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14/4/18

4浪して獣医学科に入った私がなぜ生協で営業の仕事をしトップをとっていたかの話

Image by Olia Gozha


夢にみた獣医師とはかけ離れていた私


身の丈に合わない「獣医師」という夢を持って4年浪人し、実際に死にかけ、入院を経てやっと獣医学科に入った。(《偏差値30台から、4年浪人して獣医学科に入学した話》を読んでください)

あこがれの獣医学科。

本当に充実しまくりの毎日。

6年間、授業料免除をかけて必死に勉強し、電話帳のような国家試験の問題集を解きまくり獣医師国家試験に合格し「獣医師免許」を取得した。

いよいよ動物病院に就職し、一人前の獣医師に向かってまっしぐら。。。。。

のはずだった。

残念ながら待っていたのは、挫折の日々。

毎日、院長や先輩の獣医師、看護師に怒られる。


「なにやってるんですか!!」

「ちゃんと勉強してください!!」

「いったい大学で何やってきたんですか??????」

「本当に、期待はずれ。。。。。」


最終的には、

「邪魔だからどいて!!!!」

だった。

大学ではほぼトップを走っていたつもりだった。

でも、動物病院と言うピカピカの現場に出たら本当に頭でっかちの役立たずだった。

「理屈を本で知っているだけ」

だった。

使えない知識。

下痢の治し方すらわからなかった。。。。

大学では、この病気はこんな症状で、こんな検査をして、こんな風に治療すると学んだ。

ところが現場では、「食欲がなくて、吐いていて、ぐったり」という感じでやってくる。

このよくある症状を話をしながら紐解いていき、この病気という結論を導き出し治療を決定する。

学んだこととは正反対の方向から攻めないといけない。

インプットはあるが、アウトプットができない状況だった。


ナサケナイ


毎日、怒鳴られ、呆れられ、夜中に帰り早朝出勤する。


「本当につかえない。。。」

いつの間にか、私の目の前を仕事 がスルーしていくようになった。

つまり、信用されなくなってしまったのだ。


そんなに私はできない人だったっけ?そんなことなかったのに。。。

大学の教育レベルが低いのではない。

自分ができると思い上がっていたレベルと動物病院という現場で働く実践力重視の人たちとの間では大いなる差があった。

速い・正確・先を読む能力

その当時の私にはなかった。。。。

完全に自信喪失してしまった。


そんな毎日の繰り返しで

最終的に心が疲れてしまって朝起きることができなくなってしまった。

起きたとしても、おなかが痛くてトイレにこもっていた。

完全にストレス性のものだった。

遅刻になった事情を電話で話し今から行きますと言った。

「別に、来なくても差し障りないから来なくていいよ。」

いらないんだ、私の存在など。

そう思った。


決定打は臨床研究室ではなく基礎研究室の同期入社の獣医師と比較されたことだった。

「研究室、内科だったよね。基礎系の△△さんよりだめだよね。。。少しは見習ったら?」

基礎系とは内科や外科以外の研究室のことで病気の治療とはほぼ関係のない研究をするところを言う。

ちっぽけなプライドが崩れてしまった。

気持ちが、完全に引きこもってしまった。


やめます。。。。


やる気あるの?ねえ?どうなの?

ほんと、給料泥棒だよね。。。。

やる気無いんなら辞めても良いんだけど。


そんな言葉をずっと聴きながら、

「4年も浪人して獣医になったけどつらいな。。」

と思う気持ちが心の中を占拠していった。


雑巾を持ち床を這って掃除しながら、やめよ。。。と思った。リセットしたい。

最後に病院を出ると時にドアに鍵をかけて、郵便受けから病院の中に鍵を投げ込んだ。


なんとも、なさけない辞め方だった。これ以上罵声を浴びせられたら立ち上がれないかもしれないと思い逃げてしまった。


弱い私だった。



しばらくぷー太郎


獣医をやめたらただの人だった。

知らないうちに「先生」と呼ばれることに慣れていた。

さん付けで呼ばれることに違和感があった。

でも、それこそ異常だと思う。


少々の貯金を崩しながら食べ繋いでいた。

底をついてしまうのはわかりきっていることだった。


仕事を探そう。

ハローワークに通った。

面接にこぎつけても、採用には至らなかった。

なんでよ!

