかった。 人々にとって、アメリカを始めとした西洋のものは、 “ハイカラ”であり、すごく新鮮で先端的なものであったのだ。 大阪の田舎町にもアメリカ色に少しずつ染まり始めた時代に、彼は生まれ育った。 さて、時は1962年。西角友宏 高校3年、受験シーズンである。この時は特に、両親からの期待が大きかった。 父 「友宏、おまえは早稲田に行け!」 母 「あなた(性格が)おっとりしているから学校の先生が向いているわよ。教育大学へいって欲しいわ。」 しかし、小さい頃から工作が好きだった西角は、機械・電気系の大学へ進学を希望。 母親が勧めていた学科は一応受験し合格はしていたものの、両親には「落ちた」と伝え 、故郷を離れて上京し、予備校に1年通ったうえで東京電機大学に進学。 両親はとても残念そうにしていたが、自分の意思を貫いたその決断には、まあ満足していた。 ただひとつだけ、 「あんたは高校卒業以来ずっと、わたしたちのいる大阪から離れて暮らしてしまい、なんだか、さみしいね。」 と母に晩年言われたことがあり、それが唯一の心残り だった。 道ばたでの再会がきっかけでゲームクリエイターに 当時は朝鮮戦争の特需によって、日本が好景気に湧いていた頃。遊んでいてもそれほど就職には困らない。そのため、麻雀に明け暮れる学生も多かったが、西角はその群れた雰囲気が好きでなく、麻雀はやらなかった。大学は、退屈な授業はありつつも、自分が望めば世界の知に触れられる価値ある場所。大学生活は、研究、それから高校から好きだった音楽にのめり込む毎日で、ギター演奏で日銭を稼ぐこともあった。 大学の4年間を終えて無事卒業した西角は、オーディオの設計がしたいと想い、オーディオレコード・プレーヤーを製造していた会社で働くことになる。しかし、希望であった設計の部署に行くことはできず、1年足らずで退職。転職活動を始める。 そんなある日、転機が訪れる。 エントリーしていた会社の面接の帰り道に、前職の先輩・荒井に偶然出会った。 荒井先輩 「西角くん! ひさしぶりだな!」 西角 「あ 荒井先輩! お久しぶりです! 何してるんですか?」 荒井先輩 「ちょっと仕事の途中でね。西角くん、今どんな仕事してるの?」 西角 「今は転職活動中で、ちょうど、無線の開発会社の面接が終わったところです」 荒井と喫茶店で話をはじめて、2時間くらいたった。 アイスコーヒーの氷が溶けて、コロンと音を立てた。 荒井先輩 「なるほどね。あいかわらず頑張ってるな! そうだ、よかったらうちの会社の仕事が面白いから、一緒に働かないか?」 西角 「どんな会社なんですか?」 荒井先輩 「デパートの屋上にあるドライブゲームとか、ああいうものを作ってるんだよ。」 西角 「え、本当ですか!!!!!!」 高校生の時に、大阪・高島屋の屋上にあったドライブゲーム(※関西精機製作所 1959年「ミニドライブ」)をやりこんだことがあった。完全クリアできるかどうかという所まで、夢中になってお金をかけて遊んでいたゲームだったので、荒井の会社の仕事に興味が湧いた。 その旨を荒井に伝えると、ほどなくして会社に連れていってくれ、人事部長に会った。 人事部長 「ああ、荒井くんのね。じゃあ追って連絡させてもらうよ。」 こうして、簡単な会話で面接や入社試験もないまま、タイトーの子会社であるパシフィック工業に入社することになった。 パートさんに混じっての現場仕事が始まり、開発はできず。 面接時に希望部署は伝えていたので、入社すればすぐ技術部に入れるかと思っていたものの、蓋を開けてみれば、パートさんに交じってのメカユニットの組み立てが始まった。 舗装もされてないぬかるんだ田舎道をまっすぐ進んだ先にある、養鶏場のようなトタン屋根のバラック小屋が作業場。夏になると室温が40度を超え、クーラーなんてものはなく、窓を開けて、扇風機を回しているだけ。汗だくで暑い。部品を組みあわせるだけの、単純な作業が続く。 6ヶ月後、工場長から異動命令が出され、いよいよ技術部かと思えば、次は製品検査の仕事。 さすがにこの上司の命令には納得できるものではない。でも、会社を紹介してくれた荒井への恩もあり 西角 「もう少しの辛抱だ。頑張ろう」 と自分に言い聞かせた。 結局一年余りこの作業を続けたが、この経験が、故障が少なくサービス性の良いマシンの設計につながる。 研修を終え、技術部へ移った西角が最初に命じられた業務は、開発部で作られたプロトタイプ(試作品)を量産していくための設計図の作成だった。 ここで、ゲームの開発工程について簡単に説明したい。 パシフィック工業でのゲーム開発は、主に4部署における4行程に分けられる。 1. 開発部 ー 企画考案・試作品の作成 2. 技術部 ー 量産のための設計 3. 資材部 ー 販売部品等の発注・管理 4. 生産部 ー 工場での組み立て・製品検査 汗まみれになりながら工場で働いていた西角がいたのは、生産部。 ここから技術部に配属となり、量産のための設計作業をすることになった。 設計の仕事は楽しく、西角は黙々と仕事に励んだ。 そんな彼の働きぶりを、当時開発部長に就任したばかりの松平が見ていた。 西角は松平に声をかけられ、開発部へ。 いよいよ西角のゲーム開発が始まる。1969年のことであった。 念願の開発部!処女作「スカイファイター」には行列ができた 開発部にはいって早々、西角は結果を出した。開発したのは、戦闘機のシューティングゲーム「スカイファイター」 。 当時ゲームセンターでは、セガの「ペリスコープ」という潜水艦を駆逐するシューティングゲームが人気。これを踏まえて、戦闘機を使い、潜水艦にはないスピード感・迫力感のあるゲームを演出しようと思った。 (もちろん、まだビデオゲームは存在しない。駆逐するのは、プラスチックでできた敵艦の模型だ。電気で動く機械じかけのゲームだった。エレメカゲームと言われるジャンルに当たる。) 出来る限り実物に近いフィーリングを演出したいと考え、ゲームの標的にはリアルなミニ模型の飛行機を使うことにし、透明のドラムに空と雲のフィルムを貼って回転させる工夫を凝らした。 開発を無事終え、マシンを正面から見たとき本当に戦闘機が飛んでいるように見え、鳥肌が立つくらい感動した。 リリース当初は、マシンがエレベーターに乗らず、ゲームセンターが1Fにある店にしか販売できないなどのトラブルはあったが、うまく小型化し、西角の処女作「スカイファイター※」は、行列ができるほどの好評を得た。  ※小型化して発売したのが、スカイファイターIIにあたる 「西角、悪いが資材部へ異動だ。」 開発部に入ってすぐヒットゲームを生んだ西角は意気込み、早速、次の企画を進めていた。 しかし、工場長から呼び出され耳を疑う話をされた。 工場長 「西角、悪いが資材部へ異動だ。」 西角 「えっ、どうしてですか!?」 工場長 「資材部に欠員が出たんだ。すまんが行ってくれ。松平開発部長とも話しはついてる。」 なんで俺が、と思った。 確かにおれは一番若手だったのかもしれない。でも、ヒット作は出した。それが何も評価されていないような気がした。頑張って結果を出しても、それは会社の都合や年功序列にかき消されるような気さえした。そうであるなら、(別に会社のためだけに働いているわけではないが)、結果を出すために頑張っているのさえ、馬鹿らしいと感じられた。 しかし、 「もう決まったことだ」 工場長の表情からはそう聞こえてくるようで、何を言っても無駄な気がした。 はじまった膨大な事務処理業務と、不幸中の幸い ほどなくして資材部の名刺も届き、資材部としての仕事が始まる。 業務内容は、いたって単純。外注会社や部品メーカーへの注文書を書くというものだ。 この時は、転職も考えた。 先が見えず、2年3年…と、ずっと資材部で事務作業が続く感すらあった。しかし、悔しかったし負けたくない 。絶対に戻ってやる。絶対に戻っていいものを開発し、あっと言わせてやる 。そう思い、転職はしなかった。 そんな中、ひとつだけ、不幸中の幸いがあった。 事務作業を集中して効率よく行えば、かなりの空き時間 を捻出できたことだ。 この空き時間を新しいゲームのアイディア構想 にあてた。 少しでも新しいゲームを作ることを考えていたかった。 そんな生活が数ヶ月が続いたある日、転機が訪れる。 開発部へ呼んでくれたあの松平開発部長が、一冊の本を手渡してくれた 。 松平開発部長 「西角、これでも読んでろ。」 西角 「これなんですか?」 松平開発部長 「デジタルICの参考資料だ。」 西角 「えっ…!」 松平開発部長 「…これからはこのデジタルICを使う時代になると思うんだ。」 松平開発部長 「お前、暇そうにしているからこれでも読んでみればいい。」 西角 「……! ありがとうございます!!」 資材部に移った自分の事を部長が気にかけてくれている気がして、嬉しくなった。 もちろん本社の意向を伝えてくれただけかもしれないし、今でもその真意はわからない。でも、その一言はありがたかった 。 事務作業の空き時間、松平部長にもらった資料がボロボロになるまで、デジタルICを勉強していった。 資材部への異動命令は、40年経った今でも忘れられないと西角は語るが、それがあったからこそ、隙間時間を利用して、少しずつデジタルICに関する知識を蓄えていくことができた。 黒船襲来! アタリ社「ポン」現る。 西角 「おはようございます!」 先輩 「おう西角くん、おはよう。」 西角 「……あれ、これなんですか?」 ある朝、ふだん通り資材部に出勤すると、会社内に一台、輸入されたと思しきゲームマシンが鎮座しているのに気がついた。 大型のマシンで、正面にはテレビ画面がある。 *アタリ社の「ポン」 (C)ATARI 先輩 「ビデオゲームってやつさ。アメリカのアタリ社から買ってきたんだ。向こうでは、爆発的にプレイされてるらしいぞ。」 西角 「(ビデオゲーム…。松平さんにもらった参考書に少し書いてあったな。)」 始業時間までまだ少し余裕があったので、抱えていた注文書の束を脇において、マシンの箱の扉を開けてみた。 すると、中身はガランとしていて、基板らしきものが一枚 あるだけ。 基板をみるとデジタルICがビッシリ と並んでいる。IC基板の実物を見たのは初めてだった。 試しに電源を入れてみた。テレビ画面は、不気味にうす白く光った。 どうやら卓球をモチーフにしたゲームのようだった。 *アタリ社の「ポン」のプレイ画面 (C)ATARI 掲載元: http://www.geocities.jp/hag167/rev200.htm 00はそれぞれのプレイヤーの得点を表し(画像では両プレイヤー0点)、縦の棒は卓球のラケットにあたる。 これがなんとも面白く、同僚と何回も遊んでしまった。 生まれて初めてプレイしたビデオゲーム だった。 アタリ社 は、ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーの二人によって1972年に創業したアメリカを代表するビデオゲーム会社 。「ポン」の大ヒットにより急速に成長した 会社で、その成長率は現在に至るまでそれを超えるものが無い という。あのスティーブ・ジョブズが19歳の頃、40人目の社員として採用されていた ことでも有名だ。 「ポン」はアメリカで大ヒットしていた。マシン自体は当時の価格で40万円、今の価格で言えば約100万円くらいに相当する。 日本には存在しなかった「ビデオゲーム」が、アメリカから突如やってきた。 IC基板の理論を苦心しながら勉強している中、 IC基板を駆使して作成された本物のビデオゲーが目の前に現れ、 それがすでにアメリカ中の人々にプレイされているという事実。 差は歴然だった。 西角 「アメリカはここまで進んでいるのか。レベルが違いすぎるぞ・・・。」 愕然としていると営業部の人たちは、一言。 営業部の人 「こりゃ、売れないな」 と言い放った。 西角 「どうしてですか?」 営業部の人 「今までの『スカイファイター』のようなエレメカゲームの中はモーターが動いていたり、配線がぎっしり詰まっていて、いかにもコストがかかっているように見えるが、このゲームは中がスカスカで値段は同じくらいと聞いているので、業者が納得しないよ。」 西角 「でもアメリカでヒットしていますよね」 営業部の人 「西角君、アメリカと日本ではゲームの事情が違うんだよ」 と言って、みんなその場を離れてしまった。 ひとまず注文書処理の仕事に戻った。 しばらく経ったある日、セガが「アタリ」から輸入した「ポン」を、ゲームセンターにテスト設置しているとの知らせが入った。しかも、1プレイ30円が普通だったところを1プレイ50円にして。