空の検索で16159件の結果が見つかりました。
- 10月22日の出来事です。 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/10/22 10月22日の出来事です。 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 10月22日の出来事です。 こんばんは 最近豪ドルもアゲサゲが激しいですね 昨日も高値 94.566迄上昇しました。 今日の指標も良かったのかな 四半期消費者物価(CPI) [前期比] 結果:0.5% 予想:0.4% 前回:0.5% 四半期消費者物価(CPI) [前年同期比] 結果:2.3% 予想:2.3% 前回:3% いい結果が出たのですね だからあげているのですかね 昨日の中国の指標も良かったみたいで あまり上がりませんでしたが しかし 最近は プラスでの取引が多くなりましたが 損切りを決めないと 痛い目にあいます。 10月13日 1915円 14日 -568円 15日 -3325円 16日 -4405円 17日 1652円 20日 460円 21日 414円 22日 75円 です 損切りを決めて リセットが大事ですね 少ない金額のリセットは 取り戻しが 聞きますが 大きくなると難しくなりますね やはり見直しと 損切りを必ず付ける 心がけたいと思います。 今週もプラスで終われるように頑張ります X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 大学生までABCしか出来なかった私がヨーロッパで働いている話(現在進行形)『カナダでの生活』 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 15/6/22 大学生までABCしか出来なかった私がヨーロッパで働いている話(現在進行形)『カナダでの生活』 Facebook X (Twitter) リンクをコピー ここからが本番、、、 当時のカナダへの渡航費はビザの申請、お小遣い含めて約40万円 仕事が1ヶ月で決まらなければ帰国するしかない状況に自分を追い込みました。 到着後はバンクーバーの街を散策しながら街中にある掲示板やネットで仕事を探します。 3週間が経った頃、電話面接にてバンクーバーから東にバスで17時間程行ったところにある街のホテルで仕事をする事が決まりました。 ハウスキーパーとして、、、 なんとかギリギリで仕事が見つかりました。 今となっては笑い話ですが、そこからが苦労の連続でした。。。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 音楽に国境は存在しなかった。言葉がなくても語ることのできたカナダ5ヶ月留学。 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/5/27 音楽に国境は存在しなかった。言葉がなくても語ることのできたカナダ5ヶ月留学。 Facebook X (Twitter) リンクをコピー こんにちは。長野県小谷村-OTARI-の古民家で宿を運営しているたつみです。 自分の過去を書きまとめる作業、5回目でございます。 誰もが持つ過去から紡がれる物語の断片を。 自己満足にもネットの世界へ解き放つ次第です。 お暇な方はどうぞお付き合いいただければこれ幸いにございます。 さーむおあてぃけん? -2004年1月 さらば日本!! 当時高校二年生で17歳のぼくは上空何万mに浮かぶ鉄の塊の中で快適な空の旅を満喫しておりました。 両親とコーディネーターのお姉さんに見送られ半日くらいが過ぎた頃。 ぼくは両親から贈られたおニューの電子辞書を開いたり閉じたりしながら持て余す時間を長くない半生と、1年半くらい過ごした高校生活を振り返っておりました。 10時間程の空の旅は果てしなく長く感じる時間ではありますが、これから始まる異国の地での新生活のエピローグとしては最適な時間でもありました。 機内を世話する乗務員は日本人と外国人の半々で、中には男性の乗務員の方も交じっております。 機内の時点でなんだか国際的。 席に設置された文字媒体の冊子なんかも至る所にアルファベットがちりばめられております。 「きっと英語なんてのはぼくからすれば得意な範囲だろう。」 留学を決めた当時から、ぼくは根拠のない自信をかいがぶっておりました。 コミュニケーションや友人関係に不自由をおぼえたことのないキャラであったその頃の自分。 山村留学という過酷な幼少期を過ごしてきたぼくには、外国だって持ち前のテンションで乗り切れる!!そんな非論理的で楽観的な考えでおりました。 若き自分はなんとも純粋無垢であっぱれな17歳だったのです。 (幼少期に過ごした山村留学については、過去に書いた「古民家ゲストハウスの創り方」 をご参照ください) そんなあっぱれ男子の根拠の無い自信はまだ留学が始まってもいない上空の機内で、一瞬に粉砕され天空の塵と化しました。 それはいまでも忘れない機内食の配膳での一幕です。 ワゴンを押して進む長身の白人男性の添乗員がなにやら小声で客とぶつぶつとやり取りをしながら機内食を手渡しておりました。 ぼくの右前方に背の高い青い目の添乗員がぼくを見下ろしながらつぶやきます。 外国人添乗員 「さーむおあてぃけん?」 たつみかずき(17歳) 「。。。??わっと??」 外国人添乗員 「あー。(ちょっと大きな声で)さーむおあてぃけん?!」 たつみかずき(17歳) 「えーー。なになに。えーーー?!!さーむ??」 まるで巨人のように見下ろし威圧するかのような青い目の添乗員に、ぼくはクエッションマークいっぱいの「さーむ??」 を投げかけました。 すると彼は首を傾げながらぼくの席のテーブルに機内食を置いてそそくさの次の客に配膳をしていきました。 なにが起こったのはわからず、呆然とアルミホイルが被せられた四角い皿の中身を覗くと。。 そこには鮭のムニエルが美味しそうに湯気を立てておりました。 隣のおじ様の皿の上には、ハーブがふりかけられた鳥のオーブン焼きが湯気を立てておりました。 機内で「さーむおあてぃけん?」 を理解できずにいたのは、きっとぼくだけであったでしょう。 根拠の無い自信を天空の塵へとあっけなく明け渡してしまったぼくは、赤く焼けたサーモンを見つめながら。 これから始まる5ヶ月間のカナダ留学への不安の重力に押しつぶされそうになっている。 ぼくのカナダ留学は、こんな感じになんともさい先悪くスタートするのでした。 とぅないと・ぱーりー♪ ぼくが目指すはカナダアルバータ州のエドモンという、事前知識皆無の町でありました。 エドモントンはカナダ南西の玄関口バンクーバーより、飛行機でロッキー山脈を東に越えた1時間程の町。 この町がぼくの留学先となった理由は、バンクーバーやトロントの大都会と違い圧倒的に日本人留学生が少ない!!というものでした。 コーディネーターのお姉さん 「語学を身につける為には日本人が多く住む町に行ってはだめよ」 との、コーディネーターのお姉さんの教えによるもので。 特に土地柄や事前知識を知っておきたくない!というぼくの意向で、ほぼ無作為に選ばれた町がこのエドモントンだったのです。 自信喪失の中バンクーバーに降り立ったぼくは、巨大なスタイリッシュ館溢れる空港ターミナルの中で独り彷徨い、視界に入る全ての光景が異国の人々で埋め尽くされ。 「ここは日本ではない!!」 という当たり前の事実を再確認したのでした。 「I'm in Canada!!」 当時日本に当たり前には無かったスタバでコーヒーを飲む外国人を眺めながら、ぼくは心の中で叫びました。 異国の地で独りぼっちな自分。 なんだか不思議でたまらなく、ここが現実の中であるのかすら定かではありませんでした。 とは言え、現実的にぼくは国際線から国内線へ乗り継ぎを果たさなくてはなりません。 コーディネーターのお姉さんが丁寧に書き記してくれた留学先までたどり着く為のメモを何度も何度も凝視し、国内線を目指したのです。 日本からぼくを運んだものと比べるとあからさまに小降りな飛行機は、暗闇が支配する大地への滑走路に降り立ちました。 飛行機の車輪が機体を減速させながら、流れるアナウンスは全てが外国語で。 ぼくが理解できたフレーズは「気温、マイナス43度」 だけでした。 え?なにそれ??そんな寒いの?!!! 幼少期を過ごしてた小谷村の真冬の最低気温がマイナス10度前後。 冷凍庫も同じくらいでしょう。 雪国育ちのぼくはさほど寒さに驚くことはありませんが、まさかのまさかのマイナス40度台。 驚愕の温度です。 寒さとプラス、窓の外は滑走路に転々と光る灯り以外は確認できず、ぼくはどんなところに来てしまったのだろう?? と、不安しか持ち合わせていない精神状態でありました。 小さな空港のターミナルに出ると、そこには初老の夫婦に見える二人が「Kazuki」と書かれた画用紙を持ち微笑んでおりました。 