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14/2/4

5年でハイリスク妊娠、中絶、離婚、再婚、出産を経験した私が伝えたい4つの事・後篇

Image by Olia Gozha

※ このストーリーは「5年でハイリスク妊娠、中絶、離婚、再婚、出産を経験した私が伝えたい4つの事・前篇」の続きになります。

前篇はこちら…http://storys.jp/story/7157

【後篇の全文字数:約11,000字】

15.2007年9月6日
16.6週間の休暇
17.職場復帰
18.腎臓の病気を発症
19.夫の浮気
20.入院の夜
21.心が離れた理由、そして離婚
22.再婚と出産
23.今、伝えたいこと
24.伝えたいこと、4つめ(追記)


15.2007年9月6日


 翌朝。

 2007年9月6日は、私にとって、生涯忘れられない日になった。

 朝から、さらに何錠もの陣痛促進剤を子宮に入れた。

 そのまま、分娩台に行き、出産の時を待つ。

 陣痛が始まった。

 陣痛が引いているうちは泣きじゃくり、陣痛が始まれば痛みに耐えるので精いっぱい。

 その繰り返し。

 普通の妊婦さんなら、陣痛の痛みのあと、わが子の対面が待っている。だから頑張りがいもある。

 しかし、私の場合は、ただ痛いだけ。

 その先には、何もない。何もないのだ……。

 一時間後に、ぽんっと体の一部が破裂したような感覚があった。破水だ。

 あとは、痛すぎて何がなんだかわからなかった。私はとにかく一心不乱に叫び続けた。

 いきめと何度も言われたが、やり方がわからない。

 全員が、逆子だった。

 それを、足からずるずると引きずり出される。一人、また一人。

 あくまで母体が最優先……子供たちの原形をとどめておく余裕などなかったようだ。


「手が取れちゃった」


「腕がもげちゃった」


 そんな声が看護師たちから聞こえた。

 しかし私は痛みで何がなんだかわからない。

 普通は出産後、赤ちゃんたちは、ふかふかの暖かなベッドに移してもらえるのだろう。

 しかし、彼らの行き先は……青いバケツの中だった。

 びちゃっ、びちゃっと、音がした。

 一度だけ、小さく、「おぎゃあ」と泣く赤ちゃんの声を、聞いた気がした。

 きっと空耳か、ほかの病室からだろう……。 


 父は昨日、帰り際に、

「まだ16週なら、ほとんど人間の形をしていないのではないかと思う。もし先生が見せてくれようとしても、お前は子供を見ない方がいい」

 とアドバイスをしてくれていた。

 しかし、父に言われるまでもなく、とても見られそうになかった。

 どれくらい時間がかかっただろうか……。

 手術が終った。

 3人とも男の子だったと告げられた。


 病室に戻ると、母が椅子に座っていた。呼ばなかったのに、ずっといたらしい。

「あんたの声、病室に響いてたよ」

 母は、そういってハンカチで涙をぬぐった。

「ここに、あの子がおらんでよかった」


 それは、夫のことだった。


「あの子には、あんたのあの声は、よう聞かせられん……」


 母はそう言って泣き出した。

 私は、母にも聞かせたくなかった。

 なんて、親不孝な娘なのだろう。

 いつか、母に孫を抱かせられる日が、来るのだろうか……。


追い打ち


 その夜、私は3枚の用紙を書いていた。

 死産届だ。

 12週を過ぎた場合は、提出が必要になるそうだ。

 誰にも頼めないので、自分で書いていた。

 痛みは、手術後、驚くぐらいすうっと引いていった。

 それが悲しかった。ボールペンで書いた字が涙でにじんだ。

 夫のサインが必要なので、夜に病院に来てもらった。

 そして、子供たちの火葬について、先生から聞いたことを説明した。

 死産届の提出と、火葬は提携の業者がやってくれるとのことだった。

 ただ、子どもたちは小さすぎて、骨はほぼ残らないだろうと。

 もともと私の両親は、引きずるのはよくないから、骨を残す必要はないと主張していたので、それで構わないと答えた。

 事後報告だ。夫は、わかった、とだけ答えた。


