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15/4/14

普通のサラリーマンだった僕が10km以上走ったことないのに1週間分の自給自足の荷物を全て背負って灼熱のサハラ砂漠で250kmを走って横断することになった理由

Image by Olia Gozha

左足首が痛む。アキレス腱の丁度裏側に当たる部分が熱を帯び、赤く腫れ上がっている。友人の理学療法士に尋ねたら前脛骨筋(ぜんけいこつきん)というところを痛めているらしい。



___サハラマラソンゴールから1日後。


2015年4月12日。

南モロッコの都市、ワルザザート。人口56,000人。モロッコ中部、アトラス山脈の南側にあり、アトラス山脈から流れてきたドラア川が平原に出るところ。砂漠の雄大な光景が広がっているため、アラビアのロレンス、スターウォーズ、グラディエーターなどの名だたる映画が撮影されたこの街に今、僕はいる。


昨日、サハラマラソンというアドベンチャーレースを完走した。


サハラマラソンは世界一過酷と言われるマラソン大会だ。文字通り、この大会はサハラ砂漠で行われる。気温が日中40℃を越え、夜には10℃近くまで下がる温度差の激しい過酷な環境。そんな中、食料、衣服など、レース中の自給自足に必要な道具を全て背負い、一週間で250kmを駆け抜けるというなんともクレイジーなレースだ。


僕はそんな過酷なレースを完走するようなバリバリ体育会系の凄い男___では、決してない。全くない。


この大会を初めて知ったときの僕には、大会に参加するために必要な時間も、資金も、体力もなかった。どこにでもいるごくごく普通のサラリーマンだった。



___サハラマラソンスタートまで、あと771日。


2013年2月3日。


その日もなんてことのない1日だった。チェーンレストランの店長をしていた僕はいつも通りに仕事を終え、夜の9時を少し回った頃に店を出た。車のキーを鞄から取り出し、エンジンをかける。接客が好きでこの仕事を選んだ。やりたくないことももちろんあるが、渋滞、いわゆるラッシュアワーに巻き込まれないことは本当にありがたいと、車を運転しながらいつも思う。父に似たのか、渋滞とか、行列とか、じっと待たされることはどうにも耐えられない性分なのだ。


熊本市内から流れの良い道を20分程運転して駐車場に車をとめた。玄関を開け、誰もいない自宅に灯りをつける。灯りと言ってもほのかな光を漏らす程度の間接照明だ。ほんの一年前まではインテリアなど全く興味のなかった僕だが、今では休日は1日インテリアショップで過ごしてしまう程、インテリアに凝っている。ブラインド、ベッドなどはブラウン系で統一し、壁紙とデスクは白。そこにアクセントで丸い小さなカーペットで赤を添える。その上には腰くらいまでの高さの観葉植物。なんという名の植物だったかは忘れてしまったが、万歳をするように緑の葉を元気一杯広げている。部屋の隅にはオンラインショップで購入したお気に入りのペンダントライトが置いてあり、その光が漏れて部屋を優しく照らしている。


部屋にテレビはない。少し前に近藤麻理恵さんの「人生がときめく片づけの魔法」にハマった僕は徹底的に断捨離をしまくって、そのときにテレビも手放したのだ。元々は収集癖があり、テレビドラマのDVDや漫画本のコレクションを大量にずらりと揃えていた。趣味でバンドもしていたので、ピアノ、ギター、ベースなどの楽器や機材もてんこもり。それらも全て手放した。荷物の大ダイエットに成功した僕は部屋が大き過ぎることに気がついて、少し小さ目の今の部屋に引越までしてしまった程だ。


テレビを手放したのは大正解だった。テレビがある頃は家に帰ると最初にテレビのスイッチを入れていた。特別見たい番組がある訳でもないのに気がつくとビール片手に深夜までテレビに釘付けになり、寝る。そんな毎日だった。


テレビを手放して空いた時間はとても有意義な時間になっていた。ゆっくりと1日を振り返ったり、身体を休めたり、これからの自分について考えたり。物も時間も、抱えているモノを手放せば、空いたスペースに今の自分に本当に必要なモノが自然に入って来るのだと知った。


荷物を定位置に置いて部屋着に着替えると僕はパソコンのスイッチを入れた。一通のメールが来ていた。普段はあまり連絡を取らない父からだった。


「怪しいと感じるかも知れないが、黙って最後まで見て欲しい。」


そんな言葉と共にとあるURLが記載されていた。


記載されたURLを辿って見ると、なるほどなんとも怪しいサイトに辿り着いた。


●誰でも稼げる!

●サラリーマンをしながら副業で◯◯万円!


