いましかできないやりたくないことってなんだろう?
こんにちは。長野県小谷村-OTARI-の古民家で宿を運営しているたつみです。
自分の過去を書きまとめる作業、3回目でございます。
誰もが持つ過去から紡がれる物語の断片を。
自己満足にもネットの世界へ解き放つ次第です。
お暇な方はどうぞお付き合いいただければこれ幸いにございます。
-2000年5月
中学校も新学年の2年生となり1ヶ月が過ぎた頃。
この頃のぼくはと言えば。。
趣味や没頭するものなど何もないただひたすらに純真無垢な男の子でありました。
万年帰宅部でRPGゲームに熱中。
勤勉などとという言葉の存在すらあやふやで、校舎にあった二宮金次郎の石像に「税金の無駄遣いちゃう?これ。」などという血も涙もない言葉を笑顔で吐き捨て、ただただひたすらに純粋無垢であった為、部活に汗を流す同級生の爽やかささえその渦中の上下関係の煩わしさにもうご愁傷様です。と手を合わせるような愚か者だったのです。
そんなぼくが中学2年生になった春。
ぼくは誰よりも早く14歳となりました。
その頃のクラスでの立ち位置は、友人関係に悩むことなく全ての人々に笑顔を振りまくことのできるちょっと変わった男の子。といったところで、特に難しい思春期に悩みをはせるようなタイプでもありませんでした。
小学4年生〜卒業までにいま現在の棲家である、長野のど田舎で暮らしていたときの影響が色濃く。どんな過酷な人間関係・自然現象に対しても、へらへら笑って楽しめる汎用性の高い男の子と成長していたのです。
(↑こちらの話は過去に書いた「古民家ゲストハウスの創り方」をご参照ください)
咲き誇る桜の景色を眺めながら。
「可もなく不可もなく続く義務教育で安全な日々に、ちょっとだけスパイスを。」
そんなことを考える中学二年生の春でした。
「どうせいまの義務教育の中でなら、ちょっとだけはみだしたことしてもどうにかなるなぁ。」
ぼくは、この可もなく不可もなく続く日々に
‘いましか出来ないこと’を求める様になりました。
それはもちろん。
勤勉に励むこと、身体を鍛錬に鍛え上げること、音楽の世界に没頭すること。
そんな自分自身のスキルアップを目指せばよかったと思う次第ではありますが。
その頃の純粋無垢なぼくは、努力というものが好みではなく。
いかに楽に。いかに怠けるか。この二つが人生の価値観の中心にあった男の子でありましたので。。
そんな少年たつみかずき(14歳)は想いを巡らせたあげく一つのことをやり遂げようと!!
と心に固く誓ったのです。それが中学二年生の5月の始め。
少年が出した’いましか出来ないこと‘それが。。
【計画的ひきこもり】
だったのです。
何故中学二年生でひきこもりか?
その頃のぼくは考えました。
「いましかできないこと=中学三年になったらできないこと?
受験とかあるしな〜。勉強さぼることとか、学校休むこととかはできへんくなるな〜。
逆にいましかできへんやりたくないこと。ってなんやろ〜。
ぼく暑いの嫌いやな〜。夏の学校とかほんま蒸し暑くて嫌いやわ〜。
あー夏に学校いきたないわぁ。長野の夏はあんな涼しくて快適やったのにな〜。
。。。
あ!!!
学校行かんかったらええんや!!」
中学二年生になったぼくが導きだしたいましかできないこと。の答え。
それが、計画的ひきこもりだったのです。
ただ学校にいかないだけでは退屈千万、且つ実際にひきこもりが万年化してしまっては元も子もない。
あくまで、計画的に期間限定で実践し、且つ少しばかりは人生のプラスとなる自己啓発的な雰囲気も盛り込みたい!!
