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塾の宿題を全くやらなかったのに合格した中学受験

Image by Olia Gozha

 ※最初に注意しておきますと、塾のカリキュラムとは別の独自の勉強法の紹介とかではありません。勉強しなかったけど成績良かったよっていう単なる私の自慢話です。

 私は中学受験を経験している。中学受験が流行りだしたころで、埼玉の県庁所在地に住んでいた私の周りでもクラス(約40人)で4~5人程度は受験するような状況でした。都内ではもっと受験する人も多かったのではないだろうか。実際、自分が中学に入学してから数年で、大手の進学塾が埼玉に多く進出してきている。

 通っていた塾は南浦和にあり、当時の南浦和にある塾のなかでは最大規模の塾である。現在もまだ存在しており、順調に経営はおこわなれていると思われる。現在では南浦和から始まったような雰囲気は一切ないが、たしか塾業界では初めて株式上場をした会社であり、大手学習塾チェーンの1つといってよいであろう。通っていた塾は、(株)栄光が展開する栄光ゼミナールである。私のころは、南浦和が本校で、校舎も13号館とかまであった。今では考えられないが、現在、西口で塾が入居しているビルのほとんどは栄光ゼミナールの教室であったのだ。南浦和の中学受験といえば、このころは栄光ゼミナール・山田義塾・TAP(一部が分裂してサピックスになる)・あづま進学教室といったところが鎬を削っており、この中で、私の母は栄光ゼミナールを選んできた。大人になってから考えると、四谷大塚準拠の進学塾では、南浦和で最大規模だったからなのか。小3の3学期に入塾したが、小3の時点で6クラス程度あったように思う。

 中学受験を目指すような進学塾はお決まりの入塾テストがある。当時の栄光ゼミナールにもありまして、私も受けさせられた。覚えているのは、まだ小学校で習っていなかった問題が出題されていて、算数で満点を逃したことだ。(ちなみに正三角形と二等辺三角形を答えさせる問題で、まだ、特別な三角形を習っていなかった。しかし、まあよく覚えてるな。それだけ悔しかったということでしょうか。)無事に入塾テストで合格点をとり、最初のクラスは2組(上から2番目のクラス)でと言われた私ですが、習い事の曜日の都合(1・3・5組は月・水、2・4・6組は火・木で水泳が木曜に入っていたような記憶が…。)で、3組スタートとなる。1組に入れてくれとゴネてみたが、1組は入塾テストで満点とるようなクラスなのであなたの点数では無理みたいなことを言われ、子供ながらに「なめんな、すぐに1組にあがってやる」と決意した記憶がある。まあ、そんな感じで入塾することになったのである。

 もともと勉強や宿題などというものは、小学校であれば授業中に終わらせ、長期休み中の宿題も最終日にどうにかするのが当たり前のクソガキだったので、塾に入ってからも言わずもがな。全く家庭学習というものをしなかった。小3の3学期というのは塾業界では小4のスタートを意味する。今では小4からバリバリ勉強するのが中学受験だが、当時はまだ算数・国語の2教科のみ。ましてや、小4のうちなど、やっている内容もたいしたことないので、宿題もわずか。やらないで困ったのは、毎回行われる漢字テストのみ。それも合格点を取れないと居残り再テストのため、毎回居残りで再テストを受けるものの、その再テストで漢字を覚えるので、模試ではきっちり点数が取れるのであった。算数なんかは授業中に聞いたことはしっかり理解しているので、特に何もしなくても点数が取れる。点数取れてるのに、勉強しろなんていうのは小学生には無理だよね。毎日、サッカー、ゲーム、野球…、遊びまくってたのだ。それでも、最初のクラス分けではきっちり1組に。今から考えると、すごいことしてるんだが、当時は当たり前、授業さえ受けてれば点数なんか簡単に取れると思っていた。

 小4のときの最大の転換点は、算数で線分図などの図を書くようになったこと。それまで、算数の文章題なんて読めば解けていたのだが、さすがに受験勉強になると複雑になり、条件の整理が必要になった。図に整理することを知った私は、難しい問題も図を書くことによって難なくクリアし、ますます勉強しなくなるのであった。

