
それは桜の蕾がほころびはじめた三月、転勤の辞令がおりた時のことだった。
私を心配してくれている人達からのメールが届いた。
「異動先にB子さんいるよ。私が知っているだけでも、彼女と働いてうつ病で休職した人が一人、退職した人が一人いるから、気をつけて。何かあったらすぐ連絡してきてね。」
またA子さんについては、一緒に働いたことがある人の体験談を集めて、匿名にして転送してきてくれる人まであらわれた。
転勤先には一緒に仕事をすると、うつ病になるという評判の人が二人いた、ということが大きかったせいもあったのだろうか。そのメールのおかげでとても心が暖かになったことを覚えている。
しかし私は、うつ病との付き合いも四年が過ぎ、症状も治療により安定していたという自信もあってか、
私「よっしゃ、負けない!乗り越えられない壁はない!さらに成長してやる!」
なんて思って力強く思っていたのです。
とはいえ、現実は想像以上のものだった。
A 子さんはいつも怒鳴っていて、「てめぇは、なにやってるんだ!」が口癖。
何から何まで、自分のやり方を通さないと気が済まないようだった。私が違うやり方をすると、「なんでそうやるんだ?」といちいち聞いてくる。私は聞かれるたびに丁寧に理由を答えていた。ある日いつものように理由を答えたら、「てめぇは、いつも言い訳をするんだな。」と言われた。
「はっ?いいわけ?」
私は、愕然とした。
B子さんは評判どおりの気分屋。
私はいつも以上に、「ありがとうございます。」を言うようにしていた。
ある日のことB子さんに、「ありがとうございます。」と言ったら、「あなたには感嘆詞がないのね!」と言われた。
「はっ?かんたんしー?」
それから私は、彼女の気分が良くなるように感嘆詞付きの言葉を使うようになった。それでも物足りなくなったらしい機嫌の悪い日に、「私は貴方に認められても全然嬉しくないの。私を認めてくれる人はいるから。」と般若の形相をして言った。
私は、なんだこの人としか思わなくなった。
仕事も軌道に乗ってきた半年ほど経ったある日、母が余命一年の肺がんと診断された。
私は打ちのめされた気がした。まさか。母は三ヶ月前までは毎日プールに元気に通っていた母が。
しかしながら娘の私が弱気になるわけにはいかない。
ここから私の戦いが始まった。
そうして私は、仕事帰りに母が入院する病院に毎日通う日々が始まることになった。
私と母は、本当に相容れない関係だった。
私の母は、いわゆる毒親だった
物心ついたときには、私は母から、「お前がいなければ離婚できるのに。」と言われ続けていた。
一人暮らしを始めてから、母から電話がかかってくると、いつも血の気がひいた。そして話した後は、いつも寝込んでいた。
(二人の間には、ここでは書ききれないほどのことがあった。)
ただ何故か、「今、この時を大切にしなければ取り返しがつかない。」という思いだけが募っていた。
お見舞いに行ったある日
母「面倒見てくれた人にお金をあげる。E銀行に◯円、F銀行に◯円・・・。誰が面倒看てくれるのかしら?お前もお金が欲しいんだろ?だから毎日来るんだろう?」
それを聞いた私は、悲しくなったのと同時に激しい怒りが込み上げてきた。
ほとんど怒ることはなく、それを言葉にすることはない私は、生まれてはじめて母に怒りをぶちまけた。
私「バカにするのもいい加減にして! お金が欲しくて来ている訳じゃない。お金なんていらないし、もう二度とこないよ。私はお母さんのどこ銀行にいくらあるなんて興味ないし、鬱陶しくて聞く気にもなれないから!」
母「ご、ご、ごめんなさい。」
私「もう二度とそういうこと言わないで、たいした金額じゃないのに。そういうこと言ったら、もう二度とこないから。」
母「かーちゃん、一生懸命貯めたんだよ。節約して貯めたんだよ。」
私「だから、それはお母さんのお金。私は知らない。お母さんの看病をしたいから来ているだけ。」
母「・・・・・。」
母はベットの上で悔しそうに泣き出した。
この日を境に、母娘のぎこちなかった関係が変わり、今まで感じたことのない安心感を二人で味わいながら、母の死を目の前にして、これまでの時間を取り戻し始めていた。
平日は夕飯を一緒にとり、休日は母の入浴を手伝う。
そんなたわいもない時間を、母は楽しみにしはじめた。

母が入院して2週間経った頃、明け方に兄から電話があった。
「お母さんが急変したから、すぐ病院にこい!」
私は睡眠薬がきれていないフラフラの状態で、とるものもとりあえずタクシーで病院に向かった。
何が起こったんだろう?
