
2016年末、私は約7年間お付き合いしてきたスマートフォンを、捨てた。
「捨てる」つもりなどなく、はじめは「無くした」つもりだった。
スマートフォン。
「他者との通信」「情報入手」「自己表現」の手段である素晴らしき相棒。
無いまま3ヵ月。
「捨てた」と書いたのは、自分の意志で、やめているということ。
なのに時々、歩きスマホする人を責めるどころか、
羨むような気持ちに気づいてしまう。
無い という状態になって初めて「依存」という言葉が脳裏をかすめた。
薬物の依存から復帰しようとする人の
「今日一日は、使わなかった」という言葉がある。
スマホから離れた今の私の精神状態は、おそらく、薬物依存者のそれによく似てる。
スマホのない一日一日の積み重ね。
破綻しそうで破綻しない、危なげな日々。
出会いのきっかけ(2010)

私がスマホを初めて手にしたのは2010年。
当時勤務していた広告代理店の同僚に
「10年後は皆、スマホだよ」
と言われたことがきっかけだった。
新しいもの好きの同僚が多いなか、
わたしは芸術や文化が好きでその業界に入ったアナログ人間である。
機種変更の際、スマートフォンは候補に入れていなかった。
その凄さが、よくわからなかったのだ。
ただ、私はミーハーで、影響されやすい性格でもあった。
「10年後は皆スマホ」その言葉が耳から離れず
当時最新のiPhoneを手に入れることとなった。
「新しいもの好き」ではない人も、「遅れをとりたくない」とは思っているものだ。
ちょうどその半年ほど前からだろうか。
東京で働く私には、それまでに感じたことのない不思議な現象、
現象というより予感、予感というよりノイズのようなナニカ、が聞こえはじめていた。
リーマンショックから東日本大震災までの中間地点のような時代。
それは音というよりは雰囲気のようなものだった。
私しか知らないはずのナニカを、皆が知っているような。
知っていながらも、知らないふりをしているような。
それは、単に新卒から飛ばして働きすぎた私の脳が壊れていたのかもしれない。
少なくとも私は今までそう理解していたし、それで間違いないのだけれど。
振り返れば、世の中にFacebookやtwitterが出現した頃だった。
そのネット上に芽生えたざわめきやさえずり、といったものが、
私の耳や目や皮膚を伝って脳内に流れ込んだとも言えるかもしれない。
常にアンテナを張り巡らさなければ、という業界使命のようなものもあり
深夜残業中に会社のデスクトップパソコンでtwitterを眺めていた。
それまでもSNSというものは存在していた。当時の最強は mixi。
その後 mixi は衰退し、twitter や Facebook から LINE へと移行していく。
その違いは「日記寄り」のSNS(mixi)から、
「通信手段寄り」(FacebookやtwitterからのLINE)になったことかもしれない。
つまり「知らない人に見られていることを想定」すべきものになり、
その知らない人たち、の心の中のかすかな信号を拾ってしまったのかもしれなかった。
私はある朝、奇声をあげて奔走した。
気づくと、その頃大阪にあった実家の部屋に寝ていた。
家族はすでに年老いた父だけ。
私は知らぬ間に警察に捉えられ、
父は私を東京まで迎えにきて連れて帰った。
私は不服だった。
体力的には辛かったが、若い私に仕事はとても刺激的なものであった。
東京という都会も。
夢に描いた社会人生活を叶えた、と思っていた。
それが、台なしになってしまった。
それは自分の行動が原因だったが、
そうなった理由が理解できずに、嫌悪感だけが残る体験。
拘留所の机で弾けもしないピアノを弾いていたことは覚えている。
どうしてピアノだったのだろう、といまになって思う。
私は実際に聞こえもしない音を聞いていた。
完全に狂人である。
とにもかくにも、すべて無かったことにする!
