
僕は高校3年の時、進路に悩んでいました。
昔から憧れていた"お笑い芸人"になる為に芸人養成所に入るか、食べる事が好きで知らない間に得意になった料理を極める為に"調理師"の学校に行くのか、はたまた小学校の時から諦めきれない夢の"漫画家"になる為にデザインの学校に行くのか。
勉強が嫌いな僕にとって大学という選択肢だけはありませんでした。
悩んでいる内に願書の提出の日になり、親には全く相談も報告もせずに音楽の専門学校に進学。
楽器は先輩から2000円で譲ってもらった初心者用のエレキベースを1本持っているだけ。
チューニング(音合わせ)の仕方もわからないし、楽譜も読めない。
それでも音楽の専門学校を選択した理由は1つ、"家が近い"というだけでした。
適当な理由で決めた進学が僕の人生そのものを変え、今の自分に出会えたんじゃないかなと思っています。
そんな僕が今こうして話を書いている理由を書きたいと思います。
少し長くなりますが、お付き合いよろしくお願い致します。
バカな自分の考え方を打破してくれたのが音楽でした
高校時代、友達は少なかったし趣味もなく、学校から帰ってきてはバイトに行くだけの毎日を過ごしていました。
ゲームにもマンガにも興味はなく、家ではテレビを見るぐらい。
ネガティブでネクラな僕はそんな毎日が全く楽しくなく、生きてるのが苦しいと思うことが多かった。
住んでいたのはマンションの11階、
『ここから飛び降りたらこの苦しみから解放されるのか』と考えながら何度もベランダの柵に足をかけていました。
今考えたら浅はかな考えだったと反省しています。けれど、そんな時があったからこそ今は毎日大事に生きることができていると思っています。
飛び降りる度胸もない僕でしたが、くだらないと思っていた毎日の中でも唯一楽しみにしていたことがありました。
それは"音楽"を聴く事。
テレビの音楽番組で紹介されているようなJ-POPしか聴いていなかったのですが、最新チャートをしっかりチェックしては毎週のようにレンタルCDショップでCDを借りていました。
誰に自慢するわけでもなければ良さを分かち合う友達もいない。もちろん歌えるようになってもカラオケに行く友達もいない。それでも一人でMDに録音された曲たちを聴くのが日課でした。
耳に入ってくる誰かの声で寂しさをごまかしていました。
ある日、いつも通りに最新CDを選びレンタルして家で袋を開けてみると、中に入っていたのは借りた覚えのないインディーズの青春パンクバンドのCDでした。
恐らく店員さんが間違えた袋を渡してきたんだと思います。
自分が選んだCDは1枚も入ってなくてガッカリしたのですが、せっかくなので聴いてみようと思いCDデッキに入れ再生。それが僕にとって人生が変わった瞬間でした。
スピーカーから流れ出したのは歪んだ爆音で全く未来を見ずに足下しか照らそうとしない毎日を過ごしていた僕をぶん殴ってきました。
当時、インディーズの青春パンクバンドブームの真っ只中でした。
ストレートに『生きろ』と呼びかけては人間のダサい部分をさらけだし、丸裸でぶつかってきて『甘ったれたこと言ってんじゃねーよ』と怒ってくれたり、肩組んで励ましてくれるような曲に初めて聴いた瞬間から歌詞に感銘を受け、生きる勇気をもらいました。
こんなに辛いと思ってるのは自分だけじゃないんだと。
それからはあのぶん殴られるような衝撃が忘れられず、休日になるとCDショップに行って新しいバンドに出会う為に毎回3枚ぐらい買っていました。
いつの間にか死にたいと考えることが自分の中から無くなっていました。
大袈裟ではなく当時の僕が1日先を生きたいと思えたのは"もっとかっこいいバンドに出会いたい"と思える楽しみができたからです。
憧れだけで入学した音楽の専門学校
自分に衝撃を与えてくれたあのかっこいいバンドみたいになりたい。