と、思った。

一度、勇気を持って不採用の理由を聞いたことがあった。

「だって、獣医でしょ。何のためにここへ面接に来るの?場違いだし、ここへ来る理由が分からない。だって不自然でしょ~。」

その通りだった。


獣医師という肩書は「研究所」「動物病院」「製薬会社」「公務員」なら、何の違和感もない。

いったん、そんな仕事から離れると行き先がなかった。


獣医であることにそれなりのプライドを持っていた。それだけの努力もした。それなのに、《獣医師》という肩書きが獣医らしい職場を失った私の就職を阻むものになるとは想像もしていなかった。


それでもやっぱり獣医でありたい

結婚、出産を経て子供の笑い声を聞きながらこの生活も悪くないな~などと思いはじめていた。

罵声のない日々、命の重さをゆだねられない日々。


そんな矢先、偶然獣医系雑誌で同級生が翻訳した論文を見た。

想像以上に心がズキッと音を立てた。


そんなタイミングは重なるもので、「元気~」と大学の同級生から電話が気楽にかかり、「△○×さん、開業したんだって。すごいね!獣医と結婚して2人でやってくらしいよ。。。。。」


途中からまったく聞こえていなかった。

4年浪人してまでもやりたかった獣医師の夢を簡単に手放してしまった自分に震えが出るほど腹が立った。

みんな、きつい思いをして勤務していることも聞いていたし、私にとってスーパースターだった先輩たちだってみんな就職先の院長からしかられまくりで、それでも頑張っていた。


獣医に戻りたい。そう思った。


電話帳を頼りに動物病院に電話をかけ、面接をしてくれるところを探した。

子供のいる女性獣医師が就職できる動物病院は本当に少なかった。

そんな中でも、面接をしてくれる病院が見つかった。


院長先生から、やはり子供のことを言われた。

・子供の病気では休まないこと。


「はい」と返事をした。その職場だけでなく、子供を理由に休まない事が、その当時女性が働く場所を得ることにつながっていた。


4月からの採用が決まり、子供を保育園に預けた私は獣医師という肩書きをまた持ち現場に戻った。

正直、勘の鈍りはすさまじく本当に大丈夫か?採血できるか?あれは?これは?


そんな不安ばかりがよぎった。



こどもがいるということはハンデなのか??? 

私の獣医のキャリアは途切れ途切れだ。

その理由は、子育て。

それをうらんだり、子供がいなかったらよかったのにと思ったことは一度もない。

私自身仕事をしている両親の背中を見て育った。

幼稚園のころから私ができることをやり仕事を手伝ってきた。

謝る姿、熱があるのに仕事をしている姿、ご飯抜きで仕事をしている姿、休みでもお客さんが来たら喜んで引き受ける姿。。。。

様々な姿を見てきた。

だから、私もそうありたかった。

仕事をしている私というものを子供たちに見てもらいたかった。

必死こいて命と向き合い、助けられない事を思いっきり悲しみ、助かったことや良くなっていく事を狂喜乱舞する姿を見てもらいたかった。


子は親の背中を見て育つ


それは、私にとって大事なことだった。

私自身がそうだったからかもしれない。

私の両親が子供に自分が果たせなかった夢を託したのと同様、私にも私の仕事を子供に継いで欲しいと言う思いがあったのかもしれない。


女だからと言われることも、女のクセにと言われることも、時に女であることを言い訳に使うことも抵抗があった。

大学時代、待合で待っている飼主さんに言われたことがある。


「ねえ、女医さんよ~。女だてらに畜生の医者になってどうすんの?花嫁修業でもやっとけばいいのに。ろくなもんじゃね~~~」


今でも忘れないこの一言に、どれだけ背中を押されたか。。。絶対に、開業して「女だてらに。。」と言わせない獣医師になろうと、悔しい思いをするたびに心の中で握りこぶしだった。


まだまだ、女は家庭が主流だった時代に、逆らいたい思いと絶対に開業するんだという学生時代からの夢を追い風にして獣医師に戻ったけど。。。。


「まま~」

と泣き叫ぶ子供を保育園に預け、泣き声を聞きながら子供に背中を向けるのはかなりの勇気が必要だった。私はとってもひどいことをしているんじゃないのかな。。。

顕微鏡を覗きながらふと子供のことを思い出すと視界が曇った。


ある日、保育園のお迎え時間に間に合わなかった。閉園時間をはるか過ぎ、先生にも子供にも申し訳なくて急いで行きたいのに、そんな時に限って渋滞。。。


やっと保育園に到着し、先生に感謝と謝罪をし、


「遅くなってごめんね。」


と、子供に言ったその瞬間、園長先生の雷が落ちた。

「謝ったらいけません。頑張ってきたよと言ってください。何も、悪いことをしているのではない。間違ったことをしているのでもない。謝られることで子供は後ろめたさを覚えます。だから、お母さんは仕事で遅くなった時にごめんねといってはいけません。お仕事、頑張ってきたよと代わりに言ってあげてください」


