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14/11/14

高校も大学も中退し、就活もしていない波瀾万丈な人生を歩んだ私が、学校教育を変えたいと決意した話

Image by Olia Gozha

私は、せっかく入学した高校を、理不尽なことがキッカケとなり高校2年の時に自主退学し、その年に大検(大学入学資格検定)を取得し、大学へ進学するも、家計の事情により仕事をせざるを得なくなり、大学も中退しました。


元々福岡出身だったのですが、出稼ぎのため茨城の工場で半年間みっちり仕事をし、家計の問題を解消させ、福岡へ帰りました。


世間を賑わせた派遣切りが起きる1年半ほど前だったので、頑張れば頑張るだけ稼ぐことができました。

社宅があったので、基本は職場と家の往復ばかり。

休みの日でお財布に余裕がある時だけ、社宅の近くのホテルから出てる高速バスを使い、片道2時間半ほどかけて東京へ遊びに行ってたもんです。


性格的に都会っ子のようで、茨城の社宅周りでは全然満足できず(茨城の方、失礼…。)、新宿を始めとするターミナル駅周辺を見まくっていたんですが、ふつふつと東京で仕事がしたい!と思うようになり、出稼ぎを終えて福岡へ戻った1年後に、再度上京することになります。


IT系の仕事で国内企業から外資、ベンチャーまで経験した後、学校教育を変える事業に興味を持つわけですが、本ストーリーでは、卒業で言ってしまうと「中卒」であり、社会が良しとしてきたレールから外れまくり、多分、波瀾万丈な人生を歩んできた私が、何故、巡り巡って学校教育を変えたいと決意するまでに至ったのかについて書いていきます。


いわゆる普通の人生を歩んでいないが故にできた様々な経験は、今ではとてもよかったと思っているし、カネもコネもない自分ができたこと、やってきたことを自伝のように公開することで、似たような境遇だったり、辛く感じてる人の何かのお役に立てればいいなと思っています。


■SMAPすら知らないゲーム少年

生まれは鹿児島だが、物心ついた時は、福岡に住んでいた。

いたってフツーの子供(しいていえば、レゴブロックが大好きだった)で、小学校に入ってからはゲームに夢中な日々。

今では当たり前に子供が夢中になっているポケモンも、当時はブーム前であり、ゲーム好きな私がクラスで流行らせたなぁ。


その頃はあまり意識していなかったけど、我が家は裕福だったらしい。

欲しいゲームはなんでも買い与えてもらえてたし、テストで良い点を取ったご褒美として、当時発売されたばかりのドラクエ6を学校をズル休みしてやりまくっていた。

…もちろん、クラスメイトにはゲーム目的で休んだとバレていたが。


望みはなんでもやらせてもらえていたが、ポケモンの全国大会だけは参加させてもらえなかった。

たしか、東京は危ないところだから、という母親の意見だった気がする(笑)

あの頃は福岡では敵なし(自称)であり、テレビで見るだけだった強者との戦いをやってみたかったのだ。


このように書いても酷さがわからないと思うが、夏休みなんかは、起きてる間ずっとゲームをしていた記憶がある。

当然ゲームばかりだったため、J-POPなんて知らず、テレビもロクに見ないため、友達との話題もゲームになる。

J-POPなんて知らなかったし、SMAPすら聞いたことがあるレベルだった(笑)



そんなゲーム少年は小学校時代、2回の転校をして、3つの小学校を経験する。

ゲームばかりで人と感性が違ったせいか、3つ目の小学校では、いわゆるいじめにあい、ちょっとした不登校にもなった。


■野球に大ハマリ。そして家族の転換期

そんなゲーム漬けも小学校の終わり頃には一旦落ち着き、今度は野球になっていた。

何故野球か?


ようやくJ-POPやテレビというものに興味を持つようになった榊原少年は、イチローにゾッコンになってしまったからだ。

「将来の夢はプロ野球選手!!」と小学生あるあるwww的な夢を語りだし、バッティングセンターにも通って特訓を開始。

ゲームもコナミの「実況パワフルプロ野球」シリーズなど、野球モノばかりになった。


中学校では野球部に入り、学校以外は野球か、ドカベン(野球漫画)を読むか、プロ野球とかスポーツニュースを見るか、という生活を送っていた。

イチローに憧れ、外野手を希望していたが、ドカベンを読んで、白新高校の不知火守にも憧れ、ピッチャーに転身。

ホント我ながら単細胞である。



とはいえ、学校が合わないのは相変わらずで、中学2年の時には既にクラスで浮いていた。

嫌々ながらも通い、勉強も程々に野球に打ち込み、日常のストレスを発散させていた。


そして中学3年を迎え、2学期のとある日、学校へ急に電話がかかってきた。


「母親が倒れた---」


!?


