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14/6/6

Vol.4『2年間で転職を6回繰り返した男が、いきなり独立起業をした』話

Image by Olia Gozha

 

こちらは前編↓

Vol.3『自宅浪人→(大学:遊びほうけて何とか卒業)→売り手市場で某銀行に内定→が、しかし』の話



履歴書を何枚、書いただろう。


年がら年中、履歴書に囲まれた時期を私は、2年ほど過ごした。

ちなみに一番、利用した履歴書は「日本法令」という会社のものだ。

理由は、文字枠が比較的大きく、アピールできる内容欄が他のものに比べて

充実していたからだ。


※まず最初にお伝えしておきますが、私は別に不幸自慢がしたいわけでもなければ、

不甲斐無さアピールをしたいわけでもない。


伝えたい事は、ただ一つ。

『過去は関係ない。大切なのは、自分がこれからどうなりたいか。』ということ。

もちろん、独立起業も例外ではない。



それを踏まえて、読み進めて頂けたらと思う。



では、その続きとなりますが、、


2009年、私は晴れて某金融機関の職員(総合職)として入行した。


ローテーション形式で、最初は預金科に回されて書類の作成・管理を任された。

(とは言っても、最初の3ヶ月ほどは先輩に付いて教わるのだが)


居酒屋バイトをしていたこともあり、配属先で声の大きさだけは評価された。笑


3日目の夜は花金(ハナキン)。

新入歓迎会が行われその夜は緊張しつつも、抱負などを語り楽しく飲んだ。




だが、楽しかったのも束の間。


翌週、、私は会社に行かなかった。

その翌日も。









結果的に、銀行を3日でバックレたのだ。



(後日伺い、支店長に土下座をして謝罪した!)



あまりにも早すぎる辞職。。

当時はとても後悔していた、辞めた理由が自分でも分からなかったからだ。


その後、すぐに職を見つけないと資金的にも厳しいということで、

10日も経たず、次の会社に移る。



2社目はリフォーム業界、個人宅への訪問営業職だった。

一見、銀行とは真逆のような業界だった。


朝礼を埼玉本社で行い、その後、千葉の支店でもう一度朝礼するという

面倒くさいシステムだった。

朝礼と仕事終わりは必ず、「オスッ!!!!」という掛け声が飛び交っていた。



仕事が終わって帰宅するのだが、その会社は一件家をオフィスのすぐ横に借りていて、

家には帰宅せず、そこで他の社員と寝泊まりするという形式を取っていた。


結果の出ない社員は夜中過ぎまで先輩社員の説教が付きまとう

環境だと言う事を、初日に目の当たりにした。



寝室は大部屋に、皆で布団を敷いてザコ寝だ。

他の社員が寝静まったころ、私はこっそり

『金持ち父さん貧乏父さん』という本を読んでいた。


なぜか、この本の魅力に取り憑かれ、大学在学中から読んでいた。


当時、会社員としての自分がどんなにダメ人間だったとしてもだ。



結果的に、この会社を約2ヶ月間で辞めた。


辞めた理由といえば、ありえない環境だったという

自分に都合良く言い聞かせることだけで、

はっきりとした理由が分からなかった。


しばらく派遣バイトで食い繋いだ後、また次の会社が決まった。


履歴書が段々と汚れていくにも関わらず、

幸い、面接にはあまり苦労しなかった。



次の会社は某食品業界。

麺を扱う、知る人ぞ知るメーカーで、かなり独裁色の強い会社だった。

知ってる人ももしかしたらいるかもしれない。(余談)