きっぱりとした一言だった。

それから、仕事で遅くなっても「ごめんね」は言わなくなった。

さすがに、緊急などで夜中の2時を回っちゃったときには「ごめん!!」だったけど。


存在感と信頼感と安心感・・それが今のあなたにはない

子供の親になってから何度か職場がかわった。

その中で、私の考えを根底から覆した職場がたった一つある。

そこはまるで毎日が戦場だった。こんなに激烈で、命のために戦う動物病院があるのか?全員がそうだった。

看護師が新米の獣医師以上に働き、看護師が新米獣医師に教える。

私も、教えられた。

教えてくれた看護師とは事情があって連絡しあうことはないが、心はいつも繋がっている。久しぶりに会ったときには、今の私の仕事ぶりを見透かされたくないという思いがいつまでたっても抜けない。それほど、存在感のある看護師だった。


その動物病院では私はまるで何もわからない役立たずだった。


手を出す隙がまったくなかった。どこにも手を出せなかったのだ。新米の獣医師がやるくらいの仕事は、看護師たちがさっさとリズミカルにスピーディーに正確にやってのけた。

私はといえば、言われたことを「はい」と言ってやる。でも、それだけ。

その当時の私とその病院のスタッフは、「レベル」も「心構え」も「根性」も何もかもが桁外れに違いすぎた。足元にも及ばない。


まさに、場違いという言葉がふさわしかった。


罵声は私には飛んでこない。その代わり、だんだん、声を掛けられなくなっていった。


またもや負け犬になった私はマネージャーに退職について相談した。


マネージャー「獣医師というのは治療はできて当たり前。一通りのことができるというのは大前提。院長とあなた、何も話さずに立っている。どちらに相談しにいくと思う?絶対にあなたじゃない。自信なさげで、下を向いて、自信がないから人の後ろに隠れる。。。違う?そんな人から、信頼感やまして安心感など沸いてこない。余計不安になる。何でも聞いてください、どうしましたか?今のあなたに言える?聞かれたらどうしよう。。。と、こそこそしているあなたにはどんな患者さんも頼りたいと思わない。」

わたし「・・・・・」

マネージャー「これからどうするの?行き先は決まってるの?」

わたし「まだこれからです。。。。」

マネージャー「仕事で苦手なことは何?」

わたし「営業です。。。」

マネージャー「じゃあ、営業にいってみたら?苦手の克服として。必ず獣医に戻る、そのために必要なことと思えば「獣医」のプライドは傷つかないでしょう?」

マネージャーの言葉は本当にそのとおりで一つ一つグサグサ刺さった。自信がないので、目立たなく後ろに下がっていたし、話しかけられたくないのでドンくさい格好をしていた。


「じゃあ、がんばって!」

あっけない幕切れだった。引き止める人が誰もいない退職。普通に再開される診察。


《 ナンデ、ソウナンダ? ナンデ、イツモソウナンダ? 》


誰も見送ってくれる人はいなかった。私の存在意味などまるでなかったかのように、外来の診察は続く。


「あんたってなんなのよ!!!!!」

自分自身に本当にイラついた。

いつも、逃げてしまう私。

弱い私。

言い訳がましい私。

全部嫌いだった。

本当にがんばったのかといわれれば、そうではなかった。

完璧な実力の違いを同じ獣医師に見せ付けられて、比べられることが辛かった。

肩書きだけはあるけど、何にもできない私。

できなければ、意味がない。

本物の獣医になりたいと、治療できなかった・助けることができなかったと壁を殴って本気で悔しいと泣く、そんな熱い獣医になりたいと思った。

気持ちが逃げている私に、なれるわけがなかった。

「性根入れて、出直そう」

アドバイス通り、営業の仕事につくことにした。



営業の仕事、こんなに頭を下げたことあるか???

