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16/8/17

50年生きてみて ①

Image by Olia Gozha


1966年8月28日



新宿歌舞伎町の


ラブホテル街の一角にあった病院で 生まれました




血液型 O型




算命学のことは詳しくわかりませんが


ド真ん中に「調舒星」というのを持っているそうです



メンドクサい象徴 のような星らしいです(笑)




両手に K(空気)Y(読めない)線を持ってます


左手に 仏眼があります






父の死後


明らかにされますが

母ひとり 子ひとりの環境で育ちました


キリスト教の私立の幼稚園に通っていました



小学校も キリスト教の


私立の小学校でした


学校内に教会があって



毎日 お祈りの時間 というのがありました


家でもお祈りは日課で

夜眠る前には 必ず窓際に座り


ロザリオを手に持ち


天に向かってお祈りをしていました



その時に使っていた お祈りのための絵本は


今でも わたしの目の前の本棚にあります




小学校は


ひとりでバスで通っていました



家に帰って来ると


毎日のように 目の下にクマが出来ていた と

母は言っていました


いじめられて泣いた証拠 だったと



その涙のあとが 帰って来る間の排気ガスによって

黒くなっていたらしいのです



小学校3年のときに


公立の小学校に転校しました




母は飲食店を経営して


昼間は喫茶店


夜はスナックという感じのお店をやってました




そこに来る男性のお客さんに


母が 優しくしたとか しないのとか で


父がいつも 勝手にヤキモチを焼いて


母を責めていました




ガラスのグラスを 母に投げ付けたこともあったようで


それによって

母が傷を負ったこともありました


わたしの目からしても

まったくの 事実無根だったと思いますが


父にとっては


客商売の範疇を超えているように

見えたのでしょう…




ヤキモチを妬きたかったんでしょうね




そのあと 生まれた街


新宿に戻りました



父の暴力に耐えられなかった母が

逃げるようにして引越しした と 記憶しています


でもまぁ 結局 引越し先がバレて


転居先にも父が来てましたけど ね(笑)




中学校も ほぼ転校生扱いだったので

どうにかして なじもうか と

13歳の少女は


無意識に戦略を練っていたのだと思います



入学当時


"山口百恵と 二文字違い の 山下瑞恵です" と


自己紹介したことを


今では健気にさえ感じます




そんな なじもうと努力していた13歳の少女は



初めて男女交際というものを経験しました


その中学で

最初に男女交際をしたカップルということで


まわりの友達から



「原点O」(当時の数学で使われていた言葉) と呼ばれ


男女交際の先駆者となっていました(笑)