会社をやめて、大阪に戻って暮らしはじめた。
その頃には正気を取り戻していたが
東京で起こったことは受け入れ難く、恥ずかしかった。
なので、付き合う人を変え、何ごともなかったかのような顔で生きることにした。
もともと、ほぼ結婚が決まっていた、
大学時代からの恋人との遠距離覚悟で出た東京だった。
その恋人は私が東京に出て半年もしない間に好きな人ができた、
ということでとっくに別れていた。
先輩いわく、そういう人を置いて、女子が東京に行くこと自体がすでに狂気であるらしかった。
もっというと「10年後は皆スマホ」と言ってきた同僚は上司、というか恋人だった。
社会に出て初めて付き合った、あまりに好きすぎた人だった。
その人も、狂人と化した私に恐れをなして、別れた。
その頃の私はそれでも付き合えると思っていたのだが、
何度かの別れのオファーに対し私が納得しないのをみて、最後に
「今すぐ出て行かないと、殴り殺す」
ということだったから、驚いて、もう二度と会わなかった。
いま思えば東京暮らしで唯一得た、実態のあるもの。
それが、iPhoneだった。
それから、関西iPhone生活。
7年間に5回、ハードを更新した。
多くは故障や水没による更新だったけれど、
その度に新しい機種は発売されていた。
すごい。
その進化は徐々なるものだったし、田舎出身の私が気づく頃には、その「すごいこと」のほとんどが当たり前のことになっていたから、明確には意識することはなかったが、
スマートフォンは、ばかみたいに、すごかった。
たとえば、「アドレス帳」。それまでは機種変ごとに入れ替えてもらっていたのが
iCloudによって自分で入れ替えるという形になっていた。
それは、はじめは面倒に思えたが、
ガラケーのように「連絡先を一挙に無くす」ことがなくなることを意味していた。
その後、LINEの登場で、
もはやその入れ替えの必要もないのだった。
出会う前の人生(1994-2010)


私は1984年、高知県で生まれた。
いまブレイクしている平野ノラがもっているショルダーフォン。
あれは1985年にNTTが発売した初の携帯電話だ。
つまり、私の人生の年表を作れば、携帯電話の歴史と時代的にほぼ完全に合致する。
1994年、通信各社は「買切型の携帯電話」を発売した。そのとき10歳。
この頃、世間ではポケベルの全盛期。同郷の広末涼子が連日のようにテレビCMに出ていた。
当時は、電話機はもちろんポケベルを携帯した小学生などおらず、(父は持っていた)
そのかわり私は常にテレカや10円玉を持たされていた。
小学校が終わると、公衆電話から自宅の母に電話をした。
当時、高知の公衆電話は、ボタン式ではなく、数字のついた金属板の穴を回す形だった。
電話をするとすぐ母は赤いBMWで私を迎えにきた。
亡き母は1人っ子の私に、これでもか、というほど習い事をさせていた。
ピアノや習字、スイミングに公文、などなど。
どの習い事も憂鬱だった。やらされていたのだ。水泳以外はほとんど習得できないままやめてしまったが、わずかな時間でも母に会えること、迎えにきてもらえることは嬉しいことだった。
ある時、たしか、そろばん教室のあとのことだ。
外は夏前の夕暮れ時で、空はあわ赤く、日本昔話みたいにカラスが鳴いていた。
私は母を待つことに退屈してしまい、周囲を探索してみることにした。
いつどこに行くにも車に乗せられていた私はすぐに迷ってしまった。
家のある方角だけはわかっていたのでその方向に歩きだした。
周囲に人気はなく、そうするしかなかった。
しばらくすると見覚えのある大きい通りに出てくることができた。
時間的に母は私がいなくなってすぐ、いつもの場所に到着したのだと思う。
つまりその時点で母と私はすぐ近くにいたはずである。
しかしお互いに見つけることはできない。通信手段が、ないのだ。
日頃、車で数分でいける距離はとてもとても遠く、坂はのぼるほどのびていくよう。
私は泣きべそをかきながら、30分から1時間ほどかけて家まで帰った。
当時、我が家は一軒家を新築したばかりで、二階の玄関を開けると作業中の大工さんとはちあった。