そう思うことはあったが楽器はしたこともないし、歌も上手くない。
ただ"家が近い"ってことが後押しとなって進学を希望した音楽の専門学校。
入学前のクラス分けテスト(実力別でクラスを決める為の技能判定テスト)で絶望をしました。
「はい、なんか曲弾いて」
名前を言った後、担当の先生からすぐに返された一言でした。
そりゃそうだ。音楽の技能テストですから。
しかし僕はベースを持っていただけで、1曲も弾いたことがない。
家に置いてあればモテると雑誌に書いてあったから。ただそれだけ。
気づけば前日に唯一覚えていた『ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ』の音階を恐る恐る1音ずつ弾いた。
オクターブの『ド』はわからなくて弾かなかった覚えはある。
案の定振り分けられたクラスは4クラス中1番下でした。
無茶な進学をした僕が悪いのはわかっている。
そんなこともあろうと、演奏がダメだった時の為に演奏と音響や照明スタッフなどの裏方の授業を半分ずつで専攻していたので、クラスが決まった瞬間に早々と演奏を諦めてスタッフとして就職ができたらと考えていました。
自分に甘い性格の僕は入学と同時に念には念をと作っておいた逃げ道に進もうとしていました。
しかし、それが功を奏したのか入学して1ヶ月もしない内にスタッフ系の授業の時に仲良くなった友達とバンドを組むことになりました。
偶然にもボーカルとギターとドラムをしている友達の4人で仲良くなったのです。
僕以外の3人は高校時代から楽器もバンドもしていて経験者だったので、とりあえず決めたコピー曲も軽々こなし練習スタジオでもあっさりと曲を作っていく一方、僕は初心者だということを悟られないように必死に追いつくのが精一杯でした。
いつの間にか学内の授業やイベントでライブをするようになり、ようやくバンドというものに馴染んできた6月。
ベースを初めて2ヶ月目に僕はキャパ1500人近くの"なんばHatch"という大きなホールの舞台に立っていました。
ガチガチに緊張していたので演奏中のことはなにも覚えてないですが、黒夢の清春さんがゲストで来ていて各バンドにアドバイスをするという学校一の大イベントで1年代表バンドとして演奏しました。
その時清春さんにいただいた一言は今でも忘れません。
「君たち4人、髪型一緒だね。」
これから僕のバンド人生が始まりました。
やっぱりバンドをしていこう
ベースを弾いた事もない初心者のくせに"なんばHatch"でライブしたMr.Childrenのようなバンドとは違って、管楽器の入ったバンドで東京スカパラダイスオーケストラといきものがかりを足して2で割ったようなPOPなバンドもしていました。
それもクラスメイトと話が盛り上がったノリで出来上がってしまったバンドなんですが。
いつからか管楽器の入ったバンドの方に時間を割く事が多くなり、ベース初心者の僕を1500人の前で演奏させてくれた学年1期待されたバンドから脱退しました。
もったいないかななんて思って悩んだりもしましたが、自分の好きな音楽を信じて決めたことだったので悔いはありませんでした。
ノリで結成し、ただ楽しいだけで続けたバンドは在学中の2年間でたくさんのライブをしたり日本全国いろんな地域にツアーに行くまでになり、結成3年目ではインディーズレーベルに所属することになり全国リリースをしたり、レーベルのおかげでTHE BLUE HEARTSのカバートリビュートアルバムでPUFFYや矢井田瞳さんと一緒に名前を連ねることができたり。
ありがたいことに日本のいろんなところに応援してくれる人たちが出来て、ホームページやSNSを通じて応援メッセージをいただいたりライブに来てくださいと要請をいただくようにもなりました。
そうゆうひとつひとつの声がすごい嬉しくて。
