エピローグ・4(2003年9月12日~20日) とても大切なこと
家を引き払う日、それまで沢山の物や家具があったのがうそのように部屋はがらんとしてた。
とてもシンプルで広かった。
もうここに戻ることはないのかと思いながら、家に対して「今までお世話になりました。ありがとうございました」って気持ちになった。
深々とお辞儀をして、玄関から出た。
本当に俺も母もずいぶん世話になった。
本当に今までありがとうございました。
しかし、家を引き払う日までは多忙を極めてた。
朝から晩まであちこちに電話をして、あっという間に深夜0時を回っていた。
睡眠時間も3、4時間で眠りも浅い。
疲労が溜まるが倒れてる暇もない。
それでも夜にはヒロと温泉に行くようにはしていた。
露天風呂に入っていると全てが流される。
気持ち良くて気持ちよくて、毎回ヒロと1時間以上しゃべっていた。
その時間がないと本当に倒れてただろう。
まさに癒しの時間。
どんなに忙しくても、作る必要があると思った。
少しづつ部屋が片付いてくると自分の友人にも連絡を取れる気持ちになった。
それまで楽しい話題でもないので、なんとなく連絡しずらく引き伸ばしてた部分もあった。
けど、人づてに俺の親の死が伝わった時、とても残念そうにしていた友人がいたので、自分の口から伝えるのはやはり大事だなと思い連絡するようにした。
みんなとっても心配してくれ、「力になれずにごめん」と言ってくれた。
決してそんなことはない。
みんなの心配してくれる気持ちはいつも俺の心を支えてくれている。
ありがとう、本当に。
東京で良く集まる古くからの仲間はヒロに「いいなーお前は側に行けて、俺の分までよろしく頼む」と言ってくれた。
ヒロも「いいだろー」と笑ってた。
そんな気持ちに涙が出そうだ。
函館でやることが落ち着いてきた日の夜、久しぶりに友人の夫妻の家に行った。
その夫妻は一周り以上も違う詩吟舞踊の仲間だ。
ヒロと2人でお邪魔したが、夫妻はとっても自然体だった。
以前一緒に遊んだ時のビデオを観て、腹の底から皆で大笑いした。
久しぶりに心底大笑いしてたら、自分がなんの為に函館に帰ってきてたのか忘れていた。
時間も忘れ、気付いたら夜中3時だった。
そうかー、笑えばいいんだ。
思いっきり笑えば嫌な事みんな吹き飛ぶんだ。
そうだよなー、なんか今までもずっとそうだったよなー。
仲間といつまでも笑ってる内に、そんなことを思い出した。
何も難しい事なんかない。
また一緒に遊んで大笑いする。
それが仲間だね。
夜中まで本当にありがとうございました。
お陰でとても大切なことを思い出しました。
エピローグ・5(2003年9月12日~20日) You are not alone.
家を引き払う前の日、挨拶回りも一段落したのでお世話になった訪問看護ステーションの所長に会いに行った。
お礼と一緒に、母が「使わなかったポータブルトイレは死んだらステーションに寄贈したい」と遺言を残していたので、ついでに持って行った。
会うのは数日前、看護学生時代の俺の恩師と一緒に家に来てくれた時以来だ。
その時は家で色々話したが俺が忙しいため、先生と所長を母の墓にご案内できなかったが、2人は一時間以上探して母の眠る墓に御花をお供えしてくれたのだ。
本当にありがたい。
久しぶりにステーションで所長に会ってゆっくり話をした。
所長は「ここ近年で一番私達は何もしない最期だった」という。
「普通は家族が苦しくなって、訪問看護師は夜勤体制になって、両方大変になるんだけど、私達は今回本当に何もせず楽させてもらったわよ」と笑っていた。
そして、「良くやったね。一人で頑張ったね」と言ってくれた。
そうかー、頑張ったんだ俺。
そうだよなー、結構辛かったもんなー。
苦しい体験だったよなー。
今まで実感なくばたばたしてたけど、少しホッとして自分を褒めようと思った。
「最期まで自分らしさを忘れず生きたお母さんと、それを支える家族に関わって私達の方こそ多くを学んだわ。これから看護をしていく上での励みになった。私達の方こそ勉強させて頂き、ありがとう」と言ってくれた。
その看護に対する哲学と姿勢には心から尊敬する。
祖母の事も心配してくれて、祖母のケアマネージャーと連絡取るよう助言してくれた。
さすが所長と言う感じで、色々教わりながら遅くまで話した。
所長、今まで母の力になってくれて本当にありがとうございます。
所長で良かった。
本当に本当にありがとうございました。
多くの人に出会い、礼を尽くそうとがんばり、母の死を想い、函館での時は過ぎていった。
函館最後の夜、俺とヒロとお通夜の日に夜通し付き合ってくれた友人の3人で飲みに行った。
酒が入るとすぐに開放感と達成感、安堵感でいっぱいになっていった。
酒も時間も深くなった時、友人が「泣いてもいいんだよ」と言った。
ヒロは笑顔で「お疲れ、がんばったな」と声を掛けてくれた。
その言葉を聞いて、この激動の1ヶ月が一つずつ思い出されていった。
今まで頑張って堪えてきた苦しさが涙と共に溢れていった。
感ずるままの言葉を吐き出した。
「苦しかった・・・・・・苦しかった・・・・・・苦しかった・・・・・・」
涙と共に出てくる言葉はそれだけだった。
辛かった。
苦しかった。
悲しかった。
痛かった。
寂しかった。
傷ついた。
ふと気付くと、俺はすでにぼろぼろだった。
でも、支えてくれた人がいる。
見守ってくれた人がいる。
心配してくれた人がいる。
励ましてくれた人がいる。
一緒に笑った仲間がいる。
俺は一人じゃないんだ。
一人じゃないんだよ。
決して一人じゃないんだね。
そう感じて、ただただいつまでも涙が溢れる最後の夜だった。
エピローグ・6(2003年9月21日) Last day in Home town.