そこでの業務は、対法人へのルート営業だった。


中途入社は、大半が3ヶ月の使用期間というシステムを採用していて、

今回も例外ではなかった。


まあ、結論から言うと、この会社は3ヶ月ほどで辞めた。

ちょうど使用期間が終わる頃だ。


今だから言うが、この使用期間という審査に落ちたのだ。

この男は覚えが悪く、そして、やる気もいまいち感じられなかったのだろう。


こんな具合で、段々と自信を失っていった。




知り合いには会いたくない病


実家に帰れば、


両親「はあ?あんた、また仕事辞めたの!?これからどうするのよ?」

「。。。↓」



友達に会えば、

N君「ダイちゃん、また、仕事辞めたの??」

「。。。。↓」



誰か知り合いに会えば、まさに批判、説教の嵐だったので

次第に周りに会社を辞めたことを隠し、バイトで生計を立てるようになっていた、


段々と転職を繰り返すうちに、


そんな関係と毎日が嫌で仕方なく、段々と、自分は社会不適合者なんだ。

『そうか、俺には、社会で生きていく力もないんだな。。』


と、そう思うようになってしまったのです。

当時は視野が狭く、サラリーマンでやっていけない=社会不適合=生きる力がない

という方程式しか思い浮かびませんでした。




自分のことを知らない人に会えばいい


「あ、知ってる人に会うから気マズいんだ、知らない人ならいいじゃん!」


ということで、自分が興味に持った人にアポを取り、頻繁に会い始めた。


SNS(主にmixi)でメッセージを送り、週に4、5人くらいは会っていた気がする。



当時、手帳はそのためにあったようなものだ。


スケジュール表が塗り潰されていくのが楽しかった。



そして次の会社が決まるまでの間、再度、派遣バイトで食い繋いだ。




SNSで知り合った友人と、治験バイトに参加


次の会社は2ヶ月後に決まったが、少し番外編を。


治験というバイトに、ミクシィで知り合った仲間と共に、

参加する事になった。




治験とは、医薬品もしくは医療機器の製造販売に関して、薬事法上の承認を得るために行われる

臨床試験のことである。

簡単に言えば、これからこの薬を世に出しても大丈夫かという、検証。

つまり、人間モルモットになるバイトだ。



看護師さん「注射の時間ですよー」

「きたー、、、」

看護師さん「北條さん、注射でーす(一時間ごと)」

「。(段々慣れて来る)」



1週間で18万。

治験者側のやることと言えば、期間内は入院して

新薬の投与と、定時ごとに採血注射(計45回)を受けるだけだ。

食事はもちろん出るし、漫画は読み放題。当時の私からすれば、美味しいバイトだった。

注射を40回以上、短期間に打ったのは驚きだったが、、


最初こそ漫画を読んでいたが、

それに飽きると、ベットの上で自己啓発本を読んでいた。


番外編はこれくらいにしておくが、、

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そして、次の会社は外資系の医療業界だ。


2社から内定をいただき、偉そうにも、外資系の給料体系(月給制or年棒制)の違いに

少し迷った。


なぜか30人くらいの志願者をくぐり抜け、内定をいただいた。(奇跡的)

営業職に就きたかったのだが、他の内定者は同業者や営業歴9年と言う実績があるので、

未経験の私が外されても仕方がなかった。


配属先はカスタマーサポートという、いわば営業マン・病院側とのパイプ役で、

電話対応とPC入力が仕事の98%を占めた。


自分の希望としては営業職が良かったので、上司に希望を伝えるも却下。(当然かもしれない)

だが、この当時も、仕事のモチベーションが上がらない理由は希望の営業職に

配属されなかったことにあると、そう思っていた。


だが、もはやそういう問題ではないことに自分は気付いていなかった。。(これは後ほど)


例によって、3ヶ月間の試用期間というシステム。


試用期間と言っても、(以前も含め)周りの同期で落ちた話しを聞かないので、

大きな問題がなければ大抵は、正規採用になるのだろうと踏んだ。


3ヶ月目を終える直前に、上司からある課題を課された。



上司A「北條、今まで学んで来たPC入力のメモ集、ちゃんとファイリングしてあるか?」

「もちろん!(キッパリ)」



私はマインドマップのようなものに、図式化したものを何枚かまとめて

提出した。


それを見た上司の顔が見る見る、険しくなる。


『お前、これなんやねん?!』

『俺が言ったのは他の皆が作ったようにやれと言ったわな!』

『お前、ふざけてるん??』


私は全くふざけたつもりもなく、真面目に提出したつもりだ。



そして、

上司A「悲しいかな、お前の上司はこの俺なんだよ!!」



と、皆の前で罵声を浴びせられた。


その瞬間、周りは一気に静まり返った。

まさかここまで怒鳴られるとは。


『北條、ちょっと来い。』

と、階段を下りた丸テーブルの椅子に座り、30分程、叱咤をされた。


『確かにそうだ、ただ、俺には俺の考えがある。俺は会社員としてはもうダメだな!


