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14/3/28

東大生がネトゲで出会った女性と結婚し、「生きる理由」を教わって人生が変わった話

Image by Olia Gozha



こんにちは!

ノマドWEBディレクターの武田といいます。

ロンドン生まれ、ニューヨーク育ち、筑駒(筑波大学附属駒場高校)を卒業、一浪するも東京大学に入学、と社会的に見たら順風満帆に見えますが、

自分のやりたいこと・人生を見失い、ネトゲ(ネットゲーム)にどっぷりハマっていた時期があります。

そのころ、ネトゲのギルドで一緒に幹部をしていた「Yさん」という方にお世話になり、

「生きる理由」とは何か、と言うことを教わりました。

今日は、僕が「生きる理由」を見失うまでの人生と

Yさんに教わった「生きる理由」をシェアさせていただきます。


目次

1.東大までの半生

2.東大入学後からYさんとの出会いまで

3.Yさんとの結婚まで

4.Yさんが教えてくれた「生きる意味」

5.「生きる意味」を手に入れて


1.東大までの半生


僕は日系の銀行に勤める父と、専業主婦の母との間の長男としてロンドンで生まれた。

その後、弟や妹が生まれることはなかったので、一人っ子だ。


2年くらいして父の駐在期間が終わって帰国した後、幼稚園受験をして桐蔭学園の幼稚園に合格した。

しかし、しばらくして今度は父がニューヨークに転勤。僕はまだ5歳だった。


アメリカでの生活は言葉が通じなくて辛い思いもたくさんしたけれど、本当に楽しかった。

さらに、アメリカ人の同級生に比べて僕は圧倒的に算数が出来た。

これは僕が特別に頭が良いわけではなく、日米の小学校における算数の教え方の違いからくるものなのだが、僕の自尊心を大いにくすぐった。

アメリカの小学校では九九を暗記させないが、僕は日本式に合わせて親から九九を教わっていたので、同級生の10倍速くらいでかけ算のプリントを解いていた



日本に帰国

9歳の時に父の駐在期間が終わり、帰国。幼稚園と同じく桐蔭学園の小学校に編入することが出来た。

この頃から僕は真面目に授業を受けなくなった。日本の授業が「つまらない」と感じたからだ。

各自の理解のペースでプリントを解かせるアメリカ式の授業になれてしまった僕にとって、

日本式のラジオ放送を垂れ流すような授業は退屈以外のなにものでもなかった。

試験の成績を他人と競うのは好きだったので、それなりに勉強はしていたが

授業に身が入っていなかったので、平均以上だが爆発的に良いわけではない、微妙な成績を取っていた。

結局、日能研に通っていたが中学受験はせず、小学校から持ち上がりで桐蔭学園の中学校に入学した。


それなりの成績を持っていたにも関わらず僕が中学受験をしなかったことを惜しがった母が鉄緑会という塾を薦めてきた。

鉄緑会には筑駒や開成の生徒が通って東大を目指しているらしい。。。

父が一橋大学出身で、僕に東大合格を期待しているのを何となく感じていた僕は、喜んで鉄緑会に通うことにした。



高校受験を決意

鉄緑会での授業は非常に刺激的だった。

なにせ、数学は中学1年生で中学校3年間の内容をたたき込まれる。

そして、その授業について行けるような生徒が集まっている。

学校の授業よりも鉄緑会の授業が楽しみだった。

いつしか僕は、自分のアイデンティティを桐蔭よりも鉄緑会に置くようになっていた。

その結果、僕が導き出した道は「桐蔭をやめて、筑駒に入学する」と言う道だった。


父と母に相談した。

「桐蔭をやめたい。」

「え?」

「桐蔭の授業はつまらない。学年のベスト3の成績をキープしてるのに、授業中に寝てると怒られる。」

「。。。」

今になって思えば、授業中に寝てると怒られるのは普通だ。

だが、当時の僕は納得していなかった。


「武田ぁ!!黒板はおまえの枕じゃねぇ!!!」と言う先生の怒号を今でも忘れられない。

(教室の左の壁にも連絡事項とかを書く黒板があって、それにもたれかかって僕は寝ていた)