最初はワケがわからなかった。

当時は学年集会のようなイベントで3年生が全員体育館に集まっていた時、1人荷物をまとめて帰宅する。


母親は昔から身体が強く、風邪一つ引かない人だった。

今思うと、固定概念が強く、思い込みや間違った認識もあったが、とにかく家族のために尽くし、食べ物も一番良いところを私に与えてくれていた。


小学校2年の頃、父親がバイクで大事故にあい、二度と歩けないと診断が降った時も、毎日病院への往復(徒歩)と、家事炊事洗濯をこなしていた。

ちなみに、父親は奇跡的に回復し、今は普通に歩けている。


そんな母親が倒れたわけだから、驚かないハズがない。

割りと自宅に近い病院で一次診療をしてもらった結果、違う病院へ行くことに。


向かうことになった先は、『独立行政法人国立病院機構 九州がんセンター』



これまでの無理が祟ったのか、よく吸っていたタバコが原因だったのか、母親は肺ガンだった。

それも重度の。


さすがに強かった母親も、精神的に参っていた。

そして学校でのいじめもだんだんエスカレートし、私自身も参っていた。

母親がたまに私に当たりだす。

今考えると当然かもしれない。構って欲しかったんだろう。

だが、当時の私はそんな気持ちなど露知らず…。


ストレスの矛先を恋愛に向けていた。

相手は、学校のマドンナに近しい人だった。

笑顔がとにかくキュートで清楚で、勉強もすごくできた(主要5教科のテストで500点満点中、480点は余裕で超えていた)。


当時の榊原少年は何を血迷ったか、クリスマスプレゼントを渡して告白しようと考えた。

家庭科の先生から個人的に教わった下手くそな裁縫スキルで、手編みのマフラーを作った。

血迷いすぎて我を失った私は、ダイエーに駆け込み、ダイエーの商品でもないのに包装をお願いする。



だがろくな手順など知らない私は、前日に身体が縮こまるほどの勇気を振り絞って電話し、

その子が通っている塾の近くのカフェに呼び出した。


だが、暗くて浮いてた私が急に呼び出したせいか、不安がったその子は、友達(しかも同じクラス)を連れてきていた…。


その子の友達はその時だけ空気を読み、二人きりにさせてくれたが、プレゼントは受け取ってもらえず、木っ端微塵に玉砕した。

更にあろうことか、その子の友達がお喋りなクラスメイトに「榊原くんが○○さんに告白して振られた」と吹聴。

なにやってくれたんだよ…。


家にも学校にも日常を感じることができなくなった私は、木っ端微塵に砕け散ったクリスマスイブの日、家出した。

とはいっても、適当なマンションの駐車場で一晩を明かしただけである。


だけど捜索願いが出されていたらしく、クラスメイトも協力して俺を探してくれていたらしい。


翌日、自宅へ帰り、怒られはしたものの、事情を理解してくれた親に助けられ、あまり深く追求されることはなかった。


母親がガンで精神的に負担をかけてはいけない時期に、なんてことをしてたんだ俺は…と今では深く反省している。

それにしても、その才色兼備の美女は今どうしているのだろうか。

たまにFacebookでも検索してるのだが全然出てこない。

知っている方居たらご一報して欲しい。



■中学校卒業と母親の死

3学期---

初日に学校へ行ったが、どうやら学年全体に俺がそのマドンナに玉砕したことが伝わっていたらしく、異様な空気だった。

そんな空気に耐えることなどできるはずもなく、完全に不登校になる。


保健室が居場所だった。

保険の先生は、それまで怖い人という印象だったが、私が事情を洗いざらい話すと、全てを受け入れ包み込んでくれた。

たまに担任の頑固な先生が私を連れ戻しに来るが、保険の先生が形相を変えて私を守ってくれた。

だんだん申し訳なく思い、私は学校にも行かなくなっていった。


母親が入院する国立九州医療センターに共に寝泊まりする日々が続いた。

学校も塾も行かなくなり、高校受験も2ヶ月前ぐらいを迎えたあたりから、急に成績が伸び始めた。

これまでわからなかったところが途端にわかるようになったり。

お陰で、高校受験は、最低限受かりたかったところへ受かることができた。


中学の卒業式だけは未だ覚えている。

その日だけは、俺を含め、不登校になった人たちが集結した不思議な日だった。

式が終わり、校庭で仮の解散となり、あとは各々が写真撮ったり話したりしてる中、俺だけは足早に学校の門を出て、家路へ急いだ。

こうして嫌で嫌で仕方なかった中学時代は終わった。