1日の半分以上を移動に費やし、開口をしたのは必死に絞り出した「さーむ??」 とパスポートを出した時だけでだったぼくは。 異国に降り立つ不安も合わせ、この初老の二人の微笑みに心底安心したのでした。 「はい。あいむかずき!!」 満面の笑みを惜しげも無くご披露したぼくは自己紹介も早々に車に案内され、極寒と暗闇が支配する大地へと、この二人に誘われるがまま走り出したのです。 ぼくの留学生活がここから始まる!! そんな期待に満ち溢れた新生活のスタートは、機内同様極寒の大地に注ぐ一滴の雫と化したのでした。。 ホストママであるジュリーが走らせる車はひたすら暗闇の大地を進んでいきます。 時折現れるオレンジの光を照らす外灯と看板で、この道はフリーウェイだということがわかりました。 ジュリーの隣に座る男性はマイク。この時点では彼の存在は謎でしかありませんでした。 「確か、ジュリーは離婚し息子さんと二人暮らしだったはず。」 エージェントのお姉さんからホストファミリーにについての話は簡単にだけ聞かされており、一度だけホストママのジュリーとはメールでのやりとりをしたことがあったのです。 ネイティブカナディアンの初老の二人から発せられるネイティブイングリッシュは、ぼくの脳みそを何回転もし処理できない解読不能な単語と文法はすぐさま脳内から泡のように蒸発していきました。 「こんなにもぼくは英語が理解できなかったのか。。」 「さーむおあてぃけん?」の時点から広がった黒雲は乗車5分の時点でいくつもの稲妻を轟かせておりました。 舐めてた。海外。完全に舐めてた。。 時、既に遅し。引き返そうにも引き返すにはそれなりの語学力が必要であるのです。 5ヶ月間のカナダ留学は開始してものの5分。 ぼくは自分自身の脳みそのスペックを生まれて初めて呪いました。 とは言え、ただただ落ち込んでいても仕方ない。 ぼくはどうにかどん底に沈みかけているテンションを保ち、明るく「ぱーどぅん??」を繰り返したのでした。 車内での英語論争が繰り広げること約10分。 余りにもぼくが言葉を理解できないことを理解した初老の二人は黙り込んでしまいました。 この10分にぼくが理解できた言葉は ①ようこそカナダへ。〜自己紹介〜よろしくね。 ②これから家に帰るよ ③今夜はパーティーがあるの♪ の3つでした。 ぼくはこれから家に帰り歓迎のもてなしをしてもらう。それがジェリーの言う「パーティー」なのだと思い込みました。 長旅の疲れはあるものの、一日でも早くホストファミリーと仲良くなりたい! その想い一心で、新居でのパーティーが楽しみでなりませんでした。 車は30分程でホストファミリーのお家へ到着。 極寒マイナス40度に再び足を踏み入れ、呼吸をすると。肺の中まで凍ったような感覚でした。 雪はあまり多くなく、家の周りに15㎝程が積もるのみでした。 家の扉を開き中に入ると、それはまさに海外のお家!! キッチンとリビングが繋がった広い空間は白を基調とした清潔感漂い明るく輝き、食卓の上に豪華な食事が並び大柄なホストファミリーの息子さんが出迎えてくれて!! 。。。 て。。。?? あれ?おかしいな? 案内されるまま入った家の中は暗く、ダイニングテーブルにぼくを歓迎する豪華な料理が並ぶことも無く。。 ぼくを歓迎して止まないはずのホストママは、ハテナが脳内を占拠しているぼくの速度を無視しながら足早にリビング、バスルーム、キッチンを紹介していきます。 そう。次々と。 大きなオーブンを開け、「らざにあ」とジェリーは眼鏡越しにぼくにつぶやきました。 それから階段を下り、ぼくがこれから生活をする部屋を案内しました。 リビングに戻るとジェリーとマイクは玄関からまさに出て行こうとしいるところ体制で 「とぅないと・ぱーりー♪しーーやっ!!」 と、出て行きました。 ぼくは暗いリビングに立ち尽くし、いままでの過去に飛び交った英文を少しずつ整理していきました。 。。。 あ!!! パーティーって、ぼくのやないんや!!! 衝撃的な事実を推測の上で理解し、ぼくは大変な勘違いをしていたことに気がつきました。 そして、到着の夜にホストファミリーがぼくを独り家に取り残し自分たちのパーティーに出掛けていってしまうという大胆不敵な行動に唖然としたことを、いまでも鮮明におぼえています。 暖かいのはオーブンの中のラザニアだけ。 これから始まる異国の地での留学生活は、不安の暗闇の中で、静かにスタートしたのです。 ハイスクールライフ in カナダ カナダでの新生活が始まり1週間。 初めの1日2日はジェリーに銀行口座開設や身の回りの買出しの世話をしてもらい、すぐさま高校での生活が始まりました。 高校では新学期が始まったところで、どうやらカナダの高校は日本の大学の様に自分で専攻する授業を選択できるようです。 1日90分の授業が4コマ、それの4コマの授業が1学期間毎日繰り返されます。 そこら辺の諸々の手続きをよく理解できないままぼくが専攻した授業は 1限目理科、2限目家庭科、3限目ESL(留学生用の英語カリキュラム)、4限目音楽。 なんともバラエティーに富み勉学そっちのけなハイスクールライフとなるカリキュラム! とは言え、英語だらけの授業は全てが苦痛となること必須でありました。 ぼくが通うジャスパー・プレイス・ハイスクール、通称JPHSは全生徒数2,000人のマンモス校で、その半分が留学生です。 カナダは移民の国と称される国で、大変国際的なお国柄。 アメリカと比べると人種差別が深刻ではなく、銃による殺人もほとんど起こらない国なんだとか。 比較的外国人を受け入れる気質で、且つ安全な国とされています。 JPHSには様々な人種の生徒がいて、それはそれは国際的でありました。 中国、韓国、インド、インドネシア、イラン、アフガン、メキシコ、モンゴル、ロシア、ヨーロピアンetc.. 2,000人のマンモス校の全校生徒の中で日本人はわずかに5名。 「日本人」というだけで仲良くなれてしまう人数でありました。 1週間の内に日本人の先輩留学生全員と挨拶を交わしたものの、ぼく以外の日本人留学生は既に数年在学しており、受講するカリキュラム等は全く別。 学校で顔を合わせることはほとんどありませんでした。 言葉が通じることでの安心感を頼りにしてはいけない!! そう言い聞かせ始まったハイスクールラライフ。 にしもて。 マジで言葉がわからんの!!! 1限目の理科では、素敵なロシア人のイケメンプレイボーイ君と仲良くなり。 2限目の家庭科では話さなくとも共同で作業ができ。 3限目のESLでは皆英語がわからん人々だけになるので問題無く。 ぼくの中で大変ネックとなったのが 4限目の音楽の時間でした。 「音楽」=「MUSIC CLASS」 どんなカリキュラムなのか全くわからず専攻したこの授業。 音楽を専攻した理由はぼくの留学中にする!!と決めていた目標の一つ 【カナダでバンドを組む】 を実行する為のものでした。 どこまで愚か者だったのか留学前のたつみかずき!! お前は音楽どころか英語ですらひっかかっておるのだぞ!! 4限目の音楽の授業での最大の難点。 それは、この授業だけネイティブカナディアンしかいない!! ということでした。 カナダ人はわかり易いのです。 興味があれば食いついて、面白ければ絡んでくる。 とにかく、おもしろけばOKといった純粋な価値観を持った人々が多いのです。 イコール 「興味も無く面白くもなければ素無視するのが当たり前!!」 なかなか日本人では考え難い人間性をもっておるカナダ人。 クラスに異国人の転校生が来た日なんかは、きっと誰しもがちやほやして熱心に日本語を教える生徒が現れることでしょう。 こんな人任せな日本人なりの価値観を、カナダ人は誰一人持ち合わせていなかったのです。 しかも音楽の授業内容というのが 吹奏楽とマーチングとビックバンドジャズを足して割った様なバンド形態での授業!! どれも楽譜必須の音楽形態!! 楽譜を読めずに音楽を始めたぼくは、その当時ドラムを独学で始めて1年ちょっとが過ぎたひょろっひょろのドラマー入門者であったのです!! (バンドを始めた経緯は、過去に書いた「音楽との出逢い。それは人生の大きなターニングポイントの一つとなった。」 をご参照ください。) しかもこの授業、何故だかいつになっても講師が現れず。 生徒は皆、自分自身が担当する楽器を手にしては思い思いに楽器演奏に勤しむ始末。 「あのー。せめて授業始めてくれませんかねーー??」 とのぼくの心奥底でつぶやかれる言葉に耳を傾ける者は誰もおりません。 音楽室の隅っこでなにをする訳でもなくただただ座り適当に音が鳴っている空間に佇む17歳の日本人の男の子。 それはもう思い返すと哀れで仕方ありません。 クラスの皆ー!!ぼくの姿、みえてますかーーー??? まるでぼくは透明人間にでもなったような感覚でありました。 この頃にぼくは初めて知りました。 「独りで感じる孤独より、誰かといて感じる孤独の方がよりつらい。」 普段当たり前に話す、【言葉】というものが、こんなにもぶ厚い壁になるのだと痛感したのです。 やっぱりアジア人とカナダ人って、違うよねー。 