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14/2/21

住所不定無職の旅人から大学教員になった話。

Image by Olia Gozha

旅に出発した時に持っていった本は2冊だけだった。



旅人となって日本を出発する時最初に持参したのは、高橋歩の「LOVE AND FREE」とパウロ・コエーリョの「アルケミスト」の2冊だった。

どちらも自分が旅人になろうと思ったきっかけの本だ。


「LOVE AND FREE」 は高橋歩が夫婦で世界中を1年8ヶ月旅していく中で感じたことを表現しているのだが、言葉がストレートで力があって、芯に響いてくる感じが好きで持っていった。

こんな力のある表現者になりたいという希望も込めて。


「アルケミスト」は人生や旅において最も重要な事は、心の声を聴くことだと物語を通じて表現しており、自分の旅と重なるものを感じて日本で何度も読み返していたので、持っていった。



この2冊は暫くの間、一緒に持って移動していたが、「LOVE AND FREE」はだんだん自身の心の言葉とは違うことに気付き、途中で旅先の宿に寄贈した。

「アルケミスト」は何度も読み返し、自身の心に栄養となったので、やはり途中で旅人と交換した。



旅をしていると、暇な時間が圧倒的に多い。

移動する時間は景色を楽しめがいいが、それだって限度がある。

また、目的地に着いても毎日観光するわけではなく、宿でだらだらっと疲れを癒やす日のほうが多かったりする。


移動のペースが早い時でも、到着日は宿周辺を散策し地理や飯屋さんの場所を把握し、2,3日目に観光し、4日目に次の目的地を下調べしたりし、5日目に移動って感じだ。

なので旅人は圧倒的に宿で過ごす時間が多いのだが、その時間のほとんどを俺は読書で過ごした。

その多くは宿にだれかが置いていった本や、旅先で知り合った日本人と交換した本だ。

移動時や暇な時間に何も読むものがないのは軽く恐怖だった。

初めはそのストックが1,2冊だったが、時間が経つに連れ常に5,6冊はストックがないと不安になってしまった。



2年間で読んだ冊数は300冊を軽く超える。

これでもかなりゆっくり読むよう心掛けてのことだ。

ゆっくり一言一言大事にしながら様々なジャンルの本を読んでいた。


後で、リストを見直すと、まー種類の多いこと。

ガイドブックを初め、SF、伝記、歴史小説(大好物)、哲学、神話、ライトノベル、純文学、エロ小説(こうぶ・・・、いやそれほどでも。(汗))、経済、飛行機サスペンス、推理小説(好物)、マンガ(大好物)、宗教、アート、パニック、ホラー、etc...

分類ができないものも多かった。



かなりの数の本を読んでは交換し、読んでは交換しと繰り返していたが、所詮は誰かとその都度交換するものであるため、系統だって何かを学ぶことが出来なかった。

当然である。



2年間の旅人生活で感じたことの一つが「社会で働くということは、知らず知らずにその世界において必要な技術や知識を系統だって学び続けている」という事実だ。



系統だった知識への渇望



旅も1年半も経つと系統だって何かを学ぶ機会を失って久しく、焦燥感を抱き始めていた。

自身が知りたい、学びたい事柄についていつだって断片的にしか知識を得られないもどかしさを感じていた。

言い換えたら、「系統だった知識への渇望」を感じていた。


それまでの自分は専門学校卒で、精神科看護師として病院で働いていたが、さほど熱心に勉強するタイプではなかった。

むしろ働いて2年間は全く精神科関連の本を開いたこともなく、場当たり的な勢いだけでやり過ごしていた。

入職3年目から仲間と一緒に勉強するようになったら面白くなってきたが、それでも冊数は月に1冊程度だった。


だからそんな自分が、「系統だった知識への渇望」なんて感じる事自体が違和感でいっぱいだった。


あの頃は日々ばたばた働いていて、「多くの学びを得ている」などとという感覚は皆無に等しかった。

しかし、そんなばたばたの日々の経験にこそ系統だった学びの形があったのだ。



また、旅に出て長く非生産的な時間を過ごしていると、社会で働く生産的な時間の尊さを感じる。

「自分ももう一度生産的な時間を持ちたいな」と思い始めた。

旅に出る前の自分からは想像も出来ない気持ちだった。


結局まる2年旅を続け、バルセロナで友人の旅人夫婦に再開し終えた後、なんか気持ちの整理が着いた。



自分はここまでの旅に満足している。

旅に終わりはない。自分で終わらせるだけだ。


自分は未知への恐怖を乗り越え、今しか出来ない一歩を踏み出すことができた。

その事実そのものが旅で得た50%の価値がある宝だ。



まだまだ最初に計画した旅のゴール地点は先だが、自分はこれ以上何を欲しているのだろう?

