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22歳でうつ病を患って、社会のレールから外れてしまった女の人生の話。

Image by Olia Gozha

■スクールカウンセラーになりたい!!


 わたしが大学の心理学部に進学した理由が、これだった。

 当時からあまり真面目なほうではなく、高校も遅刻ばかりしていたわたしは、大学受験のときに学校からの推薦が取れなくて公募で面接を受けに行った。


 そこで、


面接官「大学卒業後は、どんな道に進みたいですか?」

わたし「スクールカウンセラーになりたいです!!」


 と、言ったのだ。心理学に進んだのは、わたしの友人や、母が、心のことで悩んでいるのを良く知っていたから、単純にもっと知識をつけて役に立とうと思ったのが動機だった。



 大学に入学して、友人もできて、しばらくはすごく楽しい日々だった。


 心理学部といえば、どんな子たちがいるのかというと、そこはハッキリ分かれている。


 明るくて気さくで優しい子たちのグループ。見るからに学者肌のグループ。精神を病んでいるグループ。この3つで、わたしは主に精神を病んでいるグループに好かれていた。とはいえ、全員と話すのが好きで、どのグループにも話しかけていたように思う。


 大学3年のとき、わたしはSA(スチューデント・アシスタント)という、学生講師のような立場に応募することになる。大学側から給料も出るし、担当の先生の側について心理学について深く学べるしで、一石二鳥のお仕事だ。

 

 わたしは自信もなく、恥ずかしくて消え入りそうになりながらも面接を受けることに決めた。心理学をもっと詳しく知れることや、お金がもらえることもわたしの背中を押してくれたが、そんなことよりは自分が教えを受けていたときに憧れていたSAという職種をやってみたかったのだ。


 面接後、結果発表までは1時間ほど待つことになった。わたしは「どうせ受かってないのだから、もう結果なんて見ないで帰ってしまいたい」という思いになりながら、ほんの少しの期待だけを胸にその瞬間を待った。


 結果は、


わたし「(名前が)あ、ある……。」

面接官「あるだろ?」


 このときの写真を、いまでも持っているほど、嬉しかった。



 自分の名前から、視線を横にスライドさせていって担当の先生を確認する。

 

 石塚先生。発達障がい者指導が専門の、先生の中でもひときわ異彩を放っていた変わり者の女性の先生だ。思わず笑ってしまって、「嫌なの?」と面接官の先生に突っ込まれたのを覚えている。



■石塚先生は、とんでもなく面白く、とんでもなく繊細な人だった。



 とても不思議な先生だった。


 わたしは、最初の頃こそ緊張して、痛いミスを繰り返していたものの、慣れていくにつれ石塚先生の指導から多くを学ぶようになっていった。


 先生が言うには、「具合が悪い子はそのオーラを発していてすぐわかる」らしい。霊媒師なのか?


 さらに、一人一人の生徒に多くの時間を割いて、授業時間外にも生徒からの相談が多くその対応のサポートも任されることがあった。わたしは、信じられない思いでその様子を見守っていた。どう考えてもなんの得にもならなそうなことを、石塚先生は本気で考えて行動するのだ。


 先生のことをよく知らない生徒のあいだでは「変な先生」で通っていたが、近くに行ってみるとその印象とは違って、どこまでも深い観察眼で、細かく人のことを見てくれる人だった。

 

 そんなある日、わたしは先生に呼ばれた。机の前まで呼ばれて、座るように言われて、少し怯えながらもその指示に従った。


 石塚先生は、にこやかな微笑みをたたえて、こう話し始めた。


石塚先生「竹下さんは、ワークのときも、一番バランスがとれていて、すごく心理に向いてると思いますよ。」

わたし「えっ」

石塚先生「もし良かったら、本気で心理の道を考えてみませんか?」


 嬉しかった。わたしの人生で、ここまで自分を見てくれて、こんな風に導いてくれる人なんていなかった。全力で、期待に応えたいと思った。


(あとから思ったが、このときは期待に応えることに必死で、自分のやりたいことなんて考えていなかったのである)