高校は自宅から自転車で1時間程のところにある。

その頃、母親は抗がん剤や放射線治療が効いてきたのか、快調に向かっていた。

でもまだ安心できない。


当時は中学3年の1割ぐらいが携帯電話を所持し、私のように高校に上がるタイミングで携帯を買ってもらえる人が多かった。

当時は学割のCMで安さをアピールしていたauの携帯電話を買ってもらった。


本当は学校へ持ち込むことはできなかったが、担任の先生に母親の事情を話し、特別にOKをもらっていた。


義務教育と違う高校教育は新鮮で楽しかった。

クラスメイトも、いわゆるいじめをやるような連中は居なかった。

少し安心していたゴールデンウィーク明けの5月7日---

急に母親の病室でアラーム音が鳴った。


医師が急いで駆け寄った。

私と父親は病室に入れず、外で待つよう言われた。


本能的に嫌な予感がしたが…それは当たっていた。

様態が急変し、大量の吐血と共に意識を失い、そのまま亡くなった。


身内の死というのは、少しばかり実感できず、だんだん現実と感情が一致してくると、途端に悲しみが増大し、止まらなかった。

そのうち目を覚ますんじゃないかとずっと思っていた。

そんなことあるはずないのに、何事もなかったかのように起きるんじゃないか、起きてほしい、と思っていたのだろう。


結局、母親には親孝行らしい親孝行はできなかった。

与えてもらったものと返したものだったら、比較できないほど与えてもらった。

だから今は、美味しいお店を見つけたら、更にそこから選りすぐりなところに父親を連れて行ったりしている。

親孝行、したい時に親は居ずって言葉もあるぐらいだから。



■恋、恋、恋。そして高校中退

高校時代は、人並みに恋もした。


まず、担任の先生。

ドラマではありがちな展開だ。

担当は英語で、一回り年上だったが、綺麗で素敵な先生だった。

告白して玉砕したが、なんだかんだ優しくしてくれ、先生の母親とも仲良くなり、よくしてもらえた。


高校2年になって担任も変わり、その先生も当時の彼氏と結婚を控えていたあたりから、違う恋をようやくするようになった。

ふと小学校の頃にいいな~と思っていて、仲がよかった子に会いたくなった。

当時の卒業アルバムには、今では想像できないだろうが、卒業生の住所と電話番号が書いてある。


その子は、身体が病弱で、自宅に居る時は酸素ボンベが手放せない子だった。

小学校3~4年の頃に一緒だったが、たまに体調不良で学校を休んでいて、当時は家が近かったからプリントを届けてそのまま遊んでいた。


その子への恋は、私がすごく重い存在になっていた。

気を使うことが悪い方向へ向かい、相手が重たく感じるほど尽くしてしまったことで、それがかえって負担に感じさせ、その恋がうまくいくことはなかった。


順序が逆になってしまったが、高校2年になり、野球もゲームも趣味レベルになって以来、何故か書店通いをするようになった。

理由は覚えていない。

でも漫画や小説ではなく、自己啓発本を立ち読みしまくっていた。

マーフィーの法則シリーズだったり、○○才までにやっておきたい○○、などだ。



そういうものを読みあさるうちに、高校の勉強に疑問を抱くようになった。

高校1年の頃、好きだった担任の先生に猛アピールするため、勉強しまくり、クラス2位、学年6位を叩きだしたが、全国模試では悲しいくらいの成績だった。

その時に思ったのは、学校のテストで高得点を取るための勉強と全国模試や大学入試で高得点を取るための勉強法は違う、ということだった。


そして高校2年からの選択授業が、それまでの学力テストの結果が考慮されていなかった。

日本史か世界史かを選択する必要があり、日本史に人気は集中。

私も日本史を選択したが、選択者が多すぎて、世界史を選ぶことになった。


加えて、私が通っていた高校は、卒業生の半分が福岡大学へ進学していたためか、カリキュラムが高校2年から福岡大学受験寄りになっていった。


決定打となったのが、高校2年の時の担任の先生が課した理不尽な連帯責任制度だ。

学校は今も昔も変わらず、縦横綺麗に机を並べて座っていると思う。

それに対して、自らが座っている列の"誰かが"宿題を忘れると、"その列全員に"ペナルティの課題が出される。

その課題は、古文の単語を300回ずつ書いてくるといった、全く何の意味もないものだった。

しかも当時の私が座っていた列には、宿題をよく忘れるやつが居た(笑)