「だって、大事なことは授業で教えてくれるし。考えればわかるじゃん。」本気でこう思っていた。ほんとクソガキだな。

ただし、国語はそうはいかなかった。漢字・知識問題は確認テストなどで覚えれば得点が取れたが、長文読解が無理だったのである。お察しのように、気持ちのわからないクソガキだったので、文章の内容は理解しているものの、感情や心情を問われると苦手だった。あとから気付くことだが、試験で問われる人間の感情のパターンなんてそんなにたくさんあるわけでもなく、深く悩みすぎてるだけだったのだが、国語はなかなか得点が伸びてこなかった。とはいっても、7割以上は取っていたので、1組から落ちることもなく、安定した小4の塾ライフを満喫した。1組から落ちることになったクラスメイトに、「勉強してまた上がってこいよ」なんて声をかけたりしてたが、これも勉強の厳しさがわかってなかったから。ちょっと勉強すれば成績なんて上がると思ってたんだね。苦労しないでできるってこわい。

 小5になると、四谷大塚の日曜テスト(現在のYT)が始まる。この四谷大塚の日曜テストの入会テストで正会員か準会員になるかで、この後の人生が大きく変わるのだが、周りが騒いでいるのを横目に軽く正会員で合格。しかも、当時の最上位会場である中野会場B5組(四谷大塚の1組は約100人なので、上位500に入っているということ。御三家狙うなら、中野か2番手会場の御茶ノ水までにはいないと無理。現在のSコースと同じくらい)に合格。クラスでも中野会場に合格したのは数人であった。当たり前だが、首都圏各教室の最上位生が来るわけで、1つの教室に数人いるだけでも凄いことなんだが、そんなこと知らない私は毎週日曜に中野に行けることを喜んでいたのであった。(飯のお金を貰っていたので、自由に昼飯が買えるのが楽しみでしょうがなかった。)また、小5からは理科・社会も始まった。社会は、授業を聞いているだけで点数が取れたが、理科があまり点数が伸びなかった。宿題を全くやらないが、授業だけは真面目に聞く私の点数が伸びないということは、先生の教えていることが微妙、というかポイントを外しているということを意味する。正直、下手な先生だったが、そこは子供の私なので我慢していたら、2ヵ月後には理科の担当が変わっていた。こんなに早く変わるということは、他の生徒も文句言ってたんでしょうな。次の担当は明らかにベテランの理科の先生でした。後から聞いた話だが、どうも最初の先生は学生(某有名大学)だったらしく、結構な抜擢だったものの、信頼に答えられなかったと。ちなみに算数は社員のベテラン、国語は学生、社会も学生の先生。今もそうだが、時間講師に頼りすぎです、この業界。

 算数・社会・理科は順調に進んでいたものの、小4からの課題である国語がやはり伸び悩んでいた。そんなとき始まったのが、科目別特別講座。土曜日に苦手な科目を克服しよう!というコンセプトのもと、3教科(国・算・理)のフォロー授業が始まる。名称の聞こえは良いが、要は塾側のお金集め講座ですね。藁をもすがる思いで、みんな、苦手科目に申し込むわけです。私も国語に申し込みました。そしたら、これが思いのほかの少人数制で(他の科目は20人超えてたりするのに、国語だけは4人とか)、ここでみっちり勉強しない子が勉強させられることになった。そしたら、案の定、成績が右肩上がりに上がっていく。そもそも、基本的な解法がわからずに我流で解いてましたから、本文に線を引くとか、文章の中に書いてあることをまとめればよいとか、接続詞の種類(意味なんか考えずに、前後の文と一番しっくり選択肢を選んでた)とか、言葉では知っていても実践できていなかったことが、ほぼマンツーマンで指導されることにより身についていった。そうしたら、いつのまにか得意科目になっていた。正直、ここで国語が克服できたことが、受験に失敗しなかった一番の理由だと思う。苦手科目がある奴は合格しづらい。今も昔もこれは真理だね。これのおかげで、大学受験まで国語の文章読解は勉強せずに済んだ。ありがとう!師匠のM先生、ほんとに感謝してます。


 ここで、教科とはあまり関係ない話を。小6になると、塾の先生も受験モードということで、かなり勉強プレッシャーをかけてくる。幸い、私の成績は上がらず・下がらずな絶妙な位置をキープしていたので、一応、クラスでもトップクラスの成績、四谷の日曜テストも中野会場の4組~6組をいったりきたりする感じで安定。むしろ国語ができるようになったので、以前よりも点数の振れ幅が小さくなっていた。そんなところに、ぞくぞくと他の教室や塾から、優秀生が転塾してきた。当時は南浦和でも大きな塾だったので、他塾の生徒が移ってきたり、規模の小さい教室(栄光ゼミナールの別の教室)から、生徒数の多い南浦和に移ってきたりする生徒が多かったように思う。そうするとですね、元からいた子達が、移ってきた奴らに軒並み負けていく。実際、一番上のC1組のメンバーは半分以上が外部からの刺客といいますか、小4から一緒に勉強してきた男子なんて私含め2人、女子を入れても5人だったはず。当時の私は「なんでみんな成績下がるんだろう?」なんて本気で思ってました。やっぱり、ここでもクソガキだな。