 だが、心理を志すといってもその道は簡単ではない。


 現在の心理職といえば、心理カウンセラーになるか、研究職に就くかしか王道の道筋はない。そしてそのどちらにせよ、働くためにはなんらかの資格が必要になる。

 わたしが志そうと思っていたスクールカウンセラーや、心理カウンセラーにしても、なるにはなれるが、臨床心理士という資格がないと求人は望めないというのが現状だった。


 そして、臨床心理士の資格を取るためには、大学院卒業が必須条件だった。



■大学院に行くことを、経済的事情から反対される。



 わたしの行っていた大学は私立で、エスカレーター式に上がってくる子も多く、いわゆるお嬢様おぼっちゃま校だったらしい。

 

 心理が好きな子は当たり前のように大学院を志して勉強していたし、わたしもそういうものなのだと信じて同じように勉強をしていた。そんなある日、両親から言われたのだ。大学院には行かせられないよ、と。


 ショックだった。


 いま冷静に考えると、経済的には下流に属する両親からしてみれば経済的に苦しく、普通のことを言っただけだと思う。だが、当時のわたしには理解ができなかった。周りは大学院に行けるのに、どうしてわたしだけが勉強以前の問題であきらめなくてはならないのか、不思議で仕方がなかった。


 実は、わたしは相当に甘やかされて生きてきており、自分が望んでできなかったことがこのときまでなかったのだ。

 やりたいことは全てあきらめずに実行してやってきたし、弊害になるものは存在しないと感じていた。それはある意味、正しいのだが、当時お金の問題だけはどうにもならなかった。


 いまなら、環境がそもそも違うのだから、比べることではないと理解できる。

 だが当時、周りの子は優遇され、わたしだけが省かれてしまったような気持ちになっていた。


 幼少の頃、ジャンケンで勝った子だけが水絵具をもらえて、わたしは負けたのでもらえなかったことがあったのだがそのときも泣き続けた。泣き続けたら、なんと、もらえたのだ。そのときと全く同じ心境だった。

 拗ね続けて、駄々をこねつづけたら、いつかなんとかしてもらえると思っていた。


 結果、どうにもならなくなり、わたしは大学院をあきらめる他に選択肢がなくなった。


 周囲の勧めに従って、就職してお金を貯めるべく就活を始めたが、なにをしていいのかわからないまま説明会の各ブースを彷徨った。嫌いなスーツを着て、嫌いなスカートを履き、嫌いなヒールで歩く毎日だった。


 その1ヶ月後、わたしはうつ病を発症して家出した。



■「うつ病になったから、もう就活しなくてもいい」



 うつ病が判明したことよりも、わたしはもう就活しなくてもいいという大義名分が手に入ったことにホッとした。

 

 仮病なのかと疑われてしまいそうだが、実際には立っているのもしんどくて電車で必死につり革につかまっていたり、常にお腹の調子も悪く食欲も湧かずにスープ一口飲みので精一杯だった。夜も全く眠れず、実は、この当時のことを詳しく説明できる記憶がない。


 とにかくどうやってか忘れたが紹介された病院に一人で行って薬をもらい、両親には何も言わずに家を出て当時付き合っていた人のところへ居候し、バイト先に電話もできなかったので長期休養の旨を伝えてもらって、あとはとにかく休んだ。


 このとき、ホッとしたのは一番最初のみで、あとは地獄のような日々だった。


 朝から夕方まで眠ることと、夜は泣くことと、その他の時間はひきこもって漫画を読むか文章を書くかしかしていない。一応、居候の身なので最低限の家事はさせてもらっていたが、買い物のために外に出ることさえ怖くて仕方がなく、人目を避けるために俯いて歩いた。


 このとき、わたしの自尊心は地に落ちた。生きている価値なんてあると思えず、あまりのしんどさによからぬことも考えたが、それも怖くてできなかった。


 この療養期間は、なんと2年以上も続く。


 その間に、99%の人間関係は失われた。まともな社会生活が送れない人間の側に、身内以外の人はいなくなるのは当たり前のことだけど寂しくもあった。

 なにより寂しい瞬間は、久しぶりに友人たちに会ったときだった。空白の2年を過ごしているあいだに彼女たちだけが先へ行っていて、わたしは時間が止まってしまったような感覚を覚えてしまう。

