top of page

14/5/26

教科書に載っている、いい話②

Image by Olia Gozha

「二十一世紀に生きる君たちへ」司馬遼太郎

         1989年「小学国語六年下」大阪書籍

私は、歴史小説を書いてきた。

もともと歴史が好きなのである。

両親を愛するようにして、歴史を愛している。

歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、

「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこに

つめこまれている世界なのです。」と答えることにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい

人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。

だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きている

ようなものだと思っている。

この楽しさは、<もし君たちさえそう望むなら>

おすそ分けしてあげたいほどである。

ただ、さびしく思うことがある。

私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。

未来というものである。

私の人生は、すでに持ち時間が少ない。

例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

君たちは、ちがう。

二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、

そのかがやかしいにない手でもある。

もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。

 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている

二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」

そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、

ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。

だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。

もっとも、私には二十一世紀のことなど、とても予測できない。

ただ、私に言えることがある。

それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。

そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、

さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きている

ということである。自然こそ不変の価値なのである。

なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、

水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。

人間は、<くり返すようだが> 自然によって生かされてきた。

古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。

このことは、少しも誤っていないのである。

歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。

この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。

 <人間こそ、いちばんえらい存在だ。>

という、思いあがった考えが頭をもたげた。

二十世紀という現代は、ある意味では、

自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

同時に、人間は決しておろかではない。

思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。

つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、

というすなおな考えである。

このことは、古代の賢者も考えたし、

また十九世紀の医学もそのように考えた。

ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、

科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。

二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、

古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。

おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、

二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

 「人間は、自分で生きているのではなく、

 大きな存在によって生かされている。」

と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、

そのようにへりくだって考えていた。

この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように、

近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を

取りもどしつつあるように思われる。

この自然へのすなおな態度こそ、

二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。

そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。

そうなれば、二十一世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。

そして、自然の一部である人間どうしについても、

前世紀もまして尊敬し合うようになるのにちがいない。

そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

さて、君たち自身のことである。

君たちは、いつの時代でもそうであったように、

自己を確立せねばならない。

 

 <自分に厳しく、相手にはやさしく>

という自己を。

そして、すなおでかしこい自己を。

二十一世紀においては、特にそのことが重要である。

二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。

科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。

川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、

科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。

右において、私は「自己」ということをしきりに言った。

自己といっても、自己中心におちいってはならない。

人間は、助け合って生きているのである。

私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。

ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。

そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。

社会とは、支え合う仕組みということである。

原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。

それがしだいに大きな社会になり、

今は、国家と世界という社会をつくり、

たがいに助け合いながら生きているのである。

自然物としての人間は、

決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

このため、助け合うということが、人間にとって大きな道徳になっている。

助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。

他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。

 「いたわり」

 「他人の痛みを感じること」

 「やさしさ」

みな似たような言葉である。

この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。

根といっても、本能ではない。

だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。

その訓練とは、簡単なことである。

例えば、友達がころぶ。

ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、

そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。

この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、

他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。

 

君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、

二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。

鎌倉時代の武士たちは、

「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。

人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。

人間というのは、男女とも、たのもしくない人格に

みりょくを感じないのである。

もう一度くり返そう。さきに私は自己を確立せよ、と言った。

自分に厳しく、相手には やさしく、とも言った。

いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。

それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。

そして「たのもしい君たち」になっていくのである。

以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、

欠かすことができない 心がまえというものである。

君たち。

君たちはつねに晴れあがった空のように、

たかだかとした心を持たねばならない。

同時に、ずっしりたくましい足どりで、

大地をふみしめつつ歩かねばならない。

私は、

君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。

書き終わって、

君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。 

←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

高校進学を言葉がさっぱりわからない国でしてみたら思ってたよりも遥かに波乱万丈な3年間になった話【その0:プロローグ】

2009年末、当時中学3年生。受験シーズンも真っ只中に差し掛かったというとき、私は父の母国であるスペインに旅立つことを決意しました。理由は語...

paperboy&co.創業記 VOL.1: ペパボ創業からバイアウトまで

12年前、22歳の時に福岡の片田舎で、ペパボことpaperboy&co.を立ち上げた。その時は別に会社を大きくしたいとか全く考えてな...

社長が逮捕されて上場廃止になっても会社はつぶれず、意志は継続するという話(1)

※諸説、色々あると思いますが、1平社員の目から見たお話として御覧ください。(2014/8/20 宝島社より書籍化されました!ありがとうござい...

【バカヤン】もし元とび職の不良が世界の名門大学に入学したら・・・こうなった。カルフォルニア大学バークレー校、通称UCバークレーでの「ぼくのやったこと」

初めて警察に捕まったのは13歳の時だった。神奈川県川崎市の宮前警察署に連行され、やたら長い調書をとった。「朝起きたところから捕まるまでの過程...

ハイスクール・ドロップアウト・トラベリング 高校さぼって旅にでた。

旅、前日なんでもない日常のなんでもないある日。寝る前、明日の朝に旅立つことを決めた。高校2年生の梅雨の季節。明日、突然いなくなる。親も先生も...

急に旦那が死ぬことになった!その時の私の心情と行動のまとめ1(発生事実・前編)

暗い話ですいません。最初に謝っておきます。暗い話です。嫌な話です。ですが死は誰にでも訪れ、それはどのタイミングでやってくるのかわかりません。...

bottom of page