top of page

14/4/14

【3】パニック障害と診断された私が飛行機に乗って海を渡り、海外で4年暮らしてみた話。

Image by Olia Gozha

【3.まさかの心療内科受診】


先生の最初の診断は うつの疑い だった。

紹介状をもらい、地下鉄で5駅のところにある心療内科へ行くことに。

乗客の少ない時間帯、車両を選んでなんとか地下鉄に乗る。


まさか自分が心療内科のお世話になる日がくるとは思ってもみなかった。

偏見があったわけじゃない。

ただ、私は自分がそんなに繊細な心を持ち合わせているとは思っていなかったし、どちらかと言えば、もっと鈍感力のある人間だと思っていた。


でも今思えば、私のような人間は鬱にもなりやすい。

自分より人を優先し、それは人への優しさだけではなく、自分が傷つきたくないが為に人の顔色を伺って生き、自分の気持ちを蔑ろにする私は常に内心ビクビクしながら生きていた。


心療内科の医者は、年配の女医。

後にも先にも見たことない最低の医者だった。



診察室に通され、紹介状を読む医者。

診察前に、私から医者に希望を伝えた。



診察内容は、家族にも知らせないでほしい。


私は、自分の弱い部分を誰にも知られたくなかった。

家族の協力や、理解は必要だろう。

でも私は、家族にこれまで通り接して欲しかったし、自分の中にある、人に知られたくない自分を知られるのが嫌だった。

それは私にとって、一人で治療を続けるより辛いことだった。


そんな私の真意を聞くまでもなくその医者が放ったのは、耳を疑うものだった。




あなた、治る気あるんですか?

そんなこと出来るわけないでしょう。

もう一度考え直して出直してきなさい。


彼女の言葉に温度は無くて、本当にただ言い放っただけの言葉に聞こえた。

私が感じた彼女の本心を別の言葉にするならこんな感じだ。


バッカじゃねーのこいつ。

そんなん治るわけねーだろ。

あーめんどくせーなー。

さっさと帰れよ。めんどくせー。


こんな感じに私には聞こえた。


その後はもちろん一切の診察をしてもらえず、本当にこの一言だけでこの日の診察は終わった。

以後、二度と私はこの病院にもその他の心療内科にも行っていない。



この医者のこの一言で、私は死ねると思った。


帰り道は電車に乗るのが辛くて、7kmの道のりを歩いて帰った。

大きな国道にかかる歩道橋。

飛び降りて死んでやろうかと思ったけれど、


私にはそんな勇気はなかった。




母の病院に戻り、院長先生にことの顛末を話し、先生の元で治したいと頼んだ。

先生は、優しく頷いた。


先生から処方されたのは軽い抗うつ剤と、胃薬、吐き気どめ。

この抗うつ剤が劇的に効いた。

吐き気が半日ほど引いて、ご飯が食べられたのだ。



これまでの人生、全てではなくても不幸だとは思ったことはない。

いつも元気だね、明るいね、悩みなんてなさそう、と言われていた。

思春期に誰もが通る友達関係の悩み、コンプレックス、進路、家族、人並みの悩みはあれど、死ぬほど辛いことなんかなかった。

欲しいと思ったものは、大抵のものが手に入った。


このときの私が唯一欲しかったものは、健康な体だけだった。

元気で明るくてお調子者の私が死んだ。




しばらくして、学内専任の心理カウンセラーの先生から直々に、

カウンセリングに来なさいとのお達しが来た。


悩み事や進路相談、恋愛相談まで、どんな話も聞いてくれるという保健室の先生のような人。


通常、この先生のカウンセリングには予約が必要だ。

先生は、頼んでもいない私の予約を自ら入れてくれていた。



ここしばらく、顔色が悪いねぇ。

学校は大変?



えぇ、まぁ…

でも自分が好きで始めたことだし、

もう全て動き出してるし、後に引けません。



なんで?いいじゃない。

やめたって。自分を見てごらん。

本当にやりたいのかい?



でもやめられないんです。

親にお金を出してもらってこんな高い専門学校に入れてもらって、辞められません。



じゃあ、親も、君の今していることも、何も関係がなかったら君は辞められるのかな?


やりたいこと、やらなければいけないことを自分のために辞めること、

それも勇気だよ。



…意味がわからない。




この時の私には、先生の言っている意味が全く理解できなかった。


でも先生は、私の命、私の体、私の未来が、今目の前にあることよりもずっと大切なんだと教えてくれていたのだ。



うつ病や、パニック障害、その他様々な理由で退職、退学、休職、休学 etc...する人がいる。


私は彼らを尊敬する。

私にはできなかった、自分を大切にすることが出来ているのだから。


私は、ちっぽけな今の自分の居場所を失くすのが怖くて、自分の体が上げる悲鳴を無視し続けたのだ。




この頃私は、うつ病も併発していたらしい。

体が固まったまま、布団から起き上がれない日もあった。

顔色は常に青白く、道ゆく人は眉をひそめて私を見た。

食事がとれないので、いつもゼリーを食べていた。




でも後少し…

この企画が終われば休める。


それまでの我慢だ…




私は自分に言い聞かせ、奮い立たせ、終わりの日を待ちわびていた。


←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page