それを聞きつけたタイトー営業部は、倉庫で眠っていた「ポン」を試しに1プレイ50円で、ゲームセンターにテスト設置してみることに。すると、かなりのインカム(収益)をあげた。 そうなると話は変わる。営業部は目の色を変え、アタリ社から基板を購入しテレビとキャビネットを独自に調達して、「エレポン」という名で販売を始めた。セガも同様に、外見だけを差し替える方法で商品をつくり、「ポントロン」という名で販売した。 自分たちではゲーム開発できないため、中身(基板)を取り寄せ、外側だけを取り替え名前を変える......悲しくもこれが日本におけるビデオゲームの幕開けだった。アメリカと日本の差は甚だしかった。 ビデオゲーム開発へ!資材部の西角が、社内で一番ICに詳しかった アタリが開発した「ポン」のように、ICチップが搭載されたゲーム基板が気になり、一刻もはやく解析したかった。そして同時に、危機感もあった。 アメリカで人気のゲームを買って日本で売るというスタイルを続ければ、日本のゲーム会社が出すマシンはすべて似通ってしまい、どのみち他社に勝てなくなる。 さらに、タダでさえ差があるアメリカとの差がさらに開くことにもなる。そうなれば、もうアメリカに勝ち目はないと思った。 抜け出すためには、アメリカに甘えず自分たちでゲームを開発しなくてはならない。 松平部長に掛け合い、 西角 「これからはビデオゲームの時代になるような気がします。我々は先手を打ってオリジナルのゲームを開発したいと思うのですが・・・」 松平開発部長は、にっこりと笑って 松平開発部長 「そうだな。やってみよう」 と言ってくれた。              松平開発部長 そうして、松平部長率いる開発部は、IC基板を活用した日本で初のビデオゲームの開発に乗り出し、パシフィック工業内でICの知識のあるものが招集された。 資材部にいたが、作業の合間を縫って自主的にずっとICの勉強をしていたため、自分よりICに関する知識を持つものは、技術部にも開発部にも誰一人いなかった 。 こうして、念願だった開発部に呼び戻された 西角は、まずはアメリカに追いつくことを目標に、開発を推し進めていった。 打倒アタリ!打倒、技術大国アメリカ! しかし、ググれない。 まず、西角が最初にやったことは、「ポン」のゲーム基板を解析 して、これを回路図にする ことだった。 松平部長にもらった参考書の内容はかなり理解していたものの、本物の回路を目の当たりにすると理解が難しい。もちろん、ネットはないので、ググれはしない 。日本には、ビデオゲーム基板の仕組みを理解しているものなど(西角の知る限り)誰もいなかったので、尋ねる相手もおらず 、自分でゼロから理解する他なかった 。 まず大きな白紙を壁に貼り、ゲーム基板に搭載されているIC(集積回路)を書いた。小さい基板を専用ルーペで拡大 しながら、細かな回路を一つ一つ辿り 、それを図示していった。 どの回路がどこと繋がっているのか、電流が流れているかどうかを調べるテスター を使いながら、回路の一つずつを調べていった 。 休日はほとんど返上、1か月位かかって全回路図を作ることが出来た。壁一面に広げた大きな白紙が、黒ペンで描かれた回路図でびっちりと埋まった 。 西角 「やっとできた。」 1ヶ月を乗り切って、達成感にあふれた。とはいえ、 西角 「……それにしても、全然わからんぞ。(苦笑)」 アメリカには歯が立たない。西角でさえそんなレベルだった。 次に、ポンに付属していた簡易的な英語の取り扱い説明書のようなものを参照しながら、少しずつ原理を理解していった。最初は意味不明だった回路は、少しずつ少しずつ理解が進み、2か月ほどかけビデオゲームの原理を習得 することができた。 西角は、ポンの分析から得た知見を使って、さっそくビデオゲームの開発に乗り出すことにした。 当時、ポンが発売されてしばらく経ったアメリカでは、ポンと同じく卓球をテーマにしたビデオゲームがすでに数多く登場していた。 アメリカでのヒットも狙っていた 西角は、それらと同じく卓球をテーマしたものを作ったところで現地で売れるはずがないと考え、卓球ではなくサッカーをテーマにゲーム を作成した。 そうして出来上がったサッカーは、1973年、秋、「サッカー」という名で発売。 残念ながら「サッカー」は良いインカム(売上げ)ではなかったが、記念すべき国産初のビデオゲーム、国産初のサッカーゲーム になった。いわば、よく見るサッカーゲームのルーツに当たる。 初のアメリカ進出 サッカーがあまり良いインカム(売り上げ)ではなかったが、西角は、 何としても面白いゲームを作り上げてやろうと、立て続けにゲームを開発していった。 1974年にバスケットボールのゲーム、続いてドライブゲームを生み出した。 ドライブゲームの開発は、米国「アタリ」のドライブビデオゲーム「グラントラック10」がつまらないと思ったのがきっかけだった。トップビュー(車体を真上から見下ろしたような景色で展開される)ゲームだったが、画面に表示されるレーシングカーはリアルとは決して言えるものでなく、プレイ感覚も見た目より難しかった。スピード感もさほど感じない。 西角は、パシフィック工業入社のきっかけとなった、高校時代にハマっていたあのドライブゲームを思い出し 、よりリアルでスピード感のある ドライブゲームを構想した。 そうして出来上がったゲームは、「スピードレース」。完成後、営業部からの高評価を受けたこともあり、当時ワンプレイ50円が普通だったところを、ワンプレイ100円 にしてゲームセンターで並べた。すると、100円プレイでも、お客さんが離れることはなく人気 を博した。 その後、「スピードレース」は、アメリカのミッドウェイ社にライセンス提供され、アメリカでも展開され、人気となった。日本のずっと先を走っていたあのアメリカに少し追いつくことができた。西角は嬉しかった。こうして西角の海外へのステップは続いた。 生産台数は感覚できめる。ゲームは作りたいやつが作る。 少し話がそれるが、当時のゲーム開発の方法は、私たちの暮らす2016年のこの日本からは、全く想像できないものだ。 “新しいプロダクトやコンテンツの開発は、まずはコンセプトが重要で、そのためにまず企画会議を通してうんぬんかんぬん......” というようなことはなく、 「ゲームは作りたいやつが作る」 それが基本だった。 