営業職の求人をさがした。

営業の仕事って想像以上に多かった。

苦手だから、せめてなじみのあるものを。。。と思ったら、生協の営業が見つかった。

かつて利用していたので勝手もわかる。


面接に行った。

人事「志望動機は?」

わたし「利用したことがあり、私自身がこの生協のファンです。だから、多くの方にもっと利用していただきたいと思いました。(なんて、当たり障りのない内容なんだろう。。。。)」

人事「大体わかりました。ほかに、面接に来ている方もいらっしゃるのでまたご連絡しますね。ちなみに、いつから来れそうですか?」

わたし「来週月曜からでも可能です。お返事はいつぐらいになりそうですか?」

人事「う~~~~ん。来週入ってからでもいいですか?」

わたし「すみません。今お願いします。」

人事「・・・・・・・・・・・今ですか?」

わたし「すみません。今です。」

人事「じゃあ、よろしくお願いします。」

わたし「ありがとうございます。よろしくお願いします。」



めちゃくちゃ、直球勝負だった。


晴れて、営業の仕事につくことになった。商品知識や利用システムは、利用していたのでなんとなくわかっていた。後の問題は、本当に私の話し方で利用したいと思う人がいるのか?実際に加入してもらえるのかということだった。


・テレホンアポイントメント(テレアポ)

・ルートセールス(約束があるところへ営業に行く)

・飛び込み営業(その字の通り)


当然どれもやったことがなかった。


最初は事務所内で同僚や上司相手に練習した。

商品説明、電話営業のやり方、訪問してから帰るまでの流れ。。。

汗だくになった。

今まで経験したことのない緊張感。

ムズカシイ。。。。


電話帳のリストをもらい電話を掛け始めた。

「もしもし、私○●生協の正司と申します。お忙しいところ大変申し訳ありません。。。」

「いそがしいから」

ガチャン!!!!!!


「もしもし、私○●生協の正司と申します。ただいま、沢山の方に生協を知っていただきたいと思いまして。。。」

「だれ?おかぁさ~~~ん」

(電話の向こうで:だれ?せいきょう?あ~、いい、いい。何回も掛けてきてしつこいから、切っていいよ。)

ガチャン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


これの繰り返しだった。

電話を何時間も掛けると耳が痛くなった。

話くらい聞いてよ。と思うほど、ガチャンの嵐だった。

たま~に、聞いてくださる方はいるけれど最終的にはガチャンだった。


約束が取れなくて電話を掛けまくっただけの日もあった。1日に200件以上かける。

こんな毎日が続くと気持ちがグダグダしてくる。


時々、話だけならいいですよという人がいらっしゃる。

本当に、天使に思えた。

訪問の日時を決めて、実際に伺う。商品サンプルを説明し、利用方法を話す。


「ためしてからね。」

「高いね。」

「スーパーのほうが安いよね。」

色々なご意見があったが、ごもっともなことなので再訪問の日付を決めて帰る。


感触がよかったところなんかは契約してくれるかな~と期待満々で再訪問!!

ピンポ~ン

「ごめんね、やっぱりやりません」

プツッ。。。。。


こんな毎日だった。

加入したいんですけど。。。とお客様から連絡が入った場合は当然のように契約に結びついた。

でも、それ以外は全然、まったく契約が取れなかった。


営業なので当然ノルマがある。

個々人の数字は言われないが、全体の達成目標はちゃんとある。

この期間にこれだけの契約数。

ほかの方の営業力はすばらしいもので、ぐんぐん目標に近づいていた。

しかしながら、私の成績はゼロのままだった。


またもや、居場所がなかった。


営業に行って帰る、「どうだった?」と聞かれるのが本当に辛かった。


そんなある日、営業成績トップの人と一緒に仕事をする機会があった。とにかく、必ずと言っていいほど契約に結びつける。そうなりたい。本当に!!!


ずっと、お客様との会話を聞いていた。

「あっ!!!!!!!」

目からウロコだった。


まさかの、雑談からだった。

雑談をしているうちに、そのお客様が何が好きで、何に困っていて、どうしたいのかを掴んでしまっていた。本当に相手のハートをガッチリ掴んでしまっていた。

そして話の内容が、信じられないくらいシンプル。びっくりするくらいシンプルでわかりやすい。

「これだ!!」


私の話は「小難しく」「説教がましく」「屁理屈が多い」

だから、お客様がよくわからなくて、面倒くさくなって、別にスーパーで買うし。。。になっていた。

よし、やってみよう。実践だ!!!


契約が面白いように取れる

次の日、本当にかる~~~い感じで営業に行った。

そんなにおちゃらけてていいのか?

そんな感じでした。そのくらいの感じで行かなくては私の話し方はカチカチだった。


雑談から入って、世間話して、試しにやってみて無理と思ったらやめたらいいし、意外によかったら続ければいいですし、そんな難しく構えなくてもいいですよ。

ケーキを作ったりされるなら、この生クリーム使ってみてください。スーパーのものより100円高いけど、使っていただいたら絶対にわかります。本当においしいんですよ。


じゃあ、ためしにやってみようかな。お試し期間しかやらないかもしれないけど。。。

みたいな感じで、簡単に契約が取れてしまった。

あれ?

