プロローグ
俺は50歳。コーヒー屋。
店は海の前の最高のロケーション。今日もサーファー仲間が店にやってきてバカ話をして帰って行った。店先には朝から「CLOSE」の看板。「CLOSE」看板が営業中のサイン。知らない人は入ってこない。たまに満席になることもあるが知り合いばかりで気軽なもんだ。
出生~小学校
1967年。俺は広島で生まれた。親は共働きでいつも「お金がない。お金がない。」と言っていた。生まれた直後から親戚に預けられ、そのまま家から遠い保育園に入った。小学校に入るまで近所には友達はいないし園から帰って外で遊ぶということもなかった。そして両親に受けさせられた知能テストというものでIQ135というじつに微妙な数字が出てしまった。その日から両親は「医者になれ!」「勉強しろ!」と言い始めた。小学校に入ると知能指数のせいなのか強制的な家庭学習のせいなのか成績はなかなかのもので5年生のときにはかなりスパルタな塾に入れられた。小学校の5年6年の2年間は学校以外は土日も夏休みもずっと塾。朝から晩まで塾塾塾。これだけやれば受験は受かるだろう。そのまま広島の中高一貫の進学校に合格した。
中高
中学に入ると状況は一変した。まわりは勉強の猛者ばかり。いままで学校で天才と呼ばれてきた子供たちの集まり。勉強しても勉強しても平均点を超えるのがやっとやっと。たぶん元々がそれほど頭が良くはないのだろう。要は中途半端に勉強ができるだけである。気が付けば常に平均以下の平凡な生徒になりはてていた。高校に入ってからも勉強はだめだめ。とても国立の医学部なんか狙えるレベルじゃない。そして17歳。思春期。女子大好き高校生になってしまった。頭の事は色恋でいっぱい。毎日のように街に繰り出してはナンパ。入り浸る喫茶店まで出来てしまいタバコ、麻雀、バイト。もちろん大学受験は大失敗。最終的には2年遅れで地方国立大生に落ち着いた。
大学
大学に入っても色恋癖は抜けない。初日のオリエンテーションの日に隣り合わせになったテツヤという男と仲良くなった。オリエンテーションが終わるなり2人でめぼしい女子に目を付けて、その日のランチにはクラスの女子、マミとカナ、2人と俺たちで仲良くランチタイム。翌日からは俺の彼女がマミ、テツヤの彼女がカナということになっていた。テツヤとは気が合った。2人でディスコにナンパに行ったり。朝までビリヤードをしたり。テツヤの方が俺より100倍イケメンだったからイイ女は全部とられたな。初日のオリエンテーションで隣り合わせになった女子達。テツヤはとっとと他の女に乗り換えたけど俺は根がまじめなのとモテないのとの相乗効果で結局卒業してもマミと付き合った。このころ毎日曜に通っていた場所があった。ビルの1階にある喫茶店だ。ある日マスターに「将来は俺もこんな店がしたいんだけどどうすればいいですか?」と聞いたことがあった。マスターは「こんなのじゃ食えないよ。喫茶店やるんだったらお金稼いでビルでも買って仕事しなくても生活できるようにしなきゃ。このビル俺のビルだから。ハハハハ。」って作り話みたいな事を言われた。でも俺は「なるほど」と思ってしまった。俺は人の言うことを真に受ける性質がある。
就職
大学4年の時に「ウォールストリート」という映画を見た映画では主人公は大金持ちになりかけたところで逮捕されてしまう。証券業界にはチャンスがあるように見えた。ただの映画だ。ただし事実に基づいた映画だった。俺は人の言うことを真に受ける性質がある。気持ちは証券業界まっしぐらだった。
俺が入ったのは投信委託という会社。営業はない。客から預かったお金を株や債券で運用する会社だ。本当は外資系証券に入りたかったんだが全て落ちた。最初の仕事は調査部。企業を訪問して決算予想や新規事業の話を聞いてレポートを書く。それをミーティングでレポートし運用部に伝える。2流の会社を選んだのが正解だったのか仕事ができると言われた。人が1本のレポートを書く間に2本3本のレポートを書き上げた。独自の視点に立ったレポートも好評だった。しかし世は証券不況。夏のボーナスは忘れもしない7万円。ウォールストリートで億万長者を目指していた俺は日に日に失望していた。
