今日は父の日です。
この、STORYS.JPさんの場をお借りして、
私から父にプレゼントをしたいと思います。
その前に、少し私たち家族をご紹介させてください。
父を嫌う娘
お父さんなんて、嫌い。
話したくない。
話かけんな。
そう思っている子は多いと思います。年頃の女の子なんて特に。
よくある父と娘の話です。
私もその中のひとり。
私が家に帰ってくるたび、話かけてくる父でした。
「仕事はどうだ?」
「彼氏できたか?」
「○○(私の友達の名前)とは遊んでるのか?」
私の回答は、
「うん。」だけの、から返事です。
私はその時、父を、「うざい」としか思っていませんでした。
小さい頃は、私と姉で父の取り合いをしていました。
週末は必ずどこかに遊びに連れて行ってくれた父です。
今でも鮮明に覚えています。
しかし、どんどん成長するにつれて、そんな父をどんどん嫌っていくんです。
何か嫌なことをされたわけではないのに、
ホント、思春期とか反抗期って恐ろしいです笑
私は父親になったことはないので(当たり前ですが)、わからないですが、
きっと、生まれたばかりの頃からずーっと可愛がってて、
愛情をめちゃくちゃ注いで飼っている子犬が、3年くらい経つと急に
「おいで!」って呼んでもそっぽ向かれる感じなのかな笑
そして父はどんどん頑固親父になっていきます。
「茶髪?ピアス?はぁ?ばかやろー!!そんなもん許さん!」こんな感じ。
いや、ホントに言ってました。
気に入らない事があると、テーブルとかひっくり返したり、よく物を投げていました。
ホント、昔ながらの頑固親父。
一味唐辛子のビンが豪速球なみの早さで飛んできたことは忘れません。

でも、姉は高校卒業くらいに隠れてピアスをあけ、
長い間父に隠し通していましたが、見つかって車の運転中に殴られたそうです。
そういえば、昔、姉は父にファミコンで殴られてました。
そんな父ですが、正直、大きく成長しても私には甘かったです笑
末っ子の取り柄ですかね。
私は父に殴られたことはありません。(覚えてないだけかも)
張り手くらいです。姉に比べたらきっと、ほぼゼロです。
その割に私は姉の10倍くらい、父を嫌っていたのは言うまでもありません。
父の闘病生活
後から母と姉に聞いて知った話ですが、
父は私が小学生の時から、さまざまな病気にかかっていました。
胆石、高血圧、糖尿病、モヤモヤ病など・・・。まあ、生活習慣病です。
病気のことは言っていませんでしたが、母は父との離婚を考えていました。
何度も。
今思えば、母は将来を見据えていたのだと思います。
それを姉と私が母をなだめる日が続く日もありました。
病気と闘いながらの日々が続いていましたが、仕事は順調のようでした。
年齢も年齢ですので、これから出世!という感じです。
仕事熱心な父は、家に帰ってからも仕事の電話が鳴りっぱなし。
それを、「まじ声でかいんですけど。うるさいから外で話して。」
と、娘2人してベランダに追い出していたことはヒミツです^^;
そんな中、今までにない大きな病気と父は闘うことになりました。
ひとりで立つことさえも出来なくなる
それは、本当に突然でした。姉からの電話。
父が入院することになった。という電話。
このとき私は、「ああ、またか。」くらいにしか思っていませんでした。
父は、何度も心筋梗塞等で入退院を繰り返ししていたので、
変な慣れというか、大丈夫でしょ。
というなんの根拠もない安心がありました。
検査結果は、脳梗塞でした。
父は仕事中、体に異変を感じ自ら病院に行ったそうです。
そして、半身不随となりました。
父に面会しに母と一緒に病院行った時、はじめて何かの恐怖に襲われました。
今まで入ったことの無い、超厳重な部屋。
機材ばかり置いてあって、白くて、研究室みたいな部屋。
マスクにビニールの帽子をして、案内された父のもとへ。
父に会うのが少し、こわかった。
私が父に会った時、もうすでに父は口をうまく動かすことができないので、
何を喋っているのかわからない状態。
なぜかこみあげてくる涙。あんなに嫌いな父なのに。
泣いちゃだめだ。泣いちゃだめだ。泣いちゃだめだ。
何度心の中で唱えただろう。
私は、弱った父の姿を見て、涙をこらえることができなかった。
父は、本当に全く何を言っているかわからなかったけど、
「泣くな。」
と、父が微笑みながら言ったことだけは、なんとなくわかった気がする。
母に襲い掛かる苦しみ
父は、当分入院生活を強いられました。リハビリとともに。
ここまでの間、母は私たちに涙を見せたことはありませんでした。
父と母は、お世辞にも仲のいい夫婦とは言えない、というか、
よく母は、父に向って「早く死ねばいいのに!」と言っていたりしました。
もちろん、冗談。 ・・・だと信じたい。
父の入院生活中は毎日のように、母は仕事に行き、
お見舞いに行き、身の回りの世話をし、家事をする日々が続きました。
母は、身も心も疲れ果てていました。
そんな中、担当医さんから一言。