そう思い始めるとともに、しばらく気持ちの帳尻が合わず、

人生初の精神科というものに、一度だけ通った。


その二週間後、私は辞職を伝えた。



辞職前に出会った、人生観を変えたきっかけ


私の人生を180°変えたきっかけは間違いなくここにあったと、今でもそう思う。

医療会社に入社する頃には、SNSを活用して休日や仕事終わりに、色々な人と会っていた。

このきっかけと出会う前までは、飲み会のような集まりがほとんどであっただろうか。

週末。僕はいつものように、あるオフ会に参加していた。


そこで出会った、Hさんと言う人がいる。

彼は皆の前では普通の世間話しをしていたが、その彼と簡単に話し始めた。

その時、『今度面白いセミナーがあるから一緒にくる?』

『その人は自由もお金も自由だし、仲間とバイクツーリングで旅行したりしてるんだ』


その話しを聞いて、思わず

『え??』『何ですか、それ?』『時間もお金も自由って、どうやって、、』


とにかく、頭がスパークしたことを覚えている。

だって、そんな世界聞いた事がなかったから。。

そのセミナーが何なのか、私は気になって仕方がなかった。


セミナー当日。

まあ、簡単に言ってしまえばこれは、某ネットワークビジネスの集まりであった。


ネットワークビジネスとは、商品(日曜生活品を始めとする様々)を人に紹介すると、

売り上げと人数によってランクが上がり、売り上げの○○%が報酬となるビジネスだ。


結論から言えば、僕は気に入った日曜消耗品をユーザとして購入しているが

紹介ビジネスはしていない。


けれど、会社員として生活するだけが人生じゃない、色々な人がいるんだ。。

という脳内カルチャーショックは、今後の人生を変えるきっかけとなってくれた。


今は疎遠になってしまったが、Hさんには本当に本当に、感謝している。


なので、今回の辞職は今までよりも前向きな辞職だったと思う。

(金銭事情的には、前向きではなかったが。苦笑)


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ミクシィで生まれた、2つのご縁

⇒彼女ができる&起業のきっかけとなる


4回目の辞職をした当時、2010年の9月だった。

2009年の卒業からわずか1年半足らずで、職歴が4つ。


履歴書は誰が見ても汚くなっている。

誰がこの状況を予測しただろうか。

だが、あの時銀行を辞めなければ良かった、、

と思う気持ちはほとんど消えていた。


そこから4ヶ月間は、派遣や治験のバイトをしていた。

それに加えて、SNSを使って副収入のコミュニティをいくつか作成して、

そこでいくらかの収入を得るようになっていた。


ある日、私の運営していた副業コミュニティを見た、ある女の子から

1通のメッセージが届いた。

そして、やり取りをしつつ、副業のやり方を教えているうちに

そっちに行くから会えないかという話しになった。


その女の子は中国地方に住んでいて、

『スゴい行動力だな、しかも女の子か。』

と、少しワクワクしていた。笑


結論から言えば、話しが意気投合して、一週間足らずで付き合う事になった。


思いもよらず、彼女が出来たのだ。


そして、遠距離恋愛をすることになった。

(ちなみに現在も交際中、3年半ほどになる。)


。。。

当時は、自称自営業という肩書きを添えて、

バイトと副業コミュニティの運営で生計を立てていた。



そんな中、ある経営者にメッセージを送った。

そして、後日会う事になったのだが、その人とは今でも繋がりがある。

(後述しますが、)これが本格的に起業するきっかけになったのだ、

今の時代に感謝ですね。


当たり前だと思うが、個々人間の情報網がかつてないくらい発達した昨今、

何があるか分かったものじゃありません。


リスキーなきっかけもあるとは思うが、チャンスなんていくらでも転がっていると、

今となっては思う。


-----------------------------------------------





翌年、2011年・2月

SNSでの副業は続けつつ、日本一忙しいと思われる、

某家電量販店の派遣社員となった。

選んだ最大の動機と言えば、時給が高めだったからだ。(¥1600)