別にその宿題を忘れるクラスメイトを恨んではなく、どちらかというとそのような変な連帯責任制度を作った担任を恨んでいた。


学校のテストと大学入試テストの差、選択制授業とカリキュラム、理不尽な連帯責任…

それらがリンクした時、「退学したい」と思って行動していた。


退学という決断に踏み込めたのは、自己啓発本や受験勉強本のお陰もある。

これらの本のお陰で、高校に行かなかったり、高校を辞めたりしても社会で生きて行けている事例を知ることができていた。

もちろん事例としては少ないだろうし、確率で言うと低いかもしれない。

でもできた人いるんだから、私にだってできるって思っていた。

明確な根拠があったわけでもなく楽観さもあった。それが功を奏したのかもしれない。


父親は、最初は反対だったが、説得したら何も言わなくなった。

学校側も、担任の先生だけは最後まで反発していた。

後で知ったことだが、既に自主退学者が1名居て、私が2人目になる。

退学者が出るとボーナスに影響が出るらしい。


ちなみに学年主任の先生はむしろ、

学年主任「やりたいことが見つかった故の退学なら歓迎すべきじゃないですか!!」

と言っていたそうな。

今考えると、すごい良い先生だった。今なら惚れる自信ある(おじさん先生だけど)。


担任の先生は

高2担任「高校の時の繋がりは一生モノだから、今学校を辞めるとそういう友人たちとの繋がりもなくなる。今辞めたら、10年経った時に絶対後悔する」

などあの手この手で言ってきたが、私からすると、

榊原「高校を辞めたぐらいで繋がりがなくなるような友人は最初から要らない」


と思っていたからなんともなかった。

そして今はFacebookがある。

高校2年の頃、3ヶ月ぐらいしか繋がりがなかった人ともFacebookやLINEで繋がれ、今も仲良くしている。


結局、3ヶ月ぐらい辞めるまでにかかってしまったが、無事に退学し、自由な世界で生きることとなった。

今現在、高校を辞めたことについては、1ミクロンの後悔もしていない。



■借金生活と初の上京生活

退学して間もない頃、当時住んでいた分譲マンションを売ろうかどうか悩んでいる話を父親から聞いた。

何事かと思って聞いてみると、元気ピンピンだった母親は、お金が勿体無いという理由で保険を解約していたため、半年間ちょっとのガン治療に莫大な医療費がかかり、そこそこ豊かだった我が家は、一気に借金を背負うまでになってしまっていたそうだ。

それも、借金を返すために違うところから借金をする、という完全に泥沼化していた。

マジかよ…。



不要なものを売り払っても雀の涙なため、購入したマンションも売り払い、60平米の3LDKから、14平米のボロいワンルームアパートへ移った。

一人暮らしならまだしも、父親と2人暮らしで14平米は狭かった。


ボロい上に1階だったから、私の天敵であるGも度々出現した。

お湯が出る量も1日あたり決まっていたため、料理や皿洗いにお湯を使うと、シャワーを浴びている時にお湯がなくなり冷水になるため、これまで気にしなかったことを気にする生活だった。


高校を中退した私は、もちろん大学へ進学する予定だったから、取り急ぎ大検(大学入学資格検定)を取る必要があった。

大検は難易度はそれほどないものの範囲が広い。

高校2年の1学期分しか単位を所持していなかったため、7科目ぐらいあった記憶がある。


ところが、比較的裕福な生活から貧乏生活に突入したため、書籍を買う余裕が全くなかった。

大検の過去問や練習問題のテキストは1冊1,500円~2,000円ぐらいしたが、それがあれば15食分ぐらいにはなるわけだ。


でも受からないとどうしようもないと思ったため、毎日書店まで通い、立ち読みで勉強した。

ブツブツ言うわけにもいかないから、脳内で答えを出して、答えのページと問題のページをいったりきたり。

間違った問題は携帯電話のメールの下書きに問題番号を記録し、翌日書店に来た時に復習した。

食事は書店のトイレでカロリーメイトを頬張り、水は自宅から持参。


そんな勉強法で望んだ大学入学資格検定は、幸い1発で必要科目全て合格し、無事に大学受験の資格を得ることができた。



ちなみに、博多駅の交通センタービルにある紀伊國屋書店だったため、かなり大きな書店で、店員さんの目にはあまり入っていなかったと思うが、迷惑かけたなぁ…と今では思っている。