出来上がったら、出来上がった試作ゲームを皆の元へ持っていき、 「これどうですか?ちょっとプレイしてみてよ。」とプレイしてもらう。 そのほかにも、他の会社のゲームを見せて、 「こんなものがあるんだけど、もっといいもの作ろうよ。」 「あのメーカーが、こんなの出したけど悔しいじゃないか。もっといいものを作ろう」 そんな時代だった。 当時は、生産台数も感覚で決めていて、 ゲームマシンが完成したらすぐ、営業部長、商品部長、若い社員が数人集まってプレイし、 「う~ん、これ300台にしようか、500台にしようか・・・」 「いや、400台じゃないですか!」 「うーん、じゃあ、400台でいくか。」 という感じで台数を決めて、世に送り出していた。 大雑把で、おおらかな時代 だった。 「ゲームは作りたいやつが作る」 その文化に乗っ取り、制作意欲の高い西角は、一人でどんどんとゲームを作っていった。順調に海外での売り上げも伸ばし、アタリの背中が少しずつ見えてきたところだった。 アタリのオファー。事業提携!?のためにサンフランシスコへ 1974年、秋のことだった。 西角は、タイトー創業者で社長の、ミハエル・コーガンに声をかけられた。 コーガンは、ロシア生まれのユダヤ人、ロシアのオデッサ市で生まれ、家族で中国のハルピンへ移住、その後、単身で日本に渡航し、早稲田経済学院で貿易を学んだ。体格が大きく、流ちょうな日本語を喋り、周囲を明るくする雰囲気をもった人物だった。 コーガン社長 「西角さん、私と一緒にサンフランシスコに来てください」 目的はシカゴで開催されるゲームショー「AMOAショー」の見学。 そして、あのアタリとの提携協議のためだった。 提携の話を持ち出したのは、アタリの方だ。 米国のアタリから連絡を受けて、コーガン社長自らが、アタリ本社のあるサンフランシスコへ出張することになり、技術者として信頼を寄せていた西角に来てほしいということだった。 こうして、西角は海を超えてアメリカへ 渡った。 コーガンと西角がサンフランシスコ市内の某所で待っていると、作業服姿で大柄の男がライトバンのような車に乗って現れ、彼に連れられてアタリ本社へと向かった。 西角の一言がすべてを決めた かなりの距離を車で移動し、やっと到着。アタリ社内は、お世辞にも綺麗だとは言えなかった。 応接室に通されて、ジャケット姿の2人がやってきた。そのうち1人は、ついさっき作業服姿で送迎をしてくれた大柄の男、彼こそが、アタリの共同創業者ノーラン・ブッシュネル だった。そして、もう一人は、あの「ポン」をはじめ、数々のヒットゲームを生み出した、アラン・アルコーン だ。 コーガン社長はブッシュネル社長と打ち合わせに入り、西角はアラン・アルコーンに連れられて工場を案内してもらった。見学が終わり、別室でコーガン社長を待っていると、コーガン社長が戻ってきて、 コーガン社長 「西角さん、アタリと提携しますか、技術的援助がもらえますよ」 この時アタリが提案していた提携内容は、アタリから技術が提供される代償に、莫大な権利使用料(今風に言えばロイヤリティ)費用を支払わなければならないものだったと想像できる。 西角はアタリの回路構造を独自で研究し大体わかっていたので、 西角 「援助が無くても私一人でやっていけます」 そう言い切った。コーガン社長は、 コーガン社長 「ほんと、大丈夫? 良かった!」 そう喜んでくれた。 当時、海外のビデオゲームを独自に解析してノウハウを持っていた人物は、日本には西角しかいなかっただろう。大手ゲーム会社もまだそこまで徹底してやっていない頃だった。 そうして、西角の一言でアタリとの提携話がなくなった訳だが、その帰り際、西角とコーガン社長は日本人の男女2人にすれ違った 。日本を代表するゲーム会社 のひとつ、中村製作所の中村雅哉社長 と、彼に同行していた社長令嬢 さんだった。 おそらく辣腕ビジネスマンのブッシュネルは、午前中に西角とコーガン社長を呼び、午後からは中村製作所を呼んでいたの だろう。だから、午前と午後の切替わりに、応接室の横で中村製作所の彼らにすれ違ったと思われる。 まさか、日本から飛行機で20時間以上かけて海を越え、やってきたこのアメリカの地で、彼らに会うとは思いもしなかった。 コーガン社長 「ちょっと気まずいね。」 西角 「そうですねえ…。」 二人は顔を見合わせた。 帰国後、いつもの通り開発に励む日々が続いた頃、 中村製作所がアタリと業務提携した という話が西角の耳に入ってきた。 この提携がのちの脅威 となることは、コーガン社長も西角も知る由もなかった。 急速に進む技術革新 アタリとの商談後、日本へ帰国した西角は、さらに精力的に開発を行った。 アタリと対峙したことで、彼らに負けたくない、何としても追いつこうという想いが一層強くなった。 その頃は、アメリカのビデオゲームに、あのintelのマイクロプロセッサー が搭載されはじめた時だった。日夜アメリカ製ゲームマシンを分解し研究していた西角は、分解したマシンにintelと書かれた高性能素子が搭載されているのに驚いた。intelが生まれた1970年代、技術革新がさらに加速していた。 その技術を活用しながら、西角は処女作「スカイファイター」のビデオゲーム化に挑戦 し、「インターセプター」を開発した。高価なメモリーICを取り入れグラフィックや演出にも趣向を凝らした。ヒットした過去の自信作を、高い技術でビデオゲーム化 する。西角も自信があったし、営業からも好評 だった。これならいけると思った。 しかし、いい収益はあげられず、結果としては失敗 に終わった。 今まで作ってきたゲームの中で、最もグラフィックに凝ったゲームだっただけに、 ゲームは設計技術や演出ではない何かがあるのかもしれない 、そんな仮説が西角の中にうまれた。 そんな中一本の電話が入る。 アタリ社が「ブロック崩しゲーム」を開発。爆発的なヒット 営業部の人 「西角くん! 最近ゲームセンターに入ったゲームが、非常に人気を集めているようなんだ。また、アタリらしいね。まいったもんだよ。時間がある時に、ゲームセンターを覗いてみてくれ。」 取り掛かっていた仕事を横に置き、早速、西角はノートとペンを持って街のゲームセンターに向かった。ゲームセンターに着くと、一つのゲーム台が異様に盛り上がっていた。常にゲーム待ちの人だかりができ、高い収益を上げているようだった。 