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14/2/26

世の中の癌と呼ばれて 第5回~児童自立支援施設での半年 前編~

Image by Olia Gozha

不良集団を相手に番長になった?!

児童相談所に預けられ、特に問題も無い中、2週間が経過していた。

僕の送致はほぼ決まりかけていた。

通常、児童相談所には短くて2週間、長いと1ヶ月ほど審査される。

この間審査される事は、主に児童あるいは家庭の問題だ。

児童に関しては、心の問題、素行的問題、交友問題などを審査する。

たいていの場合、児童が抱える問題が原因で家庭問題に発展するケースがある。

それは、不良との交友、暴走族などの組織との交流。

根底にはやはり、親からの虐待やいじめ、そこから素行不良に展開している場合が多く、結局どこも親は子供に手を出すものなのだろうと、妙に納得していたところもある。

僕の場合、原因は親だと分かっていたし、素行不良に関しては、親が原因でもなく、自分で望んで不良になっていたところが強いのも分かっていた。

だから、児童自立支援施設への送致はほとんど決まっていた。

送致される前日、送別会をしてもらった。

その時いた児童の数は、20人前後だったと思う。

特に何かを話す事もなく、それでも中には寂しさのあまり泣き出す子もいた。

児童相談所では、僕は小さい子供とも中学生とも遊んだり話していた。

僕は特に泣く事も泣く、ただ児童自立支援施設での生活のことを考えると、期待で一杯だった。




児童自立支援への送致~生活の始まり~



翌日の午後、僕は児童自立支援施設へと送致された。

児童自立支援施設とは、家庭的な問題や、素行不良な児童が収容される施設で、少年院とは違うが、生活や時間、規則正しい中に身を置き、心身ともに更正していけるように教育を施すところで、施設によっては幼稚園児から高校生までが日々生活を送っている。

矯正教育を施す施設であり、自由はある程度束縛されるものの、単に規則正しい生活を送っていなかった児童が、規則正しい中に身を置くだけであり、その点で違和感や不自由さを感じるだけである。

もちろん僕もその一人で、夜9時就寝はなかなかなれる事が無かった事を覚えている。

まずはじめに新入生が過ごすのは集団寮ではなく、夫婦寮(あるいは観察寮とも言う)に行った。

その名の通り、夫婦で児童を面倒見る寮のことである。

基本的には、先生と呼ぶのだが、親代わりの職員である事から、苗字を頭につけ、お父さん、お母さんと呼ぶ事もできる。



当時だと、夫婦で面倒を見ている施設も多かったが、今ではほとんどが夫婦制をなくしている。

この夫婦寮では、やはり審査を行う。

新入児童の学力や、素行性や性格をさまざまなテストや勉強を行い、いくつもある寮のどこに入れるかを審査するのである。

児童自立支援施設には、寮が複数あることが多い。

もちろん、男子寮と女子寮とで分かれている。

各寮にはそれぞれ名前が付いており、松風(しょうふう)寮、皐月(さつき)寮など、寮名を覚える事も必要となる。

敷地が広く、頻繁に施設内で農作業や登校をする際に移動する事があり、道に迷う事もあるからだ。

通常夫婦寮には1週間ほどしかいないが、児童によっては最大1ヶ月いる児童もいる。

僕の場合は、早く集団寮に行きたくて、1週間で編寮できるように、課題や心理テストなどを行った。

基本的な生活は、

朝は7時に起床で、寮内の掃除を行う。この時点で時間は7時半になり、そこから施設内にある食堂から食缶(しょっかん)という、食事を入れてあるアルミ製の鍋を取りに行き、自分たちで配膳し、朝食となる。

家にいたとき親の手伝いをしたことが無い為に、一つ一つ、親のありがたみを実感する事もあった。

それでも親は好きになれなかった。

そして朝食が済むと、食器を自分たちで片付ける。

8時40分の通学に向けて教科書やノート、鉛筆を削ったりと準備をするのであった。

通学時間になると、寮の前に立ち、先生と挨拶を交わし、出寮(寮を出ること)の時は必ず、


「行ってきます」

そして、帰寮(寮に帰ること)の際には


「ただ今戻りました」

と言うのが規則であった。

親元にいたときには、一度も行ってらっしゃい、お帰りの言葉もなく、普通の家庭ではありふれた言葉かもしれないが、「行ってらっしゃい」「お帰り」と言ってもらえるだけで、自分の存在や居場所を感じる事ができた。