中学2年のとき


父が亡くなりました



旅行先の韓国のホテルの部屋で


パジャマ姿で


バルコニーから外を眺めていて


そのまま亡くなったそうです




ホテルから その姿を見て 出掛けたひとが


ホテルに帰ってきた時も

同じようにバルコニーに座って

外を見ている


まったく 朝と同じ格好だったのを不審に思い

ホテルの従業員に知らせたところ


亡くなっていた ということでした


苦しまず

おだやかに


やすらかに旅立ったことがわかります




母の連絡先が書いてある紙が置いてあり


ホテルから 母に連絡がありました


そして その時に

母から色々なことを聞かされました





父が韓国人であったこと


わたしが韓国人と日本人のハーフであること


父には別に家族がいたこと





ひとりっ子だと思っていたわたしには


年の離れた兄弟がいたこと






青天の霹靂のオンパレードでしたが


悲しみの絶頂にいる母を前にして

動揺してはいられませんでした






それから 約30年間



自分の出生の秘密を

ごくごく限られたひとにしか 話して来ませんでした


かなりの疎外感を(勝手に)感じ続けていました






そんな 中学生の頃


テレビのCMで流れていた言葉で


自分の将来の仕事を決めていました



それは PARCOのCMで

薄暗いモノクロの とがったような


それでいて もの悲しい感じのする映像で


船頭さんがひとり

少女を乗せて川で小舟を漕いでいる映像でした


川は二股に別れていて


一方に小舟は進んでいきます




少女の顔がアップで映し出され


その時のキャッチコピーが





「 こ れ は 母 と 別 の 道 」


…というキャッチコピーでした





わたしは そのCMに強烈なインパクトを感じて

CM というものの虜になっていました


そのキャッチコピーも

今考えると


母への強すぎる気持ちが

母とは別の道に生きたい という反動と


オーバーラップしていたのではないかと感じます




その頃の母は と言えば


朝から晩までとにかく働いて働いて

帰宅するのは


いつも 夜の11時頃でした






料亭でお運びさんの仕事をしていた母は

冷たくなった残り物の天ぷらを


おみやげに持って帰って来てくれました


料亭の天ぷらは


衣が特殊で(笑)


春雨を細かく切ったものが衣になってて

針のような衣が 冷えて固くなって





食べる時 痛かったのを 覚えています






PARCOのCMに 衝撃を受けてしまった わたしは…

広告業界に進むことを

既に決めていて


それも 広告に関係する仕事で




「デザインをする」 と 決めていました



なので


わたしが目指したのは


公立で唯一

『デザイン科』があった高校でした


中学生の頃に見ていた

PARCO の CM に

わたしの中ではセンセーショナルな衝撃が走り


将来の仕事を広告業界 と決め

しかも デザインをやる と決めて…


そして 公立で唯一 デザイン科がある高校を


受験





した    





のはよかったんですが


ちょこっと偏差値が足りなくてですね

デザイン科に入れなかったんです

_|‾|○





デザイン科を落ちたらどうなると思います?


欠員がある科に

半ば強制的に行かされるんです


その 強制的に入れられた科は…

んと






     機 械 科 




男子80名 女子6名(女子は全員デザイン科落ち)


こともあろうに機械科って

ねぇ…


どんなバツゲームだよ って感じですよ


もう 最初から劣等感での高校生活スタートです




デザイン科って

校舎まで別で

作業服までちょっと違うんですよ


なんか もう 差別です(笑)


都立の機械科って



・本人がどうしても機械いじりしたい か


・家が町工場で跡取り息子が来る か

 もしくは


・普通科に入るアタマがなくて

 どうにかこうにか引っ掛かるところがあって

 そこが 機械科だった




的な感じになるわけです


そんな中の 女子6名


ちょっと「うらやましいじゃないですか」って


思った方も もしかしたら居るかも知れないけど

その 6人の中に



まぁ 突出した美形の子がおりまして ですね


ミスコンに出られるよ ってくらいの ね



とにかく


機械科にマブい女子がいる って

他の科からも見に来るくらいの


その子に

女子的なチヤホヤは




みーーーーーーーーんな 持ってかれてました(爆笑)



デザイン科には行けないわ


毎日油まみれで旋盤回したり


溶接やったりするわ


作業服はダサいわ

(作業服を着せられるところがもう そもそも ね)


高校は古くて 刑務所みたいだわ


まったくチヤホヤされないわ で(笑)



暗黒の3年間だったわけです が


まぁ そこは順応していけるもので


しっかり絶え間なく 彼氏もいましたし


バイトに明け暮れたりで



振り返ってみれば

溶接とかも出来ちゃうし(一度もやってないけどw)


なんだかんだで楽しかったです




PARCO の CMで衝撃を受けて

広告の仕事


しかも デザインの仕事をするって決めて


意気揚々と高校受験したのに…


ショボ過ぎる理由で機械科になり



わたしは 考えました




機械科の就職斡旋は

クルマの会社が結構あって ですね




「そっか このメーカーのCMのデザインをさせてもらうために

広報に行けばなんとかなるんじゃないか」 と


思ったワケです


んで


日産自動車のディーラーに入社したのです

一部上場企業です


まぁ ちょっと いいですよね♡

親も喜んでたし



そして

入社式終わって


配属先を言い渡されたとき


わたしの夢は またもや遠くなって行きました




「山下さんは 営業所向きだから(*´∀`)」




…という配属理由で 都心からかなり離れた

営業所の


"事務の女の子" として


配属されることになってしまったワケです



わたしは

広報に入りたくて

この会社に入ったんだよーーー


なのになんで


わたしが「営業所向き」だって

なんでそんなことがわかるんだ(#`皿´)