ゲームの名前は「ブレイクアウト」 通称「ブロック崩し」と呼ばれるあのゲームだった。 「ブレイクアウト」(C) ATARI 出典元:https://www.atari.com/ 西角も順番待ちをして遊んでみたところ、とても面白いゲームだった。 しかし、西角は冷静に一人考えていた。 西角 「アイディアとしては斬新に感じないよな。『クリーンスィープ』に似てる。きっとあれを真似たんだろう。」 「クリーンスィープ」は、「ブレイクアウト」の2年前にアメリカのラムテック社から出たゲームだ。遊び方は同じようなものだが、「クリーンスィープ」は小さい丸を消していく ゲームで、なかなかその丸にヒットしないタイミングがあり、イライラ感 が残った。日本でもあまりヒットしなかった。一方で、それとほぼ同じゲーム内容のアタリ社「ブレイクアウト」は、大ヒット。 両者の唯一の違いは、アタリ社「ブレイクアウト」の標的の方がずっと大きかった ことだ。小さな丸ではなく大きめの長方形を標的に使っていたため、初めのうちは必ずターゲットにヒットした。そのため、「ブレイクアウト」にはストレス感はなく、特に球が上部に到達すると一気に破壊していくあの爽快感は素晴らしいもの だった。 点を長方形にかえるだけで、爽快感が劇的に変わることは大きな発見 だった。 西角が驚いたのはこれだけではなかった。 西角 「それにしてもこのグラフィック、今時単純すぎるんじゃないか。」 この「ブレイクアウト」のグラフィックは、昔のように長方形で構成された単純なものだった。先の「インターセプター」を開発した時、高価なメモリーICを使いグラフィックを出来るだけリアルなものにしようと努力していた。しかし、結果は失敗。 一方で、アタリの「ブレイクアウト」は、ある意味、時代錯誤的なグラフィックで大ヒットしていた。 西角 「面白いゲームを作るにはキャラクターやグラフィックだけでなく、遊びそのものの面白さが必要なんだな。ちょっと、今までの考えは間違ってたのかも知れない。」 ゲームセンターから会社に戻り報告すると、営業の上層部から 営業の上層部 「西角君、これを超えるゲームをつくってくれないか」 との要請があった。 「米国アタリ社の、ブレイクアウト超えるゲームをつくる」 これが西角の最重要ミッション となった。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

  • 4、専業主婦が、目指してないのに何故かタロット占い師になり、それを受け入れるまでの体験談(結婚、ブログ、ハンドメイド、不妊) | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 15/6/11 4、専業主婦が、目指してないのに何故かタロット占い師になり、それを受け入れるまでの体験談(結婚、ブログ、ハンドメイド、不妊) Facebook X (Twitter) リンクをコピー 3、専業主婦が、目指してないのに何故かタロット占い師になり、それを受け入れるまでの体験談 の続きです 専業主婦生活スタート*期間限定フリータイムの始まり SVとしての仕事は、丸3年ちょっとで退職することになり、2003年9月、結婚しました。 私30歳、夫41歳でした。 専業主婦になった私は、夫との時間を大切に、楽しく毎日を過ごすことに専念し始めました。 周りのあらゆる人たちが 「自由な時間を満喫できるのも、子供が出来るまでだから、今のうちに楽しんだ方がいいよ~」 と、半分脅しのようなセリフを、口々に言ってきました。 実際に3人の子育て中の姉は、ものすごく忙しそうでした。 式を挙げた時点で、夫はすでに40代。「一刻も早く子供を!」というのは、自分たちも周りの人たちもごく当たり前のように思っていました。 新婚旅行から帰ってきて、まだ一カ月も経たないうちに実家の母が電話をかけてきて「まだ兆候は無いの?」と言ってきました。 そして、どちらの実家からも、会うたび、電話で話すたびに「まだ?」と聞かれ、最初の3か月くらいで、すでにウンザリし始めました。 でも、自分たちも「子供が欲しい」というのは疑いも無く思っていたことなので、「早く授かったらいいな~♪」と夢見ながら、子供が出来るまでの期間限定と言われている「自由な主婦生活」を満喫し始めました。 働いている時には疎遠になっていたお友達も年代的に妊婦さんだったり、子育て中で家にいたりしたので、時間があって身軽な私が都合を合わせて積極的に会いに行きました。 未知の世界*ネットで日記を公開する? そんな中、出産直後で育児休暇中だった友達に久々に会いに行きました。 その子は、楽天市場の社員さんでした。 今思うと信じられませんが、当時(2003年頃)の私は、まだネットショッピングもしたことが無かったんです! そんな時代なので、まだ独身の頃に、友達が楽天市場という会社に転職したんだ、という話しを聞いた時にも「へぇ〜 なんか聞いたことはあるけど・・・。」って感じで、あまり興味がありませんでした。 その友達に久々に会ってみると、 「うちの会社でね、最近始めたサービスでね、ネットで日記が書けるんだよ。」 と、教えてくれたんです。 当時の私の第一印象は、 「はぁ?ネットで日記?意味わかんないんですけど。」 って感じです(笑) 「日記って、そもそも人に見せるもんじゃないでしょ。それをネット上で公開して、どうすんのさ!?」 って感じ。 もう全否定です! あ、もちろん、そのままその子に言ったわけじゃないですよ(汗) いちおう、そういう心の声を隠して、「へぇ〜 そうなんだぁ・・・。」程度に答えたんじゃないかと思います、たぶん。(そうであって欲しい) その友達は、「育児日記を書いてる」と言ってアドレスを教えてくれました。 後日こっそり覗いてみると、なるほど・・・ 今日は何をした、とか、どこに行ったとか、何気ない子育ての様子が、レポートされてます。 赤の他人にとってはどうでもいい話(オイ!)だとしても、離れたところに住んでいるおじいちゃん、おばあちゃんにとっては、こういう風なレポートは、有難いことかも・・・。 そこの楽天広場には、他の見ず知らずの人達が書いている日記もたくさん! 適当に目を通していくと、みんな自由に好きなこと書いてます。 