それがなんか照れくさいけど、嬉しくて、直に先生たちに心を開く事ができた。


登校したら、同学年のいる教室には行かず、個別教室に行き、各科目の授業を受ける。

国語、理科、社会、算数、体育、図工、音楽、たまに一般の学校ではやらないような授業もあり、なかなか面白かった。

特に、一般の学校で行うような教科書どおりの授業ではなく、教師毎に楽しく授業を展開していく事もある。

だから、施設に入った途端勉強が好きになる児童も多い。

僕はそうではなかったのだが・・・・


そして12時になると昼食になる。

集団寮にいると施設内の食堂に行き、児童も先生も一緒に食べる。

メニューは健康思考でバランスよく、栄養士と調理師さんが作ってくれる。

毎週水曜日と金曜日と日曜日はパンで、ジャムやチョコレートソースなど、普段は自由の制限された中で安定して糖分が取れる。児童はこの日を楽しみにしている。

しかし、観察期間は夫婦寮に行き、先生とマンツーマンでの食事になる

もちろん配膳や片付けも自分で行うことになる。

12時~1時までが昼食そして休憩時間で、その間に洗濯物を取り込んだりもする。

各寮には洗濯機と乾燥機があり、家事全般は児童が行う。

1時になると再び登校する。

午後も授業をし、学年ごとに教室にいる児童は、放課後に部活動がある。

季節により、バレーボール、野球、水泳、陸上部、様々な部活動がある。

後の僕もやる事になるが、児童自立支援施設は日本各地にあり、各部活の種目はそれぞれに大会がある。

それぞれの地方ごとに優勝した施設は、その先に控えている全国大会に出場する事になる。

施設の外では暴走や喧嘩に明け暮れる不良たちは、体力もエネルギーも有り余っている子供らゆえ、僕のいた児童自立支援施設も、頻繁に優勝や準優勝を飾っていた。

また、職員同士のバレーボール大会もあり、やはりその施設では、毎年優勝候補に上がるほど強豪だった。

観察期間の児童は、クラブ活動はなく、基本的に3時には寮に帰る。

帰寮後は、学校からの宿題をこなす。

プリントや漢字の書き取り、様々なものがあり、そして強制的にやらされるのは珠算である。

宿題が済むと、珠算帳があり10級からはじめる事になる。

計算機がある時代に珠算と言うのに不満を感じ、取り組む事には抵抗があったが、毎日1ページずつは全問正解しないと自由時間にならないので、やるしかなかった。

それが終わると今度は夕飯になる。

これも自分たちで配膳から片づけをすることになる。

夕食が済むと、入浴になり、夫婦寮では男性の先生と共に入浴し、コミュニケーションをしながら信頼関係を深め合っていく。

それも済むと、自由時間になり、テレビを見たり備え付けの漫画を読んだり、好きに過ごす事ができる。

8時半になるとおやつの時間になる。

おやつは日替わりで夕食を取りに行くときに一緒に持っていく。

チョコレート類の時もあれば、スナック菓子の時もあり、育ち盛りの子供の体には、早くお腹がすく為に、寝る前にお腹に物が収まるのは嬉しかった。

そして、9時前には就寝準備をし、就寝の挨拶を交わして寝る。

まさに健康な生活だった。


土曜日と日曜日には、外の学校と同じで学校はなく、その代わり「作業」と呼ばれる清掃活動をする。

集団寮だと、寮から少し離れたところにある校舎やグラウンドの周りにある畑や花壇などの除草や清掃活動をする。

日曜日は自分たちの生活する寮の清掃活動を行う。

朝の9時から12時前後まで行い、午後は自由時間となる。

自由時間の際、集団寮では午後に各寮毎に離れの校舎にある体育館やグラウンドでレクリエーションを行える。

バスケや野球、サッカー、好き好きに身体を動かして遊べる。

もちろん、寮に残って漫画を読んだり、テレビを見たりして過ごす事もできる。

寮がある敷地と校舎のある敷地とは途中に道路があり、はっきり言えば自由に脱走もできる。

しょっちゅう脱走する人がいた。

そもそも、少年院や鑑別所、刑務所ではないので、高い塀や有刺鉄線などは無い。

寮のドアにもセンサーはなく、ベランダに出るガラス戸には強固な施錠もされていない。

つまり、規則正しい生活とある程度束縛される自由以外には、これと言って不自由さは無かった。

夫婦寮にいる児童は、午前の作業が終わり次第、寮で一人で過ごす。

この時には体育館などには出れなく、テレビや漫画で時間をつぶす事になる。

それでも、1日中漫画を読んでいると、すぐに読み終わり退屈になる。かといってテレビもあまり面白い番組もなく、気が付くとそろばんをいじり、何故か勉強をすると時間がたつのが早かった。

そして、翌週

僕は集団寮に移った。



「なに眼くれてんだ?」


その日僕は朝会で自己紹介をした。

「今日から集団寮でお世話になります、須ノ内 誠です。よろしくお願い致します」


張り詰める緊張感の中、みな不思議そうな顔で見つめてくる。


それもそのはずで、僕はイタリアとブラジルと日本とインディオの血を引く混血。


つまりハーフで、その当時ハーフの子や外国人の児童はいなかったために、物珍しかったのだと思う。


集団生活の始まりに期待し、同時に約60名ほどの児童の顔が悪人に見えた。


それほど、収容されている子供の顔には家庭問題の深さや心の傷がうかがえた。

集団生活にだいぶ慣れてきた2週間ほどたった日、中学生の児童が

中学生「なに眼くれてんだ?」

そういってきた。

睨んでいた自覚はなく、ただ目が合っただけでそういわれた。

眼をくれる?