「僕が桐蔭の幼稚園に入った頃はそれなりに桐蔭から東大に受かっていたけど、今は全然合格してないよ?」

「そうだね。」

「鉄緑会で友達も多いし。筑駒に入り直して、筑駒から東大を目指したい。」

「。。。」

父はほとんど話さなかったが、黙って退学手続きをとってくれた。

僕は中学2年生の9月から公立中学校に通い、筑駒合格を目指すことになった。



人生1回目の猛勉強シーズン到来(高校受験)


高校受験の塾はSAPIXを選んだ。試しに模試を受けてみたらいきなり塾内で1位になった。

塾長の先生に呼び出された。

塾長「キミは今回、SAPIXで1位になった。高校受験がしたいんだって?」

「はい。筑駒に行きたいです。」

塾長「今の成績をキープすれば、筑駒だろうがどこだろうが入れるよ。頑張ってみようか。」

「はい!」


武田龍馬という受験マシーンが誕生した瞬間だった。


高校受験には受験勉強が楽になる「ズル」がいくつかある。


  帰国子女:英語の勉強が楽になる。

私立中学出身:数学の勉強が楽になる。

中学受験経験:理科と社会の勉強が楽になる。


お気づきだろうか?

僕はすべての条件を満たしていた。


さらに、鉄緑会で僕はほかの人よりも先に多く勉強すればそれが大きなアドバンテージになることを知った。

僕は自分の優位を絶対的なものにするべく、狂ったように勉強した

まさにこんな感じ↓


睡眠、通学、食事、お風呂、トイレ。それ以外の時間はすべて勉強に充てた

睡眠は学校でとった。(当然、先生には嫌われた)

与えられたテキストや問題集はすべて解き尽くした。

早稲田アカデミーの模試をうけてみたところ、偏差値が100を超えてストーカーまがいの勧誘を受けた。

全国高校入試問題正解を夏休みの間に1周するように言われたら2周した

20年分の過去問を渡されたら1ヶ月で解ききった。

駿台の全国模試で2回連続で5教科1位を達成した。2回目は3教科1位も制覇した。

中学3年生のときのSAPIXの模試は2/3以上で僕が5教科1位だった。

  (1位ではないときも、最低でも3位以内にいた)

「得意科目は英語、数学、理科、社会」と、豪語した。



そして筑駒の受験日当日










僕は40度の熱を出していた。


とは言え、成績が圧倒的だったので合格はできた。

受けた高校はすべて合格した。

二次面接を受けた高校で「君とは二度と会わないだろうけど頑張ってね」と言われたが、受かっていた。


こうして僕は、晴れて筑駒生になった。


高校生活から浪人生活


高校に入学した僕は、「筑駒合格」というそれまでの人生で最大の目標を達成して、完全に目標を見失っていた。


僕は誰よりも努力した。


しかし、それだけだった。



僕は目の前の「受験」と言うレースに身を任せた。

筑駒には入りたかったが、受験レースは僕が設定したものではない。

そして、受験レースを誰よりも速く駆け抜けるために、自分という存在のほぼすべてを投入した。


その結果、僕からは「自分が達成したい目標を見つける能力」が失われていた。

何のために生きているのかわからなくなっていた。


高校2年生からはゲーセンに入り浸るようになった。

あれほど行きたかった鉄緑会もサボるようになった。


それでも、鉄緑会の上位クラスはキープしていたし、

学校内の模試では学年の上位1/4をキープしていたから

大したものだと思う。


恐らく、高校受験の時の貯金が効いていた。


高校生のときに、中学校の恩師にお目にかかる機会があった。

恩師「(中学生のときよりも)落ち着きが出て、大人びたなぁ」

折角お褒めの言葉を頂いたのだが、きっと、「生きる意味」を見つけられずに勢いを失っていただけだと思う。


結局、受験直前のラストスパートに身が入らず、現役の時は東大文科1類に僅差で落ちた。

あと3点だった。


他に受けた私立大学はすべて合格していたが、どれにも行く気がしなかった。

子どもの頃から「トーダイ」と自分の頭に刷り込んでいた。

親の期待を自分の中に取り込んでいただけかもしれない。


僕は東大を目指す明確な理由を持たないまま

東大合格を目指して浪人することにした。



浪人生活


浪人生活が始まっても僕はゲーセンに入り浸って勉強をしなかった。

予備校にも顔を出さなかったので、担任のチューターに顔も覚えてもらえなかった。

合格の報告をしたときは絶句された。


「僅差で落ちたのだから、少し勉強するだけで合格できる」

こんな甘えがあった。


実際、これは間違ってはいない。

だが、残り3点を埋めるためにはどれくらい勉強をしなければならなくて

そのためには何月から勉強すれば良いのか?