ふむふむ・・・ ちょっと面白かったこととか、 便利だとかお得だとか思う情報とか、 読んで面白かった本のこととか、 あるいは誰にも言えない愚痴みたいなこととか、 わざわざ特定の誰かに電話や手紙で報告するほどのことでも無いけれど 誰かしらに聞いてほしい みたいなことを書いてるのかな? 電話だと相手の時間を奪ってしまうけど、ネットに公開しておけば、相手の都合がよい時に、のぞいてくれるかもしれないし。 絶対伝えたいほどのことでもないし。 まあ、見てくれたらラッキー みたいなスタンスで書けば面白いのかも?! と、楽天広場(ブログ)で日記を書き始めることに。 ブログに書くのは、最近あった面白いネタ、映画や本の感想、旅行記など。 せっかく書くならみんなに笑って欲しい!と思い、日常のちょっと笑えたことなどをせっせとアップし、日々ネタ探し、という感じでノリノリで書いていました。 そうすると、そういう笑いのツボが合う人や、同じようなものに興味を持っている人と繋がって行きました。自分が面白いと思ったことを書けば、それについてコメントしてくれて、そのコメントがまた面白い! 住んでいる地域はバラバラなのに、共通の話題で盛り上がり、会ったことも無いのに、私の日常を詳細に知っている人たち。 それまでの人生で出会ってきた学校や職場での人間関係とは、まったく違うルート。 ネットで相手の生活スタイルや趣味などを知って、相当仲良くなってから実際にオフ会をして出会うという新しい友達の形。 友達のブログを見れば、趣味の似ている友達が買って良かったものや、後悔したものの話、 どこのお店にどんなものが売っているという情報がリアルタイムで手に入るので、それを参考に買い物したり。 テレビや雑誌の情報より、ずっと早くてリアルでお得な情報が、ネットにはあふれていました。 主婦の口コミでネットショッピングしまくるという、まんまと楽天さんの戦略に乗せられた訳なんですが(笑)主婦になりたてだった私にとっては、この楽天広場との出会いが、私の主婦生活のスタイルを大きく決定づけたと言っても過言ではありません。 いつ子供が出来て自分の時間が無くなるか分からない!という気持ちが大きかったので、とにかく友達と会ったり、テニススクールに通ったり、ドラマ24にハマったり、「牡丹と薔薇」っていう昼ドラなんかも欠かさず見たり、本を読みまくったり、旅行したり、 興味のあることはとりあえずやって、ブログにせっせと書いてました。 結婚前に「金持ち父さん、貧乏父さん」というベストセラーを読んで影響を受けていたので、 専業主婦として家にいながら、投資で以前の年収くらい稼げたりしたら格好いいよな♪ という妄想から、株式投資とFXも始めました。独身時代の貯金はすべてそちらに使いました。 でも、日中パソコンとにらめっこして、黙ってクリックしていることに虚しさを感じ、そして、やはり素人が簡単にもうかる訳ではないことも分かり、リーマンショックと共に熱は冷めました。 (後は夫が引き継いでいて、その名残で塩漬けになっていた中国株が最近爆上げしているので、ムダでは無かったということにしましょう) 結婚2年目*不妊専門クリニックへ そんなこんなで新婚1年が過ぎ、2年目に入るとすぐ、実家の母から「不妊治療」を始めるように勧められました。 もし何か病気があるなら早く治療しなきゃいけないし、もう子供が出来ない体だと分かったら、家に居ても仕方が無いのだから仕事を探さないといけないでしょ?と。 いつまでも遊んでいるのはダメでしょう?と・・・。 それはいかにも正論で、私には反発する理由も無かったので、「ああ、それもそうだね・・・。」と、 本当はすごく不満に思いながらも、不妊専門クリニックを調べて、銀座まで通うことになりました。 最初は、一通りの機能に問題が無いか?ということを調べる一般不妊検査から。 全部を一度に調べられる訳ではなく、生理周期によって出来る検査項目が色々と違うので、3か月ほど真面目に通って、ようやく全部のチェックが終わるとのこと。 毎回、ビルのエレベーターを降りて待合室に入ると、いつも数人の女性が座っています。そのクリニックは、不妊専門ということで、待合室に居る女性達は、みんな不妊に悩んでいる人たち。 お互いに目が合わないように、相手の存在に気付かない振りをするような、とても冷えた空気が漂っていました。 帰りには、「気晴らしに銀座の街をぶらぶらしてみよう♪」なんて、自分を励ますために銀ブラしてみるものの、目立つ場所に並んでいる商品は、どれも高品質で高額なものばかり。 専業主婦となり、稼ぎが無い自分が買うべき物では無いよね・・・。 と、何を見ても買う気にはなれず、ますますショボくれて帰る羽目に。 そうやって、何度も銀座に通い、一通りの検査をしてみた結果、私も夫も特に問題は見つかりませんでした。 そのため、お医者さんが、排卵のタイミングを見てくれて、指導されたタイミングで夫婦生活をするという「タイミング療法」というのを、何となくトライしているうちに、夫の異動が決まり、練馬区から埼玉に引越すことになりました。 その引越しのバタバタでクリニックには通わなくなりました。 新しい土地で火が着いたハンドメイドと健康志向 2005年3月、新婚時代を過ごした練馬区から、埼玉に引越しました。実家へは車で15分で行ける距離になりました。当時、実家では祖母の介護をしていたので、何か必要があればすぐに行ける距離になり、両親も喜んでくれました。 引越すと、やはり土地のエネルギーとか、自分の中のエネルギーが変わるようです。 引越しの荷物が落ち着くと、何故か一気にハンドメイドの熱が高まりました。 麻ひも編みにハマり、かぎ針編みの面白さに目覚めました。 編んだものをブログにアップすると、みんなが誉めてくれるので、モチベーションはどんどん高まります。 そして、夏には石けん作りに挑戦! それまで、石けんなんて自分で作れると思っていなかったので、実際に作れること。そして使い心地が最高なことを知ると、もう、ものすごい勢いでハマりました。 新しい石鹸レシピを試してみたくて、次から次へと作るので、当然自分では使い切れず、友達や家族にプレゼントして、ノリノリで楽しんでいました。 そんな中、義兄(夫の実姉の旦那さま)が、まだ50代の若さで闘病の末、他界してしまいました。 義兄は大きな会社でバリバリ働いて、接待やらお付き合いやらに忙しく、ほとんど外食。 