そして大学に行くわけだが、その頃インターネットで知り合った友人から薦められたオンラインゲームを始める。

サイバーエージェントの子会社であるジークレスト社が運営していた「トリックスター」というMMORPGである。

課金ゲームやガチャという概念が世の中に浸透する前のゲームだったので、ある意味その手のパイオニアだ。

ドラクエやFF、聖剣伝説などのRPGが大好きだったため、このゲームにも相当ハマった。

最終的に、2ちゃんねるに晒されるほどの知名度を得たし、ギルド(コミュニティみたいなもの)同士の強さを競うギルドバトル大会で優勝したこともある。


バイトも片手間にしていたが、コミュ障なので人間関係が辛く、スーパーの品出しやゲームショップの接客など、どこも長続きしなかった。


自分のお金は自分でどうにか工面しながら、家事は父親と二人三脚でこなしながら生活していった。

元々、父親は家事が全くできなかった。

母親がすごすぎたので、やらしてもらえなかったというのもあるが。

そして親しかった人たちはみな口を揃えて「あそこは母親がもしいなくなったら野垂れ死ぬ」とほとんど本気で言っていた。

実際、母親が亡くなった後は、父親も料理を始め、私も家事周り全般をやるようになった。


父親としては、慣れない仕事をしながら家のことにも気を配っていたこともあり、持病の糖尿病&不整脈も重なって、入院することもあった。

19の夏、家計の問題で、どうしても私が仕事をしなければいけない状況となったため、大学を退学し、仕事をすることとした。


特にやりたいこともなかったため、稼げる仕事にしようと思って色々見ると、住みこみだったり社宅に入り、工場勤務をするのが一番だとわかった。

当時、オンラインゲームで仲がよかった人が関東に集中していたこともあり、茨城の工場に決める。


すぐさま荷物をまとめ、新幹線で東京へ。

ずーーーっと過ごしてきた福岡を離れ、親元を離れ、慣れない土地と生活へ踏み込むことになる。



■東京⇒福岡⇒東京

当時住んでいた茨城県神栖市は、東京駅から高速バスが出ていて、片道2時間半ぐらいで着く。

…が、福岡暮らしだった私には、東京駅は大きすぎて、すっかり迷子に。

なんだかんだ茨城に着くも、想定外なことが起こり、給料までお金が持たない問題が起きた。


そんな時、オンラインゲームで知り合った友人が、1万円を銀行に振り込んでくれた。

オンラインゲームをやらない人は、その程度の付き合いで助けてくれるの!?と思うかもしれないが、

チャットでずっと話してると、大体どんな人なのかは想像できるようになる。

お互い、信用に足る相手だと判断したからこそ、リアルでも会うことになっていたし、それもあったからポンと支援してくれたんだろう。

本当に感謝した。


今ではあまり珍しくもなくなってきてるが、オンラインで知り合った女性とリアルで付き合うことも経験した。

オンラインゲームで仲良くなり、ゲーム内でだけ恋人になるケースもあったし、そのままリアル恋人にまで発展することもあった。

当然ネカマ(女性キャラを使い、言葉も女性っぽく振る舞うが、中身は男)も居たし、写真詐欺で会ってみたら全然違う人だった、という事例もあったようだ。


仕事は精密機器を作るライン作業で、作業室に入る時は、頭の上から足の先まで衛生服を着て、クリーンルームに入る。

そこで12時間、休憩を挟みながら立ちっぱなしで作業する。

24時間稼働していて、日勤と夜勤があった。

1週間毎に日勤⇔夜勤を交代するシステムなため、夜勤の週は、金曜の朝には仕事が終わり、月曜の朝まで仕事がないため、結構遊ぶ余力もあった。


とはいえ、茨城での生活は退屈で、電車に乗るにも、最寄り駅まで自転車で90分は必要だったし、レンタルビデオ店は20時には閉まったり、色々とカルチャーショックだった。



茨城生活2ヶ月めぐらいが最もピークで、皆勤賞に別途ボーナスがついたから、ひたすら仕事をしまくり、ライン作業でも記録を作り、稼ぐことに集中した。

当時は、リーマン・ショックの1年半ぐらい前だったので、派遣切りが起きておらず、頑張れば頑張った分だけ稼ぐことができた。

社宅であり、母親が亡くなって覚えた自炊スキルも活用して外食はほとんどしていなかったため、結構な金額がすぐに貯まった。


多分、稼いだ金額の7割~8割ぐらいは、親へ送っていたと思う。

それでも余力があった時は、鹿島セントラルホテルの高速バスに乗り込み、東京へ繰り出した。



新宿、渋谷、池袋、銀座、秋葉原などなど…次行った時はココに行く!と計画しながら繁華街をひたすら練り歩いて見て回った。


福岡には、天神と呼ばれるデパートやショッピング街が広がる繁華街があるが、東京は天神が至る所にある感じで、繁華街好きな私にはたまらない街だった。


茨城でのリフレッシュは、ほとんど社宅のPC前で過ごしていたため、だんだんPCに興味を持ち始め、IT系の仕事がしたいな~、とぼんやり思うようになる。

半年間がっつり仕事をした後、福岡へ一旦帰ることにした。

福岡が恋しくなったのと、福岡でキャリアを積んで、東京へヘッドハンティングのような形で再度上京しようと考えていたからだ。


福岡でIT企業の求人を探し、入社するも、とにかく酷かった。

無給だったからだ。

無休ではない。変換ミスではないですよ。

無給だったんです。


からくりはこうだ。

入社後、まず3ヶ月間の研修があり、その間は日給という形で支払うと表記があったが、現実は日給が発生するのは経験者のみ(未経験入社は無給)。

しかし、未経験者でも課題をクリアすることで経験者と同様に日給が支払われるようになる仕組みを用意しているとも言われた。

だがその課題は経験者ではないとクリアできないボリュームと納期であったため、誰もその仕組みが活用できた人はいなかった。

そして3ヶ月の研修というのも嘘で、いわゆる研修卒業面談というものがあり、そこで研修担当を納得させられた場合のみ研修が終わり、他の企業へプログラマー派遣という形で配属し、やっと給料が発生する。