こう言うシミュレーションが必要だ。


僕はこのシミュレーションを全くしなかった。


そして11月頃、僕はPCでやるシナリオゲームをやっていた。

そのゲームのテーマは"Will"

Willとは「意志」


「生きる意味」すなわち意志を持たない僕の胸に

キャラクター達のセリフがグサグサと刺さる。

「夢をかなえるには、まず、夢そのものがないといけない。」

(他にも心に刺さったセリフはあるのだが、割愛)


そしてエンディングで号泣。

1時間くらい泣きじゃくっていた。


「翼がなくても、きっと行ける」

そう背中を押され、僕は東大に合格することを決意した。

僕の浪人生活は12月に始まった。



人生2回目の猛勉強シーズン到来(浪人生)


とは言え、時間はない。

半年以上、全く勉強をしていなかったので予想以上に学力が落ちている。


予備校にすら顔を出していなかった僕は、

睡眠(7時間)+ お風呂、食事、トイレ(合計1時間)=8時間

これ以外のほぼすべてを勉強に充てた。

一日の平均勉強時間は15時間くらいだった。

再びこんな感じ↓

猛勉強の甲斐があって、僕は1浪で東京大学文科1類に合格した。



2.東大入学後からYさんとの出会いまで


東大に入ったからと言って、「生きる意味」が見つかるわけでもなく、

僕は塾講師や家庭教師のバイトでお金を貯めて、海外旅行に行くようになっていた。

今から思えば、一種の「自分探しの旅」だったかもしれない。

日本に閉塞感を感じて逃げ出したかったのかもしれない。


そんなある日、僕はブラウザ三国志(ブラ三)と言うネトゲに出会った

ワールドの中で他のプレイヤーと同盟(ギルド)を組み、同盟間で競う。

マップ上の7つの城を制覇した同盟が「天下統一」を達成する。


  天下統一


なんと甘美な響きだろうか


競争好きな僕の心に火が付いた。

1つめのワールドでは大きな同盟の盟主を務めるまでになったが、

天下統一を果たせぬまま、同盟運営の失敗や体調不良が理由で泣く泣く引退した。


すると、先に引退したと思っていた前盟主からメールが来た。

前盟主「新しいワールドで一緒に天下統一を目指しませんか?」

僕はこの誘いに飛びついた。


新しい同盟では盟主職を前盟主にお願いし、自分は外交官職に就いた。

ほかの幹部たちも各ワールドの有名人ばかり。

「これは行ける」と確信した。


僕たちの同盟は着々とワールド内で勢力を拡大していった。

同盟員たちとはチャットで毎晩盛り上がっていたのだが、

同じ幹部のYさんとはアニメやゲームの話題で盛り上がることが多かった。


そして、お互いに年末の冬のコミックマーケット(冬コミ)に参加することがわかった。

冬コミに参加するほかの同盟委にも誘い、冬コミ後にオフ会(飲み)に行くことになった。


冬コミ当日、僕は自分の用事が終わったので、少し早かったがYさんと合流することにした。

Yさんとはコスプレイヤーとして参加しているらしいので、コスプレ広場に向かった。

「あ、もしもしー。Iですけども。」


僕はブラ三内では「I」と名乗っていた。

そして、コミケは本当に人が多い。

近くに着いたくらいじゃ初対面の人なんてどこにいるかわからない。

(コミケの様子↓)

「コスプレ広場の前に付いたんですが、どのあたりにいます?」

Yさん「えっとねー、階段の正面のあたりにいるよ。とりあえず広場に入ってきてよ。」

「入ったよ。」

Yさん「今、手を振ってるよー。」

「探してみるね。」


この時点で僕がYさんについて知っていたのは

・女性

・丸顔(顔は事前に写メを送ってもらっていた)