サイトには動画もあり、塾長と名乗る男"M"がインタビュアーと共に映し出されている。インタビュアーの質問に対し"M"が熱弁を奮う。どこからどう見ても詐欺っぽい。


普段なら少しでも怪しい臭いを感じると完全シャットアウトする僕なのだが、このときは何故か受け入れてみようと思った。普段なら論理的思考でのみ判断するのに、このときは何故か直感で判断した。理由はわからない。父が紹介してくれたからというのが大きかったのかもしれない。いずれにせよ、"彼"の話に乗ってみようと思った。このときの判断が僕の人生を大きく狂わせることになる。



___サハラマラソン 1st ステージ 36.2km。


2015年4月5日。


僕は今、砂漠の真ん中で、サハラマラソンのスタートラインに立っている。


主催者のパトリックがジープの上に立ち、演説をしている。フランス語なので何を言っているのか全くわからない。英語の通訳の人もついていて追いかけて英語で話してくれているが、あまり耳には入って来ない。


スタート予定時刻はとうに過ぎている。だが話が終わる気配はない。


僕はなぜ今ここにいるのだろう。


僕はここで何をしようとしているのだろう。


答えが出ないまま、大音量でAC/DCというバンドの「highway to hell」という曲が流れ始めた。この大会の定番ソング。スタート60秒前の合図だ。


"必ず完走する"


そのためにはとにかく足を壊さないこと。どんなに周りが盛り上がろうと、走らず、一歩一歩着実に足を出す。そう決めていた。


大熱狂の中、スタートの火蓋が切って落とされた。


自分でも驚くほど冷静に、僕はサハラマラソンでの第一歩を静かに踏み出した。



___サハラマラソンスタートまで、あと551日。


2013年10月1日。


僕は東京にいた。10年間勤めた会社を辞めて熊本から上京したのだ。


半年前に父から紹介された"M"の塾に入り、色々な夢が叶っていた。


上空5,000mからのスカイダイビング、リッツカールトンホテルの宿泊、著名人Kさんと直接会ってお話をする。この3ヶ月後にはグランドキャニオンを訪れるという夢も叶うことになる。


"M"の塾はいわゆる自己啓発系と言われるものだった。今まで触れたことのなかったその世界で、僕はこの人生を目一杯生きる術を多く学んだ。そして瞳を輝かせて人生を変えて行く人を多く見た。僕は"M"と同じ立場になりたいと思った。僕も誰かの人生が変わるきっかけになる、そんな仕事がしたいと。


僕は"M"に何度も連絡をして一緒に仕事がしたいという想いを伝えた。だが、"M"からの反応は冷たいものばかりだった。無視されたり、今のお前じゃ話にならないと言われたり。それでもあきらめなかった。何度も何度も想いを伝え続けた。


7月に前の会社の上司に仕事を辞めて東京で新しい仕事をすると伝えたときには実は何も決まっていなかった。ただ東京に行こうとだけ決めていた。


不安と期待が入り混じる中、東京に発つ一ヶ月前になってようやく「三ヶ月間、試しに一緒に仕事をしてみるか?」と返事をもらえた。


そういう訳で僕は今東京にいる。


羽田空港の到着ロビーから京浜急行線で大森町駅を目指す。そこには【大森ハウス】というシェアハウスがあるらしい。"M"を含め、投資家、作家、社長など10人が共同で生活しているという。その誰とも会ったことはないが、僕はそこに飛び込んでみることにしたのだ。そこで仕事をし、そこに住むという選択をした。


大森町駅で降りて地図で見た方向を目指す。荷物は事前にほとんど送っておいたので、手荷物は鞄とお土産だけだ。東京チカラめし、という見慣れない看板を横目に目的地に向かってまっすぐに進む。


そこに辿り着いて最初に驚いたのは玄関が開けっ放しになっていたこと。そして三和土には大量の靴がおしくらまんじゅうをしているかのようにせめぎ合っている。


「失礼します」と声をかけ中に入る。「今田です。今日からお世話になります。」と声をかけるが、部屋にいる何人かからボソボソと返事はあるものの特に歓迎ムードという訳でもないようだ。皆淡々と仕事をしている。


と、奥の部屋から"M"が現れた。塾の動画で見続けた"M"、一度だけ電話で話しただけの"M"と、遂に対面を果たした。お世話になります、と熊本の空港で買った手土産を渡しながら伝えると無表情のまま「はい」とだけ返された。


ひとり笑顔で迎えてくれたのはマイちゃんという女の子だった。カンボジアで起業していたときに"彼"と知り合い、ここに住むことになったのだという。飲食店店長の経験もあるらしく気さくに話しかけてくれた。


マイちゃんがお昼を作ったので一緒に食べましょうと声をかけてくれた。少しほっとしながら食卓に向かうと、そこに並んでいたのは蕎麦だった。蕎麦アレルギーの僕は申し出を断り、さっき見た見慣れない看板のお店に入った。東京で初めて食べたランチは、本当にひどい味だった。



___サハラマラソン 2nd ステージ 31.1km。


2015年4月6日。


サハラマラソン2日目。初日は無事に完走することができた。


初心者がサハラマラソン250kmを完走するために最も重要なことは、とにかく身体を壊さないことだ。特に足の裏。"M"は足の裏が豆だらけになり、皮も剥け、血と体液が溢れ、爪も6枚剥がれた。足を踏み出す度に生皮をヤスリで削られているようだったという。


僕はそんなのは御免だ。初日を終え、今の所足にはマメひとつない。トレーニングの成果もあってか、筋肉痛もない。至って順調だ。


いつものようにあの曲のイントロのギターのリフが聞こえ始める。


今日もスタートは定時から遅れている。大体、定時定時と五月蝿いのは日本人だけかもしれないな、と思っていたら、カウントダウンが終わっていたようで周りの選手達が走り始めた。