ある日、先輩が外資系証券会社の女子との合コンに誘ってくれた。そこで聞いた話は衝撃的だった。外資系証券のマネージャー達は年収1億は当たり前、3億はざらにいるという。これぞ映画の世界だ!さらに話をきいていくと彼らは少なくとも日本の6大学出身。外資系証券に入るために大切なのは学歴だという。地方国立では話にならないらしい。失望した。先にも書いたが俺の仕事は調査部。仕事先で会うのは上場企業の幹部たちもめずらしくない。場合によっては創業社長に会見することもあった。最近のように20代前半の創業社長はいなかったが、なかには30代の創業者もいた。彼らの話を聞いていると共通するワードがあった。
「運が大切」「やらないとわからない」「たまたまうまくいった」
俺は人の言うことを真に受ける性質がある。起業家になることにした。冬のボーナスは3万だった。年が明けると会社を辞めた。とりあえずもっと起業について知りたかったので小さなコンサルティング会社に入った。ここで仕事をしながら企業の準備を始めた。名刺を作って会社のコピー機で印刷した。原本をコピー機に置き忘れた。翌日クビになった。
26歳。しかたがないので起業してみた。社名はパラメックス社。3か月の売上が500円。貯金が尽きたので廃業した。そのまま色々な会社を渡り歩いた。詐欺のような投資顧問。詐欺のような商品先物。詐欺のような電話営業。朝3時から新聞を読む仕事。そして運よく金融システム系のスタートアップ企業に潜り込むことができた。もちろん履歴書は詐称した。この会社、N証券とN証券経済研究所の精鋭がつくった会社で後に東証1部上場を果たす。俺が入社した時は社員10名前後。俺の机がないということで更衣室の端に板を置いて仕事をすることになった。仕事は金融システムの設計。金融の知識があるので採用された。金融知識を駆使してひたすらシステムの設計書をつくる仕事だった。
株式会社X。この会社はすごかった。朝は8:30から仕事をして帰りは毎日終電。土日も仕事をして月の労働時間は350時間以上。ものすごい残業代は全て支払われたのでブラックではない。あっという間に俺の生活は中流階級になった。27歳で年収800万。悪くない。でも起業家ではない。ウォールストリートの億万長者とも程遠い。日に日に俺の気持ちはモヤモヤモードになってきた。この会社で2年働いた。部下もできた。取引先とも仲良くやった。チームを持たないかとも言われた。たぶん上場すればそれなりのお金が入ってくるだろうという予測もできた。でも何かが物足りなかった。
この頃、紆余曲折はあったのだが、大学の時の彼女であるマミとまだ付き合っていた、というか結婚間近だった。マミの両親は地方で小さな会社を経営していた。マミの父親に養子にならなくてよいからウチの会社を手伝わないかと誘われた。チャンスだと思った。俺はマミと結婚した。
地方零細企業
29歳。俺はマミの実家の会社、F株式会社に入社した。いきなり月350時間オーバーの仕事をした。社員は夕方5時には退社する会社だ。一人で深夜まで仕事をした。あっというまに売上が伸びた。俺はすぐに天狗になった。肩書は専務取締役だった。仕事のできない社員の入れ替え。下請けからの脱却。大手の取引先への賄賂営業。社員からも疎まれ。近所の同業他社からも客を取られたとクレームが入った。マミとは口論が絶えなくなった。年が明けてすぐに株主総会が開かれ俺は役員解任された。マミと俺とのプライベートな会社を通して会社の売上のピンハネをしたという理由だった。簡単にいうと嵌められた。それだけ俺の存在が疎まれていたということだ。マミには離婚訴訟をおこされた。俺の人生は振り出しに戻った。とりあえず実家に帰ろう。広島の両親が住む家にもどった。前触れもなく突然涙がこぼれる。日常がふわふわする。下戸なのに毎晩の歓楽街。1か月で全財産を使い果たした。人生が終わったと思った。
再上京
俺の状況を察した知り合いから人が足りないから手伝ってくれないかと連絡がきた。東京のIT会社に再就職した。この会社は自社のスタッフを他の会社に派遣して仕事をさせるというスタイルだった。派遣先でなぜかイジメられた。どうしてよいのかわからなかった。なにがわるいのかもわからなかった。精神的に会社に通えなくなった。3か月で退職した。
30歳になった。井の頭線東松原のアパートに閉じこもった。アパートの目の前にレンタルビデオ屋があった。ロングバケーションを通しで見た。1回に3本しか借りれない。3本みるとさらに3本借りに行く。はずかしさもなくなっていた。部屋には3人掛けのソファーがあった。外から部屋にもどるとそこに誰かが座っている気がした。その人と普通に会話をした。「ただいま」というと「おかえり」と声が聞こえた。ある日郵便受けに「不用品回収します」という名刺大の小さなチラシが入っていた。そのチラシの裏に「この裏面に広告を出しませんか?1枚1円」と書いてあった。頭の中に電光が走った。