今までもっと詳しく、ああでもない・こうでもない、ここが違ってあ~だこ~だ。いっぱい喋っていましたが。。。。結局、お客さまの心には何一つ届いてなかった。


その日は全部契約が取れてしまった。天変地異だった。

事務所に帰って契約書を出したら、大騒ぎだった。

「どうしたん?やりかたかえたん?」

いっぱい褒められて本当に嬉しかった。


それからは、水を得た魚のようだった。

・気楽に試したい人

・アレルギーがひどくて困っている人

・無農薬、無添加のものを探している人

・安全なものを子供に食べさせたい人


相手の求めるものに応じて自分の喋りを完全に変えていった。

あいての求めることを掴んで話をしないと、聞く耳を持ってくれないのは当然だった。

そんなことすらわからなかったのだ。

いつも自分が主役の会話ばかりだった。

相手のことはあまり考えていなかった。



最終的に、営業トップになった。

そして、私は獣医に戻る決意をした。

自分の中で、苦手な営業でトップを取ったら獣医に戻ると決めていたのだ。

2年の月日が流れていた。

いつも、遠回りする。

獣医学科に入る時もそうだった。

でも、この営業の仕事で玄関先の土間に正座して座ったり、謝罪のために土下座状態で謝ったりもした。偉そうに、上から目線で喋って、先生と呼ばれることに慣れていたことを思うと全く逆の世界だった。なんとなく自分の中で、肩書きを振り回して偉そうにしたくないという思いが強かった。

そんなことはつまらない、人間として意味がないことと思っていた。

この2年間で、話を聞いてもらうことの難しさや、興味のないお客さまに販売していくコツなどを掴んだ。

本当に貴重すぎる2年間だった。


動物病院に獣医として復帰

私に苦手な営業の仕事をしてきなさいと勧めてくれたマネージャーのいる動物病院に無給で復帰した。

勉強がしたいので、給料はいりません。


学校には何かを教わりに行く。教えてもらうのだから、授業料を払う。これは、当然のこと。それと同じ感覚で動物病院に勉強に行きたかった。申し訳ないが授業料を払う事は出来なかった。その代わり。。。ではないが、少しでも役に立ちたかった。


いきなり、心臓発作を起こした老犬がやってきた。心肺停止だった。もちろん、院長は外来で手を離せる状態ではなかった。

復帰初日に緊急状態の老犬を任された。任せてもらえたことが本当にうれしかった。

心肺停止から復活することはなかった。。。

でも、自分ができることは全てやりつくした。生協で営業をしていても獣医の勉強だけはちゃんとやっていた。

初めて会う飼主様から「ありがとうございました。もう、十分生きましたから蘇生は終わりにしてください。」そう言われた。そして、そのワンちゃんとの思い出話をしてくださった。

獣医として命にかかわり続けたい。

飼主様とペットたちから逃げていた自分


「本当に変わったね~。頑張ったんだね。」


マネージャーからそう言ってもらえたことが本当にうれしかった。



おそらく、あの時勧められるた事を素直に受け入れ、営業と言う本当に苦手な仕事に行っていなければ、今の私はいないと思う。

それだけ、営業に行って学んだことは多く、獣医と言う仕事についても深く考えた。

それまでは、随分高飛車で上から目線だった。変に獣医だし。。。というプライドばかりが先行していた。立場上、先生と言われる。でも、それを当然と思ったり、偉い立場だと勘違いするのは全く違う。


もっともっと、飼主様と膝を突き合わせる事が大事だし、医療用語をさも当然のように使うのも違うし、もっと飼主様にお願いしないといけないのではないか?と思うようになった。


お薬を飲ませてもらうこと、連れてきてもらうこと、私の考えていることを聞いてもらうこと。。。

全部が当然ではないし、お願いしないといけないことのはず。


その動物病院を後にしてから職場を2つ経験した。その後、2006年3月3日に動物病院を開業し院長と言う立場になった。


長い浪人を経て獣医師免許を手にした。

でも、その獣医師免許を紙くずにしないですんだのは営業に行ったお陰だと思う。

いつも遠回りするような気がする。

でも、その遠回りのおかげで私の獣医師としてのスタイルやスタンスができたことは間違いない。

自分の全てが嫌いだった数年前。

歩いてきた人生の紆余曲折のすべてを無駄な道のりと思ったこともあった。

嬉しい事に今はそう思わない。

無駄かどうかを決めるのは誰でもない私自身だから。
















 










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