さあ、今日も慎重に。


僕の右足はできるだけ平らな地面を探し、二日目の第一歩を踏み出した。



___サハラマラソンスタートまで、あと307日。


2014年6月2日。


運命の日は予想しない形でやって来た。そしてこの日を語るにはある人物を紹介しなければならない。



松本千春。


こんな名前だが女性ではない。僕よりひとつ年が上、ひょろっとして背の高いお兄さんだ。彼も大森ハウスの住人のひとり。自身が立ち上げた会社の経営をしながら、他の会社の運営やサポートもしている。


大森ハウスに来てから半年間、同じ場所で仕事をし、食事をしているのに、ほぼ彼と話をすることはなかった。無愛想だし偉そうな感じがするし、なんとなく近寄り難かったからだ。


2014年3月のある日のことだった。


千春さん「いましょうさん、今日空いてる?」


いつものように部屋でパソコンに向かっていると、千春さんから突然声をかけられた。


"いましょう"と言うのは僕のニックネームだ。いまだしょうた、なので、いましょう。東京に来てからは皆がそう呼ぶ。30歳を過ぎてから新しい呼び方をされるのはなんだかくすぐったいものだ。だが、悪い気はしない。


空いてますよ、と答えると午後からセミナーをやるので撮影で入って欲しいとのことだった。なんとも急な話だと思いながら、その話を受けた。


千春さんはその前に用事があるからと先に大森ハウスを出た。後から赤坂の待ち合わせ場所に行くと主催者の女性を紹介された。山口友里恵さんという方だ。みんなからゆりっぺと呼ばれるその女性に特に何の印象も持たなかったが、一緒にいた他の女性の話によると、千春さんのアドバイスを受けてこの一年で女性として劇的に変化をしたということらしい。それを自分だけではなく、もっと多くの女性に伝えたい、知ってもらいたい、体験してもらいたい、という想いで Our Garden という女性限定のコミュニティを創設したのだという。(ちなみに当時は Our Garden という名前も決まっていなかった。)


撮影をしながらセミナーの話を聞いていたが、男の僕にとっても非常に深い学びのある内容だった。そして講師をしている千春さんに対して感じることがあった。それは以前から彼に対して疑問に思っていることだった。


どうしてそんなにも世界の美しさを見れるのか?


ということだ。


これはいわゆるポジティヴな面しか見ようとしないとか、屁理屈をこねてるとか、そういうことではなく、どんな状況においても千春さんはそこに美しさを見出せるのだ。例えそれが最低最悪の状況だと誰もが思うような状況であってもだ。


セミナー後、食事をしながら今日の振り返りをするということで、僕もそこに呼んでもらえた。


食事も後半になり僕は思い切って千春さんに聞いてみた。


いましょう「どうしてそんなに世界の美しさを見れるんですか?」


少し黙ってから、千春さんはこう言った。


千春さん「うん、なんでだろう。そうだなぁ、、、。そりゃ本当に苦しいときも辛いときも全然美しさが見えないときもあるけど、それでも思うんだよね。『それでも美しさがあるとしたら?』って。」


その瞬間に僕は雷が落ちたような衝撃に襲われた。


どこかで僕は、松本千春は凄い人間で、彼だからこそできることなのだろうと、そう思っていた。自分には無理なのだと。あの人はできて、自分はできない、という絶対評価。


しかし彼の答えはそんな僕のパラダイムを完全にぶち壊した。


大切なのは方向感なのだ。


今、自分はどこへ向かっているのか。


「それでも世界が美しいとしたら?」


この質問は僕の宝物になった。


松本千春を『良質な質問を人々に与える人』と僕が評するのはもう少し後のことである。



この彼もサハラマラソンの完走者だ。その彼がこの日、facebookでとある投稿をした。


久しぶりにランのレースに出るので、それに向けてのトレーニングをしているという近況報告。そして、最後にこう書いてあった。



ここからはご案内。

いや、猛烈なプッシュです。

来年のサハラマラソンエントリー、スタートしました。


今年の日本人参加者は過去最高で42人。

僕が出たときは13人なので6年で3倍。

今年は僕らの周りだけでもゆうに10人を超えるので、もっとになりそうです。


いざ、勇者たちよ!ポチッとボタンを押しましょう。

というか気になっている輩、さっさと出やがれ!!



これを読んだときに、そうか僕は来年のサハラマラソンに出るんだな、と知った。


決意でも、決断でもなく。ただただ普通にポチッとエントリー。


お金も、時間も、体力も。

全てがなくて、見通しも何もないにも関わらずだ。


僕がポチっとした直後、第30回サハラマラソンのエントリーは締め切られた。30回記念大会ということで全世界からエントリーが集中し異例の速さで枠が埋まってしまったとのことだった。


ちなみに最初にサハラマラソンの存在を知ったのは"M"からだった。"M"もサハラマラソンの完走者で、そのときの体験談を塾の中で熱く語ってくれたのだ。その話を聞いた僕はいつか行ってみたいなぁと思った。そのときの"いつか"は果てしなく遠い遠い未来のように思えたし、もし参加を決めるとしたならば、「うおおーーーー!俺はサハラマラソンに出るぜーーーー!!!」みたいな熱血の決断になるだろうと想像していた。