私が病室にドアを開けると、義父と兄が神妙な面持ちで立っていた。そしてベットの上に座っている母に主治医が処置をしていた。
喀血した後だった母はケロッとした顔で
母「かーちゃん、何にも覚えてない。これで死ねれば楽だわ!!」
安心したのもつかの間、主治医からこれからのことについて話を聞くことになった。
主治医「お母様は、珍しいタイプの患者さんです。これから急変を何度でも繰り返します。ご家族が一人泊まり込んでください。」
家族は、母と義父、兄、私が別々に暮らしていた。
義父は定年退職したばかりだが嘱託で仕事を始めたばかり、兄は自営業で病院から車で一時間のところに住んでいた。
私はフルタイムの仕事に就き、睡眠薬と抗うつ薬をしっかり飲まないと人として機能しないし、泊まり込んで薬を飲んで寝たら何が起こっても気がつかない。
私「私、泊まり込んでもなんにもどうにもできないよ。」
兄「そうだよなー。電話しても全然出なくて家まで行かないとダメかと思った。」
義父「いいよ。俺が夜中は泊まり込むから!」
ということで義父が泊まり込むことになった。
義父には、まだ母の余命は伏せておいていた。
母が癌であるということも受け入れることができずに苦しんでいた。
母の洗濯物は義父が率先してやっていた。
私は、そんな義父を見てお見舞いに来ているのか?洗濯物を変えに来ているのか?わからないなと思った。
自宅に洗濯機があるし、病院にもコインランドリーがあるのに、わざわざ自宅の近くのコインランドリーに通ってた。コインランドリーで時間をつぶすことが義父の唯一のストレス解消法だった。
ある日、私と義父が二人きりになった時
私「今度のお正月が最後のお正月になっちゃうかな ?」
義父「なに言ってんだよ! そんなことはないだろう!やめてくれよぅ!」
私「そうだね。今度のお正月は大切に過ごそうね。」
まだ覚悟が決まっていない義父は、泊まり込んで母のそばにいることは数日で精神的に限界になった。
義父が泊まり込むことができなければ、兄と私でなんとかするしかない。
兄は毎日泊まり込むことはできない。
私も泊まり込むことを考えなければ・・・・。
仕方ない! 母を見捨てることはできない!
仕事を続けながら泊まり込むことはできない。
介護休職をとろう!!