 翌日、全身黒い服を着た、お婆さんが病院に現れた。

 どうやら、この人が、「提携の業者」のようだ。

 黒い服に身を包み、鷲鼻で、まるで、美術の教科書か何かで見た「美女と老女のだまし絵」のような風貌だった。

 T先生とその老女は会話を交わし、死産届と、子供たちの骨が入った箱を手渡した。

 領収書の入った封筒を私に手渡し、老女は去って行った。

 病室に戻り、私は領収書を見て、絶句した。

 その領収書には、「○○汚物処理所」と書かれていたのだ。

 私は思わず叫びそうになった。そしてその紙をビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。

 後から冷静に考えれば、その汚物処理所というのは単なる業者の名前であり、実際は火葬場で焼いてもらっているはずだ。

 しかしそのときは、自分の子供を結果的に「汚物」として「処理」してしまったことに、深い罪悪感を覚えた。

 そして、今度は何があっても産もう、もう二度と中絶はしない……そう誓った。


 しかし、この夫との「次」は訪れることはなかった。

 私は、たかをくくっていたのだ。

 こんなにつらい思いをしたから、絆は深まったに違いないと。

 そして、夫も同じ気持ちのはずだと。


 完全に、甘えてしまっていた。


16.6週間の休暇


 手術後、6週間会社を休んだ。

 休暇中に、「ブラックジャックによろしく」を買って読んだ。
 NICUの話があるとネットで知ったからだ。(3~4巻)

 夫には「今は読まないほうがいいんじゃないか」と言われたが、時間もあったのでつい買ってしまった。

 いつ読んでも、最後の赤ちゃんが泣くシーンで、涙が止まらなくなってしまう。


 http://mangaonweb.com/creatorOCCategoryDetail.do?action=list&no=2&cn=1


 また、ある時は、夫が地元に帰り、Mさんたちと飲みに行った。
 私は、気晴らしになればと思い、快く送り出した。

 しかし、帰って来た夫と、喧嘩をしてしまった。

 夫がMさんたちに、「子供をおろした」と、そのまま事実を伝えたからだ。

 私は手あたり次第のものを夫に投げつけ、泣き喚いた。
 誰にも知られたくなかった。自分が中絶したということを。

「本当の事を言って、何が悪いんだよ!?」

 それから数日、夫とは口を聞かなかった。


旅行へ


 数日後、家で漫画ばかり読む私を見かねた夫が、こう提案してきた。


「俺、休み3日とるから、気晴らしに旅行でもいかないか?」

 私たちは、新婚旅行にすら行っていなかった。

 夫がいうには、11月から派遣先の病院が変わり、そこの主任を務めることになったという。
 主任となると、本当に休めなくなるので、その前に行っておきたい、とのことだった。

「ほら、俺、前に会社に頼んだからさ……給料あげてくれって。それが通ったみたいで……」

 もちろん口には出さなかったが、正直、その場限りの話だと思っていた。
 本当に夫が行動に移していたのに驚いた。


 旅行先は、米沢になった。
 夫は、パチンコも含めて、「花の慶次」の大ファンだったのだ。
 前田慶次ゆかりの地を巡ってくれる観光タクシーがあったので、それを手配した。
 米沢は、ちょうど2009年から大河ドラマ「直江兼続」の舞台になることもあり、お祭りムードで盛り上がっていた。直江兼続は「花の慶次」にも登場するので、だいぶ先だけど楽しみだね、と話していた。

 さらに、海がみたいということで、松島にも足を運んだ。

 宿泊先の旅館から見える朝日は美しく、きっとこの先、どんなことも夫と乗り越えることができるだろうと感じた。

 次はもうひとつのゆかりの地である、金沢にも行こうね。そう約束して帰った。


 そしてそれが、最初で最後の夫との旅行になった。


17.職場復帰


 6週間後、私は職場復帰した。

 職場の人によく言われたのが、この3つだ。


1.不妊治療をしていたの?

2.世間では、4つ子や5つ子で生まれる子もテレビで見るのに、3つ子でも難しいんだね。

3.誰か一人でも助けてあげられなかったの?