残りの50%の宝もすでに獲ているのに。

旅から沢山のことを学んだ。沢山の出会いがあった。沢山の感動があった。

そして、感動を共有できる伴侶も得た。

自分の心の中にある、宝物入れは十分一杯になった。

だから日本に帰ろう。


そうして、俺は日本に帰国した。



帰国してまず、考えたこと。


「車が、左車線走ってる・・・すげー、新鮮」ってことじゃなく!

2008年9月、日本に帰国後新居をどの街にするかから検討することとなり、それが決まると就職先探しだ。

が、さすが看護師資格、再就職にはかなり強い。

まさかまた日本で看護師として働く日が来ようとは思っても見なかったが、楽勝で病院に再就職が出来た。


出発前は独身だったのに、日本に帰国したら既婚になっており、まず考えたのが「給料上げていかなきゃアカンよな」だった。


日本の看護職の給与体型の特徴の一つは学歴によって、同じ看護職でもはっきり初任給から違うということだ。

病院によって千差万別だが、専門学校卒と短大卒と4大卒ではそれぞれ1万円も違うことがある。

なので、まずは学歴をつけようと考え、編入学が可能な大学を調べ始めた。

正直どこの看護系大学にも全く惹かれなかったため、どうしようかと迷っていると、面白そうな大学を見つけた。

それが人間総合科学大学だった。

そこの「人間科学科」は通信制が主流で働きながら自宅で学習を重ねることが出来るというのが、貯蓄の少ない我が家的に良かった。



その上、学科が人間を総合的に捉えることを目標に掲げているため、学習領域は身体的側面・心理的側面・社会文化的側面の3方向からアプローチするというところに惹かれた。



俺が旅を通じ最も興味を抱いたのが「日本人の宗教観と海外の宗教観の違い」だったからだ。

それに看護師として働く以上身体的側面の復習は必須だろう。

また、元精神科看護師として心理的側面の学習は興味があった。

そして、必要単位を習得後、大学学位・学位授与機構へ申請することにより「看護学」の学士も取得出来るとある。

「系統だった学びへの飢えを満たしつつ、働きながら学歴を上げ給料のベースを上げる事ができる」という全ての条件が整っていた。

わくわくを感じ、ぴーんと心に何かが来た瞬間だった。



趣味、勉強。



すぐに応募して次年度2009年4月からの入学が決まった。

入学が決まり、入学式のため大学に向かう時の心のウキウキした気持ちを今でも忘れない。

とっても嬉しかったのだ。


自分は専門学校卒だったたので学歴にどっかコンプレックスを感じていた。

だから純粋に大学生になれたことが嬉しくて嬉しくてウキウキした。


入学すると周りにいるのは年齢・性別、職業も皆ばらばらで社会人入学者が圧倒的に多かった。

通信制で入学式にわざわざ来ている時点でかなり皆のモチベーションは高い。

授業の取り方などのオリエンテーションを受ける表情からも皆真剣そのものだ。

やはり、自分の懐を痛めて大学に通おうとする者は、お金の大事さを痛感しているので、高校からそのまま親の金で進学する一般の大学生と本気度がまるで違う。


入学式の帰り道に早速60代くらいの男性とお話をすると、なんと高校野球の監督を長く勤め、自身の指導を振り返るために入学したという。

その方とはその後もしばらく情報をやり取りする間柄となった。

お互い通信科目より対面授業科目を好んで選択していたので、面白かった授業などを教えあった。


3年次編入学だったので、入学から卒業まで2年間しかない。

その間に卒業論文の作成と発表を含めおよそ100単位を取得した。

勉強が楽しくて楽しくてしょうがなかった。


新しい教科書をめくる瞬間からワクワクした。

難しい内容のものも必ず一読し、ラインを引いてから授業に望んだ。

通信科目のみのものはモチベーションが上がらないので、後回しにして極力大学に通って対面授業を受けていた。

片道2時間以上あるが移動時間が良い読書タイムだ。


その頃勤めていた病院は日本でも有名な忙しさを誇る急性期病院だ。

年休はおろか週休もお買い上げとなってしまう月もあったが、それでも同僚の理解から休みを調整してくれスクーリングには良く通わせてもらった。

また、この時期我が家では妻が妊娠・出産となり、俺は看護師と学生と父親の3足のわらじをいっぺんに履くこととなり、大分大変な時期だったが、勉強が一番の息抜きとなっていた。


