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14/6/9

MY STORY~1人のSexual Minorityの人生~

Image by Olia Gozha

今は亡き母に伝えたい。

沢山心配かけて、迷惑かけて、涙を流させて…。

あなたの理想的な「息子」として生きられなくてごめんなさい。

でも、あなたが母でいてくれたから、私はこんなに誇れる人生を生きていると、今なら胸を張って笑顔で言える。私を産んでくれて、私の母でいてくれてありがとう、と。

記憶は、 16歳から始まる。

それ以前の記憶は、断片的にしか思い出せない。

私は、地元にある私立高校の生徒だった。そこは当時男子校だった。

中学時代の思い出はほとんどない。

あまり楽しくなかったことだけは覚えている。

でも、人生における本当の苦しみは、ここから始まった。

はっきり覚えているのは、その高校を選んだ理由。

出身中学からの進学者が私だけだった、ということ。

中学まであまり楽しい思い出のなかった私は、「バラ色の高校生活」を夢見ていた。

しかしながら、なぜこの高校には私しか進学しなかったのか。

それは当時の校則が不評だったからである。

頭髪の長さから、冬の防寒具に至るまで、ほぼ全てにおいて学校指定の物が用意されている、お堅い学校だったから。

地元では進学校として多少名は知られていて、同じ中学出身の受験者も何人かいたが、誰もが「あくまで滑り止め用」と認識していて、当初から誰も進学する気などない高校であったことを知っていた私は、その時、まさか自分の母校になるとは思ってもいなかった。

学校には、普通コース、特進コース、中高一貫の特進コースがあった。

私は普通コースを受験した。

当初は後日受験が行われる近隣の公立高校に進学する気でいた。

しかし、いざ蓋を開けてみたら、なぜか軌跡的に成績が良かったのか、特進コースに合格。それを喜んだ両親の勧めもあり、公立高校を受験することなく、この特進コースへと入学することなったのだ。

当時の私は「中性的」ではあったものの、まだ「同性愛」や「性別違和感」のような自覚はなかった。

当然のことながら、男子校なのでクラスメートは男子だけ。入学当初は先生でも女性はいなかったと思う。

入学式当日、新入生のオリエンテーションなどの行事が終わり、初めて教室に入り自分の席についた瞬間、ふと視界に入った男子に目が釘付けになった。

ドキッとした。

一瞬思考が停止していた気がする。「今、湧いて来た感情は何だろう?」

その時はその感情が何なのかよく分からなかった。

後日、ある授業の始業時間。教科担当の教員が教室に入ってきた瞬間、またしてもあの日と同じ感覚に陥った。今度は自分の気持ちがハッキリと分かった。いわゆる、「一目惚れ」だった。

暫くの間、私の頭の中は混乱していた。「同性愛」や「性同一性障害」という言葉や当事者の存在をまだ知らなかった10年前の私には、そのときの自分の自分の感情を理解することは容易ではなかった。

同性に対して恋愛感情を抱いてしまった私は、彼らとの接し方がわからなくて、次第に学校に行きづらくなってしまい、引きこもりがちになっていった。

そんな私のことを家族はとても心配していた。

だが、家族にも、誰にも打ち明けることの出来ない秘密を抱えた私は、この事実を墓場まで持っていく覚悟で、多感な時期にただ1人で耐え続けるしかなかった。

我が家には、両親の教育方針で、子供が高校生になったら海外へ行かせるというイベントがあった。

既に姉2人は海外に行っていて、残りは私だけだった。

本当は私も早く行きたかったが、散々な高校生活を送っていたので、とてもじゃいけど「行きたい」とは口に出来ないと思っていた矢先、母が私に1つの通帳を見せてくれた。「好きな所に行っておいで」と。

こんな私のために海外に行くための費用を用意してくれていたなんて、と思って涙が溢れてきた。

そして私は、2001年、高校2年の夏に米国へ1カ月の短期留学の旅に出た。

米国ではボストンに3週間、ワシントンDCにいる両親の知人宅に1週間滞在した。

現地でゲイだと思われる方と知り合いになった。まるで鏡越しに自分を見ているかのような気分で、初めて私は、自分が同性愛者なのだと感じた。

ほんの少し自分が何者なのかを知る旅から帰還した私だったが、心のどこかでまだ何か引っかかるものがあった。

自分が何者なのかが何となくわかったところで、まだ学校生活の完全復帰の勇気はなく、それからも行ったり行かなかったりの日々が続いた。

しかし今回は今までの引きこもりとは少し違っていた。

当時我が家には最先端だったインターネットが導入されていたため、フル活用し、気持ちのモヤモヤの正体を突き止めようと必死だった。

そこで辿り着いた答えが、「性同一性障害」という言葉だった。

体と心の性が一致しない。

この一言に、私が苦しみ続けていた答えがあった。

この瞬間から、私の本当の人生が始まったと言っても過言ではない。

姿無き敵の正体はわかったが、倒す術はない。

選択肢は2つ。生きるか死ぬか。

GIDである現実を直視し、受け入れて生きて行くか、現実と時代に絶望し、自分に負けてこの世から逃げるか。

私は、私自身と、GIDがまだ認知されていないこの社会と戦っていかなければならない。

出席日数の不足や試験の赤点などで、当初は退学も考えたが、学歴のないマイノリティでは、自分の生きる道を切り開けないと思い、卒業することにした。

高校時代は、私の不登校が原因で、家族の間でも衝突することが多くなっていた。

私は何とか高校を卒業したその当日、1人実家を出た。

当時、2つ上の姉が通学していた大学が遠方だったため、実家と大学との中間にアパートを借りようとしていて、そこを借りることになった。

フリーターとしての新たな生活を始めた。

高校の3年間で私が得たものは、高卒の証とGIDという現実。

居心地の悪さから逃げて始めた1人暮らしも、そう長くは続かなかった。

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