「奥さん、毎日ちゃんとした食事つくってなかったんじゃない?」
※言葉を明確に聞いてはいませんが、同じような意味の言葉を言われたそうです。
苦痛だったようです。
母は毎日、しっかりと家事をこなしていました。食事も規則正しいです。
父は、母の食事プラス、酒やつまみなどなど、プラスアルファが多かったのです。
完全なる生活習慣病です。
母も私たちも、「ほどほどにしときなよ。」と毎日のように言っていたのですが、
そう簡単には止められません。むしろ、もうあきれていました。
担当医さんも、それほど母を責めるつもりで言ったわけではないと思うのですが、
母の疲れきった心と体には相当きついものがあっと思います。
不幸は重なるもの
我が家にはペットがいました。シーズーと、マルチーズの雑種です。
名前は「りゅう」

家族全員、りゅうに溺愛していました。
父は入院中、「りゅうに会いたい。」「りゅうに会いたい。」
と連呼していました。
そんなりゅうが、父の入院中に父と一目も会えずに息を引き取りました。
りゅうも何カ月も続く入院生活をしていました。
私は、ほぼ毎日りゅうのお見舞いに行っていたのですが、
どうしても仕事の関係でお見舞いにいけなかった日がありました。
その翌日の早朝、りゅうが息を引き取ったという連絡が病院からきました。
冷たく固くなったりゅうは、どこかさみしげだったのを覚えています。
その知らせを父にも伝えると、
なにも言わずに、ただ悲しそうに黙っていました。
少しずつ変化する母と娘の気持ち
あれだけ父をないがしろにしてきた私たちですが、
心も鬼ではなかったようで、やはり父を心配する気持ちが大きいです。
家族とはこういうものなんですね。今ではそう思います。
父は、リハビリに苦しむうえ、溺愛していた愛犬りゅうが亡くなったと知り、
さらに落ち込む父を見て、母は何を思ったか、
「ラブラドールを買おう。」と、決心しました。
りゅうが亡くなって少したった時、
父に、「お父さんに内緒で、ラブラドール買うからね!」と言っていました。
この時点で内緒ではない。
当然、父は、またまた~。的な感じで信じてはいませんでした。
そして、母と私で折半し、ラブラドールを本当に飼いました。
新しい家族です。名前は「イブ」
母の本当の想いは、
「お父さんが家に帰ってきた時に遊び相手がいないでしょう?」
もちろん、りゅうが亡くなった悲しみは家族全員、
拭い去ることはできませんでしたが、
さみしそうな父を母が見かねたのだと思います。
いよいよ父へご対面。
父は外出ができなかったため、母に病院内にあるベランダに誘導するようにし、
私と姉は、そのベランダから見える芝生までイブを連れて待機。

イブの姿を見た父はとっても嬉しそうにしていました。
久しぶりにみる笑顔。隣で母も笑顔でした。
何年かぶりにみる、父と母の笑顔。
なんか、家族っていいなぁ。初めて本気で思ったかもしれません。
父の退院
母はずっと考えていました。「父が退院した後の介護」です。
退院できる状態とはいえ半身不随なので、絶対に誰かの手助けが必要となります。
母はその生活を拒絶しました。
「離婚しなかったことを後悔している。こんなはずじゃなかった。」
と、母は言いました。
退院を目の前にして、母は大きなプレッシャーに襲われていたんだと思います。
家族4人で話し合いにもなりました。
母は、「嫌だ。」の一点張り。父は、どうにか母を説得させようとしますが、
母の気持ちはなかなか変わりません。
それを見かねた姉は、「私が全部やる。」と言いました。
母は、それだったら・・・。と何とか踏みとどまり、
そのまま父は退院し家に戻ってきました。
私はというと、父の介護そっちのけ。ほとんど姉に任せっきりで、
たまに父から話かけられますが、聞こえないふり。ほぼ無視していました。
こんな時でも第二次反抗期はやってくるんです。
ですが、姉はしっかりと父の面倒を見ていました。
リハビリへの送り迎えに、食事の準備。
この頃から父はかなり荒れはじめました。
しかし、姉は父の心無い言動や、文句、愚痴に耐え日々こなしていました。
姉にとってもかなりの負担だったと思います。
母は姉を見て、
時間はかかりましたが少しずつ父との距離を縮めていくようになりました。
父が、「○○がほしいな。」というと、必ず父のために買って来たり、
「酒を飲んで死ねれば本望。」とまで言う父に、
母は、「週に1回だけね。」と言い、お酒を買ってきていたり。
バラバラになりかけた家族がまた一つになったようでした。
父も日に日に元気になっていくようでした。
初めて父に贈ったプレゼント
私自身も、少しづつ父との距離を縮めていました。
第二次反抗期もおさまり、少しは大人になってきたのでしょう。
よく、母と姉と大喧嘩した時も、父は私を気にかけてくれていました。
小さい頃も、母に叱られて家に入れてくれなくなった時も、
こっそり鍵をあけて入れてくれたり。
なんというか、両親のバランスがとれてますよね笑