しかし、運命の日は驚くほど静かに訪れ、そしてあっけなく過ぎて行った。



___サハラマラソン 3rd ステージ 36.7km。


2015年4月7日。


断崖絶壁。ちょっとフラっとしたら落ちて確実に死んじゃうよね、なんてコースに度肝を抜かれながら2日目までをクリア。この2日で自分のペースで着実に進むことに味を占めた僕は、今日も highway to hell で盛り上がり駆け出して行く走者を横目に、いや前方に見ながら、一歩一歩を大切に歩を進めて行く。


前の人とどれだけ離れようと、後ろから誰かに抜かれようと関係ない。とにかく怪我のないように、安全に安全に。


ふと気がつくと周りに誰もいない。代わりに後ろからぶひぶひと何かの鳴き声がする。


振り返るとそこにはラクダ二頭が迫って来ていた。ターバンを巻いた現地民らしき人に連れられたラクダだ。


"M"から聞いたことがある。レースの最後尾にはラクダがついてきており、ラクダに追い抜かれると失格なのだという。


僕はラクダから離れるため慌ててスピードをあげた。


今日は最下位からのスタートか。まぁ、これも良い経験だ、と自分を笑った。



___サハラマラソンスタートまで、あと295日。


2014年6月14日。


僕は東京タワーで死にかけていた。


2ヶ月前に行われた第29回サハラマラソンの完走者であるオトシさん指導の元、今日は東京タワーで階段トレーニングをした。


オトシさん曰く、サハラマラソン完走に向けて重要なのはロード(普通の道路)でのトレーニングではなく、山でのトレーニング。サハラマラソンのコースは足場も悪く傾斜もある。いくつか山を越える場面もあるとのことだ。ロードでかなりの距離を走り込んでいても、その地形や山が原因でリタイアを余儀なくされる人もいるという。なので、山を走る(トレイルランニング)練習が良いとされている。


しかし、日常のトレーニングで毎度山に行くのもなかなか難しい。そこで有効なのが階段トレーニングだ。どんなトレーニングかというと、ただひたすらに階段を登って降りるだけである。


そして東京タワーでは土日の8:00〜10:00に限り、531段の階段をランナー用に解放している。これは高さ150m、42階建てのビルに相当する高さだ。


本番では10kgほどの荷物を背負わなければならないが、今日は初の階段トレーニングということで荷物なしで挑んだ。


531段あるとは言え、ただただ階段を登って降りるだけ。と、かなり舐めてかかった自分が馬鹿だった。


2往復目でもう足がピクピクと震えて使い物にならない。息も上がり、今にも吐きそうなくらいに気持ち悪くなってしまいました。


なんでサハラマラソンなんかに行くことにしたんだ、、、。


申し込みから12日。早くも猛烈な後悔に襲われた。



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 1日目)


2015年4月8日。


遂にこの日がやって来た。オーバーナイトステージの始まりだ。


8日の朝8:00にスタートし、徹夜で91.2kmを走破するコースだ。もちろん制限時間内に収まるのであれば途中のチェックポイントなどで仮眠を取るのも自由だ。しかし、昨日の夜に日本人トップ走者の杉ちゃんにその話をしたら

杉ちゃん「折角のオーバーナイトステージなんやから、90kmくらい寝ずに頑張ったらええよ。行ける行ける。楽しいで。早よ帰って来たらレストデイも楽しいし。まあ、寝ずに26時間以内くらいで帰って来たら大したもんや。」

との言葉を頂いた。


杉ちゃんにそう言われたらもうやるしかない!と、徹夜で進み続けることを決めてスタートを切った。


ここまで順調だったこともあり、まさかこれからの24時間が地獄のオーバーナイトステージになろうとは、この時の僕はまだ知る由もなかった。



___サハラマラソンスタートまで、あと26日。


2015年3月10日。



準備でドタバタしているというのにひょんなことから大森ハウスを卒業し、一人暮らしをすることになった。


最初はあんなに居心地の悪かった大森ハウスでの共同生活。今ではすっかり居心地が良くなっていた。


2014年の3月から3ヶ月間台湾で暮らしたときも、ひとりの時間が苦痛でしょうがなかった。


共同生活から一人暮らしへ。また居心地の悪いところへと飛び込む。そうしようと思わなくてもそうなった。10年サイクルでの流れ的にも今年はひとりになって自分と向き合う年らしいので、やっぱりそういう流れかと覚悟を決める。


引越初日、二本あったはずの部屋の鍵が見つからない。鞄、引き出し、服のポケット、仕事場、散々探したが結局出てこなかった。



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 1日目)


2015年4月8日、AM9:00。


オーバーナイトステージスタート後60分後。


それは突然やって来た。


左足首前に違和感。違和感が少しずつ痛みに変わって行く。


なぜ今このタイミングなのか。よりによってオーバーナイトステージの開始直後なのか。


気がつけば昨日のラクダがすぐ後ろにいる。


痛みを感じ始めたという現実から逃げるように、僕はペースをあげた。



___サハラマラソンスタートまで、あと16日。


2015年3月20日。


また大切なモノをなくした。仕事場の鍵だ。


昨日の夜は職場の打ち上げでかなり盛り上がり久しぶりに記憶が曖昧になるくらいまで飲み明かした。


20日の夜になって預かっている大切な鍵がないことに気づく。


鞄、引き出し、服のポケット、仕事場、昨日のお店に忘れていないか、散々探したがまたも結局出てこなかった。


今日はもう遅くなってしまったので、明日の朝までに出て来なければ、上司に報告することにしよう。


鍵をなくすのは20歳の頃以来、実に13年ぶりだ。13年ぶりの出来事がこの短期間に続けて二回も起こるなんて、、、。



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 1日目)