留学生活が始まり1ヶ月。 ぼくは頻繁にアジア人グループとつるむ様になりました。 そのグループは中国・台湾人が中心で、韓国人、日本人が集まる20人程の一団でありました。 休日に集まり過ごすグループでもあります。 家までの帰り道は、学校の最寄りのバス停からショッピングモール行きのバスに乗り、モールのバスターミナルで乗り換えます。 ウエストエドモントンモールという名前のショッピングモールは北米最大のモールで、800の店と2万台 の駐車場がある巨大な施設で、このモールが毎夕の通学路となりました。 特にモール中央にある中華スーパーのフードコートは中国の食べ物や日本の寿司が一貫から販売されていたので、日本を懐かしむのに最もリーズナブルな場所であったのです。 放課後はよく留学先輩で英語が堪能なあき子さんという姉のような日本人女性と共にしておりました。 不慣れなカナダでの生活を姉のような彼女に頼り切っていたことは言うまでもありません。 (あの時のご恩は一生は忘れませんm(__)m) そのあきこさんに連れられ、週末はよくアジア人グループで遊びにいくことがお決まりとなっておりました。 留学をするアジア人は日本の音楽やドラマ、アニメが好きな人が多く。 カラオケに行っては日本の曲で盛り上がっていたことをよくおぼえております。 カナダは18歳になれば成人で、酒や煙草、ポルノ雑誌が解禁となります。 逆に未成年に対する規制が日本よりも厳しく、飲食店等では必ず身分証の提示が必要となります。 その為週末は大抵カラオケに行くか、誰かの家で朝まで吞む!というのがほとんでありました。 留学時代には特にアジア人の友人に世話になりっぱなしであったのです。 ある時、中国人の誰かが言いました。 「アジア人は優しい奴が多くていいな!それに比べてカナダ人はなー。 やっぱりアジア人とカナダ人って、違うよねー。」 その言葉がぼくには疑問でなりませんでした。 このときこそこうやってアジア人で一緒になってつるんでいるけど、普段ぼくたち日本人は日本人以外のアジア人をどう見ているのだろうか?? 京都の自身が通う高校では「やっぱり大阪と京都って違うよねー。」と、誰かが言っていたことをおぼえております。 もしかしたら宇宙人が現れたその日には、人と人は一致団結して「やっぱり地球人と宇宙人は違うよねー。」つぶやく日が来るのでしょうか?! 人と人、人種と人種の違いなんて実際は特に無く。 ただ自分が属する場所や範囲によって、人は人との共通点を見出し。 逆に敵対するべき欠点を探してしまう生き物なのかもしれない。 ぼくはそんなことを考える様になりました。 結局は【人】 ぼくはもっともっと、この留学でたくさんの人を知り。 もっともっと深く繋がりたい! そんなことを思ったのです。 韓国人の友人が酔った勢いでぼくに言った 「俺はお前のことが好きだ。 でも、俺はどんなに努力しても日本人のことを心底好きになることはできない。」 という言葉や。 ESLの授業で 「あなたが信じるものはなんですか?」という質問に 「アラー」と答えたアフガニスタン人の女性の言葉 が。 この3つの言葉が、留学中に特にぼくの中で考えることとなった言葉でありました。 音楽に国境は存在しなかった。 留学開始から2ヶ月が経ち、ぼくを悩ませ続けていた音楽の授業に、遂に講師が現れました。 どうやら新学期早々体調を崩し入院していたのだそうです。 この頃のぼくは、言葉に対するストレスが極限に達しており。 朝シャワーを浴びていた時にホストママから浴びせられた 「かずき!!シャワーは一日15分までよ!!」との怒号がきっかけて張りつめていた色々なものが溢れる寸前となっておりました。 人生で味わったことの無い孤独感。 ビジネスライクなホストファミリー。 いまとなってはどうにでも改善できたであろう小さなことが、当時は大変つらいものでありました。 基本前のめりでマイペースを貫き通しどの環境でも上手に溶け込むことのできる、はずの自分。 そんな自分が言葉という壁の前に成す術無く。 ぼくはシャワーを浴びながら「嗚呼。この水と共にぼくも流れてしまいたい。」 そんなことを考える日々となっておりました。 そんな時に現れた音楽の先生、ミスターポスト。 彼は登場するなり短い自己紹介と生徒の出席を足場やに取り始めました。 ぼくの名前を呼ぶ時に、彼はぼくを見てこう言いました。 ミスターポスト 「かずきさん。あなたはもしかして、にほんのかたですか??(片言の日本語で)」 たつみかずき(17歳) 「わっと??え、はい。日本人です。」 クラスの一同が聞き取ることのできなかった言葉を話すぼくらを凝視します。 彼は続けて言いました。 ミスターポスト 「わたしは、むかし、にほんのようちえんで、えいごのせんせいしてたこと、が、あります。よろしく、おねがいします。それで、あなたは、なんのがっき、やりますか?(片言の日本語で)」 たつみかずき(17歳) 「へーそうなんだ。あ。一応。ドラムです。」 彼はそれから英語で昔日本の幼稚園で働いていたことがあることを話し。 ぼくが日本人であることと、ドラムをやることを話してくれました。 「へー。あいつ、日本人なんだ。」誰かがつぶやきました。 (カナダ人からすれば、アジア人の人種の違いを顔で判断することはできません。) その日から、ぼくの留学生活は少しずつ変わっていきました。 ある日、3限目の授業が早く終ったのでぼくは音楽の教室に向かいました。 長らく叩いていなかったドラムを叩く為です。 誰もいない音楽室には、ギターとベースのアンプ、ドラムだけが設置されています。 白いドラムセット。 ぼくは、誰もいない音楽室にドラムの音を響かせました。 高校に入学して以来ぼくの生活は音楽が中心にありました。 どれだけ再生したかわからないMDと、どれだけ口ずさんだかかわからない音楽と。 高校1年生の初めにあった、人生のターニングポイントとなった出逢いがあってぼくは音楽と関わって生きている。 ここカナダでも、ぼくは音楽とこうやって関わることができている。 そんなことを考えておりました。 しばらくぼくがドラムを叩いていると、教室に一人見慣れた大柄なカナダ人のクラスメイトが入ってきました。 彼は音楽クラスではベースを弾いています。 彼とは、と言うより。ほとんどのクラスメイトと話したことのないぼくは、緊張し演奏を辞めようとしました。 その時、ぼくは彼と目が合い、彼は「keep on keep on」と優しくつぶやいたのです。 肩にかけていたベースを下ろし、アンプの電源を入れ、彼はぼくのリズムに合わせベースを鳴らし始めました。 音楽室にドラムとベースの低音が響きます。 音と音が重なる瞬間。 ぼくは、初めて先輩に誘われて見に行った練習の時に受けた衝撃を思い出しました。 爆音が教室のガラスを震わせ、ぼくの鼓膜から入った音が心を揺らした瞬間の感動という感覚。 それはもっと穏やかで優しいもので、それでいて、あのときに勝る【感動】が、そこにはあったのです。 もう一度目が合い、演奏が終ると。 彼は親指を立て「good」と、ぼくに微笑みかけました。 「ぼくはカイロ。かずき?だったね。良い演奏だった。」 それはまさしく。 音楽が言葉の分厚い壁を。いとも簡単に打ち崩した瞬間でした。 そもそも壁なんてものは無く、ぼくが勝手に積み上げていたものだったのかも知れません。 言葉が違っても、楽譜が読めなくても。 ぼくはそのとき確かに、音楽で語り合うことができたのです。 それからカイロはぼくをギターやドラムのメンバーに紹介しました。 「こいつ、ドラムなかなか叩ける奴なんだ。」 ぼくはそれから、通じない言葉で話しをするようになりました。 言葉がわからない時は「ごめん、何言ってるかわからない。だってぼく、日本人だから!」 と冗談めいたことを言う様になりました。 カナダ人は純粋で、面白ければOK。 言葉が通じなくても笑うぼくにつられてたくさん笑顔をくれるようになりました。 3ヶ月が過ぎ、4ヶ月が過ぎ。 ぼくは少しずつ言葉が理解できるようになりました。 一人でダウンタウンに出掛けることも、レストランでメニューを注文することも。 初めてのお使いの様にどきどきしながらではありますが、できるようになっていきました。 理科のクラスメイトイケメンロシア人イリア君の縦横無尽な社交力の恩恵を受け、陽気な中国人の恩恵を受け、個性の強い音楽のクラスメイトの恩恵を受け。 ぼくには言葉の通じない友達がどんどん増えていきました。 音楽クラスの4泊5日のミュージックトリップでは他校と演奏会で共演し、ロッキー山脈を間近で見上げ、その頃にはクラスの一員となっておりました。 6月の卒業式を目前に、韓国人のギタリストの友人が「卒業式で演奏するバンドをやろう!!」と声をかけてきてくれました。 韓国人のギタリスト・ピアニスト、カナダ人ベーシストカイロ、日本人ドラマーたつみ。 無国籍な即席jazzバンドを結成したのです。 留学前に立てた目標を達成できた瞬間でもありました。 卒業式での演奏は上々。 たくさんの拍手をもらいステージを後にしました。 