起業
広島にいたときに暇なのでインターネットをやっていた。1990年後半である。普通の電話回線を分岐させて片側にモデムという機器をつないでパソコンにつなぐ。パソコンにはインターネットに接続するためのソフトを入れないといけないが、もちろんインタネットからダウンロードはできない。雑誌の付録についているCDロムからコピーするかソフマップに行って接続ソフトを買ってくるしかない。それでも設定が多すぎてなかなかうまくいかない時代だった。
親父に200万泣きついた。なにも言わずに振り込んでくれた。ありがとう。本当にありがとう。1枚1円の広告に「インターネットつなぎます。社内LAN構築します。」と書いた。100万枚を配布してもらった。電話が鳴り始めた。昼も夜も早朝も電話がなる。なんとか食べていけるようになった。これが全ての始まりだった。インターネットの知識は詳しい素人レベルしかなかった。社内LAN構築は株式会社Xの時に多少の知識はあったがこれも素人レベル。月400時間は仕事をした。作業先には分厚い専門書を持ち込んでなんとか仕事をこなしていった。仕事を1つこなす毎にプロフェッショナルに近づいていった。世の中はインターネットブームがブレーク寸前まで来ていた。仕事先でプログラム的な仕事を頼まれることが増えてきた。Xで鍛えられたおかげでシステム設計はできた。プログラミングはできなかった。
準備
プログラミングを覚えるために軌道に乗りかけた自分の仕事を捨てた。といえば格好良いが、朝昼晩と鳴りやまない電話に嫌気がさしてきたのだ。取引先は主に個人や個人事業主だった。一人一人断りをいれるのが面倒でいきなり電話回線をストップした。プログラム専門の会社に就職した。入社日まで少し日数があったので気晴らし、というか、1人でクリスマスと正月を過ごすのイヤで、タイに旅行した。一人旅。バックパック一つ。寝台でチェンマイまで行った。寺院で一人で瞑想した。バスで国内をうろうろするきままな旅。アユタヤという町で日本人に声を掛けられた。「ここで宿をやっているんだけど今晩泊まってもらえませんか?」泊まらなかったけど思った。こういう生き方もあるんだ。まあ人生なんとかなるよな。
プログラム専門会社では社内の新規事業を任された。システム設計はプロだった。インターネットも扱える。LANつまりTCP/IPの知識もプロだった。プログラミングは社内の若いプログラマーに教えた貰った。彼はいつもヘッドフォンをして隣の席にいながらすべてをチャットで済ませようとする。生粋のプログラマーだ。仕事中に声をかけると嫌な顔をされる。前の会社でイジメられた経験からこの類の態度には慣れていた。社長とは気が合った。月350時間以上働いた。残業代はつかなかった。ブラック企業だった。6か月でプログラムの基本は十分に身に付いた。データベースも設計技術はX社で鍛えられていたので言語さえ覚えればあっというまに使えるようになった。準備は整った。
創業
2000年6月。満を期して創業した。月400時間。5年間。強烈に働いた。猛烈ではなく強烈。入院もした。裁判もした。パニック障害。閉所恐怖症。飛行機に乗れなくなった。海外旅行はできなくなった。地下鉄にも乗れなくなった。トンネルも怖くなった。忘年会で社員から「初めて笑顔を見た」と言われた。2度目の結婚をしていたが家庭は崩壊した。長男は俺の顔を見ると逃げるようになった。次男は目を合わせない。そろそろ潮時だった。俺の器では楽天やソフトバンクにはなれないことは明白だった。IQ135。子供の頃にでた中途半端な知能指数。月400時間の努力。自分のベストは尽くした。
転換
高校時代の友人から一通のメールが届いた「会社をやってると聞いたが話がしたい」。会社の内容、売上、利益、諸々話をした。彼は言った「売れるよ」。彼と俺は売却先との交渉を開始した。1年半の駆け引き。ハードネゴシエーションだった。社員の行く末も保証された。金額は25億円。税金を払って残り20億円。俺の中途半端な能力にしては十分すぎる金額だった。これで喫茶店を始められる。
エピローグ
会社を売却した直後に親父は癌で亡くなってしまった。あのとき親父が200万を振り込んでくれなかったら今の俺はないだろう。生きてるときに言うべきだった言葉。「ありがとう。海辺で一緒にコーヒーでも飲もうや!」