2015年4月8日、PM13:00。


第二チェックポイントを過ぎた。スタート直後に始まった違和感は既に完全な痛みでしかなかった。足を出す度に痛みが襲う。


まだまだ先は長い。距離も、時間も、果てしない。暑さと痛みが心を侵食して行く。


スタートして以来初めて「リタイア」の四文字が頭に浮かんで来た。


そのとき、前方から拍手が聞こえた。ずっとうつむいて痛みに耐えていたが、顔をあげると道の脇に停またったジープの側に4〜5人の走者が固まっている。その脇にはスタッフが2名。


何が起こっているのか疑問に思いながら、少しずつそこへ近づいて行く。


リタイアだ。


フランス人のチームのうちのひとりがリタイアする瞬間だった。先ほどの拍手は先を行く走者がここまでの彼を讃えての拍手だったのだ。


名前もわからない彼は歯を食いしばりサングラスの奥から涙を流しながら仲間の手を強く強く握っていた。仲間全員が彼の手をしっかりと掴み、お互いに声をかけあっている。


フランス語は一切わからない。わからないが僕には確かに聞こえた。


「本当にすまない」

「俺の分まで頼む」

「お前はよくやった」

「あとは任せろ」


気がつくと僕は涙を流していた。彼のこれまでがわかるからだ。サハラマラソンはこの一週間だけのレースではない。


申し込みをした日から全ては始まるのだ。身体を鍛える為のきつく苦しいトレーニングを繰り返し、装備品をひとつひとつ手探りで準備し、仕事の引き継ぎや調整をし、大切な仲間、愛する人に応援されて、ここまで来たのだ。完走を目指して。


リタイアの悔しさがどれ程のものかが、今の僕にはわかる。そうしたら悔しくて悔しくて涙が溢れて止まらなかった。


そうして、彼に誓った。


ありがとう。

僕は必ず完走する。

君の悔しさを僕は絶対に忘れない、と。


痛みは関係ない。

そんなことはどうでもいい。


完走できるかどうか。

そんなこともどうでもいい。


前へ進むのだ。

一歩一歩。

次の一歩を踏み出すのだ。


誰かがリタイアする瞬間を見たのは後にも先にもこのとき限りだった。


僕は世界に応援されていると全身で感じながら、「アルケミスト」という小説の一節を思い出していた。



彼は過去の教訓と未来の夢と共に今に生きたいと思った。

(アルケミスト 夢を旅した少年 Paulo Coelho,1988 山川紘矢・亜希子 訳,1994 P102)



そういうことだったのだ。"今ここ"を生きるということは、過去と未来を切り捨てることだと、ずっと思っていた。


違う。全てはつながっていて、全てがある。それが"今ここ"なんだ。


全てを感じながら、僕は前を向いて歩き続けた。



___サハラマラソンスタートまで、あと15日。


2015年3月21日。


あの後も探してみたものの結局朝になっても鍵は出てこなかった。重い腰を上げて、朝一で職場の上司に電話をした。

いましょう「宮倉さん、すみません。お預かりしていた鍵を紛失してしまいました。本当にすみません。」

なんと言われるだろうか。怒鳴られるだろうか。シリンダー交換の費用はもちろん僕の負担だろう。


などと考えていたら、受話器の向こうから笑い声が聞こえて来た。

宮倉さん「あっはっは!やっぱり覚えてないんだぁ〜。昨日、飲み会の帰りに僕が預かったじゃない!ははは!」

なんてことだ。そうだ、確かに渡した。吐いてしまってフラフラになりながらも、確かに鍵を渡した。


安堵に包まれて電話を切った。すぐに出かけなければならなかったので鞄を開けると、そこにはなくしたはずの部屋の鍵があった。何度も何度もそこを探したのに!!


大切なものは遠くではなく、ずっと目の前にあったのだ。


僕がただ、そのことに気づいていないだけだった。



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 2日目)


2015年4月9日、AM6:00。


僕は暗闇の砂漠の中、痛みを増す左足を引きずりながら、強い向かい風に向かって、もう4時間もひとりで砂漠を彷徨っていた。


昨年サハラマラソンを完走したKさんはオーバーナイトステージの暗闇の中、横を見たら仲間が一緒に歩いてくれているのが見えたと言っていた。


何時間か前に右と左を見てみたが、そこには誰もいなかった。あるのは暗闇と砂だけだった。


リタイアの文字はフランス人の彼が消してくれたが、それでも痛みがどんどん増す左足を引きずり、強い向かい風に吹かれ続けると、体力と気力がどんどん削られていく。


スタートしてから22時間が経過していた。


そんな状況でも進み続けられたのは同じテントのメンバー、平井さんの言葉があったからだった。


平井さんはトライアスロンやウルトラレースの経験者で自身でもビーチクボーイズというチームを運営されているアドベンチャーレースの大ベテランだ。


2日目だったか、3日目だったか、平井さんがビバーク(各ステージのゴール。ここにある屋根だけのテントの下で食事をし、寝袋を使って夜を明かす。)でこんな言葉をくれた。