 小6ぐらいになると、どこの塾も学習管理が始まる。計画表を作ることによって無駄な時間を見つけて、勉強を効率よくやろうというコンセプトのもと、空いてる時間は全部勉強しろという塾のプレッシャーがかかってくるのだ。とりあえずは計画表を提出してみるものの、全く守るわけも無く、しかも他の生徒が1週間に20時間とか勉強の時間を作っているのに、私は5時間の計画表でも守ったためし無し。本当に勉強してた人に申し訳ない。今、この場を借りて謝ります。一応、恥というかまずいなという気持ちはあったので、授業内でされる勉強時間ヒアリングの際には、A君:18時間、B君:25時間・・・・・・私:1時間 なんて嘘をつきました。これが小6の1学期。2学期には、勉強時間ゼロなのに5時間って嘘つきました。ごめんなさい。本当にごめんなさい。勉強してなかった。でも、成績は維持してた。だから許された。ドラクエ3とかガンガンやってたし、ミニ四駆もアバンテ好きだったぜ。


 小6の夏は、一般的には受験の天王山なんて言われますが、私の場合、特に何もなく終了。普通に夏期講習でした。合宿も当時は無かったし。

 ちょっとびっくりしたことが起こったのが、2学期の四谷のクラス。なんと初めて御茶ノ水会場にクラスダウン!衝撃でした。挫折とまではいきませんが、失敗初体験みたいな感情でしたね。この俺を落とすなんて、御茶ノ水なんて行ってられるかということで、四谷の日曜テストを退会。本当の理由は、2学期から日曜の午後に志望校別特別講座が始まるので、午前中→日曜テスト、午後→志望校別講座 だと体力的にきついので、志望校別講座を選んだわけだが、一応、クラスダウンでイラッときて退会のほうが見栄えがするような気がする。


 志望校別講座(一応、開成クラス)は2クラスあって、毎回のテストでクラスが変動する。成績順に1組・2組と機械的に分けるのだが、ここでも驚異的なノー勉強パワーを発揮して、2組に落ちたのは1回だけ。確か、1組をずっと維持したのは1人しかいなかったはずなので、安定感は抜群だったわけです。ただし、1位は1回しか取れなったのよね。しかも、クラスのみんなに鉛筆の絵を書いてもらうなんて変なことしてた。なんでだろうか、自分なりに仲良くなろうとしてたのかな。ちなみにこの特別講座に、高校の同級生であるゲイなS君とかがいたのである。当時はとても目立たない子でした。それが、あんなことになるなんて・・・、人生ってわかりませんね。

 全く家での勉強をしなかった私ですが、一応、言い訳をしておくと、2学期は暇なときは必ず塾に行ってました。自習室なんてものは当時ありませんでしたが、塾の教室でみんなと一緒に勉強することはしてました。そう考えると、1週間に5~10時間くらいの勉強時間はあったのかな。でも、他の生徒と一緒ですからね。余分に勉強してるわけじゃない。何回もいいますが、本当にすいません。クソガキでした。


 受験が近くなってくると、模試が始まる。四谷大塚生は合不合判定テスト(通称:合判、合不合なんてよばれたりする)が9月から月に1回ずつ。全部で4回行われる。ここでの結果が最終的に志望校を決めるといってもよいだろう。偏差値が出なければ志望校変更も有り得るわけだ。ここまで読んできた方はなんとなく結果はおわかりだと思うが、きっちり出しましたよ、偏差値! ただし1回だけ。実際は失敗といってもよい。算数・国語150点、理科・社会100点の四科合計500点満点のテストで、400点超えないと御三家は見えてこないんですが、超えたのは1回だけ。しかも、10月のテストで理科40点台(普通は80点超えないと怒られる)を叩き出し、一気に青ざめた記憶がある。これがショックだったのか、唯一、400点超えたのは次の11月の回で、428点だったような記憶がある。ただし、ショックを受けただけで勉強したわけではないので、心の持ちようだけだなとも思ったり。勉強しなくても危機感を持つと成績が上がるって不思議。

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