その意味も分からずに質問すると、からかわれ、そして喧嘩の日々が始まった。


集団生活では、夫婦寮とは違い、選択、食事当番、それぞれの役割分担が1週間ごとに交代制でやる事となっていた。


配膳の時には、中学生から威圧を受け、配食の量を変えたり、タバコを吸いたいがために、弱い子を使い、先生のかばんからタバコを盗ませたりしていた。

つまり、そういう環境だった。


僕は違った。

僕は中学生に何を命令されても、威圧を受けても、無視していた。

言い返すこともしょっちゅうあった。

前に逮捕されてしまった中学生の先輩が、いつも弱いものいじめはしないで、喧嘩は自分より強い奴としかしない。


その姿を忘れてはいなかった。


弱い子らが威圧を受ける姿に、自分が親から受けていた悪夢の日々を思い出した。

だから、喧嘩した。

ある日も僕に命令してきた。と言うよりはそれは脅しだった


中学生「お前、いい加減に命令聞かないとしばくぞ。クソガキ」

「影でしか弱いものいじめできない奴が偉そうに言うな」

胸ぐらをつかまれた。


「殴るなら殴れよ。俺はお前には従わない。俺は強くなる。だからお前みたいな雑魚は相手にしない」

殴られた。

たまたま先生もいなく、周りには小学生児童と中学生児童がいるだけだった。


僕は殴り返した。

たった一度殴っただけで、相手は倒れた。顔に綺麗にパンチが入った。

そのまま馬乗りになり、また殴った。

相手の鼻からは血が流れ、顔は驚きで蒼白になっている。


周りの中学生が僕を止めに入った。

そして殴られた。


相手は4人。その時が僕には初めての、1人対複数人の喧嘩の始まりだった。

不思議と負ける気はしなかった。と言うよりも、勝ち負けが何かも分からなくなっていた。ただ、


目の前にいるゴミを、排除する事しか考えていなかった。

一人、また一人、倒していく快感を覚えた。

自分の力が年上にも通用する事に興奮していた。

相手が弱いわけではなかった。

中学生は体育の授業で柔道を行っていた。日々筋トレに励む奴らは、力も体格も僕以上のものだった。


ただ、


僕が強かっただけ


負ける気はしなかった


しかし、編寮間もない事で、先生から怒られ、素行性を改善する為にいる事を自覚しないといけない事を説明され、反省する事となった。


反省期間になると、集団生活の寮内で孤立生活をする。


普段は児童全員で分担している洗濯や食器荒いなどは反省者が全て行う。

テレビも漫画も禁止され、ひたすら新聞やチラシで箱を折る日々。


毎日のおやつの時にでるゴミを入れてまとめて捨てるゴミを捨てるための箱で、1日中登校も禁止され、宿題やそろばんが無いのはいいものの、箱を折り続けるのはどこか精神的に覚醒するものがあった。