平井さん「こういうレースは何が起こるかわからない。すごく調子が悪くて完走できそうにないと思っていても、終盤で急に調子が良くなって完走できた、なんてことも起こり得る。だからとにかく諦めずに一歩でも1ミリでも前へ進むことが大切なんだ。」


何事も起こり得る。

だからとにかく前へ進め。



この言葉だけで、


心を折ろうとする冷たい向かい風に挑み続けた。


足を飲み込もうとする砂から辛うじて足を引きずり出し続けた。



暗闇の中の孤独。


もう限界だ、、、



そのとき確かに聞こえた。


???「いましょうちゃん!」


振り返るとそこには同じテントのメンバーがいた。


前回のサハラマラソンでリタイアしてしまい、今年はリベンジで参加していたじゅんちゃんと、平井さんがそこにいた。


じゅんちゃんはいつも底抜けに明るくて、元気をくれる達人だ。ニコニコ笑顔のじゅんちゃんと、口をつぐんでいる平井さん。


じゅんちゃん「いや〜初めてレース中に会えたね〜!大丈夫?」

いましょう「足が痛くて、、、。遅いので先に行ってください。」

じゅんちゃん「何言ってんの!ほら!次のチェックポイントが見えたよ!一緒に行こう!」

いましょう「・・・。はい。」


じゅんちゃんと平井さんの背中を見ながら、僕はまた砂の上に涙を落とした。



___サハラマラソンスタートまで、あと1日。


2015年4月4日。


いよいよ明日のスタートを控えて、今日は荷物チェックの日だ。スタッフに預けてしまう荷物と、レース本番で使う荷物を分けてチェック会場へ向かう。


まず最初に本番で使わない荷物を預ける。現地民のスタッフがトラックにどんどん荷物を積み上げていく。日本ではあり得ないような積み上げ方で、とにかく2tトラックの荷台に荷物を放り込んで行く。どんどん上に重ねて行くので一番下のスーツケースは壊れてしまってもなんの不思議もない。


荷物を預けたら、次はレース本番で使う荷物や心電図などのチェックだ。列に並んでいると自分の番が来た。


受付「Passport please.」


と言われたのでパスポートを出そうとして、はっ!と気がつく。


あ、さっき預けた荷物の中だ、、、。


その旨を受け付けの女性に伝えて、預けた荷物の所へ戻る。


事情を話して対応してもらえば問題解決、と思っていたのでゆっくりと最初に荷物を預けた場所へと戻る。


いましょう「スーツケースの中にパスポートを入れたままにしてしまったので、出してもらえる?」

と現地民スタッフに伝えるが英語がわからないらしい。


しょうがないので少し離れた場所にいるスタッフで英語を話せる人を見つけて事情を話す。


「OK!ちょっと待ってな!」


と返事が返ってくるとしか思っていなかったので、そのスタッフの発言が一瞬理解できなかった。


スタッフ「トラックに登って荷物を見てもいいが、見つからなければもう無理だ。」

え、、、。


見つけるって、あの山積みの荷物の中から、、、?


とりあえず急いでトラックの荷台に登ってはみたものの、荷物の山に愕然とする。


こんな中から見つかる訳がないじゃないか、、、。


しかも荷物を積み込む手が止まることはなく、次から次に新しい荷物が積み上げられて行く。


ちょっと待ってくれ!

絶対にパスポートが必要なんだ!

こんなところで失格する訳にはいかないんだ!


英語で叫んでも彼らには通じない。


青ざめながら荷物を漁っていると、同じテントのメンバーが全員駆け付けてくれた。


じゅんちゃん、がんちゃん、三浦さん、そして平井さん。


平井さん「どうした?大丈夫か?」

と声をかけてくれた平井さんに僕は必死に叫ぶ。


いましょう「平井さん!助けてください!」


今思うとあんなに必死に誰かに助けを求めたのは初めてかもしれない。


平井さんは英語がペラペラなので状況を把握するとすぐにスタッフの元へ飛んで行き交渉を始めてくれた。


じゅんちゃん、がんちゃん、三浦さんは一緒に荷台に登り、膨大なスーツケースの山の中から僕のスーツケースを探してくれている。


と、そこへスタッフのひとりがやって来た。


スタッフ「荷物を見てもいいが、触るのはダメだ。今の時点で見えない荷物はもう諦めろ。」


そんな、、、。


本当にここで終わってしまうのか。


今までの準備は、トレーニングはなんだったんだ。日本で応援してくれているみんなに何て言えばいいんだ、、、。


ふと、パスポートのコピーならあるかもと思いついた。フランスもモロッコも決して治安が良い国ではないので、もしものときのためにパスポートのコピーを2部持って来ていたのだ。


いましょう「コピーなら持ってるかもしれません。」

と、駆けつけてくれたメンバーに告げ、リュックを開く。


リュックのポケットを漁るがコピーはなかった。そうだ、昨日アルケミストに挟んでスーツケースに入れてしまったんだ。コピーは2部ともスーツケースの中だ。


もう終わった、、、と思ったそのとき、三浦さんがリュックの中を見ながらポツリとつぶやいた。


三浦さん「あっ・・・。」


そこには僕のパスポートがあった。


昨夜、平井さんが「パスポートは絶対必要だからな〜」とみんなに言っているのを聞いてすぐにリュックに移したのをすっかり忘れていた。


テントメンバー全員に全力で謝りながらお礼を伝えてパスポート事件は終了した。



サハラマラソンへの参加を決めたときから、僕はこう思っていた。サハラで何が見つかるのだろうか、と。



しかし、もうこれで3度目だ。

同じメッセージ。



いい加減気づけ!