(わかるのです(笑)


もう…

どうしてくれよう!!! って感じで


その 営業所の所長さんに

わたし ずっと言ってました




「わたし 本社の広報に行きたくて この会社入ったんですよねぇ(;´Д`)y─┛」




優しい所長は


「そうだよな そっかそっか 本社行く時は

必ず人事に掛け合ってみるから

もうちょっと待ってろな(*´∀`)」



って 言ってくださって


本社で所長会議がある日は


必ず 帰って来てわたしに報告してくれてました



「今 広報に空きがないんだって(;´Д`)」 とか


「山下さんはココにいてもらわないと って言われたよ(;´Д`)」 とか


「広報に来てもデザインは出来ないらしいぞ(;´Д`)」 とか




今思えば

ほんと ありがとうございました って感じですよね


営業所の皆さんは

唯一の女子であるわたしを

それは可愛がってくれましたし



免許を取る時も

毎回 会社が運営する教習所まで

クルマで送ってってくれましたし



とてもとても 楽しかった



…のですが




どうしても あきらめきれなくて

就職して2年を待たずに 退職することにしたのです



だって



やりたい仕事が出来ないんじゃ

ここに居てもしょうがないじゃん って


ハタチの頃からそんなんだったんですね わたし(。-_-。)


今 書いてて気付きます(笑)




そして 退社したものの

デザイン業界 甘くないっす


わたしは 高校もデザイン科に行けなかったワケで


そのあと デザインの勉強をするために


専門学校に通ったワケでもない


母に そんなお金使わせられない って

思ってたんでしょうね


大学なんて選択肢にもなかったし


早くお金稼いで


家に少しでも負担をかけないようにしなきゃ って

そういう気持ちあったんでしょうね




というワケで

気付けばデザインの「デ」の字も知らない


ただ

デザインの仕事がしたい って思ってるだけの



言ってみれば



勘違い女 ですわな(-_-;)

今も昔も


イタイ子 ですわな(-_-;)




普通の求人には

"美大 もしくは デザイン専門学校卒業者のみ" という会社しかなくて

仕方なく


デザインの専門学校に行くしかないのか と

名門学校の受験をするも





   落ち


(悲惨だよね)




とにかく 働かなきゃ と思って

バイトを始めたのが




人生初の いわゆる水商売 だったワケです


舞台は 新宿歌舞伎町


お誂え向きです(‾▽‾;)




思えば

いろんなバイトしてきましたよ ほんと


16歳の頃からバイトしてましたからね


高校の時だけでも

6つくらい バイトしたかなぁ…


働く場所には事欠かない 新宿 でしたんで

ほぼ 徒歩圏内のバイト先でしたけど


丸の内のビアガーデンでも バイトしたなぁ

その時は 同級生が10人くらい

そこでバイトしてて


部活みたいで楽しかった



20歳を超えて

いわゆる 初の 水商売


@歌舞伎町  (‾▽‾;)


人の世の裏側を 見ることになるワケですが…



バイトはいくつもしてましたけど

歌舞伎町でバイトするのは 初めて だったのと


飲食店でのバイトはいくつもしてましたけど


そこは



ちょっと 今までの感じとは違ってて


和服を着て 高級しゃぶしゃぶをお出しする仕事 だったんだけど


いやぁ・・・・・・・・・・・

衝撃的だったなぁーーー



あ 言っておきますが


パンツ穿いてました


ノーパンしゃぶしゃぶ ではありません




バイトしてるのはみーーーんな若い女の子 でね

お店に入ったらまず和服に着替えるんです


ぜーーんぶ着付けしてもらって

わたしたちはただ 立ってるだけで


着付けしてくれるおばさん達が キレイに着付けしてくれる


着たい着物も毎回自分で選んでよくて


お客さまの注文にはすべて答える



例えば

"みずえちゃん 一緒に飲んでよ" と言われれば



カウンターでずーーーーっとそのお客さんのお相手をする




日本酒の大吟醸を初めて飲ませてもらって


"フルーティだろ?"


