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13/10/29

今のわたしは28才社長みならい。大学時代は社会人みならい。

Image by Olia Gozha


前編でははしょりながらも高校時代のわたしの一部を紹介。

これからは大学生活後半について書こうと思う。


前編でも書いた通り、親孝行も含めて外大の英米学科へ進学。

家から電車で五分のその大学に通う事に決めたわけだが。

再度1から英語を学び直すモチベーションがあがらず。

1〜2年で必須科目のみ24単位を取得し、たった24単位しか持たずに

大学3年生に進学してしまった(逆にダブればよかったのにと今なら思える)

髪の毛はまきまきだったし、なぜか黒かった(不思議なことに)



話はそんな大学3年生直前にさかのぼる。



携帯に「国際電話」の通知。

ああ。Aかと応答すると。Aはこういった。



友人A「なぁ、ゆみ、今のままじゃいやや。うち変わりたい。」


わたし「うちも!なんかでっかいこと、できへんかな!

    一緒にやったら出来そうやんな!」


友人A「今度日本帰ったら東京いこ!」


わたし「今のままで行っても誰も会ってくれへんよな。」


友人A「何かで有名になろ!」


わたし「ブログとか書いてみる?」




という下りで、当時「アルファブロガー」と呼ばれていた友人のまねごとをして

必死でブログを更新する日々。


それなりにアクセスが集まり、ブログランキングでも

あるカテゴリで1位を取れるくらいになっていた。


それをフックにアルファブロガーの集まりのような、

今思えば親も良く、行かせてくれたよなと思えるようなプランを

「善」と信じて、わたしたちは2年の夏、夜行バスで東京に乗り込んだ。






今思えば、ここ。



ん?どこって?

ささいすぎてわからないですよね(笑)



「「アルファブロガー」と呼ばれていた友人のまねごと・・・」



ここから、大きく道が開けた。

ほんとに、1分で決められるような、小さな出来事で、

きっと誰もが、何気なくしている人生の決断の中の、この一瞬。

ここがあったから、今があると思える大切な一瞬になった。



神戸の田舎出身のわたしたちが、初めて、

TV業界、モデル、学生団体(Rちゃん)、学生起業家(Yさん)と出会った。

学生が大学だけにしばられず、いろいろな挑戦をして、

遥かに遥かに沢山考え、当時の自分たちよりもずっと大人に見えた。


そんな未知の情報と経験を

スポンジ(ゼロという意味)の私たちは一滴残らず吸収することが出来た。


今でも、その時にあった方々がわたしのFacebookにいて

たまに笑い話として思い返される、思い出の1ページとなっている。



そんなこんなで、おおきなボストンバックを肩から下げて歩き回った

弾丸東京旅行から、わたしは関西に戻り、相棒は海外に戻った。




それから、考えたことは




今の自分に何ができるか。

何のために、何をしたいのか。




そんな事だったと思う。




今でさえ「学生団体」とか「NPO」とかいろいろあるけれど

2009年、関西の神戸の田舎には、あまりそういうのもなくて。

で、出した答えは「自分で作ろう」という簡単でシンプルなもの。

心から入りたいと思える組織は、自分で作るしかないと思ったのが理由。



それからは目も回るような生活がスタートした。

(単位も24しかなかったし)



元々は、アメリカに戻った親友と、海外の就活生にむけた

日本の就職活動の情報や、海外の学生の活動内容を日本でフィードするといった

情報交換をメインとした活動からスタートしたのだが、

たまたま出会った京都の会社でインターンをすることを決め、

1000人規模のfashionイベントや、就活イベント、

社長と直に話ができ、社長も直接採用オファーができる

「社長と飲み会」というイベントを主催したり。

その片手間に、オークション選手権に出場したり。


気がつけばスタッフは神戸〜奈良・京都まで30人を越え、

みんな意識が高く、成長するってことに対して貪欲な

素敵な仲間たちが周りにそろっていた。

もちろん何人かは去って行ったりもしたけれど。


集めた、ではなく、気づいたらそこにいた。

不思議なもので、まっすぐ正しく進めば、出会うらしい。

「運命のひと」というやつに。


ただ、公務員の両親からは、ひどく否定や反対にあった。

大阪や京都でお食事などがあって、終電を乗り過ごして

両親に「あんた何かのために会ってくれる社長さんあんておるわけない!」

「嘘つかんと遊んどったっていいなさい!」と罵倒されたこともあった。


1週間以内に、協賛金額30万を+しないといけなくて

眠れなくて、気合いの飛び込みをした時期もあった。

(当時のわたしからすると、一生背負って生きて行くくらいの額だった)


優秀な仲間たち(現在ほとんどが起業しているからこれまた凄い)の中で

自分の価値のなさに打ち拉がれたこと。

何もできない自分が悔しくて、必死になって、新聞や、本を読んで、

必死になってスピーチやコミュニケーションの勉強をしたこと。


沢山の人たちに支援され、引っ張り上げられ、積み上げた2年間。


この2年間で経験したことは、「ブログを書く事」から始まった

基盤の上ですくすくと芽を出し、今の私の「自信」の一部になっている。


まずは1歩ふみだすことだ。


と自己啓発本などにも耳にたこが出来るくらいかかれているが

わたしも本当にそう思う。




それから、就職活動だった。

2009年はまだまだ売り手市場で、1人あたりの内定獲得数が

確か1.7くらいあったから、今の就職活動生に

「楽勝だったぜ!」なんてくちが裂けても言えないが。


「楽しかった。」


のひとことにつきる就活だった。



たぶんこんなことすすめたら怒られるけど

グレーのストライプのスーツに、9センチのピンヒールだったし

髪の毛も茶髪だったし、付けまつげもしていた。

なんなら、ネイルもスカルプをしていたりと、それはもう激しかった。

ギャルじゃないと、ずっと否定していたけど、

28歳になった今の自分は、その事実を否定することはできない。。。


わたしは、当時、インターネットに関わる仕事をしたいと考えていて

(どうせなら、成長している市場で仕事をしたかったのと、

 後は、1つめのスキルとして、これから必須になってくるNETの知識が

 どうしても必要なようにその当時思えたのだ)

そのオファーをくれた、大手下着メーカーに務めることを決めた。



3つ行きたい会社があって、幸いにも3枚のカードを揃えた上で

2週間誰にも会わずに自分自身で考えることができた。

この時には、自分で自分の決断を信じる事ができるくらいには

ちょっと大人になれていたんだと思う。



そして、東京にいくと決めて。父親にそう告げ

(相談しなかった私は親不孝すぎるんだけど)

言い方や、親への感謝が足りていなかったくそ生意気な私は

父親にぶっとばされた。



その日の夜、父親が駅前で泣き崩れているところを母親が連れ戻し。

彼が私にいった言葉は一生忘れられないものになった。



「お前は俺の近くにいたらあかん。

 俺はお前の可能性をつぶしてしまうから。

 はよ出て行って、自由にやってみろ。」



そうして、わたしは2009年の4月めでたく(?)

東京に上陸することとなった。



入社時研修で言った爆弾発言は



わたし「3年で辞めて起業したいです!キリッ」



まわり「ええw」



1年おくれたものの、本当に4年後に起業することになったのは

もしニーズがあればまた別途記載していこうと思う。

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Image by Jukka Aalho

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