出勤数にもよるが、月給で大体、28〜32万円くらいもらっていた。

派遣社員という立場は、社員からは使い捨てのような立場だったが、

給料だけはこちらの方が勝っていた覚えがある。


専用のブースを構え、無線インターネット回線の販売を担当した。

結論から言えば、3ヶ月で辞めた。

理由は、回線とPCをセットに売るということで、

PCの知識を絶対に覚えないといけないからだ。


最初こそ、回線の販売数では幸いその部署の中で一番売っていたので、

その点は周りからは褒めていただいたものの、

PCの知識を覚えることが苦で次第に苦言を呈される事が多くなった。


普通であれば、しっかり覚えることが当然かもしれないが、

僕は覚えるのが嫌だった。


やりたくないことを強制的にやらされたくない、これに尽きた。


一般的に非常識かもしれないが、

『自分は主体的に何かをやるのであれば頑張れるが、嫌な仕事を周りから強制されるのが

ダメなんだ』と、何となく気付き始めた。


だから続かないんだと。


5月初旬、仕事の連休明けに連絡を入れ、辞めた。


また、履歴書が一つ汚れた。これで5社目だ。

ただ、この時、既に履歴書がいくら汚れようとどうでも良くなっていた。


今、やるべき事は挑戦あるのみだった。



最後の転職


それは会社員ではなく、短期間のアルバイターとなった。


とりあえず、種銭を作る為にもう少しだけ社会人でいようと思い、

最後になるだろう履歴書を書いて例のごとく面接を受けた。

またすぐに受かる、と思い普通の面持ちでいたのだが、、

不思議と面接はやりずらく、そのときは不採用。


何故落ちたのか、、理由はすぐに分かった。


それは、もうサラリーマン思考状態で面接を受けることをできなくなっていたからだ。

どうしても、言動に表れてしまう。

これは、面接部屋を後にした直後にすぐ気付けるくらい、分かりやすかったのだ。


「これでは面接に通らないな。」

私は直感でそう思い、これを最後の面接にした。


そして、最後にビデオ屋のアルバイトで2ヶ月間、

種銭を作り7月から起業開始となりました。


PS:

当時住んでいたアパートは、水道使い放題で家賃が¥32000という安さでしたが、

年間でゴキブリが30匹くらいでるような環境にいました。。

ゴキジェットは必需品で常備、ないと冷や汗が出るという状態、、


夏になれば部屋までの通路にも3、4匹常にいる感じで、見かけないとラッキー♪

というような毎日を送って来ました(汗)

また、住人は正直あまり関わりたくない雰囲気を醸し出す老人が多く、

時には向かいの部屋で異臭がするとのことで警察が訪ねて来た事もあります。

身寄りのない住人が病気で亡くなり、異臭を放っていた経緯を知った時は

驚嘆しましたが。。


こんな環境に追いやったのは自分自身。

でも、だからこそ、頑張れた。


一度ドン底まで追いやられるということは、若いうちであれば

経験する価値が大いにあると、今では思います。





過去は関係ない。大切なのは、自分がこれからどうなりたいか


VOL,1から本編まで、お読み頂きありがとうございました。


これまでの経験を踏まえ、独立前に分かって来た自身の性質を挙げるとざっとこんな感じです。

↓↓↓

・人に監視されること

・決まった時間に出社すること

・極端な事務仕事

・調子の上がらない時もやらされること

・長く拘束される(帰れないこと)

・一人の時間が確保出来ないこと

・毎月決まった給料(つまらない)




最後に、私が伝えたかったことは一つだけです。


今までの失敗は関係ない。大事なのは、これから自分がどうなりたいか


これを読んでいるあなたがもし、何か目標や夢があるのなら是非挑戦して欲しいです。

私みたいな人間でも、一応、独立して実現の1歩を踏み出せたわけですから。

逆に言えば、失敗しまくってやっと自分の適正を導きだしたのです。



周りの批判、過去の失敗はこれから夢をめざすあなたにとって、必要なものですか?

もしそれを引け目に感じているのなら、私のことをぜひ思い出して下さい。

こんな北條でも1歩踏み出したんだ、俺(私)でもいけると。そう思って挑戦して見て下さい。



起業後の話しはまた、機会があればお話しします。

ここまでお読み頂きありがとうございました。





バックナンバーはこちら

↓↓↓

Vol.1『高校で上の下クラスだった男が、プロテニスプレーヤーを目指した』話


Vol.2『高校中退→夜逃げ→?』クズで波瀾万丈な話


Vol.3『自宅浪人→(大学:遊びほうけて何とか卒業)→売り手市場で某銀行に内定→が、しかし』の話

































































































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