 2については本当によく言われたが……おそらく、そういうのは、1卵生じゃなかったり、胎盤がきちんと分かれていたケースだったのだろう。

 3は……減数手術については、誰も提案してきた医者はいなかった。

 もしかしたら、胎盤がつながっているので、難しかったのかもしれない。

 ただ、矛盾している、と言われればそれまでだが、もし仮に私に医者が「減数手術」を勧めてきたとしても、私にはできなかっただろう。

 3人のうち、誰かを選び、誰かを見殺しにする、ということは……。


 復帰してすぐの検診では、T先生にも、

T医師「すっかり子宮も回復していますから、もう子どもを作ってもいいですよ。」


 と、許可をもらった。


 しかし、あろうことが、私はその夜……泣いてしまったのだ。
 なぜ涙が出るのか、自分でも説明できなかった。

 子宮が回復しても、まだ心は回復していなかったのかもしれない。

 しかし、それを最後に、夫が私を求めてくることはなくなった。


 夫は新しい職場になり、勤務時間も延び、月に1度の休みもなくなってしまった。
 人手が足りず、朝ごはんに間に合わないからと、自宅に帰らずに、寝泊りすることも増えていった。

 地元に帰り、Mさんなど友人たちと、飲み会に行くこともなくなった。

 また夫は、時々私を職場の飲み会に同伴させることがあったが、それもなくなっていった。

 ちょうどその頃、勝間和代さんがブームになった。

 夫のいない休日を過ごす私は、すっかりカツマー化し、勝間和代さんにのめり込んだ。

 私もこの人のようなすごい女性になれば、夫も喜んでくれるだろうと考えた。

 本を全冊購入し、資格試験に精を出したり、セミナーや勉強会に参加したり、英会話に通いだしたりした。

 もっとも、動機が不純だったためか、その頃の投資で身についたものは、あまり多くはないけれど。


 また、私の手術を担当したT産婦人科からは、高齢を理由に、産科を閉鎖し、婦人科一本のクリニックに変わったという知らせが入った。


18.腎臓の病気を発症


 そのまま、1年以上が経過した。

 子供に関しては、ほしい気持ちはあったが、夫も「しんどい」「眠い」ばかりだし、もう少し時間が必要なのかもしれないと考えていた。

 夫が転職して、もう少し楽な仕事に就けば、そういった余裕も生まれてくるだろうと考えていた。

 それに、また同じことになったら……と思うと、怖くて踏み切れなかったのもある。

 気がかりだったのは、私の腎臓の事だった。

 私の子宮は回復したが……腎臓は一向に回復しなかった。

 潜血も、蛋白も、ずっと++のままだった。

 しかし、直接身体に痛み等何らかの症状が出ているわけではなかった。
 また、A医療センターの腎臓内科も定期的に受診していたが、「経過観察」と言われ、特になにもしていなかった。

 2009年の春、腎臓内科での主治医が若い女性に変わった。
 その医師に勧められて「腎生検」を受けることになった。
 腎臓に針を刺して腎臓の細胞を採取する検査だ。

 検査といっても手術にあたるため、保証人が2名必要になる。

 夫ともう一人……私は重い足取りで実家に行き、父親に、腎臓が回復していないので、検査が必要であり、保証人になってほしい旨を伝えた。

 母は、「なぜあんたばかりがそんな目に合うの?」と、また泣いてしまった。

 入院期間中、夫は一度もお見舞いに訪れなかった。

 代わりに、夫の両親が毎日お見舞いに来てくれた。


 そして、検査の結果、私についた病名は、「IgA腎症」というものだった。
 http://www.nanbyou.or.jp/entry/41 http://ja.wikipedia.org/wiki/IgA%E8%85%8E%E7%97%87

 しかも、「予後比較的不良群」である。
 これは「5年以上・20年以内に透析療法に移行する可能性があるもの」とされている。

 私の採取した腎細胞は、約3割がすでに壊死していたらしい。

 28歳の自分にとって、「20年以内に透析」というのは、重い宣告だった。

 そして私にとって、最も気がかりなこと……。

 それを、主治医にぶつける。


「先生……私、子供が欲しいんです! 子供は作れるんですか!?」

腎臓内科医「これから、扁桃腺を摘出し、ステロイドパルス両方を行います。1年間かけてステロイドを投与していきます。それが終わるまでは、なんとも言えません。」

「……少なくとも、ステロイドを投与されている間は、妊娠できないんですよね?」

腎臓内科医「はい。胎児に何らかの影響を与える可能性があります。」

 ステロイドパルス療法は、確立された治療法ではなく、万人に効果があるわけではないらしい。

 私に効果があるかどうかは、やってみないとわからない。

 時間の流れに任せてと考えていたものの、いざ、あと1年は作れないといわれると、結構つらいものがあった。


 そして腎機能が回復しなければ、妊娠中に透析開始、という可能性もありうるのだ。

 やはり、中絶すべきではなかったのだ。

 産婦人科の先生たちは何て言った?
 若いから、またやり直せるって、また妊娠できるって言わなかった?