気づけば高校時代に憧れていたあのCDの向こう側に近づいていて、就職なんて全く考えもせずにいつまでもバンドができたらなと思っていました。
ヒーローになりたくて
日本のいろんなところで応援してくださる人からいただきメッセージにいつも元気をもらっていました。
全国リリースをしようが人より高い舞台の上でライブをしようが僕は僕。
いつまでも臆病で寂しがりでネガティブな性格は変わらない。
人に褒めてもらうことや、必要とされることが僕にとって生きる糧になっていました。
だから毎日かじり付くようにSNSをチェックしていたし、自分を忘れられないように常に発信もしていました。
そうやってバンドマンとお客さんとの距離をできるだけ近くありたいと思い交流をしていると、応援だけじゃなくて悩み相談のメッセージをもらうようになっていました。
学校の事、進路の事、仕事の事、恋愛の事、友達の事。
いろいろな相談を受けました。
僕は自分が頼りにされていることが嬉しかったし、高校時代の自分にそうゆう環境があれば大好きなバンドのメンバーに話を聞いてもらおうとしただろうと思ったので極力相談にはのるようにしていました。
僕自身はネガティブな性格ですが、他人の悩みには前向きな意見を返していました。
それは僕ならこう言って励ましてもらいたい。共感して欲しいと思うことをそのまま返事していました。
それでも喜んでくれる人がいて、僕を"ヒーロー"と呼んでくれる人までいました。
世の中には自分からSOSが出せない人もいて、やり場の無い気持ちを自分と共に殺すしかできない人もいる。手を伸ばせない人もいる。
幸い今はネット上に自分の気持ちを独り言のフリをしながら吐き出す事ができる。
僕ならそれがSOSのサインだということに気づいて欲しい、腕を取って救い上げて欲しい。
悩みを相談できる人も、できない人も、一人を恐れている人もみんな救ってくれる人を欲している。僕自身がそうだったから。
誰かにとってヒーローであることが自分の存在を肯定するための手段で、人の為のようで自分の為。
弱い自分にリンクする人達にとっての"世界一弱いヒーロー"でいることが生き甲斐でした。
僕のバンドは後輩思いでいつも引っ張ってくれる素晴らしい先輩に恵まれていたので、高校時代のバカな自分を救ってくれたバンドとも共演させていただくこともできました。
打ち上げで憧れていたボーカルの方に挨拶していろんな話を聞かせていただき、最後に言ってくれた一言、
『諦めるなよ。メッセージは諦めない限り伝えられることができるから。』
という言葉は今でもこうして文章を書いて伝えようと思う為の糧となっています。
バンドがなくなった自分
7年続けてきたバンドはメンバーで話し合った結果解散することになりました。
青春という言葉の意味や定義はよくわからないけど、そのバンドで過ごした時間そのものだと思っています。
このバンドが終わったら僕の青春は終わり。と思っていた矢先、一緒にライブをしたり、同い年ということもあり仲の良かった友達のバンドからベーシストとして誘われました。
僕はプライドが高く負けず嫌いな性格なので基本的に人を認めないのですが、誘ってくれたそのバンドは数少ないかっこいいと思っていた同い年のバンド。
実は、そのバンドのベーシストが脱退すると聴く前のライブ中に1回だけそのバンドでベースを弾いてみたいと思った瞬間がありました。
同い年のボーカルの口から出る言葉や歌、メッセージに共感することが多くて、そのボーカルも僕と一緒で"弱い人間"であり、ステージに立ち、バンドマンでいることが自分の強みとして生きていました。
こんなにも自分にリンクする人の後ろで演奏できたらどれだけ幸せなんだろうかと思ったことがあった。