・腰にまで届くロングストレート

この3つだけだった。

「流石にこの人混みだと、なかなか見つからないなぁ。。。」

Yさん「(ブンブンブンブン)」

「。。。」


自分とは反対の方向に向かって大きく手を振っている女性がいた。

顔は見えないが、僕がさっき説明したあたりに向かって手を振っている。

そして、腰にまで届くロングストレート。

後ろから近づいてみた

「(何かこの人っぽいな。。。)」

Yさん「(ブンブンブンブン)」

「あのー。Yさん?」

Yさん「(グルン)」

Yさんが長い髪を振り回しながら振り向いた。

Yさん「Iさんだー。うわーほんとだー。わかーい!」

会う前に自分のおおよその年齢と男性であることを伝えていたのだが、

実際に会うまで年齢を信じてもらえなかった。

チャットでの会話内容が老けていたらしい


そして


Yさんが振り向いたとき

僕は生まれて初めて恋に落ちた。


一目惚れだった


3.Yさんとの結婚まで



冬コミからしばらくすると二人で一緒に遊びに行くようになった。

Yさんは自由奔放に見えた。


「何かをしたい」と言うとき、「どうして?」と聞くと

「面白そうじゃん」

とか、具体的な理由は何も返ってこなかった

できそうかどうか、周囲の人間がどう思うかは関係なく

面白そうかどうかで自分の行動を決定していた。

明確な理由なしに何かをすることがなかった僕にとって

大変なカルチャーショックだった。


そして、僕は自由奔放なYさんにますます惹かれていった。

「生きる意味」を見失っていた僕にとって、

やりたいことをガシガシやっていくYさんは太陽みたいにまぶしかった。



ちなみにここでYさんのスペック。


僕の9歳年上

離婚歴あり

子ども二人

学歴なし


僕と同じ境遇にほかの男性がなったとき

たぶん、多くの人は「あきらめる」と思う。

一緒に遊ぶには楽しいんだけどな、で止まるかもしれない。


だが、僕はここでアクセルを全力で踏み込んだ。


初めて冬コミで会ってから2ヶ月後には交際を申し込んだ。

Yさんにはもの凄く止められた。

というより、正気か疑われた。

「つきあって下さい。」

Yさん「え?」

「つきあって下さい。」

Yさん「それって彼女としてってこと?」

「(うなずく)コクリ」

Yさん「私、9歳年上だよ?」

「うん。」

Yさん「私、子どもいるよ?」

「うん」

Yさん「Iさんはまだ20代だし、年貢を納めるのはまだ早いと思うよ?」

Yさん「子どももいるし、9歳年上だからIさんとの結婚は難しいと思うよ?」

「そんなことないよ。僕はYさんと結婚したい。」

「僕はYさんに年貢を納めたい。」

Yさん「!!?」

結局、「結婚したい」のところについてはYさんはまだ半信半疑だったが

「真剣につきあいたい」という気持ちは通じたらしく、僕とYさんはつきあい始めた。


その後、東日本大震災のときに一緒にいたことも後押ししてくれて、

僕とYさんは結婚した。


今ではYさんと僕の間に一人の息子も生まれている。



4.Yさんが教えてくれた「生きる意味」


Yさんは、「好奇心が強いこと」・「負けず嫌い」以外は何もかもが僕と正反対だった。


       僕 ⇔ Yさん

    学歴あり ⇔ 学歴なし

    仕事重視 ⇔ 家庭重視

実現可能性を重視 ⇔ 自分がどのくらいやりたいかを重視

    頭が固い ⇔ 頭が柔らかい

    理性偏重 ⇔ 感情偏重


Yさんと一緒になってから僕はとても不思議だった。

「僕もYさんに負けないくらい好奇心が強いし、負けず嫌いなのにどうしてこんなに性格が違うのだろう?」

一緒に旅行に行くことになり

泊まる宿を直前に決めて、プランも準備も適当なままに出発したとき

僕は生きた心地がしなかった。


僕が旅行に行くときは1ヶ月くらいかけて綿密にプランを練る。

Yさんはそれを全部すっ飛ばして行った。


もちろん、旅行は満足のいくもので、特に問題は発生しなかった。



ある日、Yさんに聞いてみた。

「Yさんはいつも楽しそうだよね。」