恥ずかしさと母に会えなかったかなしさで、
私は「こんにちは」すら言えずにすぐに三階の部屋にかけ上がった。
ほどなくして母が帰宅し、強がりだった私は何でもないようにふるまったが、つながらなかった心もとなさと、会えたときの安心感が混在したなんとも言えない思い出として記憶に残る。
あの頃、スマホがあれば、私と母は家ではないところで出会えていただろうか。
スマホを使いこなせない現代の子どもは、あの頃の私のように心もとない気持ちを味わっているのだろうか。あるいは、味わう機会はあるのだろうか。
何にしろ、あの日、私と母は新築の我が家で再会した。
携帯電話を与えられたのは、中学生になってから。1997年から2000年頃の話である。
その頃、私たち3人家族は事情で一軒家を売却、関西で母と二人暮らしをしていた。
父も同じ関西に来ていたが、単身赴任で週末に帰ってくるという生活。
とにかく友人とメールをすることが楽しい時期だった。
それまでの娯楽は、テレビ、ラジオ、漫画、小説などだったが
会うこと以外で「つながる」ということの喜びがあり、
同時に、「返信しなくては」とか「返信がない」ということが悩みにもなった。
1999年には 「iモード」「EZweb」など、携帯電話からのインターネット接続サービス開始される。
当時「お悩み解決館」というサイトを携帯電話でよく閲覧していた。
実際に悩みを投稿することはなかったが、自分と同じような悩みをもつ人がいることで安心し、癒された。「出会い系サイト」が出てきたのもこの頃で、登録だけして遊んでいた。自分ではない自分になれるのが楽しかった。
一気に知らない人と出会える世界が現れたのだ。
数年前までは、母と出会うことも難しかったのに。
私はどっぷりと入り浸り、母に通信会社からの高額な請求書を支払わせたりした。
そんな母は、郷里を離れたことや、携帯依存娘との二人暮らしのストレスからか、
高校を卒業してすぐの2003年。病気で亡くなってしまった。
このあと、私は大学生となり、卒業後に前述の広告会社に就職する。
2004年から2010年までの7年ほど、いわゆるガラケー生活をしていた。
この期間、私はダンスサークルに所属し、踊っていた。
とにかく踊ることしかしていないといっても過言ではない大学生活だったが
私の人生の中で最も心穏やかで充実した時間だった。
とくにスマホがないからといって不便はなかったし、連絡方法は、メールのままで十分だった。
すでにデスクトップやノート型パソコンは一般的で、持ち歩きはしないものの、インターネット社会は完成されていた。この頃に、出てきたのがmixiである。
大学生ということで、時間があるので、好きな友人と好きなだけ、興味のあることに没頭できた。
いつでもどこでも全世界と繋がることができる今よりももっと、つながりを感じながら生きていたように思う。
一緒にいた日々(2010-2016)

不本意に東京から戻ってきたあとの、2010年から2016年の11月までの約7年、
私は学習塾の教室長をやったり、
すぐに辞めてニューハーフがたくさん勤務する都会のビルの一室のBarでお酒をつくったり、
店長に殴られたり(殺されはしなかった)、
大阪の中企業の広報室で正社員として銀行員のような制服で働いたり、
行きつけのBarのオーナーと付き合ったり、
でも父が末期の肝臓がんだと分かって、別れたり、
父の本格的な介護をしたり、
喪主をしたり、
遺品整理や実家の引き払い、
仕上げに手伝ってくれたたくさんの方々にお礼をしたりした。
その間、私はずっとスマホと一緒だった。
ただ、具体的なiPhoneとの思い出をいますぐに浮かべることができない。
スマホなしではほとんど乗り越えることができないことばかりだったような…気がする。
スマホとの別れ(2016-2017)

そして2016年の11月。
この頃になると私は生活の多くの面において、スマホを最大限活用できるようになっていた。
広告代理店に新卒で入社したときにはまだ知らなかった、「インターネット検索」という機能を最大限に活かし、わからないことや面白そうなことを発見すればすぐに調べた。