仕事優先で家族でゆっくりする時間は無かったそうですが、家族仲はとても良く、仕事でもプライベートでも多くの方に慕われて、着々と出世し、黒塗りの車で運転手付きの生活でした。 が、現役の社長として活躍している最中に、胃がんが見つかり、一度手術したものの、生活習慣を変えなかったため、再発して亡くなってしまいました。 葬儀は大きなお寺で行われ、お通夜では長蛇の列が出来、2000人以上の方が参列しました。 ビジネスマンとして思いっきり働いて、華やかに活躍して、たくさん稼いで、妻や子供たちからも格好いいパパとして尊敬されて、盛大に見送られて。 とてもエネルギッシュに生き切った半面、この世にはまだ未成年の娘3人と、50代の奥さんが残されました。 どんな人生を選ぶかは人それぞれ。 健康だとか、生活スタイルだとか、人生の目的みたいなことを、とても考えさせられる出来事でした。 その影響もあり、また夫のメタボ化も気になり、この頃から健康関連の本を熱心に読み始めました。 ちょうどその頃ベストセラーになった「病気にならない生き方」 という本のタイトルがツボで、「そうそう!病気にならないような生き方ををしたい!そんな生き方を知りたい!」と思うようになりました。 同時に、「検査では何も問題無いのに、何で子供が出来ないんだろう?」という思いから、自然と東洋医学系の本もチェックし始めました。 石けんの香り付けに使うアロマの知識も自然と増えていきました。 そうすると、自分なりに「この本面白い。説得力ある。」と気に入る本は、みんな共通して「冷えは万病のもと」と訴えていて、「未病を防ぐ」という考え方を知りました。 また、「ヨガなんて、セレブにあこがれている人がお洒落ぶってやるストレッチみたいなものでしょ?」と、完全に斜めに見ていた私でしたが、初めてヨガレッスンに参加してみると、ものすごく癒され、「うわぁ、ヨガってこんなにいいものだったんだぁ~。これは流行るはずだわ!」と、納得! それまで、自分の呼吸がとても浅かったこと、自分の体を放置していたことに気付き、 呼吸の大切さ、心と体のバランスの大切さ、体の声を聴くことの大切さ、 という、それまでの自分には無かった視点を得ました。 ブログやお友達との会話でも、健康関連の話題が多くなり、少し前までは「有り得ない!」と否定していた布ナプキンを使い始めたのもこの頃です。ハンドメイド熱の勢いで、布ナプキンも手作りしました。 それまでは、 市販のナプキンを使うのは当たり前。生理痛があるのも当たり前。痛ければ鎮痛剤を飲むのも当たり前。 という感じで、「生理痛が無い人はいいな~。私は毎月こんなに痛くて可哀そう。でも仕方ないか。」というスタンスだったのです。 鎮痛剤さえ飲めば痛みが治まるのをいいことに、深く考えずに受け入れていました。 一般不妊検査で、病気などの不具合は特に無い、ということも分かっていたので、「まー、生理痛は誰でもあることだしねぇ。」と放置していました。 それが、布ナプキンに変えたことと、健康に関することを少し意識し始めただけで 毎月薬を飲まなくてもやり過ごせる程度の痛みに激減したのです!驚きました。 布ナプキンにしただけで、こんなに生理痛が改善されるなんて・・・。 しかも布だと温かくて気持ちいい♪ 不快じゃ無い! この心地よさを何も知らずに、「市販のナプキン以外はあり得ない!」と思い込んでいたんだ。 ヨガだって、何も知らないのに何故か斜めに見ていたし・・・。 作れると思ってなかった石けんも、出来るようになった・・・。 それまでの自分の枠が、どんどん壊されて広がって行く感じでした。 不妊ストレス 埼玉に引越して、石けん作りにハマり、実家の母にも自慢げに石けんをプレゼントしていた私。 すると、「石けん作りより子作りの方が優先なんじゃないの? 近くに評判の病院があるから行ってみなさい。」と言われました。 せっかく楽しんでいるのに、上手いこと言ったような感じで、水を差して・・・もうっ! と、内心カチンと来つつも、今度は埼玉の病院で、また一通りの検査を受けるために通院を始めました。 また、埼玉には鍼灸師である実の姉も住んでいるので、姉に泣きついて、鍼治療も週に1、2回のペースでしてもらうことになりました。 そして行ってみた埼玉の病院での一般不妊検査でも、銀座のクリニック同様、何も問題は見つかりませんでした。 そうなると医者も対策しようが無いので、 「では人工授精をしますか?やるなら少しでも若いうちに。」 という話に。この時33歳。 「ええ!?人口授精!?そういうことしないともう無理なんですか!?」 とビックリしてとりあえず帰り、夫に相談しました。 夫は、「やってもやらなくても良い。やりたいようにすればいい。」というスタンス。 あくまでも、私の好きなようにやれば良い、というスタンスなのです。子供のことも仕事のことも何でも。 私としては、今まで「検査のためにクリニックに通う」というだけでも、すごくネガティブな気持ちが溜まっていました。 「みんな自然に妊娠しているのに、何で自分だけがこんな目に遭わなきゃいけないの?」 「子は授かりもののはずなのに、なんで病院に行かなきゃいけないの?」 と。 それまでの私は、高校の部活でも、受験勉強でも、社会人になってからの仕事でも、 基本的に「自分が本気になって頑張れば何とかなる。」 という発想の元にやってきていました。 何とかならない場合は、自分の努力が足りない。 もしくは、何か原因がある。その原因を追究してやり方を変えればうまくいく。 いずれにしても、「自分の努力とやり方次第」という考えで生きてきて、それなりに何とかなってきたと思っていました。 もちろん、興味の無いことは全然努力しませんが、目的がはっきりしている場合は、その達成のために一直線!という風でした。 そんな私にとって、 原因も無いのに妊娠しない・・・。 自分で努力して克服する手段が何も明示されず、いきなり人口授精という方法に頼らなければならない。 ということは、とても受け入れ難く、納得がいきませんでした。 相変わらず両家の母は、会う度に「まだ?」という感じ。 ただ近くに孫が欲しい!孫を可愛がりたい!という純粋に楽しみな気持ちと、 夫が末っ子長男なので、私が産まなければ○○家が終わってしまう、というプレッシャーもありました。(別に継がなきゃいけない家業も無いけれど) 「結局この人たちは、3人産んで元気に育てたという実績のある人たち。