そんな時間を過ごすことに内なる自分自身との対話で決着がついたのです。
そうと決まれば計画は可及的速やかに。
ぼくは5月の二週目あたりから徐々に不要な教科書や荷物を鞄に入れて持ち帰り始めました。
あくまでこれは自分自身に課せた試練。(あくまで自主的に)
他言無用、風潮の流布は言語道断。
噂が広まり汚れた大人に純粋無垢な少年の野望を企画倒れとされぬよう、ぼくはあくまで単独犯行を追求するに徹したのでした。
5月末日。
チャイムが鳴り、ぼくはスカスカになった机の中が空になったことを確認し、いつものクラスメイトに「じゃあまた。」と、しばらくの挨拶をいつもどおりに済ませて帰路につきました。
自宅までの道のりは住宅地の合間を突き進み約20分。
学校の正門から坂を下り、小さく薄暗い商店街を抜け、ピーコックというスーパーの駐車場から信号を渡ると、そこから自宅まで住宅地が砂漠の様に広大に広がります。
ぼくが生まれた町は大阪府高槻市という大阪市と京都市の中間に位置しており、通勤の便の良さからベットタウンとなった町だそうです。
JRと私鉄阪急電鉄の二つの駅があり、その間は商店街と繁華街が続き賑わいをみせており、市役所等の公共施設も中心部に並んでいます。
中心部から徒歩10分程南には国道171号線(通称いないち)が西には大阪・尼崎、東には京都市街地方面に横断しております。
このいないち沿いには大型チェーン店や工場地帯が高槻の端から端まで続いております。
JRの電車は15分おきに大阪京都へと15分程で到着する新快速が大変便利なのです。
ぼくが住む高槻市立第九中学校区の安岡寺町は駅から上の口行きのバスに乗り20分程ずっと坂を登り、終点上の口の一つ手前のバス停が最寄りです。
上の口のバス停から北は高槻市の‘町の切れ目’となっており、本来の高槻の姿である農村風景が広がります。
ぼくの住む安岡寺町は幾つもの山の形に家が建ち並ぶ広大な住宅地の端っこの町でした。
5月の終わりのアスファルトに囲まれた下校道は既に夏の温度に限りなく近く、坂を登りきる頃には汗ばむ程でした。
ぼくは、これから【自ら勝ち取る自由】に浮き足立ちながら帰路についたのです。
学校行かへんのか?
行かへんねやったら先生に手紙くらい書き。
6月となった朝。
朝の光がいつもどおりぼくのロフトベットに差し込みます。
いつもどおりの爽やかな朝。
すずめの鳴き声がより一層朝の爽やかさを演出しておりました。
いつもなら学校に行く支度を始める時間にぼくは目をさましました。
それから10分後、母親がけたたましく爽やかさで満たされた我が城に土足で踏み込んできたのです。
母「あんた早よ起き!!学校行く時間やろ!!」
たつみかずき(14歳)「あーおはよう。ええねん。学校。」
母「はぁ?!!なに言うてんねんな。学校行かなあかんやろ。」
たつみかずき(14歳)「今日は休むわ。風邪。風邪。先生にそう言うといて。」
母「なんやそれ。今日は行かへんねんな?」
たつみかずき(14歳)「うん。行かん。」
母親はそれから小言をぶつぶつ言いながら部屋を出て行きました。
程なくして父も母も出勤し、平穏な6月の独りきりの素敵空間となった家。
平日の朝の住宅地にはたくさんの声や音が響いていました。
当たり前に動く時間の中で、当たり前に学校でクラスメイトと顔を合わせているはずの自分がいま。
独りきりの自由を小さな家の中で謳歌しているという違和感と幸福感。
ぼくはこれから始めるひきこもり生活に胸を躍らせながらテレビのチャンネルを回しました。
特に見たいテレビなんてやっていない。それでもいい。
ただ、この時間にテレビをつけていること自体、自分の知らないテレビ番組が映されていること自体が、ぼくの知らない未知の時間であったのです。
ひきこもり生活第1日目の午前中はただひたすらにテレビのある居間で万年寝太郎な時間を謳歌することに費やしました。
午後になり、ぼくはこれから始める引きこもり生活にいくつかのルールを設けることにしたのです。
◯計画的ひきこもり生活のルール
①なにがなんでもひきこもり生活は続行とする
両親がなんと言おうと、先生がなんと言おうと、クラスメイトがなんと言おうと。
頑としてひきこもり生活はやめない。
やめたら計画的!!であるべき意味を失ってしまうのです。
②ひきこもり生活の期間を設定する
期間限定だからこその特別な時間。
この期間限定を謳歌する為には終わりは明確に設定する。
本当にひきこもりなってしまっては元も子もないのです!!