大切なものはお前の目の前にある。

すぐ側にずっとあるんだ。



誰かが僕にそう言っているとしか思えなかった。



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 2日目)


2015年4月9日、AM6:30。


食事を詰め込み痛み止めを飲んでチェックポイントをすぐに出発した。


じゅんちゃんと平井さんは少し休んでから出るとのことだった。


しかし、僕の速度は本当に遅かったので後から出発したふたりにすぐ追いつかれた。


もう明るくなり始めていたし、風も止んでいた。ひとりでも大丈夫。


ふたりにもそう伝えて先に行ってもらった。


去り際に平井さんが言葉をくれた。


平井さん「いましょう、自分を信じろよ。」



僕はゆりっぺがくれたメッセージを思い出しながら、グッと涙をこらえた。



___サハラマラソン 2nd ステージ 31.1km。


2015年4月6日。


レース後のテントで日本からの応援メッセージを受け取る。


一緒に Our Garden をやっているゆりっぺからメッセージが来ていた。



De:yurippe-le:05/04/2015 22:40:49


fight!. ippo ippo. trust your self.



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 2日目)


2015年4月9日、AM7:00。


痛み止めは効いているのか効いていないのかよくわからない。痛みはまだある。


仮に効き始めたとして効果はどのくらいだろうか。


それに今日の分の行動食は全て夜中に使ってしまった。明日の分はあるが、それを使えば明日がもたない。


熱中症防止の為に大会本部から支給されている塩タブレットも残りわずか。ここからの灼熱地獄に耐えられるだけの体力も食料も塩分もない。


それにこの足ではいつ歩けなくなるかわからない。


どうすればいいんだ?

どうしたらいい?



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 1日目)


2015年4月8日、AM10:40。


De:yurippe-le:08/04/2015 10:40:50


gogo!. go go go!. nihonkara,minnade ouenshiteruyo.. anatanaradekiru.. trust yourself.



___サハラマラソン 4th ステージ 91.7km。(オーバーナイトステージ 2日目)


2015年4月9日、AM7:30。


痛み止めが効いて来たようだ。と言っても痛みが無い訳ではない。痛い、痛いが激痛ではない。


いつ歩けなくなるかわからない足。灼熱地獄に耐えられるだけの食料、塩分がない状況。


走るしかない。


今から走れば9:00頃にはゴールできるかもしれない。その時間であればまだ辛うじて涼しさが残っている。塩タブレットを使わずに行けるかもしれない。


僕は賭けに出た。


走る。


この大会で初めて、僕はサハラの大地を走り始めた。



___サハラマラソンスタートまで、あと154日。


2014年11月2日。


今日は神田でゆりっぺのトークイベントだ。僕はスタッフとしてここにいる。


千春さんに頼まれて Our Garden の撮影をしたのがゆりっぺとの最初の出会い。その後、僕が台湾に行っている3ヶ月の間は全く連絡を取ることもなかったが、帰国直前にご飯を食べに行く約束をして、そこからの一週間が怒涛の一週間だった。一緒にラフティングをしたり、読書会に出たり、なぜだか顔を合わせ続けて、話してみると似ている所が多々あって盛り上がり、いつの間にか兄弟のような仲になっていた。ゆりっぺがしっかりものの妹で、僕は頼りないお兄ちゃん。


そうこうしているうちにゆりっぺが創設した女性限定のコミュニティ Our Garden を手伝うことになった。


ゆりっぺは本当にすごいなと思う。


どんなに抵抗を感じても、壁にぶつかっても、上手く行かなくても、絶対に一歩一歩前に進み続ける。本当に不器用だけれど、それが彼女の魅力だ。その姿に僕は惹きつけられるのだ。


彼女じゃなければ、ゆりっぺじゃなければ、Our Garden を手伝おうとは思わなかった。



___サハラマラソン 5th ステージ 42.2km。(マラソンステージ)


2015年4月10日、AM7:10。


昨日は賭けに勝った。痛み止めが効いている間に走り切ることが出来た。ビバークに着いてすぐに杉ちゃんに足を診てもらった。オーバーナイトステージの経緯を話すと「歩くときに使う所を痛めてるから走る方が楽やと思うわ」ということだった。少しでも楽になるようにとテーピングもしてくれた。