家を引き払ってからはヒロのご実家にお世話になっていた。
おじさん、おばさんとも本当に優しく親切にしてくれた。
おじさんは俺に「ヒロと同じ歳の息子が出来たみたいだよ」と言ってくれた。
その言葉に何も言えず胸が詰まった。
おじさんの運転する車で札幌に戻る日がきた。
天気は良く、陽の光は暖かく風が気持ち良い。
母のいつかの言葉を思い出す。
「自分が死んだら窓をノックするわ。じゃなかったら、陽の光となり風となり、いずれにせよ何かしらの合図を送るわ。」
雲が綺麗に流れていて、雲海が広がるようだった。
どこか見果てぬ彼方まで続くかのように、どこまでも、どこまでも・・・

車中から外を見ながら、涙が溢れるが、ヒロは何も言わない。
「雲が綺麗で涙が出た」と俺は一言呟いた。
母さん、お元気ですか?
俺は元気です。
だって俺、一人じゃないから。
俺は今、辛い時に力になってくれる最高に素敵な仲間達に囲まれています。
きっとこれからも人生の中で大変な時がくるでしょう。
寂しい時もあるでしょう。
苦しい時もあるでしょう。
つらい時もあるでしょう。
でも、大丈夫そうです。
俺は一人じゃないから。
これからもがんばって生きていけそうです。
今まで愛してくれてありがとう、そしてさようなら、母さん・・・
シリーズ・死を想え 完
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ここまで読んで下さった方へ。
長い文章にお付き合い下さり、本当にありがとうございました。
貴方の心に何か残るものがありましたでしょうか?
これは10年以上前に書いた日記です。
久しぶりに読み返したら、案外忘れていることも多かったです。
時間は偉大で辛いことも楽しいことも、全て薄めてくれるのです。
日記に残しておいたからこそ、当時の気持ちを思い出すことが出来ました。
今私は二児の父です。
そして、もうすぐ三人目が生まれます。
自分は何者で、どこから来て、どこへ向かうのか。
何に感動し、子供達に何を伝えたいのかを考えた時、私は過去から振り返らねばならないことに気が付きました。
いつかこれを子供達が読んだ時、どのように感じるでしょうか?
貴方はどう感じましたか?
最後に皆様に個人的体験からのアドバイスと医療関係者としてのアドバイスをします。
1つ目。
遺産は残さない方がいいです。
私にとっては、たった80万でも祖母と縁を切る原因となりました。
そして、遺品を浅ましくかすめ取ろうとする親戚に心を傷つけられ、縁を切りました。
妻には必ず兄弟げんかになるから、仮にご両親がなくなっても遺産の相続は絶対放棄しなさいと伝えています。
遺産は一切残さない、受け取らないようにすることを強くおすすめします。
2つ目。
一人で家族を看取ることは容易ではありません。
個人的経験上からもおすすめはしません。
とても苦しい体験でした。
しかし、現在は地域医療の体制が10年前に比べ格段に整いつつあります。
24時間の訪問看護や介護サービスも増えました。
24時間の訪問診療を標榜する医院も増えました。
社会資源を上手に利用したら、負担をずっと軽減できるかと思います。
貴方の大切なご家族を家で看取りたいという気持ちこそが最も重要です。
訪問看護師はきっと親身に話を聞いてくれるでしょう。
ぜひ、ご相談してみて下さい。
それでは、最後にこの日記を載せる機会を頂きました、STORYS.JPの運営の皆様と、これを最後まで読んで下さった方達、そして、「読んでよかった」や「続きを読みたい」とおっしゃって下さった皆様に心からの感謝をお伝えします。
この後の波瀾万丈な人生はまた別のお話で。
皆様、ありがとうございました。