top of page

14/6/8

あの時結婚しなくて良かった!〜今もシングル幸せを実感する私の本音

Image by Olia Gozha

2011年3月11日



京都。


人工呼吸器が装着されている患者さんの個室にいた私は

患者さんが見ているテレビで何かが起こったことを知った。


その日は職場でトラブルがあり、私の意識はそちらへ向いていた。


東北が大変なことになっていることを知ったのは翌日だった。

私が勤めていた診療所があるM市や暮らしていたI市

知っている場所が次々に報道されていた。


私は2009年春までの約3年間 宮城県で暮らしていた。


最初の1年を暮らしていたI市は甚大な被害を受けていた。

そこはかつて結婚するつもりだった彼が住んでいる。


彼は生きているだろうか?


無事だろうか?

彼の家は海岸からかなり距離があったはずだ。

でも地震が発生した時間は仕事中だったのではないか?


すべてが大混乱している中で

彼の生存を確かめるのか 確かめてどうするのか?


苦しかった・・・



大事なひと


彼とは2004年の秋に出会った。

初めてバイクで東北を旅した時だった。


彼に出会って私は「生きていて良かった」と思った。

世界が輝いて見えた。

宮城と京都で遠く離れていて 月に1回会えれば良い方だった。



半年も経った頃だったか彼の様子が変わってきた。

彼には精神的な病気があった。

健康的な部分が多かったから、いずれ良くなると思って見ていた。

看護師という知識からも個人的な願いからも。


ところが状態は悪くなるばかりだった。


受診をして薬は飲んでいるものの、原因から距離を置くとか完全に休養するという

具体的な解決への環境づくりをする気が本人に全くなかった。


お家の問題 仕事のこと そして私とのこと。


彼はすべてをパーフェクトにしようとしていた。


近くにいて自由に会える状態になれば彼の負担が減るのではないかと思った。

両親も彼も彼の家族も反対したが、私は彼の住むI市へ引っ越した。



東北での暮らし



京都から離れて暮らしたことがなかった。

それでも彼と毎日でも会えると思うと、馴染みのない街で暮らすことは楽しかった。

彼の家から車で30分 電車の駅まで10分弱 

買い物や役所の手続き 日々新しい環境の中で暮らしを整えてゆくことが

希望に満ちていた。



反対していた彼も彼の家族も受け容れてくれて、しばらくは彼の調子もよく

私は嬉しかった。



しかし彼の調子が良い状態は長く続かず、不安定な状態がひどくなっていった。



彼の受診に付き添って医師と話したり

仕事を休んで1日付き合ったり

彼のお母さんとも話したり

・・・彼はやがて私を疎ましがるようになった。



彼の側に来てみて初めて分かったことは

こういう状態は初めてのことではなく何度も繰り返してきたということだった。



春に宮城に来てその年の冬には、お互いに限界が来た。





その後京都へ帰る気力もなく I市を離れてT市へ移った。

仕事がその時の私を支えてくれた。


東北は寒い期間が長く夏が短い。

地域によってはかなり保守的で街中でなければ、女性のひとり暮らしはほとんどないようだった。

職場以外に知っている人もなく 私は孤独だった。



やがて両親の健康上の問題、アパートの契約更新での問題があって

京都に帰ることにした。




「アンタは運の強い子や」


もし彼と結婚していたら

もし京都に帰ってこなかったら

私は今ここにいなかったかもしれない。


一緒に働いていた人や患者さんが何人も亡くなっている。

勤めていた診療所は膝まで浸水して、レントゲンや心電図は全てダメになったそうだ。


被害状況が入ってくる度に足が震えた。

恐ろしくてテレビは見ることができなかった。



彼の安否を確かめるか随分悩んだが

あれから連絡も一切取らず全くの他人が、こんな大変な時に確認することは

非常識に思えたことと


結果がどちらであっても 私はどうするのだろう? 何ができるのだろう?




・・・結局 安否を確かめなかった。




震災のことを母と話していた時に「アンタは運の強い子や」と言われた。



彼とダメになったことは両親が言った通りだった。

もし反対にあった時に宮城へ行くことをやめていたら、今も私は親を恨んでいただろう。

ダメになった結果を人のせいにしていただろう。


たくさんのハードルを超えて宮城に行って手にした結果に納得した。

大きなダメージと一緒に諦めがついた。


彼と結婚しなくて良かったのだ。




普段は忘れているが時々思い出す。


あの時確かに彼は私を好きだったし、私も彼が好きだった。

幸せな時間もたくさんあった。



今 こんなふうに思えるおとなになって

日々の暮らしを大事に楽しくやっている。

孤独だった私にたくさんの友達や仲間がいる。

何より自分の幸せを実感できている。



こうして振り返ってみたら正直なところ胸が傷んだ。

でも穏やかな気持ちでこうして書いている。



生きていたらいいのだ。


命があったらそれでいいのだ。































←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page