人によっては半年間研修をしている人も居た。


未経験だったから勉強させてもらうという姿勢で居たが、学校と企業の悪いところをミックスしたような風土を目の当たりにし、このままではダメだと3ヶ月で退職。

同期は10名居たが、私が最後の1人だった。

早い人は3日目から来なくなっていた。


ちなみに、当時はインターネットを遊びぐらいでしか使っていなかったが、後日調べたところ、

"福岡で就職してはいけないブラックIT企業の第一位" に輝いていた会社だった。

数ある中からそこにピンポイントで入って経験した俺すげえ。


…前途多難だが、ここで諦めるわけには行かず、求人を色々チェック。

たまたま東京でエンジニアの仕事ができる案件があったため、応募したところ、見事受かる。

特に最終面接は東京であり、自費だったため、落ちたら洒落にならなかった。

再度上京資金を貯めるため、食品倉庫のバイトを始め、その会社には翌年4月まで入社を待ってもらうことになった。

そして再度上京することとなる。



■自殺願望と産業カウンセラーとの出会い

結構な規模の会社だったため、研修もしっかりしていた。

22才だったが、中途採用枠だったので、同期の中では最年少だった。


そんなこんなで仕事の経験を少しずつ積むようになるのだが、色々と酷い出会いも多かった。

メンヘラな性格の女性に一方的に加害者扱いされ、社会的に抹殺されそうにもなった。

相手が黒であるという証拠があったから事なきを得たが、今でも尊敬しているマネージャーに守ってもらえなかったら、どうなっていたかわからない。

あと、ネットワークビジネスをやっていた女性が、私に興味があるかの如く思わせぶりな態度で近づき、目的は商品を売ることがわかったり…

そういうことが続き、完全に女性不信になっていた。


女性不信になりたくないから信じてみようと努力するものの、精神衛生的に、そのような変な人が寄って来やすかったのだろう。

完全に悪循環だった。


仕事ではなんとか結果を出し、社内の選抜研修でシステムに関する研修をガッツリ受け、国内の大手SIerでインフラエンジニアとなる。


が、結局精神を病みかけ、死にたい死にたいと思うようになっていた。


当時、秋葉原通り魔事件で捕まった加藤智大を見て、肯定は当然できないが、なんとなく気持ちが理解できたし、自殺したい人の気持ちも理解できた。

よく、自殺を考えている人に

「死ぬなんて勿体無い。生きていれば良いことも絶対ある!」と言う人が居るが、そんなことわかってんですよ。


生きていればいいこともあるだろう。

でも、"いつか起きるその日まで" 生きる活力がないわけですよ。


とにかくネガティブで、私が死んでも困る人なんて誰もいないって思ってた。

そりゃ親は当然悲しむだろうが、親以外の誰かから必要とされたかった。

結局、死ぬ勇気がなかったから、もうちょっともがいてみようと思って、カウンセリングを受けてみようと思った。

が…とにかく高い。

Google先生で調べたところ、1時間20,000円とか取られる。

なんだこれは。


と、そんな時、1時間6,000円という破格でやっていたカウンセラーを見つけた。

しかも、カウンセラーのオフィスに通う必要もなく、公共のカフェで行うスタイル。

大企業で激務をしている時に過労で倒れ、そこから生き方や働き方を見直し、今のスタンスとなったストーリーにも惹かれ、申し込んだ。


結論から言うと、その産業カウンセラーに何度も助けられた。

今私がこの世に生きているのは、この産業カウンセラーのお陰以外の何者でもない。


考え方や人生観など、様々なものが良い影響を受け、変わることができた。

人生においてターニングポイントがあったとしたら、第一のターニングポイントは、母親が亡くなった時。

そして第二のターニングポイントは、この産業カウンセラーとの出会いだ。



■人は結局変わらない

仕事を通じて、人は成長するが、企業も成長する。

その成長速度やベクトルに亀裂が生じた時、人は転職を考えるようになると思っている。


国内大手SIerでも納得できないことはいくつもあったが、マネジメントが楽しかったので、業務改善をやりまくり、仕事を徹底的に効率化させた。

やりきった感もあり、巡り巡って、外資系企業でも仕事をした。


私はエンジニアとして技術を追求することよりも、技術をツールとしてソリューションを提供する、マネジメント側のポジションが向いていると判断したため、ちょうど声をかけられたベンチャー企業で働くことにした。