"これが 大吟醸っていうんだよ"



飲み口がいいんで

クイックイいっちゃって(笑)


いい気分になって ゲラゲラ笑って


それでも まったく怒られなくて


お客さんは喜んで帰ってく…



かと思えば

個室に女の子3人くらいつけて


すべての給仕をさせられる というパターンもあって


20歳のムスメは いろいろそこで勉強させてもらいました



まぁ そこのメニューの金額って ホントに見たことないような金額の料理ばっかりで




「ああ… 世の中には こういうものをこういう金額で食べることがフツーの人もいるんだ」って

つくづく思った



そんな 自分の日常とは別世界の場所で


日々楽しく働きながら


デザインが出来る会社を探し てはいたものの

通常の求人ではなかなか見つからず

イチかバチかで 職安で探してみた




そしたら



経験不問 という 広告会社が一個だけあって


その会社に

藁をも掴む気持ちで面接に行ったのです…



その会社は


わたしが生まれた病院の目と鼻の先



…ということは 歌舞伎町(笑)


しかも ラブホテル街の一角



会社のあるビルは

1階がラーメン屋で ワンフロアに1企業って感じの9階建てのビル

エレベータ脇の郵便受けをちらりと見ると


そこには



○○興業 という名の

893の事務所が 3つくらいある


マジか…

と 引きつつも



自分のやりたい仕事が出来るという

はちきれんばかりの胸のワクワクが抑えきれず

約束の面接時間に その会社のインターフォンを鳴らす


中から出て来たのは 感じの悪い不健康そうな男性



「あ… 面接の人? 面接そっちのドアから入って」


「あ はい」


わたしの返事もロクに聞かないうちに



「しゃちょーーーーーー 面接の人来ましたーーー」



「おおおおおおおおお 入ってーーー」



ドアの向こうから

どデカイ声が聞こえてくる


面接で何を聞かれたのかよく覚えていない


ただ 覚えているのは



「今まで どんな会社にいたの?」


「日産です」


わたしが です の 「す」 を言い終わるか言い終わらないかくらいで



その人は



「日産!!!!!!!! 採用!!!!!」


…と 大笑いして


わたしの採用を その場で即決した




わたしは 前職を日産で勤務していた という理由で

その広告会社に採用された


その 広告会社の社長であった

N氏(その方はわたしの人生のかなりのウエイトを占める大恩人である)は


日産自動車の 元コピーライターであった



縁は異なもの

味なもの



もう それしか言いようがないのです




そして 入社1日目 当日


わたしは 深夜を越えて

その会社にいました




なぜ?????


ただ 平行の線を描く それだけのために 徹夜です(;´Д`)