 でも私は、もう子どもを産めないかもしれないのだ。

 もし無理に妊娠して、それで透析に移行したら? 子どもを育てられるの?

 罰が、あたったのかもしれない……。


IgA腎症とは


 誤解のないように記しておくが、けっして中絶が原因で、IgA腎症になったわけではない。

  たまたま、私がこのタイミング発症した、とのことだ。

 IgA腎症は原因がよくわかっていない病気である。

 また、男性の方が多いという。

 たとえばNPOで大学生の中退予防に取り組んでいる山本繁氏は、学生時代にIgA腎症が分かったと自著で告白している。

 https://twitter.com/npo_newvery/status/309299523220566016

 私の場合は、たまたま、妊娠がきっかけでIgA腎症が発覚した、ということだ。

 その頃、

Unknown「もしかしたら、子供たちが、お母さんの身体の危険を、知らせてくれたのかもしれないね。」

 と、私に言ってくれた人がいる。誰かは忘れてしまったが。

 すごく身勝手な考え方なのかもしれないが、その言葉に少しだけ救われた。


 そして、その入院をきっかけに、今度は夫の「本当の気持ち」を、私は知ることになった。


19.夫の浮気


 入院の準備に明け暮れていたある日、夫が出勤前に、何か探し物をしていたらしく、カバンの中身をぶちまけた状態で、出て行った。

 私は整理しようとし、プリント類に挟まった、映画のチケットの半券を見つけた。

 それは、「余命一ヶ月の花嫁」のチケットだった。

 もともとアニメ以外ほとんどみない男性が一人、あるいは友人たちと観に行く映画とは、考えづらかった。

 もしこれが、ほぼ同じ時期に公開された「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」のチケットであれば、私はそこまで気に留めなかっただろう。