それは、きっと薬物やお酒なんかじゃ得られないもので、1日中折り続ける箱、指の動き、瞬きすらも忘れる目。


座りっぱなしで硬くなる身体。


その全てがやがてひとつの精神世界に導いてくれる。


今思っても、あの興奮は、あの箱折でしか得られないものなのだと思う。


反省は基本的に3日~1週間

僕の場合、初めての反省であったし、年上の児童複数人との喧嘩と言う事もあり、最短の3日で終わりを迎えた。


しかし、僕はそれ以降ほぼ毎日を「反省」で過ごすのであったが・・・


毛頭、自分が悪い事をしている自覚は無かった。


暴力はいけない事だが、弱いものをいじめる、それこそ「社会のゴミ」を討伐している自覚はあった。


復讐の名目で、就寝後、先生も就寝した後起きてくる中学生による、寝込みを襲うリンチもあった。


そのたび声を出さず起き上がり、殴り倒す。


僕のいた寮は特に素行不良の児童が収容されていた。


みんな、影では先輩や他の児童の悪口を言うが、それを行動する児童はいなかった。


みんな、上手に生きているんだなと思う事もあった。


それでも、目の前でいじめや命令をされる児童を見ると、放っておくことはできなかった。

まじめなんだと思う。根はまじめだから、きっと不器用にしか生きれない自分なんだと思う。


毎日中学生を殴り、負けた事は無かった。


そのたび、反省になる

この頃から特に心理学の本を読む事が増えた。


心理の先生がいて、面接をする時間がある。


心の変動や、主に虐待を受けた子供にのこる、

心的外傷後ストレス障害(通称PTSD)のケアをするためだ。


ここで、心理の先生からの質問は答えることなく、心理について質問をした。

そして、おすすめの本を借りた。

ユング何かを読んだ日には、その深い精神世界にはまり込んでいく事となった。

そして、心理学に興味を持ち始めた。

それまではただ単に外見の言葉や、言動を判断していたのが、心理的な動作、言動、仕草、歩き方、目線、そういった一瞬の変化を見逃さず、人間観察が趣味になった。

小学5年生のすることでないといえばそれまでだが、

そのときに僕はあることを知ってしまった。


「人間は「数字」と「言葉」の中毒者」

言葉と数字

年齢、身長、ボキャブラリー、そんなものでコミュニケーションをしていては、争いも絶えないわけだと、このとき僕は実感してしまった。

さらに本を読むようになった。

本に書いてある事から、作者の深層心理を読み解くのが面白かった。

もちろん、答えなどは無い。

それでも、そうする事でしか、言葉と数字の中毒性からは抜け出す事が無いと思っていたからだ。


それでも、喧嘩は絶えなかった。

だからある決意をした


「ここで一番強い奴を倒せば、俺が一番トップになる」


だから、先生や、児童に聞いた。

「ここで一番強い奴はだれ?」かを。


中学生をまとめ、一番影響力のある奴を倒せば、全ては丸く収まると信じていた。


それが、一番の間違いだとも知らずに。


数日してから、一番強いといわれている奴を知る事ができた。

他の寮の中学3年生だった。


寮同士での行き来は基本的にはできない。

となれば、場所はひとつ、授業と授業との短い休憩時間

学校校舎しかないと思った。


その日は進学受験に向けてのテストを受けている中学3年生は、いつもよりも静かだった。

廊下を走り、教師の陰口を叩き、腕相撲をし、喧嘩で使える技やプロレス技を自慢しあっている普段の騒がしさも無かった。


2時間目が終わり5分の休憩時間になり、行動を起こした。

3年生のクラスに行くと、警戒もせずのんびりしているそいつがいた。