しかし、決断しきれていない。
組織、休職のことに詳しい友達に電話で相談しよう。
母は自分が癌だということでショックを受け、ただでさえ偏食なのに食が細くなり、さらに放射線治療の影響で味覚も変わり、のどごしのいい食べ物しか受け付けなくなってしまった。
母の喜んで食べたものは、デニッシュ、クリスピードーナッツ、イタリア産の生ハム、ブルサンチーズ。
そこから想像して何か食べられそうなものはないかと毎日探していた。
私は栄養のことも考え、母の大嫌いな人参ジュースを作って持って行ってみた。
母は大嫌いな人参ジュースを飲み干した。
私「あれ?お母さん、人参嫌いでしょ?大丈夫なの?」
母「うん。嫌いだよ。でも嬉しいの。作って来てくれる気持ちが嬉しいの。だから飲むの。」
母が食べられるものを選び、夕飯を一緒に食べることが日課になっていた。
いつものように病院に行ったら兄もお見舞いにきていた。
私は夕飯のセッティングをして
私「ごめんね。今日は用事があるから一緒にご飯食べられないの。もう、帰るからね。」
母「えっ。じゃあ、誰が、かーちゃんと一緒にご飯食べてくれるの?」
「ごめんね。今日だけ我慢してくれれば、もっと一緒にいれるから、寂しい思いはさせないから。」と後ろ髪をひかれながら心の中でつぶやいていた。
兄「あっ、俺が一緒に食べるよ!」
母「お兄ちゃんが一緒に食べてくれるのね。」
私「じゃあ、帰るね。お母さん、バイバイ!」
母は兄に気をとられてて、後ろ姿のまま手をふった。
母「おかあさん!! またね!!バイバイ!!」
母はやっと振り向いて
「バイバイ!またね!」
この時、振り向かせて良かった。
家に帰り友達と電話をした。
私「お母さんが末期の肺がんで入院してるの。仕事を続けながら看病してたんだけど、病院に泊まり込まなくちゃなんなくなった。私、睡眠薬とか飲んでるから仕事を続けながら泊まり込んで仕事はできないんだ。介護休職をとろうと思うんだけど、いいのかな?あまいかな?」
友達C子「いいんだよ!何言ってるの? みんな普通にとっているよ。介護休職は、「介護休職をとります。」と言えばいいだけで誰も阻止することはできないから。」
私「そうだよね。「妊娠しました。産休、育休をとります。」と言ったら、「それは認められない。中絶しなさい。」と言わないものね。」
友達C子「今、介護休職を取らなくてどうするの?とらなっかったら一生後悔するよ。大丈夫だから。明日、「介護休職をとります。」って言いなね。貴方の母娘関係は色々あったのに、よく看病する気になったね。信じられないよ。えらいよ。本当にえらいよ。」
そうして私は介護休職をとろうと決心を固めた。
次の日、朝一番に管理職のアポイントをとった。
その様子を見た一緒に仕事をすると、うつ病になるという評判の二人は、私が介護休暇をとろうとしていることを察して攻撃してきた。
A子「介護休暇をとりたいとかの話は、先に同僚に話すのが筋だろう。」
B子「まずは同僚から話すでしょ。迷惑がかかるのは同僚なんだから。」
A子「お前の所は三人もいるのに休みをとらないと、面倒みれないのか?」
B子「お母さんが具合が悪くて休むのいいけど、あなたが看病疲れで体がつらいとかで休むのは許さない!」
A子「いつ死ぬかわからねぇ奴の為に休むのか!!」
私は、もう何を言われてもいいと思った。
もともとそういう人達だし、介護休職は認められるもので却下できるものではないから手続きを踏むことだけを考えていた。
管理職と話す約束もしたから、あとは認められるだけだから、それまで待とうと思っていた。
管理職との約束の時間がきた。
B子「私達も一緒に話すことになったから。」
私はなんなんだろう?と思いながら話し合いの席についた。
管理職「なんせ人がいないので、介護休職をとらせてあげたいけどできません。仕事が早く終わった時とか調整して早く帰るなどの範囲でやりくりしてください。」
却下?
私は呆然とした。他にも言われたと思うが主旨はそれだけだった。
管理職と二人で話すこともないのはおかしい。
組織として世間よりは介護休職や産休育休はとりやすいし、法律で却下できない。
人がいないというのも言い訳に過ぎずに、どうにでもなることを沢山見てきた。
評判の二人は介護休職が認められなかったことに、すごく納得していた。
私は全身を引き裂かれたような気がした。
職場を出て、すぐ前日に相談した友達に電話をした。
私「昨日はありがとう。あのね、介護休職とれない。ダメだって!!」
友達C子「えっ・・??ありえない! ありえない!そんな管理職おかしいよ。わからない。」
私「だよね!おかしいよね!とりあえず報告!!」
私は、介護休職をとることができないという信じられない現実にぶち当たり混乱していた。
仕事をしながら母を看ることは無理。
退職しようか?