 その夜、夫がぐったり疲れて帰り、眠ったのを見計らって、私ははじめて、夫のカバンを空け、長財布の中身を観た。


 そこから出てきたのは、2008年の12月、天橋立の展望台の入場券と、金沢にあるシティホテルに宿泊した際の、領収書だった。

 それから、某有名ラブホテルチェーン店のメンバーズカードも出てきた。


話し合い


 翌日、仕事が終わった夫を、私は近所の個室居酒屋に呼び出した。


 そして、オーダーを通し、料理が来た後で、

「この店に行くの、久しぶりだなー。このエビとアボガドのサラダ、うまいよね。」


 なんてのんきに言う夫を無視し、これはどういうこと? と、夫の財布から抜いていた領収書を、目の前に突きつけた。


 もともと日中は仕事で外に出ず、色白の夫の顔が、更にさあっと青ざめていった。

「金沢に一緒に行った女とは、とっくに終わっている。映画は、別の女とといったけど、そいつもその時だけだ。」

「本当に?」

「ああ、俺が悪かった。これからも仕事で遅くなるのは変わらない。だけど……信じてくれ!」


 夫はそう言って、ひたすら平謝りした。

 しかし、それ以降も夫が帰ってこない日が続いた。

 私は気持ちを振り払うために、近所の夜0時まで空いているスポーツジムに通いだした。

 身体を動かしている間は、嫌な気持ちを振り払うことができる。

 そして、ぐったり疲れないと、眠れない日が続いた。


20.入院の夜


 扁桃腺を摘出した後、私はステロイドを入れるため、3回入院した。

 ステロイドパルス療法は、まずは点滴でステロイドを入れ、それから、錠剤の切り替え、1年をかけて、徐々に減らしていく、というやり方だ。

 そうしないといけないほど、ステロイドはきつい薬なのだ。

 そして、2度目の入院の日。二日目、私は点滴の合間に、外出許可を無理を言って取り付けた。

「(お願い、私に信じさせてほしい……。)」

 祈りながら、バスに飛び乗り、家に帰る。

 しかし、家に帰り、私の希望は、無残にも打ち砕かれてしまった。

 洗面所に、見覚えのない歯ブラシ。

 流しには、ティーカップが二つ。

 そして、布団の脇には、ピンクの袋。
 そこには、下着が入っていた……。

 私は、たまらずその場で夫の両親に電話した。
 夫の両親は、すぐに車で駆けつけてくれた。

 そして、3人で夫と……相手の女を待つことになった。
 二人で帰ってきたところを捕まえて、問い詰めるつもりだった。

 病院には、外泊したい、とだけ伝えて、電話を切ってしまった。

 しかし、物事は、うまく運ばなかった。

 夫から電話がかかってきたのだ。


「お前、今どこにいる?」

「えっ!? ……病院だけど。」

「嘘つくな。その病院から電話がかかってきたぞ。お前が戻らない上に外泊まで言い出してきたって」


 入院時に、連絡先として夫の名前と携帯番号を書いていたことを思い出した。

 病院に口止めしていないかったことを後悔した。

 しかし、頼んだところで、それを病院が了承するはずもないかもしれないが。

「ステロイドの投与中は、免疫力が極端に下がると、病院側が心配している。とにかく戻れ!」

 なぜそのときに、そんな裏切るような事をするのか。

 ステロイドは、副作用のきつい薬だ。肌も荒れるし、顔も丸くなるし、気だるさもある。

 それでも、頑張っているのに。
 子どもが欲しいから頑張っていたのに……。

 もう、おしまいだと思った。

 夫にバレてしまっては、このままここに居ても仕方ない。
 私は、夫の両親に付き添われて、病院に戻った。


21.心が離れた理由、そして離婚


 翌日、最後の話し合いをした。

 夫の相手は、彼が主任として勤務した職場の部下である、3歳下の栄養士の女性だった。

 夫は、私に不満があったわけではなかったと前置きしたうえで、「強いて言えば」と2つ理由を挙げた。

1.転職を勧められるのが嫌だった。

2.子どもの事が重荷だった。子どもをお前と作るのが怖かった。

 転職については、数回しか口にしたつもりはなかったが、態度などに出ていたのかもしれない。

 私だって、できればパートナーのやりたいことは、全力で応援したかった。
 しかし、朝から晩まで休みなく働く生活を応援するなんて無理だった。

 私は、結婚前に夫がいた職場の話を思い出した。
 そこの主任もまた、栄養士の女性と不倫関係にあった。
 しかも結構おおっぴらに、ひと目をはばからずイチャイチャしていたらしい。
 その時、彼は「上司として、人間として全然尊敬できない人のもとで働くのは辛い」とこぼしていた……。

 その事を指摘したら、夫は黙っていた。

 その不倫した前の上司もそうだったのかもしれないが、私達夫婦には、圧倒的に「一緒に過ごした時間」が足りなかった。
 朝から晩まで一緒に仕事している人にかなうはずもないのかもしれない。

 子供のことについては、こう尋ねた。

「前に言ってくれたよね。「子どもを諦めたら一生二人で苦しむことになる」って。でも、もうそういう気持ちはないんだね……。」


 すると、夫は、私の目をじっと見据えて、こう答えた。

「……子供のことは、俺は俺で一生背負っていく」


 私は、その時、夫が本当に心から、3つ子の誕生を待ち望んでいたのだと、今更ながらに理解した。

 私は、自分ばかりが辛くて、夫に支えてもらおうとばかり、していたのではないか。

 夫の「哀しみ」にどれだけ寄り添うことができたのだろうか……。

 最終的に、子どもを諦めた理由のひとつは、「経済面の問題」だった。
 夫の給料で、自分が仕事をやめて、障害を持つ子どもを3人かかえて生きていく事が、難しいと思ったのだ。

 もちろん、本人に直接、そう言ったつもりはない。
 しかし、夫なりに、感じ取っていたのかもしれない。

 離婚後、よく周囲に言われたのは、月並みな「子どもがいないからまだよかったね」という言葉だった。

 もし子どもが一人だけ、健康に生まれていれば。
 もし、重度障害が残った子どもを3人産んでいれば。
 それでも夫は、相手の女性に心変わりしたのだろうか。

 考えても仕方ないが、自分はもし周りに子どもがいなくて離婚した人がいても、この言葉だけは絶対にかけずにおこうと思う。

 その頃の忘れられないニュースがある。
 81年間連れ添った仲良し夫婦、妻に手を握られながら101歳夫が他界。
 http://www.narinari.com/Nd/20090912236.html
 私はずっと、こういった夫婦に憧れていた。
 でもできなかった。