それは同時に、ぼくのカナダでの最後の演奏となったのです。 そーりー。たいむとぅーごー。 「かずき。日本に帰らずに、俺とバンドやろうよ!!」 PCにメッセンジャーでカイロがぼくにそんなメッセージをくれました。 留学が始まった約2ヶ月間の孤独と、それ以降の時間は全く相反する時間となりました。 音楽を通じ、打ち崩した壁。フラットになったカナダでの時間はそれはもう楽しいことしかない時間でありました。 学校にいけば愉快な仲間いて、週末に集まる仲間がいて、(今回の話では書けなかった)家には気の合うルームメイトがいて。 そして、4月からできた素敵な彼女なんかがいたりして。。 日本に恋いこがれていたぼくには、帰国を躊躇する理由が幾つも存在していたのです。 このまま残ってハイスクールを卒業し、カナダのカレッジや大学を目指すという選択肢もありました。 でも、帰ろう。 ぼくは留学中に様々な価値観を与えられました。 それは文化的な違いや、習慣の違い、宗教の違い、歴史の違い。 違いの中で気づいたことと、違っていてもわかりあえるということ。 その中でぼくがいかに「母国、日本のことを知らないのか」 ということ、を知りました。 日本人がいかに、メッセージ性や意味を知らずにファッションで衣服を纏っているのか。 自らの地域の現状や歴史を知らずに過ごしているのか。 生まれ育った日本を知らずに、外国に憧れを抱いているのか。 外を知れば知る程、ぼくは内なるものを知らないことを知りました。 だから、ぼくはもっともっと日本を知りたい!! ぼくには、帰る理由が生まれたのです。 カイロにぼくはこう言いました。 「ありがとう。でもね。 ぼくはもう行く時間なんだ。ごめん。」 あれからもう10年になります。 ぼくはいまも、あのときの感動の感覚を忘れられずに音楽を続けています。 崇高な理由は何一つありません。 ただ、音楽が好きなのです。 でも、少しだけ崇高な表現をするのだとすれば。 ぼくが、ぼくらが奏でる音や発する言葉の断片が。 誰かの鼓膜から心を揺れ動かすことが出来るのかも知れない。 ぼくが音楽で感じた、感動という感覚を誰かが感じるのかも知れない。 そんな少しばかりの願いを込めて。 ぼくはこれかも音楽と共に生きていきたいのです。 音楽に国境なんか存在しない。 音楽が世界を変えれるかなんて知ったこっちゃないね。 でも、確実にぼくの世界は変えたんだ。 長文&乱文を最後までお読みいただきありがとうございます。 もしよろしければ現在活動しているバンドと運営している宿のリンクを下記に記載いたしますので、ご高覧いただければこれ幸いにございます。 ◯現在活動しているバンド 小宮山門前ブルースバンド HP 小宮山門前ブルースバンド 初音源1st.THE DEMO PV ◯運営している宿 古民家ゲストハウス梢乃雪 HP 梢乃雪二号館ゲストハウスカナメ Fb 文:たつみかずき X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか? | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/8/28 グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか? Facebook X (Twitter) リンクをコピー グローバリゼーションとは、いかなる現象であるのか? ウォーラステインの「世界システム論」を持ち出すまでもなく、有史以来世界は「グローバル」であったとも言える。それは、アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸に拡散し、その一部がベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に足を踏み入れた頃から、世界は一つであったことは間違いない。 あるいは、ローマ帝国はイングランドからバグダッドまでの広大な地域に住む人々を政治的な支配下に置き、経済面では北アフリカからの安定的な小麦の供給がローマ市内の治安に直結していたという事実からも、古代地中海世界は相当に「グローバル化」していたと言える。 このような世界帝国を挙げれば、モンゴル帝国、オスマン・トルコ帝国、清帝国などいくらでもある。(どうでもよい話だが、当時のイスラムの盟主であるオスマン・トルコ帝国のスルタンの中には碧眼であったものが少なくなかったという。それは、同盟国のフランス王室から妃を迎えていたことが理由らしい。歴史マニアにとってはロマンを掻き立てられる、わくわくするような話。) そして、現代につながる意味でのグローバリゼーションを考えれば、ヨーロッパとアメリカ大陸が経済的に結ばれることになった大航海時代がその契機となっている。南米で産出される銀がスペイン帝国を支えたし、最近まで住んでいたフィリピンはメキシコとのガレオン貿易によって当時の世界経済に組み込まれていた。そして、時代が下がりイギリス帝国はスペイン帝国が行ったような単純な収奪ではなく、自国の工業製品を売る市場としての広大な海外植民地を必要とした。 ところで、大学院で会ったAさんはグローバリズムについてこのように語っていた。 「グローバリズムというと、日本経済再生のための刺激的なムーブメントのように語られるけど、実際は世界中の人がライバルになって競争を繰り広げ、その中で人間の行動や生活スタイルはいつでも、どこでも同じようになっていく。そう考えると、これは結構冷たいものなんじゃないかと思うんですけどね。」 モスクワで生まれ育ち英語が堪能で、日本語を不自由なく操る留学生でまさに「グローバル人材」であるAさんは、クールにグローバリゼーションを見つめていた。 近代的に捉えれば、スペイン帝国、イギリス帝国、そしてブロック経済が引き金となった2度の世界大戦。さらに現代的な視点で考えれば冷戦構造の崩壊による市場の急激な拡大と、新興国の経済発展による世界市場の形成がグローバリゼーションという現象が現出する母胎となった。 では、現代的な意味でのグローバリゼーションは、古代のローマ帝国やスペイン帝国、イギリス帝国と異なる点は何か? 今日のグローバリゼーションは、私たちひとりひとりが世界的な資本の移動と拡大という現象(あるいは自己運動)に個別につながっていくという点にあるのではないかと思う。この現象の拡大の過程で、政治的権力(あるいは国民国家)や宗教的権力などという集団的な行為主体の力は相対的に弱まっていく。 この資本の自己運動はアメリカや中国などの今日の「ヘゲモニー国家」ですら制御不可能なまでに肥大化してしまった。 かつてキリストは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と語ったが、現代は人々の上に神も皇帝も君臨することなく、特定の「顔」を持たない資本の自己運動だけが個人を呑みこんでいく。 市場の成熟と共同体の解体、さらに国民国家からの離陸を通してひとりひとりが社会に向き合う世の中。プロテスタンティズムが「神の代理人」たるカトリック教会を拒否し、個々人が直接神と向き合えと説いた思想は、現代、神の不在の中、皮肉な形で実現しつつある。 これまで何度も触れているが、資本主義の精神(あるいはエートス)の根源をプロテスタンティズムの職業倫理に求めたウェーバーの大著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はこのような一説で結ばれている。 「禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的秩序の、あの強力な秩序界(コスモス)を作りあげるのに力を貸すことになったからだ。」 「この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構の中に入るこんでくる一切の諸個人-直接経済的営利にたずさわる人々だけではなく-の生活スタイルを決定しているし、おそらく将来も、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで決定し続けるだろう。」 (今後、世界中の人々の生活は資本主義という強力な「秩序界」よって好むと好まざるをかかわらず支配され、それはたぶん石油が枯渇するまで続いていくだろう。) 背筋が寒くなるほどに現在の状況を言い当てた一節である。特に「化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで」という表現のあたりは、この本が出版されて100年余りが過ぎている現代においてもいささかの古さも感じない。 ユダヤ教的に解釈すればこれは一種の予言と言えるだろう。その予言とは、自分なりに解釈すればつまりこうだ。 石油の枯渇が決定的となった時点で、その最後の一片をめぐる全世界的な闘争が開始される。それはさながら観察箱の中の増えすぎたコオロギが共食いを始める瞬間のように。