が…ここがまたぶっ飛んだ会社だった。

社内いじめが平気であるのだ。

まるで中学校のようなところだった。

何をするか、ではなく、誰がするかで全てを判断していた。

全く同じ言動であっても、諸悪の根源のお気に入りかそうでないかで、その取り巻き含めた態度は全く異なった。


陰口、悪口が社内に蔓延しており、仲がいい悪いに関係なく、人のプライベートを根掘り葉掘り嗅ぎ回り、誰かに相談したことは基本的に社内で即共有されていた。

誰が誰と仲がいい、何をした、○○はこういうことで悩んでいる、○○は○○が好きなんじゃないか---

この手の話の共有スピードは、ウサイン・ボルトも驚くスピードであり、会社の数字の話より、このような中学生的な会話が中心だった。

この人にしか話していないことが、いつの間にかほぼ全員が知っていたりしたことも何度かあったし、見たこともあった。


妬み・嫉妬の要素があると即叩かれる対象となっていった。

体型のこと、服のこと…本当にいじめの原因が中学生と変わらないのだ。

結局、私にスカウトメールを送ってくれた人事担当者を始め、マトモな思考を持った優秀な人はどんどん退職していった。


私は、高校の頃から理不尽なことを嫌い、結果中退して我が道を進んだ。

誰かを叩くことで自分の価値を上げようとする連中に同調なんてできないし、諸悪の根源も私のことを敵視していた。


まともな会社は、組織内の和を乱す人が居づらくなって去るものだが、ここは、組織内の和が乱れた結果、居づらくなった人が辞めていくという変わったところだった。

残っているのは、諸悪の根源に同調している人か、見て見ぬふりをしている人たちのみ。

さすがに、あることないこと言われまくり、噂され、陰で叩かれ(叩いてる情報は伝わってきていたから知っていた)精神的に疲弊していった。

大体発信源は決まっているが、30名程度の村社会だと、派閥も見えやすい。

当時は100時間近く残業していたこともあり、私はなんだかんだ会社に染まっていて、そこで働くことに無意識にこだわっていた。


ところが、このまま居たら間違いなく頭がおかしくなる、というラインを超えた瞬間、もうどうでもよくなり、後先考えずに離れた。

面白いことに、そこまで追い詰められ、出社しなくなった途端、見てみぬふりをしていた人たちから連絡がきた。

気付いていたわけだから、それを無視した事実を受け入れたくなかったんだろう。

「私は気にかけていた!」と証明することで、罪悪感を感じないようにしたかったんだろう。

結局、そういう人は同調していた人たちと何も変わらない。

ここの環境が酷かっただけなのかもしれないが、大人がこのようなレベルなんだ。

子供がいじめに対して見てみぬ振りをしても何も言えないのではないか。


私はかなり精神的にダメージを追いながらも、身を守ることができた。

これが、今やりたいことに繋がっているので、ここまで追い詰めてくれたことを、もしかしたら感謝するべきなのかもしれない(笑)


なんでこんな中学校のような会社がまかり通っているんだ?

総務・人事を担当している諸悪の根源が原因で退職者がどんどん出ているのに、何故諸悪の根源が昇給しているのだ?


結局、私は理不尽なことに耐え切れない。

会社なんて、結局入ってみないとわからない。

じゃあどうするか?

結局、会社で働いて給料を貰うって、我慢料なのか?


---そんなはずがない。


ゲーム少年、インフラエンジニア、組織マネジメントと携わってくると、自然と根本原因を考える癖がついていた。

考えに考え抜いた結果、このような理不尽なことが現実として起こっているのは、学校教育にある、と結論づけた。



■学校教育を変えれば世の中の大抵の理不尽なことはなくなる

何故、学校教育が世の中を変えることになるのか。

子供は、どんな情報を得てどういう人と付き合うかによって将来が決まる。

視野を広げる教育を行い、社会について学ぶ場を学生のうちに持つことで、おかしいことをおかしいと言える人を増やす。

そういう人を増やすことが、世の中をより良く変えることに繋がる。


巷で話題のブラック企業について考えてみよう。

何故、コマとして使い捨てられていると認識しながら、みんな仕事しているのか。


大きく2つある。


1. 今、自分が辞めると会社やチームの人に迷惑をかける

2. 転職先が決まっていない


このような思考になるのは、学校教育において「人様に迷惑をかけないこと」を言い聞かせられ、

「継続すること」「頑張ること」の大切さばかりを教えられてきたからだ。


これらはもちろん大切なことだ。

しかし、「逃げること」「断ること」「撤退すること」「失敗すること」などの大切について、少なくとも私は学んでこなかった。

今では道徳の教科書で少しは扱っているようだが、根本は大して変わっていない。


極論言うと、総理大臣ですら替えが居る。

別にあなたが辞めても仕事は回っていくから気にする必要はない。


また、本来動物というものは、命に危険が及ぶと本能的に逃げる。

うさぎだって猫だって、動物はなんでもそうだ。


逃げること、失敗することを悪とするかの如く、同調圧力の中で育つと、そのような動物的本能すら奪い取ってしまうんだろう。

それが過労死に繋がり、鬱に繋がり、自殺に繋がる。

また、イスラム国に参加しようとした北大生のような事例にも繋がる。


転職先が決まっていなくても、身に危険が及んでいるならば、辞めてしまえばいい。

実家があるなら実家へ帰ればいいし、実家がなければ、友人や知人に居候させてもらえばいい。


身を削って仕事に打ち込むことを美徳する風習もあるが、結局、命をかけるに値することなんて、世の中にはないのだ。


もっと他人に頼ればいい。甘えればいい。

頼って甘えた分、他の誰かに返していけばいいし、優しくしてあげればいい。


そのような価値観は、学校教育ではないと身につかない。


大人になると、様々なセミナー、勉強会がある。

当然、このような生き方や働き方、考え方に関するものもある。

だが、悲しいくらい何も効果がない。

何故なら、大人になる上で、価値観や人生観が形成されているからだ。


私が産業カウンセラーによって、価値観や人生観がより良く変わったのも、命の危険があったからだ。

大人になると、命に危険が及ぶようなことでもない限り、そうそう変わることはできない。


だから、そういうものが形成される前の子供の時に、どれだけ視野を広げれるかがカギとなる。


じゃあ、何故学校ではそのようなことを教えることができない(もしくは難しい)のか?