Yさん「うん。やりたいことしかやってないからね。」

「(僕もやりたいことしかやってないはずなんだけどなぁ。。。)」

僕は真剣に悩んだ。


そして気がついた。

必ずしも「自分が」やりたいことをしてきたわけではない。


アメリカにいた頃までは良かった。

授業が楽しかったし、どんどん勉強を先に進めるのが楽しかった。

サッカーの習い事も、大して上手くなかったが、サッカーが好きだったから楽しかった。


しかし、日本に帰ってきてからはどうだろう?


日本での授業はつまらなかった。

やりたいこと(=どんどん勉強を進めたい)ができなかったからだ。


鉄緑会での授業は楽しかった。

偶然、やりたいこと(=どんどん勉強を進めたい)ができたからだ。


筑駒合格は僕がしたいことだった。

理由は単純。

「そこに友達がいるから」

「勉強でほかの人より良い順位をとるのが楽しかったから」


東大を目指すことは、親が僕に期待し、社会が僕に勧めることだった。

「東大を卒業すれば、お給料をたくさんもらえるよ」

「東大を卒業すれば、どんな職業も選び放題だよ」

だが、僕には「なりたい職業」がなかった。

「生きる意味」がわからないのに「なりたい職業」なんてわかるはずもない。


ブラ三での天下統一は僕がしたいことだった。

Yさんとつきあい始めてしばらくしてから、僕たちの同盟は天下統一を達成した。

嬉しくて泣いた。東大に合格したときはまったく泣かなかったのに。

1円も得をしなくても、僕は天下統一をしたかったのだ。


Yさんとの結婚は僕がしたいことだった。

世間一般的には勧められた選択ではない。

「もっと良い条件の女性だっているよ」

 結婚する前にこう言われたことがある。

だけど、他人の意見なんてどうでもいい。僕にはYさんしかいなかった。


僕は東大を卒業して外資系の金融会社に勤めて

「稼ぎ放題、働き放題」の人生を目指していた。

どう考えても父の影響だった。


「稼ぎ放題、働き放題」の人生も悪くないだろう。ケチをつけるつもりはない。
でも、「僕自身」がやりたいことではなかった。



 自分がやりたいことをやる

それこそが「生きる意味」だと気がついた。


他人や世間からの評価は関係ない。

  「評価」が欲しければ、それは後からついてくる。

実現性が低くたって構わない。

  粘り強く取り組めば、たいていのことは上手くいく。

  自分だけでは難しくても、情熱があれば共感してくれた人が手を貸してくれる。

才能の有無は関係ない。

  上位0.1%の領域を目指すのでなければ才能は不要だ。


「僕が」やりたいことは何だろう?

僕はYさんと添い遂げたい。

僕は少しでも多くの人が「自分がやりたいこと」をできるようにお手伝いをしたい。

僕はWEBやITガジェットが大好きだ。

僕は日本が「行き詰まり」を打開するきっかけを作りたい。


自分が何をしたいか考えたとき、それは「東大」の延長線上にはないことに気がついた。

それに気がついたとき、僕はすぐに退職して起業した。


ついでに思った

「東大に入ったのは無駄足だったな。。。」



5.「生きる意味」を手に入れて



僕は今、コンサルティングを通してより多くの人が「自分がやりたいこと」をやれるようにお手伝いをしている。

そして、フリーのWEBディレクターとして、自分が面白いと思ったウェブページの制作をお手伝いしている。

仕事は世界中のどこにいてもできる「ノマド」な状態だ。

そして、経済的・時間的・精神的に余裕がある状態だ。


さすがに子どもがいるので、すぐにとはいかないが

2,3年以内にマレーシアかシンガポールに移住する予定だ。



 自分がやりたいことをやる


あなたはできているだろうか?


よくわからないままに受験や仕事に打ち込んでいないだろうか?

やりたいことができずに、くすぶっていないだろうか?


今からでも遅くはない。


 本当にやりたいことをやろう






最後まで読んで頂きありがとうございました!


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