私はどうなってもいい。生きていくのだから仕事なんてどうにでもなる。
母はただ死んでいくだけ、もうどうにもできない。
しっかりと看取りたい。
今晩、退職の決心をしよう。
今日は母のところに行きたくない。
疲れた、本当に疲れた。
もう嫌だ。
そのまま家に帰ってしまおうか?
でもなぁ。待ってるんだよなぁ。
私が母の立場だったら、やっばり来て欲しいよなぁ。
昨日は一緒にご飯を食べなかったし。
辛くても母のところに笑顔で行こう。
そしていつものように病院行きのバスに乗り込んだ。
携帯電話が鳴った。
私「もしもし。 」
兄「おかあさん。急変だって!!俺も向かってるけど30分はかかる。お前、いまどこ?」
私「今、バスの中。15分くらいで着くと思う。」
兄「わかった。じゃあ向かうから。」
病院に着き急いで母の病室に飛び込んだ。
モニターをはずされた母が横たわっていた。
看護師が五人位で黙々と病室の掃除をしている。
一人の看護師と目が合った。
何も言ってくれない。
その様子から、私は悪いタイミングで病室に入ってしまったんだと感じた。
何が起こっているんだろう・・・。
モニターがはずされてるから死んでいる。
モニターがはずされてるから死んでいる。
何度も何度も自分に言い聞かせた。
間に合わなかった。
私「母は亡くなったんですね。」
しかし、誰も何も答えてくれない。
しばらく呆然と立ち尽くしていると
看護師「先生がナースステーションにいると思います。お話を聞いてください。」
そして病室から廊下に出て兄に電話をした。
私「お兄ちゃん。母は亡くなりました。義父に連絡してね。」
兄「わかりました。」
そして主治医からの説明を聞いた。
主治医「午後の回診の時は、お母様はいつもとお変わりのないご様子でした。それから二時間後にナースコールがあり、僕が駆けつけた時には、もう心肺停止をしておりました。死因は大量喀血による窒息死と思われます。本当に珍しいタイプの患者さんです。年に数人くらいしかいない患者さんです。」
私「先生、ありがとうございました。母は、苦しくなかったんでしょうか?苦しんだとしたら、どれくらいの時間でしょうか?」
主治医「お母様は、苦しまなかったと思います。苦しんだとしても三十秒くらいです。」
私「ほとんど苦しまなかったんですね。何度も急変を繰り返すと思ってました。」
主治医「僕もこんなに早くにお亡くなりになるとは思いませんでした。お力になれずに残念です。僕は、このあと不在になってしまうので、お会いできないご家族の方にも、よろしくお伝えください。」
私「何度、急変を繰り返しても、いつかはこういう形になるのですね。母は肺がんの専門医である先生に主治医になっていただけたことを喜んでおりました。先生、本当にありがとうございました。」
何度も急変を繰り返すか、二度目で逝くか・・・。
母は楽に逝った。
放射線治療に生きる望みをかけていたが、放射線治療によってどんどん弱っていた。
闘病で苦しまなくて良かった。
死を待つ苦しみが短くて良かった。
これで良かったんだ。
一緒にいれた時間は、ほんのわずかだったけど、これで良かった。
私は現実を無理やり受けとめた。
母をしっかりと最期まで見送らなければ。
そして義父、兄を支えようと心に決めた。
母がひとりでいる病室に戻り、ベットに横たわる母の体をなでながら、
「お母さん、お疲れさま。頑張ったね。楽に逝けて良かったね。ありがとう。」
と声をかけた。
身も心も張り裂けそうな一日だった。
でもこれで戦いは終わった。私は少し安堵していた。