その中で一番強いコオロギは「最後の一片」を手にするが、それが燃えつきたとき、そのコオロギも死ぬ。 映画「ワールドウォーZ」では、ゾンビが人を喰らうが、この世界では正気の人間たちが自らの生存をかけて人を喰らう。そのようすは、まさにハルマゲドンであるけれど、最後の瞬間にはメシアは降臨せず審判は行われない。既にこの世界において「神は死んでいる」のだから。 (もし、この中で生き残る人たちがいたとしたら、それは例えばフィリピンの片田舎の山中でグローバリゼーションから「取り残され」、「絶対的な貧困」の中で、バナナを栽培し、鶏を育てて生活しているような人たちかも?と思う。) 「世界の呪術から解放」を標榜したウェーバーだったが、その解放の先に見出したのは、「化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで」機能し続ける「鉄の檻」だったとはあまりにも皮肉で、救いようがない。 凄まじいほどのニヒリズムである(だから、ウェーバー自身も狂死寸前の神経耕弱を経験している)。 そこには西洋近代合理主義の賛美に彩られているとして、オリエンタリズム批判の的となるウェーバーの「正しさ」や「強さ」は、微塵も感じられない。 そして、「鉄の檻」を見出したウェーバーの背後で、仄暗い笑みを浮かべ佇む男がいる。彼の名はフリードリッヒ・ニーチェ。ウェーバーとニーチェとの関係はまた別の機会で触れたいが、フーコーにつけ、ウェーバーにつけ、気になる人物の思想の背後にはかならずニーチェがいる(とかっこつけて言ってみる)。 とにかく、グローバリゼーションとは、もろ手を挙げて賛美できるような代物ではなく、私たちの希望を託せるような夢のシステムでもない。その流れにいち早く乗れば、「より強いコオロギ」としてある程度まで後発の誰かを圧倒することはできるかもしれない。が、それは、自らの手足を鎖でしばりつけ、鉄の檻にはまり込んでいくような行為でるあることも間違いないだろう。 かといって、ウェーバーの予言通り、今更この「鉄の檻」から逃れることはできない。絶対に無理。むしろ何も知らずに、無邪気にグローバリゼーションが現出させるというお花畑を信じこめたほうが幸せだったかもしれないとさえ思う。 であるならば、私たちはいかに生きるべきか。 この問いは「グローバル人材」の育成が声高に叫ばれる日本語教育界にも突きつけられた、そして神経耗弱をもよおすような、抜き差しならない課題である。 と思っているのは僕だけか? X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 細川英雄のインパクトと私、あるいは「時には起こせよムーヴメント」―『研究活動デザイン』(東京図書)の書評のような何か― | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/1/15 細川英雄のインパクトと私、あるいは「時には起こせよムーヴメント」―『研究活動デザイン』(東京図書)の書評のような何か― Facebook X (Twitter) リンクをコピー 日本語教育の世界に実践研究フォーラム (以下、フォーラム)という集まりがある。フォーラムは、2004年に立ち上げられた。当時、委員長を務めていた細川英雄 は立ち上げの経緯に関し、『研究活動デザイン 』に詳しく記述している。その記述を読むと、現在のフォーラムで継承されている下記のコンセプトも、そして、現在、活発に議論されている実践研究という概念も、全て当時の委員会の議論の中から立ち上がってきたことがわかる。 ・誰でも参加できる。 ・やりとりに時間をかける。 ・実践の中身を見せ合う。 ・インターネットを活用する。 当時の日本語教育の世界に上記のようなコンセプトを備えた集まりは存在しなかった。いや、それどころか、この場をどのような場にしたいかというところから議論され、創られた集まり自体がなかったのではないか。つまり、細川を中心とする初代の委員会は、少なくとも日本語教育の世界では、それまでに誰も見たことがなかった場を創ったのである。そして、その場は、多くの日本語教育関係者に受け入れられ、今や、そのような場があることが当たり前のようになっている。 『研究活動デザイン』には、フォーラムに限らず、新たなコンセプトを提唱し、ムーブメントを起こしてきた細川英雄の軌跡が描かれている。(だいたい書名である「研究活動デザイン」からして新たなコンセプトである。)細川が提唱したコンセプトの中でもその中核をなすであろうコンセプトに「総合活動型日本語教育」(以下、「総合」)がある。その「総合」の原点と思われるのが、『研究活動デザイン』で描かれている直接問答法との出会いである。 細川は、1982年夏に言語文化研究所(長沼スクール) で2週間の日本語夏期講習を受講している。その講習で細川は、講師の一人であった木村宗男による直接問答法を用いた模擬授業を見学した。(木村は1982年3月に早稲田大学語学教育研究所を定年退職し、同5月にそれまでの日本語教育実践の集大成として主著『日本語教授法―研究と実践― 』を出版している。) 細川は、今日、日本語教育の世界で一般的に用いられている直接法ということばと直接問答法の違いに関し、次のように述べている。 一般的に、直接法は学習言語だけでその言語を教えるという意味で用いられていますが、そのなかで直接問答法という場合、問答という観点がとても重要で、話し手と聞き手の問答が基本になっているという点に注目する必要があります。(pp.12-13) 要するに、日本語の文脈のなかで日本語を習得させるという点で「直接」であり、そのポイントが問答というやりとりにあるため、「問答法」という名称がついているのです。(p.13) 日本語教育の基本は、話し手と聞き手の日本語による問答である。「総合」は、この細川の気づきから始まった。日本語教育の「基本」を形式の習得ではなく、問答においたという点で当時の日本語教育における(もしかして現在でも?)コペルニクス的転回だったのではないだろうか。その気づきは、木村という戦前の日本語教育を経験している日本語教師によってもたらされた。 細川は、『研究活動デザイン』の中で「総合」に関し、次のように述べている。 個人の問題から社会を見る視点が生まれ、一つの社会解釈論として読めるものとして「書く」活動を展開するにはどうしたらいいか。これがわたしの実践課題だったのです。その手順としては、まずテーマとその動機(どうしてこのテーマを選んだのか)を、次に、その具体的な展開例、インタビュー内容の記述、最後が、テーマの動機に対する結論です。この三つの順序に従って書いていくことを枠組みとして定めました。(p.49) 私は、2004年の春から夏にかけて、「総合」のクラスに実習生として参加していた。その際、「総合」における「対話」(=インタビュー)の位置づけを自分なりに整理するために下記の文章を書いた。 「対話」について 学習者は「○○と私」というレポートを書くにあたり、まず「○○」を決めます。これは、「自分が一番興味・関心を持っていること/もの」です。「○○」が決まったら、「世の中に存在する無数の事物の中で、どうして私は、特定の「○○」に興味・関心があるのか」について考え、その結果を「私にとって「○○」は△△である(から)」という形でまとめます。このプロセスで、「私が今興味・関心があること(=「○○」)が何か」ということは、比較的簡単に思いつきますが、「私はどうして「○○」に興味・関心があるのか」は、簡単にはわかりません。それは、おそらく「自分の興味・関心」は把握していても、「自分の興味・関心の原因」については、考えたことがないからだと思います。 「「私」が「○○」に興味・関心を持つ」ということは、「「私」が生きていく上で、一番大切だと思っていること」(=「私」の価値観)があり、それを実現するために「○○」が持つ要素が必要だと感じることです。つまり、「自分の興味・関心及びそれに基づく具体的な行動の原因」は、「私」の価値観にあるということで、「自分の興味・関心の原因」を考えるということは、結局「私」の価値観について考えることです。 以上のことから考えると、「対話」において語られるべきことは、「○○」を通しての「私」の価値観です。もし「○○」そのものについて話してしまうと、その結果は、対話の相手に「「○○」に関心がないから話せない」と言われるか、単なる情報交換(例えば、「○○」がヨーグルトだとすると、「どこどこのヨーグルトがおいしい」とか「こんなヨーグルトの作り方ある」といった話が続く)に終わるかで、その人からでなければ聞けない話が聞けるということはないでしょう。しかし、「私」の価値観について話せば、(意識的か、無意識的かは別にして)一人として同じ価値観持っている人はいないので、対話の相手からでなければ聞けない話が聞けるはずです。このような自分が持っている価値観とは異なる価値観に触れられた「対話」が、「いい対話」なのではないかと思います。 