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14/11/30

【13○○の背中がfreee本を作らせた?】36歳 父親はじめました(息子たちに2)ー妻・敦子とfreee本と息子・江と父の話

Image by Olia Gozha

 そんな父は、自分が中学に通うようになってから、あまり家には帰ってこなくなりました。


 債務超過で事業どうするのだ?なんって顔を子どもたちに見せない様に、家に帰ってくるのは、2,3ヶ月に1度。それ以外は、すぐ近くの品川区戸越にある仕事場で寝泊まりをしていたのです。


 正直、その時の自分の感情としては、


「父が帰ってくると家がどんよりするからやだなぁぁっ」

と思っていたし。


 そう考えると、一番すごいのはそこの中間にいたうちの母美津子なのだけれど、母はまだ生きているし、母の話をしだすと終わらないので、今度にします。

 で!父はそんなで事業も債務超過ではあるものの、事業の公共性等の理解があったのか継続していたのだけど、自分が21歳の時に父が無くなった。

 心筋梗塞でした。 今でも忘れもしないけれど、シェ・リュイの仕事が終わって店を出たすぐに、ケータイに留守電が母から入っていて、その知らせを知ったのです。


 特に最後の2年位は、父は、かなり精神的もまいっていた様子だったし、突然の訃報だったから、2つ上の兄と二人乗りで、新宿のマルイに喪服を買いに行く際に、



「最近お父さんの顔最後にいつ見た?」

自分「いや、もう2ヶ月はみてないかも。。。」

みたいな話をしたのを覚えています。


 で、事業は、母が引き継いでその後は少しずつ事業を小さくしていく事をやっていってってなっていきます。

 母の生き様を、紐解いていくと多分それだけで、一冊の本ができそうですが。。。。

 自分の話に戻すと、父が無くなった時はパン屋でした。

 父の葬式の時に、死んだ父の亡骸の前で、『立派なパン屋になるからね』と言ってたくせにその1年後には、パン屋やめてたよねぇぇ と母に冷やかされます。

 

自分はパン屋をやめて、簿記の勉強を始めたのです。


 ではなぜ、パン屋をやめて簿記?なのですが、それは、父の生き様を考えた時に、どんなに仕事への情熱や社会貢献だと突っ走ったとしても、ビジネスであるいじょう

資金が尽きれば、どんなに、情熱に燃えてもかなわない

ということを父の最後の10年を見ていて感じたこと。

 当時自分は、簿記は勿論、経済の仕組みというものを全く知りませんでした。

 当時は税理士や会計士という資格があることすら知らなかったのです。

 だから、自分なりに父の失敗例を解釈し、まずは、自分自身が会計や財務、お金の仕組みの勉強をしないとなと思ったわけです。

 まぁある意味では父のリベンジマッチ的な意味合いもあるのです。

 


【親の子育ての評価は子供が作る】

 あと、これは付随的に思ったという事ですが、父を再評価させるためには自分が何か結果を出さないとなぁというのは漠然と思ってました。

 父が、亡くなって、お通夜が終わった後、火葬場までマイクロバスで移動した時に、前に座ってた参列者の方が、話しているのが、聞こえてきて

「勲さん(父の名前)は、最後の方はいつも大変そうで、事業を拡大しすぎてやっぱり身の程知らずだったのよねぇぇ」

「そうねぇ」


みたいな話が聞こえてきました。


 その時から、自分はいつか父の評価をもう一度させるのは、息子の役割だと考えているのです。


 ちなみに、廣升家は3人兄弟で自分は次男

兄と、妹がいますが兄は美容師で今は経営者としてバリバリやってます。

妹はフルートをやってて、音楽系

自分はパン屋・・・・

みんな職人とかアーティスト系ってのもまぁいいけれど、

世間的に、まぁそれなりに勉強できますよねってのが、兄弟に一人くらいいてもいいよねっていう発想も実はあったりするのです。


 例えば、自分が親だったとして、みんな成績優秀一流大学出てます。


もいいけど、3人兄弟が『美容師、パン屋、音楽関係』より、


『美容師、税理士、音楽関係』

のほうが、3人3様で幅があって面白い。



 いい子育てしましたねぇえてなりませんかね? (ただの思いこみの範疇を超えませんが・・・)

「いい子育てしましたねぇえ」

てなりませんかね? (ただの思いこみの範疇を超えませんが・・・)

 

 話を【事務所スタジオの話】に戻しますが、なぜ、会計の情報発信をしたかったかというと、

そのパン屋の当時、財務諸表が頭の中にイメージできる程自分に知識がなかったわけで、その当時感じていたのは、知らないことって怖いよねということ。

 バブルがハジけたって言うけど、どういう仕組になのかがよくわからなかった。

 15年前なので、21歳当時はインターネットが普及したしたくらいの時期だったので情報も極めて限られていたのです。

 だったら、出来るだけそんな知らない人達に自分の知っていることくらいは情報発信したいなと思ったわけです。 

http://storys.jp/story/9004

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