答えは簡単で、学校の先生は、基本的に大学を卒業して即、社会を経験しないまま教師に就いているからだ。


それだと、どうしても視野が狭くなってしまう。

学校の先生という職業がメジャーな職業ならば、それもアリだが、すごくマイナーな職業だ。

例えば、社長と呼ばれる人は、世の中に250万人ほどいる。

これはチェーン店ではない飲食店の店長(小売も同様)を社長扱い(ようは経営者)しての計算だ。

それに対し、学校の先生は、小学校~高校まで全て足しても91万人しかいない。


学校の先生の人数は、社長の1/3なのだ。



■私だからこそ、学校教育に携わる意味がある

起業の敷居は昔に比べると相当下がっていると言われている。

資金はクラウドファンディングで調達できるし、人はSNSで集めることができる。

そして、先進国でもある日本は、モノやサービスが溢れている。


シェアハウスやSNSを活用することで、生きていくために最低コストも下がっている。


幸せの形や生き方が多様化している中、全く新しいモノを生み出すというよりも、既存の古い仕組みをアップデートすることが起業の根底にあるように思う。

そして、ストーリーも大切になってきた。


何故その人がやる必要があるのか?ということだ。

例えば、店舗数だけなら、楽天よりも多い、無料ECサービスBASEの鶴岡代表は、自身の母親が得意としている裁縫スキルを活かした洋服や小物を気軽に誰かに売れる仕組みを作りたい、というストーリーの元、BASEが生まれた。


儲かるビジネスは、他社がすぐ真似してくる。

大企業だってそれは同じで、リクルート社なんかは流行に敏感だ。


例えば、あなたが始めた事業を、リクルート社が真似してきた場合、ストーリーの有無が存在意義を大きく分ける。

単に儲かるから、という理由だと、あなたがやろうがリクルート社がやろうが変わらない。


でもストーリーがあると、その時点で他社と差別化できてるし、それがユーザーへの付加価値にも繋がる。


私の場合、社会が良しとしてきたレールから外れてきた。

高校も大学も中退し、就活もせず、信じていた人に裏切られたり、会社に入ってまでいじめを受けたり…

学校生活や社会人生活でたくさん悩み、挫折してきたからこそ、それらの経験を生きたコンテンツとして学校教育へ提供することで、子供も親も安心して生きていける世の中を作ることに繋がると判断したし、それこそが私だからこそできること、やる意味があることだと思った。


何より、私が作ろうとしているサービスは、自分自身が欲しかったもの。


現状のシステム上、レールから沿った教育になりがちであり、それが結果的に就活の失敗を人生の失敗にように重く受け止めて自殺に繋がったり、やりたいことがないことが悪のような風習に繋がる。

これは学校の先生が悪いのではなく、閉ざされている学校教育のシステムそのものが問題だと感じている。


だから私は、民間経験者と教師が協業・分業し、学校教育に欠けているものや不足しているものを補い、学校教育をアップデートさせる(学校教育2.0と呼んでいる)ことを始めたいと思った。

幸い、前のベンチャー企業を辞めて、人付き合いも一新された私は、良い出会いも多く、ちゅうつねカレッジという、ビジネス向けのオンラインサロンで知り合った仲間と共に動けることになった。


そんな中、サイバーエージェントが運営しているクラウドファンディングサービス「makuake」のことについて詳しく知り、元々興味があったクラウドファンディングでプロジェクトを2014年11/14(金)からスタートさせた。

https://www.makuake.com/project/rebirthink

何故、高校も大学も中退し、就職活動もしていない私が、学校教育を変えたいと思ったのか?

ここまでの長文過ぎるほどの長文を読んでいただけた方には伝えることができたと思う。


苦労は買ってでもしろと言われるが、不必要な苦労はしなくてもいいと思う。


人類の歴史は、先人の苦労や失敗の経験と記録、改善からここまで発展した。

昔は、毒キノコなんてものの見分け方も、食べたらどうなるかもわからなかった。


昔の人がそのような事例を経験し、記録として受け継いできたからこそ、現代ではそのような事例はほとんどなくなった。


子供の教育だってそうだ。

大人になった時、子供の時にこんなことを知りたかった、学んでおきたかったという事例は、私の周りでもすごく多い。

だったら、それをふまえて変えていけばいい。


カネもコネもなく、社会が良しとしてきたレールから外れてきたけど、誰かに頼り、固定概念に囚われず疑問を持っていたことが、本当にやりたいことに繋がるカギになったようにも思える。


これを読んでくれた人の中で、近しい境遇だったり、レールから外れて悶々としている人が居たとしたら、その人の背中を押すことができれば幸いである。


※2016年2月3日追記※

クラウドファンディング、無事に成功し、現在は関東の学校を中心に、教壇に立たせてもらい、

やりたかった教育の形を少しずつやっている。

理想を語るのは簡単だけど、実行は難しい。

ただ、本気でやりたいなら、考え続ければいい。

解決できる課題しか、そもそも降ってこないんだから。

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