上記の文章を書いたとき、私は、「総合」とは何かに関し、自分なりに理解できたような気がした。私にとって、「総合」とは、「私」の価値観、すなわち、「私」が生きていく上で、一番大切にしている何かをことばにより表現するともに、他者とのことばのやりとりにより更新する活動である。(「私」の価値観は、細川が述べている「一人ひとりの文化」(p.51)とほぼ同義ではないか。) 「NIHONG eな 」などを見てもわかるように、現在、インターネット上には、学習者が一人で(なおかつ無料で)日本語を学習することを可能にするツールがあふれている。今や、単なる日本語に関する知識の受け取りや日本語運用のトレーニングであれば、教室に行かずして、あるいは、教師から教授を受けずして、行うことが十分に可能である。日本語教師(外国語教師)は、ある特定の場所(例えば、教室)に複数の人間が集まらなければできない実践とはどのような実践かを真剣に考えなければならない時期に差し掛かっている。その答えは、私の中では、すでに出ている。私は、「総合」のような参加者それぞれに固有の価値観をお互いに表現する実践こそがある特定の場所に複数の人間が集まらなければできない実践ではないかと考えている。 最後に『研究活動デザイン』を読むことにより実感した「日本語教育に関する歴史的語り」の重要性を述べたい。私は、『研究活動デザイン』を読み、「総合」の誕生に関し、次のような考えを抱いた。 日本語教育という営みは、戦前と前後で分断されているのではないか。戦前の日本語教育は、植民地支配の先兵としての役割を担っていた。そのため、戦後の日本において、戦前の日本語教育を継承しようとすることは、一種の禁忌となっていたのではないか。故に、戦前の日本語教育実践は、戦前の日本語教師経験者により、細々と継続されはしたものの、組織的に継承されることなく、失われてしまったのではないか。しかし、実は戦前の日本語教育実践の中にも現在に通じる学ぶべき何かがあったのではないか。戦後生まれの細川は、戦前の日本語教育を経験した木村との邂逅をとおし、いわば、偶発的に戦前の日本語教育の遺産を継承したのではないか。 以上は、今のところ、何の根拠もない、私の妄想に過ぎない。私は(そしておそらく「私たち」は)、自分たちが行っている日本語教育という営みがいつどのように形成されていったかをあまり知らない。おそらくその過程には、様々な思惑、出会い、偶然、そして、ドラマがあったはずである。そういった話を先人たちからきけるうちにきいておかなければならない。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- コネで適当に決まった就職がその後の生き方を変えた その4 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 14/1/29 コネで適当に決まった就職がその後の生き方を変えた その4 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 異動、そしてまた異動 先輩たちと冗談をいいながら仕事をできるようになった。いつものようにコピー用紙の段ボールを抱えて運んでいると、バイヤーさんたちが手助けしてくれるようになった。面白い上司をいじって雑談できるようになった。そして気付けば、お茶出しの制度は廃止されていた。入社1年経つころには、確実に自分の居場所ができたと実感できるようになっていた。本社勤務になって9カ月のころだった。 そのころ、ガソリンスタンドを統括している部署で、事務の女性がふたり退職するという噂が出ていた。ひとりは私の同期の入社1年の女性だったけど、もうひとりはベテランでかなり仕事ができると評判の女性だったから、人づてに聞いて、他部署ながら、ああ、大変だなーと思っていた。火の粉?が突然私に降りかかってきた。私がその部署に異動することになった。ふたり辞めるのに、補充は私ひとり?? よく分からないぞと思いながらも辞令は辞令。正式に辞令が発表されて、掲示板に張り出されたときには、今までの部署のひとたちに「行っちゃうのー!?」と残念がってもらえて、そんなこと言ってもらえるくらい成長してたんだなあとうれしかった。 異動した先の業務は、ガソリンスタンドの売り上げの処理や伝票整理など、「私の仕事」というのがあった。忙しいのは五十日で、他の日は比較的のんびり、たまに暇過ぎる日もあるくらいだった。1カ月単位での仕事だったので、最初の1カ月は先輩に教わりながらこなして、2カ月目は自分でやりながら分からないところを先輩に聞いてこなして、3カ月目に入ってやっと新しい職場や仕事にも慣れてきたころだった。ちなみにこちらの部署も最初はお茶出しの業務があったが、私が異動してすぐになぜか廃止された。 今度は経理の出納係の女性の退職の噂が流れてきた。おまけに、入ったばかりの新入社員も辞めるらしい。出納係の人が辞めるなんて、大変だなーと、他部署のことだけど気にしていたら、また火の粉?が私に降りかかってきた。新しい部署でまだ3カ月しか経っていないのに、今度は経理へ。しかも、かなーり重要ポストの出納係にされてしまった。 出納係がなぜ重要かというと、単に現金(小切手を含む)を扱うからというだけなのだが、現金を扱うからこそ誰でもいいというわけではないようだった。コネで入社した私だから、素性が分かっていて信用できると思われたのかもしれない。 簿記も持ってない、経理ってどんな仕事をするのかも分からないまま、出納係の引き継ぎをすることになった。期間は2週間。マニュアルも作ってくれていたが、メモを取りながら、とにかく必死に仕事を覚えた。2週間で、聞ける人がいなくなってしまうのだから。 出納係のいちばんの業務は、交通費などの清算をしに来る人へ現金を渡すこと。出金伝票と領収書のチェックをして、きちんと書けていれば伝票を預かって現金を渡す。書き方が違うなど、不備があった場合は指摘して修正してきてもらわなくてはいけない。イヤな思いをさせないように指摘して、気持ちよく修正してきてもらうというのは、なかなか高度なコミュニケーション能力を必要とする。前任者はとても人当たりが柔らかい人で、本社の人たちみんな一目置いているような女性だった。果たして、私に勤まるのか? 入社していきなり経理だったら、厳しかったかもしれないが、なにしろホームセンター事業部もガソリンスタンドの事業部も渡り歩いた私だったので、他の部署の人たちの人柄などをなんとなく把握していた。それが功を奏した。出納係としての仕事を通して接する以前に交流があったのだから、信頼関係が築けている。だから、不備などの指摘もあまり抵抗なくできた。 2週間の引き継ぎが終わって、ひとりで任されるようになってしばらくは仕事をこなすので必死だった。でも、仕事に慣れてくると、前任者からそのまま引き継いだ机の中が、非常に非効率だと思い始めた。これとこれが関連があるのに、どうして別の引き出しに入っているんだろう? というようなことを多々感じるようになった。前任者は、机の中は上司も把握しているから移動させないでと言っていたけど、それは違うんじゃない? そしてあれこれと、効率的に業務ができるように変えていったら、なんか時間的に余裕ができてしまった。忙しい時期もあるけれど、そうでない時期は定時まで時間が余ってしまったりする。 自分は時間を持て余しているのに、隣のベテランの女性の先輩がやたら忙しそうなときがあったりする。あるとき、先輩に「何か手伝うことないですか?」と聞いてみたら、その先輩は「そんなこと言ってくれたの、酒井さんが初めて!」とものすごくびっくりしていた。え? 暇だから、忙しい人を手伝って当たり前なのでは? 私が経理に配属されるまでは、そういう感覚を持つ人がいなかったらしい。伝票入力など、誰にでもできる仕事なんてみんなで協力すればいいのにと、私なんかは思うのだけど。 先輩に言わせると、前任者はいつも忙しそうでほぼ毎日残業していたそうだ。私は月末は締めなくてはいけなかったから残業もあったけれど、それ以外は定時に帰れていた。人の手伝いをこなしても、定時に帰れていた。私には、残業ができる理由が分からなかった。同じ業務内容のはずなのに、人によって違ってくるんだなあと感じた。 私が所属した3カ所目の部署の経理も、最初はお茶出し制度あった。私が異動してしばらくするとなくなった。これは今でも私の中で謎。「お茶出しなんてやめよう!」と、声高く主張したことなどないはずなのに、無言の圧力をかけていたのか? まあ、自分が飲みたいというタイミングで飲むのが、いちばんだと思うけど。ちなみに、私はよく先輩に「紅茶でいい?」と聞かれて入れてもらっていたっけ。自分で入れろよ、私。 仕事をすることに慣れてきた私は、いよいよ貯まってきたお金の使い道を考えるようになっていった。