 夫と最後に出かけたのは、私が好きなフィンランドのバンドのライブだった。
 休みのない夫と一緒に出かける場所は、外食かライブぐらいだった。
 夫はアニソン好きなので、私が聴く音楽もいいと言ってくれた。
 アンコールで流れたこの曲を聴きながら、涙した。

 Forever - Stratovarius http://youtu.be/8BvV9arABLs


離婚へ


 1か月後、離婚した。

 慰謝料は、結局請求しないことになった。

 実は一度、市の弁護士相談には足を運んだことがある。
 しかし、結果的に、証拠に乏しくて、これで勝つのは難しいということだった。
 例えば私が入手した、映画のチケットやホテルの領収書、それに実は夫の携帯のメールを何通かこっそり自分のGmailに転送したのだが、そういうのは、本人が認めない限り、決定的な証拠にはならないそうだ。

 結局、ホテルに入る決定的瞬間の写真を撮るなどしないと、訴えるのは難しいらしい。

 なので、本当に、慰謝料をもらいたいのであれば、入院中、自分で病院を抜け出したりせず、探偵を雇って張り付かせることだったのだ。もう遅いけど。

 夫もきっと警戒しているだろうし、今更、それを依頼するだけの気力は私になかった。

 怖かったのだ、相手に、「夫婦関係の破綻」を主張されることが。

 夫の友人のMさんは、「あいつはそこまでするやつじゃないだろう」と言っていたが、周りが入れ知恵するかもしれない。
 こちらとしては、激務の夫の身体を気遣っていただけなのに、それを主張されてしまうと、きっともう立ち直れない。

 最終的に決断を促したのは、実父の、

「最終的にお金でもめて罵り合って泥沼になって終わらせるのか? そんな幕引きでいいのか? 100%向こうが悪いという離婚はありえない。お前も一度は好きになって結婚したんだから、潔く身を引け」