「お前がここで一番強いんだろ?俺と喧嘩しろ。俺が勝ったら弱いものいじめする雑魚をしっかりまとめろ」

いきなりの事で、相手はひどく驚いていたみたいだが、すぐに胸ぐらをつかまれ、殴られた。

ののしられた。さすがに他の中学生がこわがるだけあった。

それでも自分は強い、負ける気はしなかった。

だから勝った。

お互いに鼻血が流れ、目も腫れ、身体の節々が痛かった。

でも、教師が駆けつけ、周りの中学生が、僕一人の責任にし、両成敗にはならなかった。


先生は僕の身を心配し、反省期間を長く設け、相手に代わりに謝り、そして僕は細心の注意を払えと忠告された。

相手の中学生は、地元でも札付きの悪で、鑑別所から送致されたこと。

親がヤクザであり、彼の兄はその組で舎弟をしていること。

施設内の先生の間でも非常に問題児で、頭を抱えているとのこと。

つまり、僕がどんな仕返しに遭うのかが分からないほどに、心配していたのだ。

でも僕は、そんなことは気にしなかった。

と言うより、そんな相手を外にいたときには探せ出せなくて、今やっと見つけたと言う興奮で、先生の心配の言葉など心にも耳にも止まることはなかった。

そして、2週間半の反省期間が終わり、再び登校する事になった日、異変はすぐに分かった。

それまで、中学生の威圧から解放してくれたと感謝してくれて友達になった児童が、無視してくる。


「おはよう!」

友達「・・・・・・・・」


中学生から、僕の事を徹底無視するように言われたわけで、その日から僕は孤立を余儀なくされた。

だから、僕は関わらないようにした。

少なくとも良かったのは、他の児童には何かいじめや威圧はかかっていない事だった。

それで僕は安心した。

どの道、家にいたときにはいつも孤独だった。

学校に行っても無視やいじめはあったし、一人でいる事のほうが楽である事も知っていた。


でもそのときは孤独を好むよりも、自分と仲良くしたほかの児童が巻き込まれるのを防ぎたかっただけ。


無視されるだけではなく、たとえば教科書に落書きをされたり、上履きを隠されたり、鉛筆を折られたりした。


先生に見つかると怒られる。


そういうことをするのは、中学生ではなかった。

命令された児童がしていた。

そういう光景も目にした。

中学生に言われそういうことをしているときは、当人は笑っているが、僕と目が合うと寂しそうな顔をしていた。

所詮、不良と言っても、そんな程度の弱いことしかできないのだと思った。

僕の矛先は変わらなかった。

命令されて従う雑魚ではなく、それを気付いても見てみぬ振りをする先生でもなく、中学生だった。

結局、毎回喧嘩をしては、勝つが、反省になる日々。

とうとう僕は、鑑別所に送致が決まった。

喧嘩に素行不良性が大きな理由だった。

初めての鑑別所は薄暗く感じた。

そして児童自立支援施設と大きく違うのは、窓に鉄格子があることだった。

そして先生ではなく「教官」と呼ばれる留置所の警察と似た格好をしている人がいる事だ。

ここでは主に審判をする為に留置される場所だと言う事を教えてもらった。

小学5年生の自分がそのときの最年少と言う事だ。

留置所に入っている人はさまざまな理由を抱えていた。

暴走族、ヤクザの舎弟、名の知れているような愚連隊のメンバー、ギャング気取りの、つまり雑魚の集団だ。

鬼剃りと呼ばれる、深いそりこみを入れている奴もいたし、刺青が入っている奴もいた。

鑑別所は基本的に中学生~20歳未満のいわゆる未成年者を収容し、審判と呼ばれる裁判のような事を行い、少年院送致、保護観察、児童自立支援施設へ戻すかを審査するところである。