それぐらいどんどん吸収していった。

これは旅で感じた「系統だった知識への渇望」を満たす行為そのものだったからだろう。




事務からまさかの返事。



2年間誰よりも積極的に授業に参加し、卒業論文も一段落した頃、今後自分の給料が本当に上がるのか職場の事務に確認しに行った。

そしたら事務からまさかの返事が帰ってきた。


「看護学学士を取得しても基本給は上がりません」


ショックだった。

理由を確認すると、「4大卒か専門学校卒かの違いは学位ではなく、卒業時に持っている資格にあると判断するからです」とのことだ。

つまり、看護専門学校は卒業後看護師国家試験受験資格を取得する。それに合格すると看護師として日本中どこの病院にでも働くことが出来る。

4年生の看護大学はそれ全過程終了後看護師国家試験受験資格と保健師国家試験受験資格の両方を取得でき、両方に合格すると看護師及び保健師として日本中どこの病院でも働くことが出来る。

もちろん保健師は地域保健センターなどでも就職は可能だ。


しかし、保健師の試験に落ちる子も中にはいるわけで、それでも看護師国家試験を合格していたらその子は4大卒としての給与が適用になっている。

納得が行かず、しばらくやりとりをしていたら、事務のデスクに別の紙が置いてあった。


「当院付属の看護系大学設立準備室より、当院職員から大学教員の募集」とあった。

一枚もらい詳しく聞いてみると、今後病院系列付属で看護系大学を設置予定であり、大学準備室がすぐ隣りの建物内にあり、準備を進めている学部長予定の大学教員がすでに数名在籍しているという。

大学教員の条件として修士以上の学位が必要とある。

試しに事務に聞いてみると、「看護学修士を取得していたら基本給は2号俸上がりますよ」とのこと。


おお!

ここでも何かピンくるものがここでもあった。

予感めいた何かがあった。


早速大学準備室を訪ね詳しい話を聴く。

大学準備室にはまだ3名の教員しかいなかった。

そのうちの一人が大学教員になる手順や、必要な条件、給与、仕事内容などを詳しく教えてくれた。


その時知ったのだが、大学教員になるには小・中・高と違い教員免許などの資格は必要ないのだ。

看護師としての実践歴があれば、どの分野の修士課程でも良い(経済学や社会学などでも)ので修了していれば、大学教員になれてしまうのだ。

給与は一般的には夜勤手当がなくなる分下がると言われている。


しかし、その時の教員は「一般的には給与は下がると言われてるけど、高い入学金を払って大学院で勉強してきた者が夜勤手当があるからって臨床の看護師と同じ給料なわけはないわ」と宣言していた。

実際はかなりケースバイケースなのだが、この言葉を信じ、新たなキャリアとして考え始めた。


さて、いざ大学院に進学といっても専攻をどうするか?

働きながら可能なのか?試験科目は大丈夫か?学費はいくらか?

わからないことだらけだった。


専攻を考えたとき、給与やその後のキャリアのことも考えて当然「看護学」となるが、「看護学」もさらに細分化される。

「成人看護」「老年看護」「家族看護」「地域看護」「看護教育」「看護管理」・・・。


すぐに「看護管理」に興味がわいた。

当時俺が働いていた病院、病棟はとにかく忙しく、職員の離職がすごかった。

どれくらい忙しいかというと、救急車受け入れ件数日本一になったことがある病院で、昼も夜も救急車がひっきりなしに来て月1000件を超えていた。

とくに総合内科病棟は高齢者の緊急入院が多く、急変率も高い。

病棟の看護師はあまりの忙しさにうんざりして1か月も経たず次々辞めて行き、その後もトラウマになって看護師としてしばらく働けない者もいたほどだった。

管理者も病棟に愛着を持つ者が現れず1年ごとに替わっていた。

それゆえ、労働管理を行うだけの知識も経験もない若いスタッフが主戦力として働いていた。


なんでこんなにこの病棟は人が辞めるのか?