バンドはやりたいけど簡単にはじめれるようなものでもないし、今まで7年共にしてきたメンバー以外とは活動できる自信もない、やりたいことを全て詰め込んだ7年間を存分に楽しんだので次は就職して社会に出て行こうと思っていた時に、このバンドのベーシストの脱退を知り、もしこのバンドに誘われた時だけはバンドを続けようと思っていたわずかな希望が叶ったのです。
しかし、僕が加入して活動再開して4ヶ月目にボーカルが失踪し、解散しました。
ボーカルでもないのに歌詞を書いたり、ライブでは伝えたい気持ちを言葉にしてきたメッセンジャーとして過ごしていた自分でいれる時間がなくなった。
世間を揺るがすような大きな存在ではなかったが、自分の中ではなんの肩書きもない"普通の人"に戻った感覚でした。
本当のようで本当の自分ではなく、ヒーローと呼ばれることで理想の自分でいれることを保ち、胸を張れるほど自分の自信となっていた生き甲斐そのものが無くなった。
予期もせぬバンド人生の末路に納得いかず、また新しくバンドを組もうと思っていました。
当時は半ば意地だったと思います。
そんな時に誰と一緒にバンドがやりたいかと考えた、真っ先に浮かんだのが7年間組んでいたバンドの元メンバーのドラムでした。
そのドラムは年齢が僕より1つ下で三重県出身だったのでバンドの解散をキッカケに三重県の実家に帰りました。そこからまた大阪に呼び戻そうと思ったのが2013年の3月頭。
連絡をしようと思っていたものの面倒くさくて、また今度また今度と後回しにしていました。
そして、2013年3月9日、元メンバーのドラムは亡くなりました。
眠る直前までは彼女と友達と一緒にいてすごく元気だったのに眠っている間に心臓が止まってしまい起きなくなってしまったみたいです。
後に周りの人から聞いた話なんですが、亡くなる数日前に彼も僕と一緒にバンドがしたいって言ってくれていたそうです。同じタイミングで同じ事を考えていたのにお互いに連絡はせず。
あの時連絡してたら今一緒にバンドやってたんかな。今でもそんなことも考えます。
こいつのドラムでベースが弾かれへんのならもうバンドは諦めよう。
お墓を目の前に全てを実感し、バンド人生に区切りを付けました。
僕が文章を書く理由
僕の生まれ持った適当な性格が導いてくれた人生。
家からの距離で決めた進路も、勢いでバンドを組んだのも、バンドが解散してすぐに誘ってもらえたのも、ボーカルが失踪してしまったのも、一緒にできなくなったあいつも、全部決められたことだったのでしょうか。
ここまでやりたいメンバーと一緒に過ごしてきた生活と応援してくれた人たちがいたことは立派な財産であって、全てのことに後悔はありますが今となっては納得はしていますし、もちろん一番は感謝です。
思い出のような書き方をしてしまいましたが過去の物ではなく今も継続してそこに在るもの。
バンドを辞めた今も仲良くしてくれる友達がいて、なにをしていても応援してくれる方がいて、遠くで会えなくても心配してくれる当時のバンドのお客さんもいる。
そんな人たちと今でも近くで繋がって触れ合えるネットがある。
会って対面で話すことに比べれば薄情な部分もいっぱいあるが物理的に越えれない距離もある。
例えあったかい気持ちが形式張った冷静な文面に変わろうとも伝えたい気持ちも聞いて欲しい出来事もある。
そして、あの時ヒーロー気取りでいれた自分はまだ心の中にいる。
毎日を楽しく過ごしているどこかの誰かのもうひと笑いや、お昼休みの癒しになりたい。寝る前に読む心落ち着く場所にも。
小さな悩みを抱えて隠れて涙を流している人、ため息ついて会社から帰る人、吐き出せない気持ちを消化しきれずに苦しんでいる人、ベランダの柵に足をかけているあの頃の自分のような人たちには救ってあげられるような安心を。
メロディーに乗せることはできないけど、次はライターとしてたくさんの人の元へいろんなメッセージを届けたい。
また誰かのヒーローになれるように。
歪んだその世界の1日先を明るく照らせるような文章が書きたい。
諦めない限り伝わると信じて。