『1年間うつ病で自宅に引きこもった派遣社員が、一部上場企業からヘッドハンティングされるまで 第一回目』
僕は1年間うつ病で自宅に引きこもっていました。
しかも正社員でもなく派遣社員しか経験したことがないという身分です。
正社員ならまだしも派遣社員でうつで1年間引きこもったら社会的にもう終わりです。
世の中に絶望し自殺寸前の状態にまでなりました。
そんな僕でしたがなんとか社会復帰を果たし、その後一部上場企業(株式会社エディオン)からヘッドハンティングを受け17店舗のエリアマネージャーに就任し500人以上の社員をマネージメントする立場として働くことが出来ました。
このように書くと綺麗なサクセスストーリーのように聞こえますが、実際はそんなにカッコよいサクセスストーリーではありません。
魔法のような成功するためのテクニックがあったわけでも、奇跡的な事が起こったわけではありません。
もしそういう成功テクニックやノウハウを期待されているとこの僕のストーリーはつまらないものかもしれません。
当然ですが派遣社員1年間引きこもったというマイナス地点から、社会復帰してエリアマネージャーになるまでは決して楽な道のりではありませんでした。
涙も枯れるような出来事の連続、地道な努力や様々な苦悩・葛藤の連続でした
その中で様々な事を学び、経験しました。
それをありのまま起こったままの内容を共有したいと思います。
もしも今うつ病で自宅に引きこもっている方、社会に絶望している方、将来にまったく希望が持てない方がいたら
僕のストーリーがお役に立てれば幸いです。
~僕が何故うつ病になってしまったのか~
まずは僕が何故うつ病になってしまったのかお話したいと思います。
ですが、これを話すとすごく長くなってしまいます。
少し長くなりますがお付き合いください。
僕の母親は若いころから脳の病気でした。
現代の医学では治すことの出来ない難病で、20回以上脳の手術を行っていました。
「水頭症」といって頭に水が溜まってしまいそれが脳の血管を圧迫してしまう病気です。
兵庫県神戸市にある「神戸中央市民病院」という日本でも有数の最先端医療を提供している病院の脳外科の専門医でもどうすることも出来ない状況でした。
ちょうど僕が大学を卒業した頃です。
僕は大学を卒業後、派遣社員でインターネット回線の獲得営業の仕事を家電量販店で行っていました。
よく家電量販店で買い物をしていると「インターネットのお申込みを一緒にどうですか!?」と聞かれると思うのですが、その仕事をしていました。
その仕事をしながら母親の看病と介護を行っていました。
僕が子供の頃から手術⇒入院⇒退院⇒手術を繰り返していたのですが、僕が大学を卒業する頃には手術をしても退院出来ないくらい悪化していました。
ほぼ植物人間のような状態が1年以上続きました。
当然ながら仕事と母親の介護&看病はかなりの負担でした。
しかも派遣社員ですので、そうそう仕事を休むことが出来ません。
介護休暇などあるはずもなく、無理に休むと速攻クビです。
残念ながら派遣社員には正社員では当たり前の権利が無かったのです。
ですので、休みの日を使って介護や看病に行くしかありません。
そのような状況は僕だけでもなく家族全員に負担が大きくのしかかっていました。
そうこうしているうちに父親が看病疲れから「脳梗塞」で倒れてしまい意識不明の重体になってしまいました。
その時は「いったい何が起こったか分からなかった」感じでした。もしくは自分の中で状況が飲み込めなかったと言った方が良いかもしれません。
父親も母親と同じ「神戸中央市民病院」に運び込まれました。
父親も母親も同じ病院で意識不明の重体というジョークにしても笑えない状況でした。
そして不幸な時は不幸が重なるもので、母親が家族の知らない間にクレジットカードで宝石やバッグなどを買い漁っていたことが判明しました。
おそらく病気続きでストレスが溜まりそれが散財に繋がったのだと思います。
クレジットで購入した商品代金は400万円以上あり、月に12万円以上返済していかないといけない状況でした。
月に12万円以上も返済していける訳がありません。
父親は意識不明の重体で生死も不明で生きたとしてもこれから社会復帰出来るかも分かりません。
当然僕も派遣社員でしたのでそのような大金を返済できる訳がありません。
そのような絶望に満ちた状況の中、母親がとうとう亡くなってしまいました。
母親の葬儀を行いましたが、父親は意識不明の重体でしたので、僕が喪主をせざるを得ませんでした。
僕と妹で葬儀を行いました。
その時はあまりの絶望感にもう何も考えられない状況でした。
参列した近所の方の後日談では「僕と妹が揃って自殺するのではないか・・・」と本気で心配していたらしいです。
葬儀が終わり、ホッとする暇もありませんでした。
母親が残した借金を何とかしないといけなかったからです。
また、父親も依然意識不明の重体だったので付き添わないといけなかったからです。
葬儀が終わってすぐ、運よく弁護士を近所の方から紹介してもらえたので相談にいきました。
本当は相談も短時間しか出来ないのですが、状況を知った弁護士の方が「あまりにもかわいそうな奴」と思ってくれたのか色々と解決策を教えてくれました。
そしてリニューアルローンという返済期間を長くする代わりに月々の返済額を減らす事にしました。
結果的に返済額は多くなりますが月々の負担はなんとか生活が出来るレベルまで抑えることが出来るようになりました。
借金の返済の目途が立ったころ、父親も手術が功を奏しなんとか一命を取り留める事が出来ました。
ただ、意識がはっきりしない状況でしたので、長期間のリハビリが必要になるという事でした。
その後、仕事をしながら休みの日に父親の看病+リハビリを行うというという日々が始まりました。
父親はリハビリ開始時は「ここがどこなのか?」とか「今の季節は?」とかも分からない状況でした。
この状況が続いたらとてもじゃないが社会復帰は無理だと思っていましたが、数か月が経ち少しずつ意識がはっきりしてきました。
リハビリ開始からちょうど半年くらい経った頃です。
そしてなんとか社会復帰が出来るような状態まで回復しました。
「やっとこの苦悩の日々から解放される!」
そう思いましたが、ホッとしたのも束の間、僕の精神状態はもうボロボロになっていました。
何をするにもやる気が出ない、世の中がどうでもよく思えるという状況で、仕事も手につかない状況になってしまいました。
おそらく「燃え尽き症候群」に近い状態だったのだと思います。
その後近所の精神科に受診すると「うつ病ですね」と言われました。
本来ならショックを受けるような状況だと思うのですが当時の僕はそれすらどうでもよい状態でした。
そしてとうとう働けないくらいに精神状況が悪化し、派遣社員の仕事も辞めざるを得ませんでした。
そこから1年に亘るうつ病の生活が始まりました。
率直に言って本当に辛い期間でしたし、体験した方でないと分からないくらいに大変でした。
今回のストーリーはここまでです。
次回は「うつ病との闘病」について出来るだけ詳細にありのまま書いていきたいと思います。
自殺未遂をした事、オンラインゲームにのめり込んだ事、家族に迷惑をかけまくった事など本音の内容を書く予定です。
また、どのようにうつ病を治したのか、どのように社会復帰したのかについても詳細にありのまま書きます。
⇒第2回目はこちら