 という言葉だった。

 そして、「人間万事塞翁が馬だ」とも。

 夫の最後の言葉は、

「家に帰らなかったり、休みがなかったのは、9割以上、本当に仕事だったから!」

 だった。


3ヶ月後、知った真実


 その3ヶ月後、私は、Mさんに居酒屋に呼び出される。

Mさん「俺も言うべきかどうかすごく悩んだんだけど、でも……絶対君には知る権利があると思う。それに、早く前を向いて進んでほしいから、だから言う!」


 それは、夫が例の女性と「出来ちゃった婚した」という知らせだった。

 私は、周りにある箸やおしぼりを彼に投げつけ、床に突っ伏して泣いた。

 子どもを作るのが怖いと言いながら、とっとと「一抜け」した事が憎かった。

 自分がただの邪魔者だったという事実が辛かった。

 Mさんは、私が泣き喚き続けるのをじっと、


Mさん「やっぱり、言うべきではなかったか……」


 などと、と呟きながら、耐えていた。

 1時間ほど経ち、私が落ち着いたあと、Mさんは言った。


Mさん「きっとすぐにいい人が現れるよ。痩せて綺麗になったもん。大丈夫。自信持って!」

「……!!」


 気付けば、私の体重は、あまりご飯を食べられなかったのと、連日のジム通いの成果か、10kg近く減っていたのだった。

22.再婚と出産


 それからしばらく、私は荒れた生活を送った。

 しかし、いろいろあって1年後に、旦那の友人のMさんと付き合いだし、更にその1年後に結婚した。

 もともとMさんは、ギターをやっていた影響で、私の好きな音楽のジャンルにも造詣が深く、話が面白かった。

 ただ私としては、20歳そこそこからずっと付き合いのあった元夫と、結婚していた自分なんて嫌だろうと思っていた。

 しかし、離婚から約1年後、彼が私に、


Mさん「……もう吹っ切れた?」


 と尋ねてきて、うなずいたところ、付き合いが始まった。
 付き合っている頃に東日本大震災があったのも、結婚を後押しすることになった。

 そして、プロポーズの言葉は、私がずっと欲しかったものだった。

Mさん「僕は、君の子どもが欲しいと思っている」


 結婚後、すぐに子どもを授かったが、ステロイドパルス療法は私に合っていたらしく、今度は潜血も蛋白もおりることなかった。
 無事、臨月まで勤め続けることができた。

 出産から1年以上経過した後も、腎臓に問題は発生していない。

 そして、2012年、一人の男の子が生まれた。
 病院中に響き渡るかのような産声をあげて。

 私は産育休を取得後、職場復帰し、ずっと同じ職場で働いている。

 私の両親は、孫にメロメロで、しょっちゅう「早く連れて来い」と催促する。




 現在1歳の彼は、少し言葉が遅いし、物を隠したり投げたり困らせることもあるけど、よく笑い、色々なものに興味を示し、元気いっぱいだ。


23.今、伝えたいこと


 回り道を沢山したけど、言いたかったことは3つ。

1.ハイリスク妊娠には誰にでも起こりうるということ。

 だからこそ、妊娠・出産は先延ばしにしない方がいいと思う。
 私の場合は27歳だったけど、もしあと10年後に同じ事が起こったらどうなっていただろうと思うとぞっとする。


 2.妊婦健診にはきちんと通って欲しい、ということ。

 出生数は減っているのに、低体重児は増加している。

 http://qq.kumanichi.com/medical/2008/12/post-380.php


 受入先がなく、病院をたらい回しの末に赤ちゃんや妊婦さんが亡くなるというニュースを聞く度に胸が痛くなる。


 その原因はほとんどが、NICUの満床だ。


 このサイトによると、84%がNICU満床を理由に受入を拒否している。


 http://akachan.chu.jp/kiji_nicu.html

 そして、妊婦健診を受けない、かかりつけ医のいない、「野良妊婦」「飛び込み出産」に怒りを覚える。

 もちろん、きちんと管理しても、どうしてもというケースもある。
 だけど、自分が勉強したり、きちんと検診を受けるだけで、回避できることもあるのではないだろうか。

 けっして、妊婦健診に行かなくても何とかなる、なんて思わないでほしい。


 3.彼は「誰の生まれ変わりでもない」ということ。

 当たり前の事かもしれないけど、でも私は「生まれ変わり」という考え方があまり好きではない。

 自分が3人の子を葬った事実は、一生忘れない。

 でも、それは私一人が心にしまっておく問題だ。

 私は、彼を「一個人」として、夫と試行錯誤しながら、大切に育てていきたい。


 お読みいただき、本当にありがとうございました。
 そして、きっかけを与えてくださった、STORYS.JPさんに感謝いたします。


24.伝えたいこと、4つめ(追記)


 このストーリーを書いた3日後、このニュースを目にした。

 8カ月次男に暴行、母逮捕=傷害容疑「育児にストレス」-三重県警

 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014020600581

 最初に思ったのは、私はこの母親を責められない、ということだった。

 このようなコメントを見つけた。

> 800gで誕生したとなるとなんかしらの障害が残った可能性が高い。おそらく介護も大変で相当のストレスがあったのかもしれない。母親が21歳ならなおさらだよ。

 私も、同じようになっていた可能性はある。
 産まれた時は美談だが、その後の生活は想像を絶するものがある。
 行政を頼れなかったのか、そういうのは簡単だが……、

 昨年、大阪で母子が餓死するという痛ましいニュースがあった。
 その際に問題になったのが、「本当に追い詰められている人ほど、SOSを出せない状態にある」ということだった。そのとおりだと思う。

> 日本の医療は、本来なら自然に還る命も助けるだけ助けてあとは知らん顔だからなぁ。

 私の場合は、それこそ医療が発達する前であれば、母子ともに亡くなるケースだったにちがいない。

 だからこそ、私は、最後に中絶をすすめた病院にも、今は同じように感謝している。

 今回、このストーリーに対し、「読んで良かった」や温かいコメントを沢山いただき、本当に嬉しかった。

 もし、産みたかったのに中絶を選択せざるを得ず、今も罪の意識に苛まれている方が、この反応を目にすることで、少しでも気持ちがほんの少しだけでも救われれば……と願っている。


---------------------------------------
2015.11.10追記。

一冊の本になりました!


加筆・修正を加えて一冊の本になりました。
これもたくさんの方にお読みいただいたおかげです。ありがとうございます。
アマゾンからご購入いただけます。


また、現在、夫や息子も登場する最新のストーリーを作成中です。
あわせてお読みいただけると嬉しいです。

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