しかも


徹夜は それ以降3日続きました



B3の紙に 三角定規をふたつ使って

平行の線を何本も何本も描く


ただ それだけ


ただ それだけのことが出来ない 自分



情けないやら


なんで新入社員にこんな不当な勤務をさせるの! と


腹立たしいやら


切ないやら


もう いろんな感情の中


ただ ただ 平行の線を描く




真っ白いB3の紙が だんだんグレーになっていく


そして 先輩に見てもらう




「ぜっんぜん ダメだね」


その繰り返し




そして 4日目の 朝

ヘロヘロになりながら 倒れるように先輩のデスクに置いたB3の紙


先輩は


ひとこと




「おつかれ」




そう言って 初めて笑ってくれました


「ちょっとさ 家帰って 着替えて来いよ」


「少し寝てさ」



初めて優しい言葉を掛けてもらいました




この会社は 歌舞伎町にあった とお伝えしました ね


お土地柄 というか

そのビルならではのエピソードがたんまりあるんですが


まず 発砲事件 これも2.3回ありました


あと それ系の話で

今でも笑えるのが




エレベータで 頻繁に93の方と相乗りになるのですが

上から降りて

また 93の方とご一緒になりまして


1階に着いて


若い衆の方が上にあがろうとエレベータを待っていた




「兄貴!お疲れさまです!」


「おう」


「彼女さんですか?紹介してください!!!」


…という会話が始まり

3人で目を合わせ



兄貴 と呼ばれる方が


「ぉぃ!バカっ!!! カタギのお嬢さんじゃねぇか!」


「失礼だろ!謝れっっっ!」


弟分さん アワ吹いたようになっちゃって



2人の方にそれはそれは丁寧に謝られたんですが


わたしは  新宿で育ってますんで


おっかしくておかしくて



エレベータの扉が閉まった瞬間爆笑しました



本当に 毎日いろいろなことがあったビルでした




そのあと ここ会社で約10年勤務するわけですが


わたしは次々にターゲットを決めて

自分の中で

その相手と勝負していきました


もちろん


自分の世界だけの話です



その相手に

「次 オマエな!」 


とか

言うワケではありません(笑)



勝手に 自分の中で そのひとと勝負するのです



作業の速さ


デザインの斬新さ


トリミングの正確さ


全体的なセンスの良さ


ひとりひとり 相手によって違います



仕事が早いひと とは 仕事の速さで勝負する


デザインが突き抜けているひと とは デザインの斬新さで勝負する


写真の扱いがうまいひと とは 写真に気を遣って勝負する


自分の中だけの話ですが

しかし 自分の中だけで充分なんですが


その勝負



ぶっちゃけ 向かうところ敵なし 状態でした




戦って勝つ 戦って勝つ 戦って勝つ の繰り返し


自然と自信に満ちあふれてきます




世は 超バブル



人生の大恩人であるN社長は


とんでもないお給料を支払ってくれました



なので またわたしも一生懸命頑張っちゃう(笑)




N社長には 本当に本当に可愛がってもらいました


ほぼ毎日飲みに行くのですが

ほぼ毎回 わたしを連れて行きました


そして 酔いが回ってくると

昔懐かしい8トラックのカラオケで

歌のリクエストが入ります





「やましたぁぁぁーーーーー オマエの歌はいいねぇぇぇーーー」 と




そんなN社長は


新宿の街を歩くと ある筋の方から直立不動で挨拶をされる というひと でした




わたしが その会社で ただひとりだけ

絶対に勝てなかった… というか


箸にも棒にも引っ掛からない

足元にも及ばないひとが


ひとりだけ いました



いわゆる 遊び人

だけど



クリエイティブディレクター


会社でいちばんの実力者



でも 遊び人(笑)



ジャニーズ級の イケメン



着てるスーツは ほぼ ヒューゴ・ボス(HUGOBOSS)


クルマはBM


出社は いつも大体お昼前頃


それから打ち合わせの電話を数本して



ぶわーーーーーーーーーーーーーって仕事して


しかも 早くて何もかもがウマイ


センス 超一級



で…



「本屋行ってくるわ」 と


"紀伊國屋" って白板に書いて さーーっと出て行っちゃう


それから まったく帰社せず

夜遅くなって帰って来る



その時



「これ みんなで飲んで」 と言って


ビールを差し入れに買って来る




何一つ 敵いません(笑)




Aさん というんですが

とにかく やることなすことカッコよすぎた



そのひとだけには



どう頑張ったって勝てなかった



でも



その後 彼は独立して自分の事務所を立ち上げたんですが



その時 


片腕になって欲しいと言われた時は



なんだか 最高に嬉しかったですな





その頃 長男を出産することになるのですが



あ 最初の結婚のことを書いてなかったですね






続きは また書きます






50年生きてみて② に続く


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