 友人にも会わないように、心がけた。


 居候をやめて実家に帰ってから両親の理解を得るため試行錯誤したり、大学を卒業するためには卒論を書かなくてはいけなかったため周りに多大な迷惑をかけながら、なんとか書き上げ卒業した。とにかく必死過ぎた大学4年生を乗り越えて、わたしはめでたくニートとなった。


 ニートになると、さらに社会から遠のく。


 わたしはすっかり不貞腐れて、座るところ以外なにもないぐらいに荒んだ部屋で、ひたすらネットゲームをするような生活をしていた。正直なところ、うつ病のひどい時期に比べればまだゲームを楽しめるだけいい、とすら思っていた。


 そんなある日、とある動画を観ることになる。

 

 その動画は非常に怪しい配信者が、「現実はとらえ方によって善にも悪にもなる」と説明しているだけの15分ほどの動画。その考え方が、わたしの心を強く揺さぶった。


 

わたし「そういうことか!」



 昔からそうなのだが、コツさえ掴めばなんでも習得が早い。


 わたしは、これまでのわたしの考え方がどれだけ、自分にとってもったいないことだったかを知った。


 どうやら人生は、考え方しだいで良くも悪くも変化する。


 翌日から、さっそく本を読み漁った。

 これまで活字なんて読んでこなかった人間が、突如、月に10冊のペースで読書をし始めた。それだけではなく、書いてあることを片っ端から実行した。


 その動機は、とても単純だった。


 なぜ、わたしだけが、こんな人生を歩まなくてはならないのか理解ができない。悔しいし、「仕方がない」という理由ではあきらめられない。


 大学院をあきらめられなかったのと同じ理由で、わたしは人生をあきらめられなかった。


■現在、わたしは26歳。



 あれから、3年が経過しようとしている。


 わたしはいま、個人自営主として心理に関わっている。


 というと聞こえはいいが、「やりたいことをやりたい!」と追求した結果、なんとも宙ぶらりんな状態だ。


 それでも、自分の存在価値がわからなくて、やりたいことを悩むことさえできなかったあの頃よりずっといい。やりたいことをやっていいよ、と自分を肯定してあげられるのは、とても幸せなことだ。


 うつになって人生をかけてまで壮大に駄々をこねた結果、わたしはこうしてやりたいことをやれている。

 と、しておこうと思う(笑)



 動画を観てから、今日まで、1日も欠かさずに考えて調べてきた。わたしの考え方はどうか、そして幸せとはどういうことか、そのために何をするか、お金はどうやって稼ぐのか、うつはどうやって改善するのか。


 ひとつひとつ、考えて、ゆっくりではあるが実行をして、いまわたしが「うつ病です」と言っても誰も信じないくらいには回復した。


 歩くときに俯くことはない。なぜなら、姿勢は良くしなさいと本に書いていて直したから。

 毎晩泣いたり、よからぬことも考えることはない。なぜなら、心のことをよく理解したから。


 すべて、わたしがやってきたことが、いまのわたしを作ってくれている。


 本に書いていることをそのまま実行するなんてばからしい、と言われたこともある。だけど、わたしには他に頼る術もなく、やれることもなかった。

 やれることだけをやってきた。結果、わたしはこうして健康に生きることができている。


 まだまだ、社会復帰しましたなんて胸を張れるほど、自らの事業で成功しているわけではない。


 それでも、社会に対して何か、役に立つことを見つけられた。

 一人じゃ、なくなった。


 たったそれだけのことが、とても嬉しい。



 こうして文章に起こしてみて、起業の知識なんてなかったどころか、うつ病でロクに人と会話もできなかったような人間が、約5年で起業するまでになったのだと気付けた。


 良くやったね、と言ってあげたくなった。


 自分のことを褒めてあげたくなった(笑)


 ストーリーにまとめたことで、わたしの断片的だった記憶が繋がるのがわかった。


 ここまで読んでくれて、本当にありがとう。



 もし良かったら、わたしのブログまで遊びきて、「こんな風になったの?」と笑ってやってください。


http://takecchi67.hateblo.jp/


 大学のとき、石塚先生につけてもらったあだ名、たけっちとして。その教えを忘れずに、心理に関わって生きています。


 もし、過去のわたしと同じような経験をして共感できる人、興味が湧いた人は、気軽に話しかけてみてね。


 つながりがあるだけで、なんとなく安心したりするもんだからさ。


 ありがとうございました!

 

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