何が一番の原因なのか?

もっとも効果的な対応策は何か?


この問題は看護管理者としての視点を持たないとわからないなと感じていた。

そのため、大学院での専攻を「看護管理」決めた。


大学院の入試はどこも当然のように「英語」が必須だ。

それプラス研究計画書を作成して指導教授に面会に行く必要もある。

英語はコミュニケーションには自信があったが、筆記は高校生の頃から全くやっておらず、全然自信がなかった。


色々通える範囲で大学院を探していると入試に「英語」がないところを発見。

小論文と面接だけだ。

しかも、専攻が「看護管理・開発学」とある。

開発学ってのがなんだか面白そうなので、早速メールで連絡を取り、話を聞きに行くことにする。

それが、国際医療福祉大学大学院だった。



指導教授に初めてあった時の印象は、とにかくすごいオーラだった。

とってもおしゃれな女性の教授はA41枚にまとめた俺の研究計画書をものの数秒で読んだ後、「研究計画は全く違うものになるかもしれませんが、それでも良いですか?」と話した。

また、「看護管理・開発学」については、「看護管理が従来の病院内でのマネジメントに終始しているのに対して、開発学は社会の中で「看護」をより発展的に活用できないかを考えていくもの」と説明してくれた。


しびれた。

カッコいいと素直に感じた。


そして、大学院生としてその教授のゼミで学ぶ1年先輩の男性を紹介してくれた。


その男性は俺と同じ年齢だった。

とても驚いた。

同じ年齢で看護管理に関心を持っている者がいることに驚きと感動を覚えた。

病院を切り盛りする看護部長なんて大体50~60代の女性が多い。

そんな中30歳前後の男性はとても目立つ。

彼と一緒に学んで行くなら心強いなと勇気をもらいこの大学院に決めた。


その後大学の卒業論文の仕上げと大学院入試のための書類の準備、大学学位授与機構での「看護学学士」申請のための書類の準備と忙しかったが、勢いのついたまま一気に進めた。


その年の12月、大学院入試での小論文の出来栄えはいまいちで、また来年受けようと思いつつ面接を受けた。

面接では学科長と指導教授が面接に当たったが、なぜか研究計画書よりも履歴書にあった住所不定無職の旅人だった2年間について興味深く尋ねられたのが印象的だった。

そこ?って感じだ。


翌月、合格通知書が家に届いた時の喜びは忘れられない。



大学院での学びは最高に楽しい。



大学を修了後そのままストレートで大学院に通うことになるとは思ってもみなかったが、通うとなると勤務形態を変更しないわけにはいかない。

常勤のままでは夜勤や日勤が入り乱れ授業をきちんと受けられない。

妻とも相談し非常勤の夜勤専従となった。


夜間の仮眠など全く望めない極悪な労働環境下での夜勤専従はかなり辛いが、休みの日も増え、通学のための時間の確保はできるようになった。

休みの日や夜勤明けに1時間掛けて東京青山のサテライトキャンパスに通う日々だった。


国際医療福祉大学大学院の特徴の一つは、学部を横断して取得単位を選択できることだった。

正直長く看護師しているので、「看護学」の勉強には飽きも来ていたので、必須である「看護管理・開発学」以外は他学部の授業である「医療ジャーナリズム」「医療マネジメント」の授業を中心に選んで行った。

