さよなら…
2013年8月26日。
同棲中の婚約者と別れることが決まった。
明くる朝、彼女はずっと背負っていた荷が降りたのか、スッキリとした顔をしていた。
前のように明るい彼女に、
「やっぱり悪い夢だったんだ!」
と思う程だった。
しかし、現実は現実だった…。
彼女は結婚式のために髪を伸ばしていた。
彼女「「もう短く切っちゃおうかなー?」」
僕にそう尋ねる。
僕「「いいんじゃない。」」
さらにこう言う。
彼女「「もう時間に縛られないし、仕事変えようかなー?」」
僕「「好きなことをやればいいじゃん。」」
僕は傷付いた。
昨日の今日で、
「よくも面と向かってそんなことが言えるな…」
と思った。
でも、口には出さなかった。
僕は彼女を傷付けた罰を、自ら勝って出たのだから。
やけにハイテンションな彼女に、僕は言った。
僕「「いつ出て行くの?」「ちゃんとケジメつけなきゃダメだよ!」「別れるってことは、そういうことだよ。」」
彼女はまたションボリした。
8月31日、この日に彼女が出て行くことが決まった。
2人で揃えた家具や家電。
僕「「好きなの持って行っていいよ。」」
お菓子作りが好きな彼女のために買ったオーブンレンジ。
料理が上手い彼女の要望で、大きめの冷蔵庫も買った。
もう一緒に使うこともない、お揃いの食器。
一緒に映画が見たくて買った大き目のテレビ。
結婚式に流すプロフィールビデオを作るために買った、一眼レフとパソコン。
お気に入りのソファー。
一人では大き過ぎるダブルベッド。
彼女を失うことに比べたら、こんなものどうでも良かった。
だが、結局彼女が持って行ったのは、
ナノイーのドライヤーと、ダイソンのアイロン、
ステンレス製の洗濯バサミ…
大したものは持って行かなかった。
彼女は、
彼女「「また荷造り面倒臭いなー」」
と言いながら、
スーパーでダンボールを貰い、荷物をまとめ始めた。
僕は手伝える気になれるはずもなく、
僕の前からいなくなるための準備をしているその姿を見ているのは耐えられなかった。
そんな時は、近くのコメダ珈琲で時間を潰した。
同じ音楽をリピートで聴きながら、時間が過ぎるのを待った。
こういう時は何故だろう?
自分が置かれた状況に酔いしれたいのか。
悲劇のヒロインにでもなりたいのか。
切ない歌ばかりが聴きたくなる。
恋愛の歌、失恋の歌、車の中でよく聴いた歌、カラオケでよく歌った歌、
イヤホンを片方ずつして聴いた歌、結婚式で使おうと言っていた歌…
僕が持っている音楽はすべて、彼女との思い出の歌だった。
どれを聴いても、彼女と過ごした楽しかった日々が頭に浮かんだ。
その中でも、僕の心を一番締め付けのは、
清水翔太が中島みゆきをカバーした「化粧」という歌だった。
ずっと昔の歌なのに、僕のことを歌っているようだった。
僕は、歌詞の中の世界を生きているようだった。
バカだね
バカだね
バカだね あたし
愛して欲しいと思ってたなんて
バカだね
バカだね
バカのくせに あぁ
愛してもらえるつもりでいたなんて
カウンター席から窓の外を見つめながら、
涙を堪えていた。
流れるな涙
心でとまれ
流れるな涙…
他の客や、店員にバレないように、
必死で顔を隠していた。
そんな日を何日か過ごした。
そして8月30日。
彼女が出て行く前日の夜。
もう一度2人で最後の話をした。
僕はちゃんとケジメを付けたかった。
全ての欄に記入された婚姻届を彼女に渡した。
破り捨てる選択肢もあったが、僕には出来なかった。
「これ、○○が処分して。」
「それから結婚式場。○○が断っておいて。」
「僕には出来ないから…。」
「キャンセルしたら、一応連絡して。」
それともう一つ、ケジメを付けなければいけないことがあった。
彼女と僕の2人のお金で揃えた家具や家電。
しかし彼女はほとんど持って行かない。
2年は住むと思っていたこの部屋の家賃は、
毎月の支払いが面倒臭いと、彼女が1年分まとめて払ってくれていた。
彼女が出て行った後も、僕はこの家に住み続ける。
僕は、定期預金を解約し、結婚資金を全て下ろした。
そして、
「これ、足らないかもしれないけど…」
全額彼女に渡した。
受け取るのを彼女は断ったが、
僕は、借りを作ったまま別れるのは嫌だった。
ここで全てを終わりにしたかった。
それが僕のケジメだった。
そして次の日、8月31日。
彼女とお別れの日だ。
朝からお義父さんが車で荷物を運んでくれることになっていた。
僕は、お義父さんに合わせる顔が無かった。
何より、彼女が出て行く姿を見たくなかった。
そんな状況から逃げるために、朝早く実家に行くことにした。
家を出る前、靴を履き、僕は最後のお別れを言った。
「本当にごめんね。」
「今までありがとう。」
「絶対に幸せになるんだよ。」
そう言って、家を出た。
「さよなら…」
こうして僕らの同棲生活は幕を閉じた。
この日を境に、僕らは完全に他人になった。
僕は彼女にとって、過去の人となった。
「なんてあっけないんだろう…。」
どんな時間よりも幸せな3年間を過ごした2人の別れは、
あの日、人生を共に生きようと決めた2人の別れは、
もう二度と交わることのない人生を歩くと決めた2人の別れは、
また明日にでも会える人との別れのように、あっけないものだった。
うつ病の悪化…