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 看護師として生きる | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/12/30 看護師として生きる Facebook X (Twitter) リンクをコピー ヅラ。 とりあえず、 学校の時は一つ結びに 残り髪はぐるぐるまとめて 『黒髪カラースプレー』 これで何とかなりそう。 ぐるぐるまとめ髪に かぶせるヅラ付けるのもアリだな。 今で言う 『部分ウィッグ』 ってやつね。 でもさすがに病院実習はそうはいかない。 まずいな。 どうするべ。 うーん…。 そして思いついた。 「全ヅラ(全部カツラ)でいけるんじゃね?」 今で言う 『フルウィッグ』 ってやつ。 さっそく、部分ヅラと全ヅラ購入。 こういう事は段取りが早い。 数日後。 「ピンポーン」 来た、来た、待ってました! 1人暮らしは家族に 「何を買ったの?」 と言われるわずらわしさもない。 ビリビリ、カパッ。おぉーっ! これだ、これ。 さっそく装着。 黒髪おかっぱ頭の全ヅラは やっぱり不自然。 だけど金髪よりマシ ってだけなのに 「イケる!」 と思った私。 この全ヅラの上に ナースキャップを装着。 装着物の上に装着物を装着。 頭がユラユラするような感覚。 「あ、でも大丈夫っぽい。」 ピンで全ヅラ何ヵ所か固定し完了。 「よし、不自然にならないように前髪カットだな。」 残念ですけど今の時点で不自然です。 ならないようにじゃありません。 と言ってやりたい、21歳の私よ。 この先の病院実習の日は 朝起きたら まず髪の毛をスプレーで濡らし オールバックにする。 そして網タイツ様のネットを頭にかぶせ とにかく平らに平らに。 そして例の全ヅラ装着し、 外れないように数ヶ所ピンで止め 実習先へgo! 初日は学生控え室で、 一緒に実習来た子達は苦笑。 落札してるから私が1つ上だし さすがに『変』とは言えなかったんだろう。 先生は絶句。 だけど来てしまったものはしょうがない。 あの全ヅラの下は金髪と言う事も お見通しだったんだろう。 大人をなめてはいけない。 なめてたけど。 そしてナースキャップを装着し、 実習病棟へ行った。 とにかく終始うつむき加減でいたな。 病院は小児科病棟だった。 病棟婦長がとてもさばさばしてて 明るい人だった。 「あなたの髪型おかしいわね。」 って笑いながら言われたのを覚えてる。 「あ、切り立てなんです。」 と、さらっと答えたのも覚えてる。 それ以降は髪型には触れなかった。 内心ホッとしていた。 この婦長は本当にお世話になったから 卒業後にこの病棟に挨拶に行った時、 全ヅラだった事を話したら 大爆笑していた。 「おかしいと思ってたのよー。」 「みんなもそう思わなかったー?」 他の看護師からは白い目。 ですよねー…。 こののち、 看護学校の規定の中に 『カツラは禁止です』 と追加された事は 言うまでもない。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- ストーリーが書けないお詫び… | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 16/7/18 ストーリーが書けないお詫び… Facebook X (Twitter) リンクをコピー 初めて 「母に抱く殺意」を執筆してから、一年以上が経ってしまいました 完全に中途半端になってしまっていることを、読んで頂いた方々に、大変申し訳なく感じています m(._.)m 三年ほど前に、高齢男性運転の自動車に後部からノーブレーキで衝突され、それから緊張型と偏頭痛の混合の慢性頭痛と、バレリュー症候群(目が回る、吐き気、光過敏などの症状)により一年近く働けず静養をしておりました 結局、後遺障害として症状が残り、体調の波が激しく、何とか途中まで書くことが出来ましたが、体調が安定せず、続編が書けずにいます 最近は特に、ひどい二日酔いのような頭痛と、さらに目が回る症状が出やすく吐き気も催すなど、日常生活もままならない日もあり、今しばらく治療を優先したいと思っております 治らないと主治医からも言われておりますが、このままにはしたくないので、必ず続編は書きます 続編が書けた際には、目を通すだけでも構いませんので、読んでいただけたら幸いに存じます X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 対等な関係でさ。 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 15/9/26 対等な関係でさ。 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 友達が、 外国はお客さんと店員が対等な関係なんだよね って言ってた。 わたしはホテルレストランでアルバイトをしてるのだけど、そこで会った友達。時間帯的に朝食をやることが多いので、宿泊されてる外国人の方と触れ合うことが多くある。話し方や取り方、食べ方などからすごく国民性が表れててとても面白い。 その子は専門学校を卒業してから、世界一周旅行にでた。アジア、ヨーロッパ、アメリカ、南米と約半年かけて回っていた。そんな子。 最初に彼の言葉を聞いたときは、正直よくわからなかった。"サービスや物"の対価として、"お金"を交換しているから、いたって対等な関係じゃないかと思っていたから。 でもどうもその言葉が気になって、頭の片隅に抱えつつ生活してた。とりわけホテルで外国人のお客様と接するときはよく観察してみた。そしたらここ最近になってその意味がわかってきた気がする。 客と店員とか、サービスと対価とかは本当は関係なくて。人はみんな対等なんだと思う。年齢も立場も経験も関係なくて、人としての権限っていうか、みんなが人としてのある部分は尊重されるべきと思うんだよね。 だから誰が上とか下とかじゃなくて、挨拶されたら挨拶するし、なにかしてもらったらお礼を言うし、お礼を言われればどういたしましてなんだよ。あと、オートマティックになっちゃだめだよね。人と何かをするときは相手が人であることもちゃんと思い出さなきゃ。 ひとりひとりが自分も他人も、みんなを個人として大切にして尊重することが全てのコミュニケーションの元になることなんだと思う。 接客の時だけじゃなくて、そういう空意味でちゃんとコミュニケーションが取れる空間ってすごくいいよね。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- ロンドンのスタートアップで働いてみたらクレイジーでヤバすぎた | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 ロンドンのスタートアップで働いてみたらクレイジーでヤバすぎた Facebook X (Twitter) リンクをコピー X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- 第百四十三章 いなべ地区の合格判定 | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 15/12/30 第百四十三章 いなべ地区の合格判定 Facebook X (Twitter) リンクをコピー 第百四十三章 「いなべ地区の合格判定」 過去問正解率 学年順位 四日市高校「国際科」 93% 四日市高校「普通化」 90% 1位 桑名高校 「理数科」 85% 5位 桑名高校 「普通化」 80% 15位 川越高校「国際文理」 75% 20位 川越高校 (「普通科」 70% 25位 学校間格差、年度間格差があるので「めやす」にしか過ぎません。「三進連」がなくなったので、三重県には半数どころか1割の生徒が受けているテストさえ存在しなくなりました。 校内順位まで隠蔽されたら、目隠し状態で受験に飛び込むことになります。 将来、国立大学の医学部や旧帝(東大、京大、阪大、名大、九大、北大、東北)をめざす方は四日市高校の国際科順位(上位15%)に入る必要があります。 中学校の校内テスト(中間テスト・期末テスト)で何点をとっているかなど、合否の目安になりません。受験は相対評価なので、順位が全てです。各高校の定員に入らなければ、何点とっても落ちます。 だから、当塾では毎月コンピューターが偏差値、順位、合格判定を塾生の皆さんと保護者の方にお知らせしているわけです。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→
- Google の検索結果(京都大学の英語 添削) | STORYS.JP 人生物語