言ってみれば勝ち組。負け組の私の気持ちなんて、絶対に分からないだろう。」 と、私は勝手にいじけて心を閉ざし、 何を言われても気にしていない振りでやり過ごしていました。 どちらの母も、プレッシャーをかけているつもりは無かったと思いますが、当時の私は、親孝行出来ていない自分を責められているような罪悪感と、自分は何も悪く無いのに、なんで? という被害者的な気持ちでした。 そんなネガティブな気持ちになっていることも正直に言えず、ただ気にしていない振りをしていました。 そして、人工的な手段に出てまで子供が欲しいのか?と自分に問いかけると、違うような気もして、 治療に通うことの方がストレスになって体に悪そう、と思ったので、迷いながらも、一旦クリニックに通うのは止めることにしました。 通院を止めようと決めたと同時に、帯状疱疹になりました。ストレスが原因とも言われている病気だそうなので、「ああ、今までの通院、やっぱり嫌だったんだなぁ。 とりあえず一旦止めて良かったな。」と納得することにしました。 「出来なくて可哀そう。」と哀れに思われるのが嫌で、友達にもほとんど相談はせず、子供のことはブログにも書きませんでした。 たまに子供の話になった場合、気にしていない振りをすると 「子育ては若いに越したこと無いから、のん気にしてないで頑張った方がいいよ~。」 というようなことを言われ、 逆に、ちょっと気にしている風にすると、 「気にし過ぎるから駄目なんだよ~。忘れた頃に出来るって良く言うじゃない~。」と言われるのがお決まり。 いずれにしても、上から物を言われているような気がして面白くありませんでした。 週に1、2回のペースで、実姉に鍼とお灸の治療をしてもらっていたので、その時だけは、甘えて色々と話すことが出来るのが救いで、いつも長居してたくさん話を聞いてもらいながら・・・。 そんな中、凄いと評判の漢方薬局を紹介してもらい、漢方薬を飲み始めました。西洋医学の通院を止めても、何かしら努力はしているんだ、という自分への言い訳と親へのアピールのためでした。 「子供を授かるための努力」という意味では、不妊専門クリニックに通っているのと同じなので、 「何でみんなは努力しなくても授かるのに、自分はこんな目に・・・。」というネガティブな気持ちは相変わらず溜まっていく一方でした。 罪悪感を原動力に盛り上がっていく主婦生活 そうやって子供に関してはネガティブ路線を歩んでいても、それ以外の主婦生活は充実していました。 引き続き、石けん作り、編み物、縫い物のハンドメイドをし、パン作りやお料理にも前向きにトライし、家に夫の部下の皆さんを招いて宴会したりして楽しんでいました。 両方の実家に足を運ぶ時間のゆとりもたくさんあるので、子供以外の親孝行は出来るだけ頑張ろう! と、何かと交流していました。 そう、子供が出来ないという罪悪感から逃れるために、それ以外の部分では「良い娘、良い嫁」になろうと頑張っていました。 あらゆるハンドメイドなどが盛り上がるのも、元々そういう手づくりが好き、という性質に加えて、 子供がいないのに専業主婦をしている、というのを誰かに責められるのが怖くて、 時間を無駄にせず、いろんなことをやっている私。夫と自分の健康のためにお料理なども頑張る私。充実した暮らしをしている私。を追い求めて、罪悪感から逃れようとしていたのだと思います。 そんなネガティブ思考を原動力にしつつも、自分で手をかけて生活を作っていくことの面白さは私にとって魅力的でした。 石けん作りやお料理など、以前は出来ると思っていなかったことも、一歩踏み出してやってみれば意外と出来るようになるという発見。 以前の自分よりあらゆる知識と経験が増えて、進化しているという実感。 お金では買えない夫や家族との充実した時間。 そんな主婦生活をブログでせっせと書き綴っていくことで、明るくて楽しい側面にフォーカスすることが出来、友達が書いてくれる嬉しいコメントや友達のブログを見て、ポジティブなパワーをもらっていました。 そんな中、ブログで出会ってリアルでも仲良くなっていたお友達が、「靴下をたくさん重ねて履く」という謎の健康法を始めました。 5、に続きます。 少しでも「読んでよかった」「続きが聞きたい」と感じられたらボタンをクリックしてただけると嬉しいです♪ X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 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  • 17歳の時、騙されて精神病院に連れて行かれて拉致監禁された話 #5 | STORYS.JP 人生物語

    STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/2/22 17歳の時、騙されて精神病院に連れて行かれて拉致監禁された話 #5 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 盗みをしたことによる罪悪感。 私は、入院中、罪を犯しました。 下川さんのふりかけを盗んで食べてしまったのです。 入院していると、当然食事は満足に食べられません。 食事がまず過ぎて、ヤクザは御飯を捨てていました。 ある日、空腹に耐えかねた私は、 下川さんの部屋に置いてあるふりかけが食べたくなりました。 そして、こっそり部屋に入って、 ふりかけの袋を3つ取りました。 これがまた食べると美味い! しかしその後、もの凄い罪悪感に襲われました。 「なんで、下川さんの大事なふりかけを盗んでしまったんだ……」 心は痛み、悲しみで一杯になりました。 あれから、ずっと言えずに生きてきたのですが、ここで言います。 下川さん、 大事なふりかけを盗んでしまってごめんなさい。 あなたが闘病中、壁を押しながら身体を鍛えていた姿を、 僕は一生忘れません。 そして、入院中、話をしてくださってくれたこと 本当にありがとうございました。m(_ _)m X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

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