期間終了は夏の終わりである8月末日(自分的に)9月1日からは通常どおり中学生活に戻ることとする。
③せっかく時間だけはあるのだから自分のスキルアップになるなにかしらのことを始める
ばかみたいに万年寝太郎は飽きること必須。
折角のひきこもり生活を意味の有るものとしたい。
この三つのルールさえ守ればぼくはきっと素敵な引きこもり生活を過ごすことができる!!
そんなことを純粋無垢に想いながら、ただなにもしない一日が過ぎたのでした。
ひきこもり生活二日目の朝。
母親のけたたましい関西弁が夢うつつなぼくの意識に突如としてラリアットを喰らわしたのです。
母「朝やで!学校や!!きのう休んでんから今日は行き!!!」
たつみかず(14歳)「あー。おはよう。」
母「おはようちゃうわ。早よ起き。」
たつみかず(14歳)「ちょっと。もうちょい声のボリュームさげれませんかね。。」
母「なに言うてんねんな!とにかく早よ起きぃって!!」
たつみかず(14歳)「あー。もうね。学校いいねん。しばらく行かへんから。」
母「は?!!なに言うてんねんな?!!」
その晩。
我が家では父親を交えた家族会議が母親主催のもと開催されたのでした。
母「父さんきいてぇな。かずき、学校行かへんとか言うてんねん。きのうも今日も学校休んで。。」
父「かずき、どないしたんや?」
たつみかずき(14歳)「いや。ちょっとね。学校しばらく休もかな〜。思てさ。」
母「あんた学校行かへんのか??」
たつみかずき(14歳)「そう。いかん。8月いっぱいまでな。」
父「なにがあったんや?いじめられてるんか?」
たつみかずき(14歳)「いや。いたって健全。なんなら順風満帆。知ってるやん?ぼく、夏嫌いやん?いま中2やん?ひきこもりなんて、今後一生できへんやろ?やしな。いましかできへんことすんねん!!それが、ひきこもり。」
父「あーなるほどな。」
母「なるほどな。って、父さん!!!」
父「あぁ。すまん。。」
たつみかずき(14歳)「と、言うことで。しばらくお休みいたしますので、そこんところよろしくっす、ご両親☆」
父「そうか。なら仕方ないな。。(中略)」
たつみかずき(14歳)「ってことで、先生にご報告よろしくお願いします、お母上さまm(_ _)m」
母「そうかぁ。けったいな息子やわほんま。ならわかった。それなら明日。。は土曜日やから。週明けに先生に話にいくわ。そん代わりな。せめていま話した話。先生に手紙くらい書き!!これこれこういう理由で学校休みます!って。」
たつみかずき(14歳)「。。手紙?!!まぁ。わかった。」
意外にもあっけなく家族会議は終了。
まさかまさか、ひきこもり生活実施にあたる引き換え条件が
「先生に手紙くらい書き!!」なんてものになるとは。。
さすが我が両親。
可愛い小学生当時の我が子をど田舎に島流しにして親戚一同から「育児放棄」との非難の集中砲火を浴びるも挫けない懐の深さを持っておられるのだから、可愛い我が子がひきこもりをするくらいでは驚かない!!
思い返せば、ぼくの幼少時代に我が父がぼくに口癖の様に語りかけていた台詞が
父「お前は、広い世界をみろ。」
だったっけな。
そんなこんなで、ぼくは早速担任の先生に計画的ひきこもりの計画内容を一筆したためたのでした。
たつみ、ずっと家にいるから遊びにいこうぜ!