地図の読めない女で苦労していたが、初めていく場所でもGoogleマップの位置情報アプリを使って、約束の時間内に簡単に目的地にアクセスできるようになった。
たまにではあるが、手に入りにくい商品があればネットで調べ、スマホ注文もした。
日記はメモ機能を用いたり、気軽かつ頻繁にSNSにアップした。
特に私のTwitterのフォロワー数は1000人を超えている。
実際に会ったことのある人のみ友達にしているFacebookでも200人以上の友達がいる。
おそらく同じアナログ生まれな人間の中でも、うまく使いこなせている部類だと自負するまでになっていた。
影響されやすい人は適応も早いのかもしれない。
私の周りでは上記のことすらままならない人も多く、その代わりに私がその場で調べたりしてフォローする場面もあった。
なにより最も、使いやすいと感じていたのはLINEである。
それまでのメールよりも格段にコミュニケーションをとりやすく、心理的な壁がない。
グループで通話することも可能で仕事上の会議をすることもできる。
人との通信手段として最大限に利用していた。
しかしあるとき、私はあるLINEグループ、それもとても近しい関係性のグループから抜けたい、
と思いはじめた。
それは抜けたい、というようなやわなものではなく、
「縁を切りたい」というような強い嫌悪の感情だった。
ダンスチームにも所属していたし、グループ活動は苦手ではない私が、である。
しかも父の看取り介護をしていた直近の2年間、心理的に多大なるお世話になった、
中学からの友人Aとその彼氏を中心にした会だった。
父が亡くなってからも仲良くしていたが、そのカップルの破局をきっかけとして、
私はなぜだかものすごくうんざりしてしまっていた。
とにかく、わずらわしかった。
無視をすれば良いのだが、なかなか毎日、スマホは鳴り止まない。
濃すぎた関係性と、仕事や恋愛がからまっていた。
父の他界、という人生の大きな節目でお世話されたために、自分の中で日々生まれる黒い感情を
我慢し、無視していた。
結局、適当に理由をつけて脱退した。
が、とくに1人ひとりに著しく問題があるわけではなかったので、グループを抜けたあとも、一人ひとりと連絡を交わしたりしていた。
そんな折、私はまた突然、壊れてしまった。
こんどは入院。
その際にどこかにスマホを捨ててきてしまった。
私はまたしてもすぐに正気をとりもどした。
入院するということで通信会社に緊急停止してもらい、1ヵ月、考える時間ができた。
なにもかもを無くしてしまった。
気分はそれほど悪くなかった。
この状態から、何を手にいれよう。
これから手に入れるものは、自分が「ほんとうに必要としているもの」のはすだから。
スマホ断ち後、すぐ欲しいもの

入院中、久しぶりに公衆電話を使った。
会社の事務の女性に必要なものを持ってきてもらうためである。
紙とペンと読むもの。
寝食と日用品が保証されていれば、入院中はこれだけで十分だった。
同じ病棟の人たちもすこし変わっていたが、いい人ばかりで、癒された。
外出の許可が下りると辺りを散策し、家にも帰った。
誰もいなかったが、両親の遺骨とノートパソコンが待っていた。
会社にはMACのデスクトップパソコンがあった。
スマホを捨てたとはいえ、スマホの痕跡はほぼすべてデスクトップパソコンに残されていた。
LINE、Facebook、TwitterなどのSNSが変わらず使用できるため、私がアクセスしたい人と、連絡することができるのだった。
あの世の両親とはもちろん連絡はとれず、
直近で入れ込んでいた友人には連絡する気も起こらない状態だった私だが、
連絡を取りたい人が1人だけ、いた。
それがQだった。
Qと初めて出会ったのは2014年の年末。
環状線の駅からすぐのバルで、彼はピアノを弾いていた。
父の病気が発覚した年の年末だった。
彼は4歳年下で同じ業界で働いていたこともあり、話が合った。
もっと話がしたかったが、父のこともあり、早々に私は帰った。
LINE交換はしていたが、その後、ほぼ2年間、連絡しないままだった。