これがかなり面白かった。


看護師以外の職業の人との交流が多く、違う角度から医療を眺めることに新鮮味を感じた。

また、改めて看護師の良いところ、ダメなところを眺める客観性を育てた。

まるで旅先で異文化に触れる時のようだった。

異文化に触れると改めて日本の良い所、ダメなところを客観視できる。

人生で大切なことは違う視点から問題を見つめることだと改めて学んだ。


大学院での授業は先生からの一方的な知識の伝授という形ではなく、一緒に授業を作り上げるものが多かった。

課題があって、皆で取り組む感じだ。

週4で大学院に通っていたが、毎回毎回わくわくしどおしだった。


ゲストの講師もすごかった。

一番すごかったゲストは、安倍晋三元(当時)内閣総理大臣。



コーディネーターの先生の友人というからすごい。

ちなみにそのコーディネーターは元フジテレビニュースキャスターで現神奈川県知事の黒岩祐治さんだった。



そんなゲストに質問する機会もあるなど、東京で学ぶことの凄さと面白さを存分に味わった。


大学院での2年間はまさしく自分の世界を広げた。

世界中を旅した時とはまた違う世界の広がり方だった。




必要な勉強は自分自身に委ねられている。

ものすごい量の本を読んだ。

先生やゼミ仲間が勧める本は片っ端から読んだ。

先生方の著書も片っ端から読んだ。


夜勤専従の仕事は忙しく、授業の課題もいっぱいあり、寝る時間も少なかったが、読書も勉強も楽しかった。

2年間の旅で乾いたスポンジのような頭に知識がどんどん吸収される感覚があり、楽しかった。

そして、多くの出会いがあり、大切なつながりが増えた。



病院付属の看護系大学設置計画が白紙になるが・・・。



2年目の夏ごろに当初当てにしていた病院付属の看護系大学設置は結局計画が変更となり中止となった。

設立準備室にいた教員は強制的に退職となり、いきなり当てがなくなった。

今後のキャリアとして3パターン考えられた。


1、違う病院系列で看護管理者を目指し働く。(看護管理を専攻しているので関心は高かった)

2、大学教員を目指し、就職活動。(初志貫徹)

3、訪問看護ステーションなどを独立開業する。(大学院で知り合った社長が魅力を語り、憧れた)


自身の勤めていた病院系列で働き続けるという選択肢はすでになかった。

実は、とあるきっかけで自身が働く病院職員の給与明細と病院の財務状況の詳細を知る機会があったのだ。

その時にわかったこと。


1 仮に今から60歳まで働いたとして得られる退職金は300万円。

  (ちなみに国公立病院だと同条件で1300万円)

2 看護職副院長と医師の副院長では役職手当が一緒でも基本給が倍違う。

  よって年収ではあほらしい程の開きがある。

3 仮に看護部長になっても年収1000万円いかない。

4 経常収支から人件費率を出すと一般的な病院の3分の1。(一般の病院の3倍は人がいなくて忙しい  という意味)

5 病院なのに異常なほどの黒字。(後に黒字分がどう使われているかニュースで話題となりました)


病院名は明かせないが、これら情報を見てから今いる病院で働き続けようという未来は消え去った。

そのため新たに就職活動が加わってさらに大学院での後半は忙しくなった。


ぎりぎりまで今後の就職口を探していたが、大学院入学前に指導教授から紹介してもらった1年先輩で同じ歳の彼が、とある大学でポストが空いていると紹介してくれたので、話を聞きに行くことにした。


話を聞きに行くだけのはずでその大学を訪れたのに、着いてみると理事長から学長、理事役員まで勢ぞろいしていきなり面接になった。

かなりビビった。

とりあえずスーツで行って良かった。


まったく心の準備もしておらず、何を話せば良いやらで、出来としては最悪だったのに、なぜか受かった。

たぶん人が足りなかったんだろう、単純に。


現在の看護系大学の乱立により臨床と同様大学教員が不足しており、まだ俺のような教員としてなんの経験もないやつでもニーズが合ったのだろう。


その後提示された給与はいつだったか準備室の先生が話していたように、それほど悪い条件ではなかった。

これならばと妻も了解し、大学院を修了後大学教員へと転職することになった。




現在大学教員になってみて、ここまでを振り返ってみる。

数年前まで住所不定無職の旅人だったのに良いの?って気もするが、俺の中ではまだ旅の延長みたいなもんだ。

今がゴールではない。



旅の本質は出会いと好奇心を大切にすること。


その時その時で沸き起こった自身の好奇心に従い、出会った人との関係性を大事にしていった結果がたまたま今の姿ってだけだ。

本質的には旅をしていた頃とかわらない。


面白そうだったからやってみよう。

出会った人とのつながりは大切にしよう。


大学教員になってからもそれは変わらない。

面白そうなことはやってみよう。

面白そうだから勉強しよう。

学生や先生、病院の方との出会いを楽しんでみよう。


今だって日々新しい発見の連続だ。

旅先に負けないほどのわくわくする毎日だ。


人生は旅と本質的に変わらない。

どこにいようと、どこに向かおうと、俺は旅人のままだし、その精神をこれからも大事にしたい。


そして、俺が出会うすべての若人に、いつか海外へ一人旅に出ることをお勧めしたいと思う。


人生で出会った全ての方へ、ありがとう。


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