実家に帰った僕は、両親に、
「実家に戻って来たら?」
と言われた。
確かに精神病を患った息子が、婚約破棄になり、
残された家で一人で暮らすと言うのは、親にとって心配する要因しかなかった。
きっと、
「自殺するんじゃないか?」
と思っていたのだろう。
しかし、僕には、実家に戻る気は全くなかった。
同棲していた家は、彼女との思い出の詰まった家であると同時に、
僕がやっとの思いで築き上げた、自分の居場所だった。
「大丈夫!」
「傷病手当は毎月入るし、家事だって出来るから!」
両親は、
「本当に大丈夫か?」
と言っていたが、
僕の気持ちを察して、
「何かあったらすぐに連絡をしなさい。」
とだけ言った。
夕方になり、僕は家に帰った。
帰り道。
僕は、心のどこかで、彼女が家で待っていてくれているのではないかと思っていた。
「やっぱりやめたー!」
と言って、また一緒に暮らせるんじゃないかと思っていた。
しかし、そんなはずはない。
玄関のドアを開け、家に入ると、
積み重ねてあったダンボール達は、一つも無くなっていた。
残っていたのは、ゴミ袋と、ヒモで縛ったゼクシィの束だった。
僕は、思わず
「まじかよ…」
と口に出した。
当てつけかと思えるような行動に、
笑ってしまうくらい呆れた。
そして、深く深く傷付いた。
それから僕は、
彼女が去ったこの部屋で、
一人では贅沢すぎるこの部屋で、
独り、悲しみと闘い続けた。
彼女と過ごした過去と闘い続けた。
そして、彼女がいない現実と闘い続けた。
僕の症状は深刻化する。
初めのうちは、毎日家事をやり、外出もし、何とか理性を保っていた。
一人では何も出来ないなんて思われたくなかったし、
親にも心配をかけたくなかった。
しかし、やはりどうやっても、
彼女を失ったことを受け入れられなかった。
僕は、自分を責めて責めて責め続けた。
数日が経ち、
僕には一つ気がかりなことがあった。
「結婚式場」
彼女からキャンセルをしたとの連絡は来てなかった。
僕は結婚式場に電話をかけた。
彼女からキャンセルの連絡は来ていないようだった。
僕は、なんだか不思議な気持ちになった。
「やっぱり戻りたいと思っているのか?」
「彼女はまだ迷っているのか?」
「僕を試しているのか?」
そう思った。
しかし、2人で出した決断だ。
人生を左右する決断を、そんな中途半端に考えているとしたら、
僕は許すことが出来なかった。
次の日、僕は独りで結婚式場に行き、キャンセルの書類にサインをした。
正直なところ、この辺りのことを僕はあまり鮮明に覚えていない。
人は生命の存続に危機を感じるようなショックな出来事は、
脳にインプットされないように出来ているらしい。
タイムスリップをしたかのように、彼女が出て行ってから2週間ほどの記憶はあまりない。
僕は本当にうつ病になっていた。
自他ともに認めるうつ病に。
次第に不眠がさらにひどくなり、幻聴や幻覚を見るほどだった。
処方される薬はどんどん増えていった。
朝、昼、晩、様々な薬を試した。
夢と現実の区別が付かないような、
意識が朦朧とした状態だった。
そう言えば、彼女は薬を飲むことに反対だった。
薬を飲んでる姿を見るのも辛いって言ってたな…。
そんなことを思い出した。
「こういうことだったのか…。」
確かにこんな姿を彼女に見せるわけにはいけないな…
不眠のせいか、薬の副作用か、常に身体がダルく、呂律は回らない。
無意識に一点をじっと見つめているような状態で、視点も合わず、
何もする気が起きない。
景色は色を失い、すべてが灰色に見えた。
魂を抜かれてしまったかのように、感情は失くなり、
僕はだんだん、一日中横になっている日が増えていった。
外出するのは、週一回の病院の日だった。
相変わらず、渋谷まで通っていたが、もう一人で通える状態ではなかった。
心配をかけたくなかったが、母親について来て欲しいとお願いした。
僕はいつも、サングラスを掛け、人目を避けた。
外部の世界が恐ろしくて仕方なかった。
全てが敵に見えた。
隣にいる母親にさえも、心を閉ざしていた。
親として当たり前のことだと思うが、
時折、僕をこんな状態にした彼女のことを悪く言った。
僕自身、誰かのせいにしてしまえば、気持ちは楽になるだろうと思っていた。
でも、どうしても彼女のせいには出来なかった。
僕の中で、彼女は全く悪くなかった。
悪いのは全て僕だった。
僕が未熟だから。
僕が彼女の気持ちに気が付けなかったから。
僕が彼女を傷つけたから。
僕がうつ病になったから…。
一日中何も出来ず、食べて寝るだけの生活だった。
僕は、何も生み出せていない。
それどころか、人に迷惑をかけてばかりだ。
会社の人に迷惑をかけ、
彼女や彼女の両親に迷惑をかけ、
友達に迷惑をかけ、
自分の家族にも迷惑をかけている。
親だって、こんな息子でガッカリしているに違いない。
こんな息子に育ってしまって、さぞ恥ずかしい思いをしているだろう。
僕は人を不幸にする。
「僕には生きる価値なんて無いんだ…」
そう思い始めていた。
「僕は生きている意味のない人間なんだ。」
「僕なんか消えて無くなった方がいい。」
感情の失くなった僕が唯一創り出した感情は、
「死にたい…。」
だった。
そして僕は、自殺する方法を探し始める…
つづく…