私が入院する前の月に、私から再度、連絡するまでは。
入院する前の月、私はそのバルのイベントに参加する準備をしていた。
友人Aはそのイベントで歌いたいとのことでピアノを弾ける人を探していた。
ピアノときいて、すぐにQが浮かんだ。
Qという子がいる、とは伝えてしまったが
2年前から不義理をしていたし、AとQの音楽は相容れそうになく、
それぞれにその好みが変わる様子もなさそうだったので、はじめは断った。
しかしAはだいぶんとしつこかった。
ということでわたしはしぶしぶQにLINEをしてみた。
すると、Qはそのイベントに別の形態で参加することがわかり、Aは諦めた。
近々彼が所属しているジャズバンドのライブがあることを知り、声をかけた手前、私は出かけていった。
ライブはとても良いものだった。
彼のバンド以外はプロというような話もきいたが、わたしは彼のバンドの演奏に感動した。
帰りに、Qにささやかな花束を渡すと、後日のイベントでお返しにハンカチをくれた。
その後、Qは例のグループ関係の悩みをきいてくれたが、私は突然の入院で音信不通になってしまった。
彼からすれば、2回目の音信不通である。
久々に会ったとき、私はまだ入院中で
彼はダニエルウィリントンの白い文字盤の時計をしていた。
それをほめると、黒い文字盤の方もほしい、ということだった。
同じ種類の時計の色違いを欲しいなんて、すごく変わっていると思ったと同時に
私も腕時計がほしいな、と思った。
私の病室には時計がなく、困っていたのだ。
それにその腕時計はすてきだった。
それで病院に帰る前に一緒に買いにいった。
ダニエルウェリントンの黒はなく、代わりに私はクラッセ14の黒い腕時計を買った。
私が退院してからも、今でもときどき、まだ、彼はダニエルウェリントンが黒い文字盤の腕時計が欲しい、と言っている。
ほんとうに、そこだけ、よくわからない。
とくに無くしてもいないのに。
私の退院を待たずして私たちは付き合うことになった。
退院前に手に入れたのは腕時計だったが
退院してすぐに欲しいと思ったものがデジカメだった。
それからすぐにヨドバシカメラでソニーのサイバーショットを買った。
ちなみにスマホカメラとの機能差はズームができることくらいだ。
中学生のころ携帯電話に、広告会社を辞めるときにスマホに、出会うまで
私は時計もカメラも嫌いだ、と思っていた。
いや、違う、今でも好きかどうかは疑わしい。
でも、スマホ断ち、という私の個人的プロジェクト発令中のこのタイミングで
時計とカメラを欲しいと思ったことは不思議に思う。
私にとってスマホとは何だったのか

腕時計とカメラに関しては思うところがある。
腕時計に関しては、物理的に腕まわりになにかをくっつけている、ということがまず苦手であり
心理的な面では時を「忘れさせてくれない」ものだ。
楽しいことはいつも、時を忘れさせてくれる。
私は小学生のころから思っていた。
それはおそらく、ひっきりなしに習い事をしていたことも関係するかもしれない。
中学生のころ、教科書で出会った辻仁成さんのエッセイの中で
「自分は時間にとらわれたくないので腕時計をしない」というようなことを書いているのを見て、
これだ、と思ったのかもしれない。
しかし、携帯電話をもつようになり、特に好き嫌いの感覚が消えていった。
時間を携帯しているのではない、電話を携帯したら時間がついていた。
カメラについては、スマホをもった当初すぐに便利だと気づいた機能だった。
私はもともと写真を撮ることも撮られることも好きではなかった。
レンズを向けられると何か特別なポーズを採らなければという気にもなる。
それが面倒だったし、勝手に世の中のものを撮ることに対しても、そんなことはないのだろうが、申し訳ないという思いがあった。
一方でパーティなどでその場にいたはずなのに自分が写っている写真がないと残念にも思うのだった。
実際はカメラへの苦手意識から、自らレンズから逃げているのに、おかしなものだ。
ガラケーのカメラとスマホのカメラと何が違うのかというと、保存データのありかだ。