引きこもり生活が開始され、それはもう退屈でぬるま湯浸かりの日々が刻々と過ぎていきました。
母曰く、担任の先生はぼくがしたためたお手紙に納得したようで直接連絡をしてくることはありませんでした。
「たつみ君は変わった子です。しかし、意思を強く持っている子なので、きっとそれなりの考えがあるのでしょう」と話していたそうです。
両親からも担任からも、いい感じで放置される現状を、いい感じに前向きに捉えたのでした。
ひきこもり生活より一週間程で、既にぐうたら生活に嫌気がさし、この不毛な時間を過ごす決意に後悔がみられた頃。
ぼくは初めに決めたルール③「せっかく時間だけはあるのだから自分のスキルアップになるなにかしらのことを始める」を実践することにしたのです。
ぼくの両親は共働きで、姉と兄はぼくに全く関心を示さず。
ぼくは小学校の頃から鍵っ子で、夕飯が無い生活が当たり前となっていました。
両親の帰りを待つには空腹が耐えきれないと主張するのです。
ぼくは物心ついた頃から自分の食べるものは自分でつくるようになっていたのです。
幸いにも慢性的に我が家の冷蔵庫は食べもしない食材が所狭しと収容されており、その気さえ有れば食うことには困らない家でした。
毎日点けていたテレビでは昼前に料理番組がやっていました。
ぼくは「そうだ!この際だし料理をしっかりと勉強しよう!!」と考えたのです。
思い立ったが吉日。
この不毛な時間を有意義なものへと変換すべく、全く使われていない埃まみれのレシピ本を開きました。
その日から我が家の夕飯を午前中〜午後にかけてのんびりつくることがぼくの日課となりました。
この時に料理!!というスキルを身につけたことがいまの宿開業に大いに役立っているのだと実感しております。
ずっと家にひきこもっていただけではありません。
当時母が出向していた隣町の図書館に通うことも週2回程の習慣となりました。
残念ながら、図書館に通ってなにをしていたのか?という記憶が欠如している為、勉学に打込んでいたり文学を読み漁る読書の虫にはならなかったということです。
もし文学に打込むような時間を過ごせば、別の活路が見出せたのかもしれませんが。。
文学少年となれなかったぼくは毎日料理をつくり、別の意味で文化系の道を突き進んだのでした。
たつみ=引きこもり
というレッテルを自ら貼付けて間もなく。
近所の友人が我が家を尋ねる様になりました。
友人Aくん「お前、最近どうしたん??」
たつみかずき(14歳)「え?いや。そのままやで。ただ、ひきこもってる。」
友人Aくん「ひきこもってんの?!めっちゃおもろいやん!!(爆笑)じゃあ、いつでも家おるん?」
たつみかずき(14歳)「だいたいおるよー。たいがい。暇!!」
友人Aくん「じゃあさ、俺ちょくちょく遊びにきたるわ!!」
たつみかずき(14歳)「あーい。いつでもきてねー。」
こんなやり取りを機に、我が家には知るメンバーが集まり始めました。
遊び盛りの男子中学生達は常にたまり場を求めております。
ぼくは常に家にいる。
両親は共働きで帰りが遅い。
しかも、ぼくが毎日つくっている料理も食卓に並ぶ訳で。。
そんなこんなで我が家は気がつけばたまり場になっていきました。
友人Aくん「たつみ、ずっと家にいるから遊びにいこうぜ!」
中学生同学年の口コミネットワークの速度は音速にも近し。
現在の棲家、ど田舎口コミネットワークと同等の速度で
たつみ=ひきこもり
その家で遊べるらしい
との噂は広まっていきました。
当初は知っている顔が。
気がつけば知っているけど話したことのない顔が。
1ヶ月しない内に知らない顔さえが。。
同学年男子の巣窟となった我が家は、昼過ぎから深夜前まで常に満員御礼といった状況となりました。