素行不良なケースによっては、小学生でも入檻する場合があり、主に刑事事件や民事事件等の場合が多い。

基本的には2週間収容されるのだが、状況や審判での証拠や余罪の発覚などにより最長1ヶ月までは収容が可能である。

もし余罪や別件での事情聴取などが求められる場合には、警察署に引き渡されることとなるが、僕の場合には余罪はなく、証拠そのものは施設の先生が用意していた分厚い書類により、確認ができた。

基本的には審判に向けて、自分の審判を担当する裁判官や監察官と呼ばれる人が来て、面会と言う名目の事情聴取を行う。

また、審判や証拠に依存がある場合、国選弁護士と言うのを呼ぶ事ができる。

是はいわば特権で、犯罪者や収容される少年あるいは少女はたいていの場合頼む。

自らを弁護してもらい、少しでも罪名や処遇を軽くしてもらおうと思っているのだ。

僕は頼まなかった。

当時だと小学生では少年院にはいけなかったが、少年院に行く事もまったく怖くは無かった。

中途半端に弱いものいじめを正当化する不良なら、相手するだけ無駄だろうと思っていたからだ。

それなら、もっと筋金入りの奴らが集まるところに身を置きたかった。

だから、監察官には、少年院送致を希望したが、それは不可能だと言われ、そして驚かれた。

たいていの奴はそれを拒む。

鑑別所や留置所に入ったとたん、宗教に目覚め、毎朝、そして就寝に手を合わせて祈ると言う。

確かにそんな奴を見た事はある。

要は、少しでも更正している振りを見せようという魂胆だ。

しかし、監察官や裁判官にとってはそんな事お見通し。

本当に反省し更正するやつは、力もなく、ご飯も食べれなくなり、外にいたときの面影は一切ないと言うことも、教えてもらった。

鑑別所でも似たような生活だった、鉄格子が窓にあることを除いては。

あとは、鑑別所では、基本的に居室は一人部屋だ。

これは、地元が一緒の人や組関係の人で共謀して悪さをしないように、と言うよりも、鑑別に入る人はまず人とのコミュニケーションを言葉で行う事が不可能に近いゆえ、暴力でしか対処できない。


つまり、けが人や最悪死人を出さない為の工夫でもある。

僕の場合にはすぐに審査も終わり、少し早めの審判となった。と言っても、最短2週間つまり14日間とし12日目に審判を行ったので、大して変わらない。


審判当日は、朝早くから移動のバンに乗り込み、家庭裁判所に向かう。全国に数箇所しかないわけで、さまざまな地方から審判を受けにさまざまな犯罪や非行を行った少年少女がやってくる。

味気ない部屋に通されると、そこまでかけられていた手錠をはずされ、鉄格子の折の中にあるイスに座らされる。

基本的には手錠ははずされる事はないが、他の少年などがいない場合、争いや喧嘩になることはなく、いわば情けではずしてくれる。基本的にはずす事はいけないのだ。

数時間待っただろうか。

自分の番が回ってきた。名前を呼ばれ、教官に連れてかれ審判質に入室する。

主に行う事は、自分の罪名あるいは鑑別所に送致された原因を自分の口で伝えることから始まる。

氏名、年齢をいえれば伝える。

しかし、そんな情報は既に書類として裁判官の手元に分厚く用意されている。

そして、次に始まるのは、事実確認である。あるいは事件確認である。

何月何日に何をしたとか、誰を殴ったとか、傷害罪に値する可能性があるとか、30分ほど長ったらしく説明され、そして「間違いありませんか?」と言われる事に対し、「はい」と答えるだけである。

そして最後には、何か異存がないか、不満はないか?などを聞かれ、特になければ、「ありません」と答え、最終的に審判が下される。

僕の場合、児童自立支援施設のとある先生の弁護が影にあり元いた児童自立支援施設に戻る事となった。


そのとある先生との出会いが、英語と外国へと興味をさらに持たせてくれたのである。

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