そして、今日からちょうど一年前の父の日。
私は初めて父にプレゼントをしました。

父の大好きな焼酎をプレゼントしました。
渡すときは、なんと言っていいかもわからないし、なんだか照れくさくって、
顔も見ずに、ただ、「はい。」と言って渡してすぐに逃げました。
高価でいいものではないけれど、
私が父にしてきた事の、少しでも報いになれればと。
母から聞いた話ですが、
父は数日間、ずっとうれしそうにしてくれていたようです。
母に、「真紀がくれたんだ。」とずっと自慢していたようです。
大事そうに少しずつ飲んでくれて、
中身が無くなったとき、なんだかさみしそうでした。
そして、これが父に贈る最初で最後のプレゼントになりました。
母の号泣
その日はとても天気がよく、気持ちのいい日でした。
私は出かけていたのですが、午後すぎに母から一本の着信がありました。
折り返してみると、
「今すぐに病院にきて!お父さんが大変なの!!」
と言われ、
「え?どういう事?どうしたの?」
と聞いても、「いいから、早くきて!!」と今にも泣き出しそうな声で私に言い、
電話は切れました。
私の頭の中は、不安でいっぱいになり、混乱し、何も考えられなくなりました。
その時一緒にいた彼に、「何かあった?」と言われ、
状況を説明すると、「今すぐ来てって言ってるんだったらいかないと。」と言ってくれて、
彼に連れられ地元の病院へ。
向っている途中、また母からの電話。
今まで聞いたことのない母が号泣しながらの、途切れ途切れになる声。
「真紀ー・・・どうしよう・・・お父さん死んじゃったよー・・・・」
不安でいっぱいだった私の頭は、真っ白になり、
そのあとは泣き崩れることしかできませんでした。
父の最期
2012年8月4日。
いつもと変わらない休日。母は買い物にでかけました。
そして、母が買い物から帰宅すると、父が倒れていました。
その時すでに心臓は止まっていて、
急いで救急車を呼びましたが、そのまま息を引き取りました。
父は、誰にも見届けられず、誰の助けもしてもらえず逝きました。
もがき苦しみ逝ったのかどうか、誰もわかりません。
もしかしたら救えたのかもしれないと思うと、悔やんでも悔やみきれません。
後からいろんなことを思うのです。
私がお酒なんかあげたから・・・・。
母が買い物にいく前日に、かき氷が食べたいと言ったそうです。
半身不随で両手が使えないため、電動式かき氷機も買いに出かけました。
母は、【買い物から帰ってきたら、かき氷ね!】と父に言ったのが最後です。
「かき氷、つくってあげられなかった。」と話す母をみて、
父への愛情がすごく伝わってきた。
お葬式には思っていた以上に、
たくさんの方々が、父のために足を運んでくださいました。
母や私たち姉妹に励ましの言葉をかけてくださったり、
父のために涙を流してくださる方がたくさん、たくさんいらっしゃいました。
私と姉に、「あなたたちが、お母さんを支えてあげるんだよ。」と、
覚悟と強い気持ちをもたせて下さいました。
私は式中、ずっと自分が父にしてきたことを思い返していました。
「後悔」しか頭の中にはありません。
父の顔に触れれる最後の時間。
ほかの家族が1人ずつ父と最後の別れを告げます。
私はこわくて、現実を受け入れることができなくて、
足がすくんでしまい、その場に座り込み泣きじゃくりました。
「お父さん・・・、なんでー・・・やだよ・・!!」
大嫌いだった父との距離をやっと縮められてこれたのに。
孫が早くみたいって言ってたじゃん。
私は、この21年間の後悔をぬぐい去ることはしないと思います。
一生、忘れることはないと思います。
どうしても伝えたいこと
父の最後の言葉は「かっぱえびせん買ってきて〜」だったそうです。
なんだか、お父さんらしい最後だったわけです。
今もちゃんと、当日に母が買ってきた「かっぱえびせん」は、
ずっと父と一緒です。
そして、今日、この父の日に新しい「かっぱえびせん」を、
私が父に贈る2回目のプレゼントをしてきました。
最後に、父へ。
お父さん、
最期まで親不孝な娘でごめなさい。
お父さんとお母さんの子で私は本当に幸せです。
私のためにたくさん涙を流してくれたこと知っています。
21年間、たくさんの愛情をありがとう。
もうすぐ父の1回忌です。
最後に
ここまで読んでくださった方、完全に個人的文章なのにありがとうございました。
この文章を書いている途中、
何度も何度も思い出しては泣いて、書き始めてはまた泣いての繰り返しでした笑
正直、途中で投稿するのをやめようかとも思いました。
でも私と同じような思いを他の誰かにもしてほしくなくて、
誰か一人でも、気持ちの変化になってくれていればなと思います。
一度きりの人生。
両親あっての自分の人生を大切にしてください。
私は、今一番大切な人を生活習慣病にさせないよう、日々闘っています笑
すべてに、ありがとう。
2013/6/16 Maki Tsubota