毎回いい感じにリビングが埋まる程度の人数がローテーションしていきました。
スーパーファミコンしかなった我が家には、当時流行の先端だった任天堂64を誰かがどこかしらから持ち込んできました。
64のゲームソフトもバリエーション豊かになっていきました。
漫画や雑誌、最新のイケてる音楽なんかも集まり始めました。
特に熱狂的な人気を誇った、4人対戦で遊べる64ゲーム【大乱闘スマッシュブラザーズ】は常に白熱で、全ての同級生のコミュニケーションツールとなりました。
4人がゲームをしながら負けた友人が順番待ちをする友人と交代し、順番待ちをする友人は漫画や雑誌に目を通す。
そんな日々が日常となりました。
いつしか我が家では
別クラスの中学生同士が我が家で仲良くなる!!という現生が生じ始めました。
誰かが友人を連れてくる度にぼくには友人が増殖していきました。
それもう、芋づる式に。。
夏真っ盛りになる頃には
不思議なことに、学校に通っていたときの何倍もの社交性と交友関係を自宅で得る。
という、奇妙きてれつな日々を過ごすことになりました。
◯その頃の一日の時間割
9時半 起床〜テレビを点ける〜朝ご飯
10時半 料理本を見ながら作ったことのない料理をつくってみる
12時 昼ご飯
13時 ネットサーフィン〜主に音楽鑑賞
14時 ちょっとやんちゃな友人がき始める
16時 ノーマルな感じの友人がき始める
19時 部活終わりのスポーツ系の友人がき始める〜夕食
21時 両親帰宅〜両親と仲のいい友人達はまだ居座る
23時 三々五々で解散〜ネットサーフィン
(週二回は母が務める図書館通い)
毎日が賑やかに過ぎていきました。
思春期真っ盛りなリアル中学二年生は常に悶々と、甘酸っぱいリアル中二病を共有しておりました。
恋や友情や部活や授業。服や音楽やカラオケや中学生が通える店。
バカ話が7割と、エロ話が2割、マジな将来の話なんかの真面目な話が1割。
様々な話が行き交います。
夏の夜に花火をしたり、小学校のプールに進入したり、通報されて本気で逃げたり、終着のバス停で朝を待ったり。
初めての煙草をおぼえた場所は、ぼくの自室である友人がほとんどだったと思います。
ぼくはかたくなに禁煙を突き通しましたが。(いまも尚)
そうやって男だらけの汗まみれの夏は過ぎていきました。
夏休みも終わり、まだまだ暑い日々ではありましたが。
ぼくのひきこもり生活は期限どおり。
開始当初に考えもしない程楽しい思い出を残し終わりを迎えました。
9月1日。
ぼくは久々に制服の夏服を着て中学校に登校したのです。
どこまでも広がる住宅世界を、まだ暑い9月の日差しを浴びながら。
それからぼくの我が家は
拠点を京都に移した後、高校〜長野移住に至るまで常に【たまり場】という、人々の集まる空間であり続けました。
人と人とが集まる空間で交わされる会話や夢の形。
様々な世界が広がる繋がりの場。
そこから始まる友情や、恋愛や、仕事や、夢への一歩。
自分を含め、たくさんの人が我が家のリビングを共有していきました。
こんな日々を仕事にしたい。
漠然といつの頃からか考えて始めました。
ぼくは長野のど田舎に移住し、古くて大きな家に住むことになりました。
ぼくはその家を宿にすることにしました。
いまでは中学生のあの計画的ひきこもりの日々から始まったたまり場生活を続けています。
その時におぼえた料理の知識は特に役立っているスキルの一つです。
過去の時間は確実にいまへと繋がっているのだと、いまになって深く考える次第です。
長文&乱文を最後までお読みいただきありがとうございます。
もしよろしければど田舎移住からいままでのことをまとめた「古民家ゲストハウスの創り方」もどうぞお読みください。
文:たつみかずき