ガラケーの場合、ブログにアップしたり、当時まだ力のあったmixiに保存するのがせいぜいで、データとして残すためにはデジカメが主流。
しかし、スマホはパソコンに接続できる。
取捨選択なし、否応なしに写真は保存されていった。
これは迷惑というよりは画期的なことであったように思う。
たまに保存された写真を見返すと、ああこんな事もあったな、と懐かしく、消えてしまった日々が蘇る思いがした。
それまでは日記を書くなど、意識的にしか日々は残せなかったが、
スマホは本当に何気ない指の動きで日々を保存してくれていた。
わたしにとってのスマホは「時計とカメラの苦手克服機」だったのかもしれない。
そして、現在。

しばらくは時計とカメラとQの存在で十分だった。
なので2017年の1月、iPhoneを正式に解約した。
違約金が1万円とすこし。残っている本体料金も、毎月2000円弱払っていかなければいけないが
解約できて、すっきりした。
完全に別れてからの自分の心の動きも確かめたかった。
私はいま、父のしていた自営業を引き継いでいる。
それはいつ仕事がなくなるかもわからない、不安定なものだ。
介護にほぼ全てのお金を使ったので遺産もない。
ただ、父の使用していたガラケーが解約なしに残っていたので、
Qや友人とはそれを使って、番号メールで連絡している。
インターネット接続制約をしない契約の携帯電話なのだ。
自分の部屋の中にいるときはSNSも使える。
Qとの出会いの場所であるバルの人たちもみんな、良い人だ。
2017年がはじまってすぐ、女友達のKと二人で2泊3日の台湾へ旅行にでかけた。
Kはスマホを持っていたが、「あまり得意でない人」でwi-fi接続などに手間取っていた。
行きたい場所が異なることもあり、二日目は別行動をした。
地図はもっていたもののiPhoneがないせいで、自分が今いる正確な場所はわからなかったが、
デジカメで写真をたくさん撮った。
ここに載せている写真はその時に撮ったものだ。
これはスマホがあれば、撮れなかった。
道がわからず彷徨うことなしには出会えなかった風景。
それは確かな事実。
でも。と私は思う。
スマホを持っていたら、もっと有意義に過ごせたのではないか、と。
明確な目的地があるKと違い、私は、街の雰囲気をみたかった。
夜にホテルで話をきくと
Kはスマホを駆使しても目的地まで相当に迷った様子だった。
もし私にスマホがあり、2人で行動していれば、Kはもっと効率よく彼女の生きたい場所まで行けたと思う。
ただそれが、私の本意であったかどうかはわからない。
誘われた私は台湾に行きたい思いもあったが、久しぶりにKととも話したかった。
でもそれは2日間、同じ部屋に泊まっていたので、それなりに叶っていた。
KはKで迷ったことでより思い出にもなっただろうし、同じ旅行客との出会いもあったようだった。
結局、どちらが良かったか、などわからない。
こんなことを考えていたら、
「好きなこと」「やりたいこと」がわからなくなってきたのだった。
それが今の状態である。
自分のペースで、自分の頭と心で思考したい。
それは当然なことのはずだ。
スマホはそれを助けてくれていたように思う。
わからないこと。
目的地までの道。
時間。
日記や写真。
人とのつながり。
それらは私を夢中にさせてくれた。
スマホがない今、私はそれを意識的に、
また面倒な方法で、求めなければ、得ることができない。
でもその面倒こそがまさに面白いことであり、
それ以上に面白いことなど無いのかもしれない。
実際人に会う、ことのように。
「常につながっていたい」という願望と
「常につながっている」ということに対する恐怖。
その間でさまよっている。
シムフリーのタブレットを使えば、
今までより年間7万円ほど安く、「常につながる」状態にできることも、わかっている。
わかっているけれど…
今日1日だけ、つながらないでいる。
ただひとつ。
ここで文章を書くこと。
その機会ができたこと。
それが良かったことだと思っている。
そうまさに、この文章で気づきたい。
誰よりもまず、自分自身に気づかせたいのだ。