痛み止めも飲んだ。とにかく行ける所まで行くしかない。今日で最後だ。


スタートと同時に僕は走り始めた。痛みで顔が歪む。それでも僕は走り続けた。



___サハラマラソンスタートまで、あと4日。


2015年4月1日。


飛行機の中で僕はパートナーのめいこにもらった手紙を開けた。応援のメッセージと一緒に手作りのお守りが入っていた。


丸い刺繍に文字が裏表に入っている。表にはふたりの名前、裏には we とだけ書いてある。縁が黄色になっている。


そう言えば数日前に聞かれたっけ。何色が好き?どんな形が好き?と。


フランスのホテルに着いてすぐに、僕はそのお守りをバッグのサイドポケットのチャックに取り付けた。



___サハラマラソン 5th ステージ 42.2km。(マラソンステージ)


2015年4月10日、PM2:30。


僕は今日一番の難関に差し掛かっていた。


スタートから走ってみてわかったことは平地で傾斜がなく地面が固い所ならば走ることが出来るということだ。柔らかい砂地だと、足首が曲がってしまうので激痛でなかなか進めない。


そして今、今回のレースで最大のデューンに僕はいる。デューンとは砂漠と聞いて最初に僕らが想像するような砂砂漠だ。柔らかい砂の山がそびえ立っている。


ここでは走れない。左足を引きずりながら本当に少しずつ少しずつ前へ進む。うつむいているので時々進んでいるのか、砂の山に押し戻されているのかわからなくなる。それでもとにかく前へ進む。一歩一歩。


ゆりっぺはこういうの得意だろうなと思ったら少し笑えた。


僕を追い越す選手達が皆声をかけてくれる。


Shota! Keep going! Keep going!


Shota! Ganbatte!


国籍も何も関係ない。僕らは競争しているんじゃない。仲間だ。



登りよりも下りが辛かった。他の選手は気持ち良さそうに重力に身を任せてすいすいと砂の斜面を滑走して行く。僕は左足を進行方向に対して90度にして、足首ができるだけ動かないように注意しながら慎重に慎重に下って行く。それでも毎度激痛が走る。


痛みに歯をくいしばっていると、あるものが目に入った。めいこがくれたお守りだった。初日にスタートしてから初めてのことだった。久しぶりに見たお守りは砂で汚れ、紐がほつれ、形も崩れ、ボロボロになっていた。それでもしっかりとそこにあった。


そうか、ずっと一緒にここまで歩いてくれたんだ。


その下り坂を降りた途端に、役目を終えたことがわかったかのようにお守りはポロっとリュックから外れた。外れたお守りを失くさないようにポケットにしまうと、涙を流しながら僕は砂の山を進み続けた。



___サハラマラソンスタートまで、あと9日。


2015年3月27日。


出発前に"M"から言葉をもらった。



どんなに準備をしても

"信じる力"を試される。

それがサハラマラソンだ。



"M"は準備しなさ過ぎだったし、僕は素人なりにもある程度の準備はしたつもりだ。本当にそんなことになるだろうか。半信半疑で僕は"M"の言葉を受け取った。



___サハラマラソン 5th ステージ 42.2km。(マラソンステージ)


2015年4月10日、PM3:30。


僕は息を切らしながら走っていた。


信じる力、か。


僕は自分をあまり信じていないことに、このレース中に何度か気がついた。誰かを信じても、自分を信じていない自分がそこにいた。


最大級のデューンを抜けて最後のチェックポイントを通過すると、平らで固い地面が続いていた。3錠までと決めていた痛み止めをもう1錠飲んだ。


行動食は先ほどのデューンで使い果たした。走っている途中で水も尽きた。


意識が朦朧とし始め、身体から力が抜けて行く。


それでも、僕は自分を信じた。必ずたどり着ける。完走できると。


しばらくするとゴールが見えて来た。最後のゴールが見えても感情はあまり動かなかった。


今にも倒れてしまいそうなギリギリの状態でゴールラインを越え、ライブ中継用のカメラを素通りし、水を受け取る。フラフラする。もうじき動けなくなるのがわかる。


ゆっくりとゆっくりと自分のテントに向かう。


遠い。


昨日までよりも何倍も、遥かに遠い気がする。


今にも倒れそうだ。


やっとの思いでテントにたどり着く。


平井さん、じゅんちゃん、がんちゃん、三浦さんがそこにいた。


僕の存在に気づいたテントメンバーが叫ぶ。


メンバー「おおおーーーーーー!!!!!!いましょうーーーーーー!!!!!!おかえりーーーーーーー!!!!!!!!」

いましょう「ただいま。」


大粒の涙を流しながら、僕はテントに倒れ込んだ。



___サハラマラソンゴールから1日後


2015年4月12日。


サハラマラソンを完走して、僕は何を得たのだろうか?

どんな宝物がそこにはあったのだろうか?


ワルザザートのホテルの部屋はwi-fiが使えたので、僕をサハラマラソンにいざなった"M"に完走の報告をした。


おめでとうの言葉に、次の文書が添えられていた。


「ガソリンと電気を使い始めた瞬間から、記憶が変質し始める。」


"M"らしい返事。

レポートは鮮度が命、ということだ。


今日は1日、ホテルの部屋にこもってレポートを書くことにした。


ベランダにはテラスがあり、椅子とテーブルもあるので、気持ちよく過ごせそうだ。


ここから見える景色。砂と岩の山々。緑がないわけではなく、ヤシの木のような背の高い木々も茂っている。遠くには街が見える。


もっと遠く、地球の裏側には自分の街がある。帰りを待っている人がいる。


テーブルにはひとつ、オレンジが転がっている。


僕は宝物を探すのをやめた。きっとその時が来れば宝物は目の前に現れるのだろう。


そう信じて、僕はこの旅の話を書き始めた。

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