STORYS 人生物語は、10代〜80代のリアルな体験談を集めたキュレーションサイトです。感動ストーリーを読んで、あなたの日常に共感とインスピレーションを。 17/6/26 Google の検索結果(京都大学の英語 添削) Facebook X (Twitter) リンクをコピー みなさんは、どうやって仕事を見つけましたか?私は、1983年にアメリカから帰国するときは、意気揚々としていて 「名大卒の学歴とアメリカ暮らしで予備校が雇ってくれるだろう」 と信じていました。まさか、名古屋の予備校、塾、専門学校に送った7つの履歴書がすべて無視されるなんて思っていませんでした。26歳で失業し、貯金なし、資格なしのプータローになってしまったんです。 とりあえず、近所の小さなアパートの一室を借りて塾を始めました。 1986年、30歳のときに英語検定1級に合格したのだけれど、印税で食っていくのが私の夢なので、「合格体験記」みたいなものを書かせてもらえないか東京の出版社に企画をいくつか送ってみました。もちろん、全てガン無視。 世の中には、10代で英検1級に合格するようなピカピカの人たちもいるわけだから、30歳のおじさんの妄想につきあってくれる人などいるわけない。 50代で京都大学を受けているときも、「エール出版」のような合格体験記をメインに出版しているところに手紙を書いたみたけれど、すべて返事はありませんでした。私の経験談など知りたい人など、いないんです。 私の尊敬する坂本龍馬は30代で亡くなりましたが、自分がその年齢を越えてゆくとき 「自分はダメだなぁ。何もできない」 と、悲嘆に暮れました。でも、娘たちがいるわけで悲しんでいる余裕はありませんでした。 そのころ、ネットが普及しだしてブログを書く人や、Youtube も一般の人が投稿し始めていたんです。そこしか、自分の研究成果を発表する場がなかったので、ひっそりとブログを書き始めました。 最初は、もちろん、誰もブログを訪問してくれませんでした。そのうち、1人か2人だけ読んでくれる人が現れました。それが普通なんだろうけど、残念無念でした。それで、Youtube やフェイスブックやホームページを連携させて3年ほど過ぎました。 ブログは浮気をして、あちこちやってみましたが訪問者の多いアメブロに絞り、 Youtube の動画も「京大受験」「英検1級」「ジャッキー・チェンの前で拳法」など、検索にひっかかりやすいビッグ・ネームに便乗しようとしました。 そうこうしているうちに、アメブロの「受験生」ランキングで1位となり、Youtube の動画の再生回数が合計で45万回を越えていきました。塾生の子が 「京大受験なんてマイナーなテーマで何万回数というのはスゴイですよ」 と言ってました。ネットに詳しい理系男子だったので、信憑性が感じられ、嬉しかったですね。 先週、Googleで「京都大学の英語 添削」で検索したら、1ページ目の10項目のうち、5項目くらいが私に関するもので、ビックリ。 (1)、塾のホームページ (2)、Youtube 動画(京大二次の採点基準) (3)、アメブロ (4)、Storys (エッセイサイト)「8割を越えるための一考察) 名前を聞いたら誰でも知っている大規模予備校や通信添削大手のサイトが居並ぶ中で、どうしてこんな小さな塾のことが? 「なんか、汚い手でも使ってんじゃないの?」 と思いませんでした? でもね、私はネットに詳しくないから汚い手ってどんな手か知らないんですよ。 大規模予備校のようなマスコミや有名俳優を使ったCMは流せるはずもないもんね。そんな資金もツテもない。田舎の個人塾ですか。無料のネットしか使えません。残念ながら。 でも、お蔭様で検索上位にきてから通信生も通塾生も増え続けているんです。ありがたいこと。大感謝!!京大「医学部」も3人受かりました。 そりゃね、どんなバカでもZ会を8年、河合や駿台の「京大模試」を10回、センター試験も10回受けたんですよ。京大の二次試験は7回受けて、ホームページに成績開示しました。 かなり珍しい経験だと思うよ。だから、読まれるのじゃないかな。 自分は、名大卒だから 「なんで、名大卒の講師が京大受験生を指導してんの?」 と、言われることもあります。なんでか、自分でも分かりません。なりゆき。 捨てられ続けてきたけれど、世の中は“捨てる神もあれば、拾う神もあり”かもしれないね。まだ、分からないけれど。 最近、塾生の子たちが 「マスコミは、あてにならない」 と、言っています。私も、マスコミを相手にしない方がいいのかなぁ。ほとんどの人は知らないのだけれど、京大受験生には多く読まれているようだから、これでいいのかもしれない。 ただ、これでは印税で食っていけない。うーん。 それに金だけの問題でもない。 センター試験で8割を越えて、無事に京大二次試験にたどり着いても、合格できるのは上位の3割ほどの子だけ。英作文がダメなんです。世にある受験参考書にややこしい構文や単語を書けば合格できると勘違いしている。 そんな教師や塾講師ばかり。 でも、私の10年にわたる研究では、そんな指導は間違っているんです。詳細は別のところで書きました。「高木繁美」で検索してください。 「私は英検1級に受かってますよ」 と言っても、信用してもらえない。 「私は京大二次で8割を越えてますよ」 と言っても、信用してもらえない。 「私が指導したら京大医学部に3名合格しました」 と言っても、信用してもらえない。 つまり、何を言っても信用してもらえない。 「だって、あっちは駅前にビルが建っているもん」 「だって、あっちはハイジが宣伝しているよ」 ということ。世の中は、そういうタイプの人が多数派だから驚きはしないよ。私は自分のお客様だけ合格すればいいので、かってに落ちて下さい。そんな生徒を欲しがる大学なんぞ、あるわけがない。ちょっと、気の毒かな。 こうやって、好き勝手書いていたら、読者がどんどん増えているみたい。なんでだろう?たぶん、私が本当のことを書いているからなんじゃないかな。建前やお金ねらいのヨイショばかりの人が多いもんね。 平成18年、20年(文学部) 正解率の平均 66%(受験英語) 平成21年、22年(教育学部) 正解率の平均 76%(資格英語) 平成24年、25年(総合人間) 正解率の平均 79%(ネイティブ英語) きみの学校の先生ね、塾や予備校の先生もそうだけど、 「こう書け。そうすれば、合格できる!」 と言うでしょう?でも、それって実証したの? 「英検1級に合格しているし」 ですか?でも、合格している私が受験英語で書いたら65%でしたよ。 「京大卒だから」 ですか? 京大のボーダーって、65%くらい。そんな先生が 「こう書けば、医学部も大丈夫」 って、おかしいでしょう。医学部のボーダーは8割ですよ。 日本社会というのは、動画の再生回数が45万回を越えても、アメブロの「受験生」ランキングが1位になっても、Google 検索で1ページ目の10項目のうち5項目を独占しても、本を出版させてくれない。 お金がないと自主出版もできない。暴走族講師とか、マドンナ講師でないと本が売れない。そういう国なんですよね。私のようなハゲの暴走老人が何か言っても、 「ハゲー!」 と罵倒されるだけらしい。 でも、最近思うのだけれど、 「私は神様に守られているのかもなぁ」 って。不特定多数の人を相手にすると、以前みたいにモンスターペアレントみたいな人が集まってくる。それって、困る。情報収集に熱心な人だけ相手にしている今の状態がベストなのかもなぁ。 X (Twitter) ←前の物語 つづきの物語→ PODCAST Go Go Go あなたも物語を 話してみませんか? 物語を投稿する→ フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」 情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般... つづきを読む→ 大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。 今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ... つづきを読む→ 受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1 僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で... つづきを読む→ あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。 「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と... つづきを読む→ あのとき、伝えられなかったけど。 受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分... つづきを読む→ ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話 爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと... つづきを読む→ もっとを読む→

