【10.忘れられない2011年】
学校を卒業して、学生ビザも切れた。
でもまだワーホリビザが降りていなかった、南半球の夏のクリスマス。
ホームステイから、安宿の一人部屋に引っ越していた私は、いつものようにバルコニーでダラけきっていた。
宿のオーナーのリッキーが来た。
おまえ、毎日何やってんだ?
学校は卒業したし、でもワーホリが降りないから働けもしない。
仕事探ししても、いつから働けるかもわからない。
だから暇なので、こうしてボーッとしているのです。
とヘラヘラ答える私は海外に来てまで干物化していた。
おまえ、そんなに暇ならウチで働け。
給料は家賃にしてやる。差額はビザが降りたら
その後の給料と一緒に振り込んでやる。
どうだ?
神?!!!!
もちろん二つ返事で快諾。
で、いつから働いていいの?
え、明日?
早すぎる!展開早すぎるよ!
でもありがとう!!
こうして私は、ビザが降りぬまま、
仕事探しをすることもなく、
ローカルでの仕事をゲットした。
実はこれは本当に稀で、幸運なことで、私が住んでいるこの町は、とにかく小さい。
でも、綺麗な海とクラッシックな建物の町並みが美しく、語学学校の卒業生はこぞってこの町で仕事を探すものの一年しか働けない、英語も拙い外国人が働ける場所は殆どなかった。
泣く泣く町を出て行った何人もの友達。
私は本当にラッキーだった。
翌日から始まったのは、安宿と階下のカフェバーの掃除と客室のベッドメイク。
簡単な仕事だけど、実はとてもハード。
とにかく広い。そして汚い。
でも、私はこの仕事が好きだった。
楽しくて、この町で暮らせるのが嬉しくてたまらなかった。
当時の仕事仲間は日本人とアイルランド人とドイツ人とNZ人。
仕事は日本人に日本語でみっちり教えてもらい、仕事中はみんなと英会話。
これ以上ない程の環境だった。
そして、これまたラッキーなことに、私が働き始めたその日に、私のワーホリビザは降りていた。
もちろん仕事仲間の日本人とは、他の仲間にも増して仲良くなった。
そしてビザも、仕事も得た私は充実した毎日を過ごしていた。
そこで起こったのが、
2011年2月のカンタベリー大震災。
クライストチャーチを中心としたNZで起きた大震災。
私はクライストチャーチからは遠く離れた町に住んでいたので揺れさえも感じなかったが、テレビに映る町は絶望に溢れていた。
毎日のように報道される震災の様子。
日本人死亡者、被災者もたくさんいた。
そしてクライストチャーチの事態が収まらないまま迎えた3.11。
私はいつも通り仕事を終え、キッチンで夕飯を作っていた。
宿のお客さんや、リッキー、マネージャーが飛んできた。
リサ!!!
お前の家族は大丈夫なのか?!
電話したか?!
へ?
なんで?
テレビ見てないのか?!
地震だ!津波!津波!!
え?
日本で地震なんていつものことだし、津波警報もしょっちゅう出るけど、津波が来たの見たことないし。
おまえは分かってない!
すぐにニュースを見なさい!!
そして引っ張って行かれたテレビルームで見たのは、あの悪夢だった。
ここはNZ。
どうしてNZのテレビが日本の映像ばかりやってるの?
これ、なに?何の映画?
しばらくボー然とした。
やばい!これはやばい!!!
ネット!インターネット!!
震源地は?!
お母さんは?!お父さんは?!
被災地が東北であることがわかり、私は日本へ連絡するのは控えた。
さすがに名古屋までは、ここまでの被害はないだろう。
私より連絡したい人がきっとたくさんいるはずだ。
この夜は眠れなかった。
日本中が大混乱に陥る中、私はその混乱すら知らなかった。
心配に思えど、私には今日何に怯えることもなく眠れる部屋があり十分な食料も電力もあった。
それでも、自分の母国が大変なことになっているときに何も出来ない自分の無力さを思い知り、改めて遠く離れた国に暮らしているのだと知った。
余談だが、この時私の友達で東北寄りの北関東出身の人がいた。
NZの携帯電話は、とにかく高い。
そしてNZ人を含む殆どの人がプリペイド携帯を使っている。
国際電話なんてしたら、5分と経たずに切れてしまう。
それでも連絡せずにはいられない事態に彼女は50ドルのバウチャーを購入して日本に電話した。
震災から一週間ほど経った頃だった。
彼女の携帯へ、ボーダフォンNZからメールがきた。
3.11〜18にかけて、日本へ国際電話を掛けた方にお送りしています。
我々は、この期間に日本へかけた国際電話への課金は致しません。
涙が出た。
NZの企業の粋な計らい、そして政府もまた。
自国の震災から一ヶ月そこそこで、この日本の震災。
まだまだ復興へは程遠いクライストチャーチ。
でも、NZのキー首相は迷うことなく、翌週には日本へレスキューチームを送ってくれた。
kia kaha
NZの先住民のマオリ族の言葉。
強くあれ。
一緒に頑張りましょう、日本の皆さん。
そう言ってくれたNZの人々の優しさが本当に有難かった。
遠く離れた母国。何も出来ない自分。
でも、私が日本人だと分かると声を掛けて励ましてくれるNZや世界中の人たち。
そして私の職場であり、住んでいた安宿にはバルコニーに国旗掲揚ポールが2本立っていて日替わりで世界各国の国旗を掲揚している。
でも、リッキーは日本の国旗は持っていなかった。
ある日、仕事中に背後からリッキーに呼ばれた。
リサ。これをつけておいてくれるか。
はい?
そこには大きな日の丸の旗を持ったリッキーが立っていた。
僕にはたくさんの日本人スタッフが居たのにね。
まだ日本の国旗は持っていなかったんだ。
やっと買ったよ。
さぁ、これをNZの旗と一緒に掲揚しておいてくれ。
私は思わずリッキーに抱きついて泣いた。
私は、何も出来ないけど、世界中で応援してくれる人たちに感謝することだけは忘れないようにしようと思った。
そんな頃だった。
一緒に働いていた日本人が仕事を辞めた。
元々、辞めることは決めていたらしい。
些細なことから、震災の話が原因で関係が拗れてしまった。
大事な友達だと思っていた。
でも、彼にとっては私はそうでもなかったらしい。
きっと、それまでもずっと私に対する不満があったのだと思う。
共に暮らし、働き、近すぎた私には言えなかったのだろう。
そして彼は、私と話し合う時間があるなら、自分は自分のすべきことをする、と言った。
その彼の目を見た途端に、私は嘔吐してしまった。
パニック発作だった。
ずっと穏やかだった心に、クライストチャーチと日本の大震災。
爆発寸前の不安は、私の心に突き刺さった彼の言葉で爆発してしまった。
この時初めて、私は分かり合えない人も居るのだと知った。
それ以来、彼には会ってもいないし、連絡もしていない。
私は、初めて発作から本当に嘔吐してしまった。