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14/2/7

母を自宅で看取り天涯孤独になった瞬間の話。⑬ エピローグ 前編

Image by Olia Gozha

エピローグ・1(2003年9月12日~20日) 「陽の光や風となりて」


あれからもう何日たっただろう。

あまりにもあっという間であり、あまりにも長い1週間だった。

沢山の仕事があって、ばたばたしてる内に時が過ぎていった。

沢山のドラマがあったが、忙しさの中で忘れていってしまう。


本当に色々あった。

沢山の人に会った。

人のつながりをきちんと整理するというのは、こんなにも多くの人と出会わなくてはならないのかと感じる。

どんな時もどこへでもヒロはついてきてくれた。

ここ1週間ほぼ24時間一緒にいてくれる。

挨拶回りも、役所関係に行く時も、家を引き払う整理や掃除も全て一緒にやってくれた。

自分に兄弟はいないが、間違いなく兄弟以上のことを彼はしてくれている。

どんなに頼もしいか、どんなに救われるか。

本当にかける言葉もない。

ありがとう。

母が死んで3日目の朝。

シャワーを浴びながら最後に母と見たTVから流れてた歌を口ずさんでいた。

「somewhere over the rainbow」

突然涙が込み上げてきた。

何日か忙しさの中に貯まっていた悲しみが一気にあふれてきた。

シャワーを浴びながら号泣した。

ヒロは驚き心配して見に来てくれた。

そして、俺がシャワーから上がったら昨晩あった不思議な話をしてくれた。

その夜の前の日ソファーで寝てたら肩が痛くなったとのことで、俺は母が使ってたベッドで良かったらと勧めていた。

俺は先に眠っていたが、彼は母の部屋で酒やタバコを吸いながら、日記や詩を書いていた。

その時突然パッと部屋の電気が消えた。

台風だったため停電かと不審に思い外を見るが、隣の家は電気が付いている。

もう一回電気をつけるとすぐにつく。

もしかして部屋でタバコを吸ったり、自分がベットで寝るの嫌だったのかなと思い、荷物を居間に移す。

テーブルや布団類も移し、母の部屋の電気だけ消そうと最後にもう一度部屋に入ろうとした瞬間、再び電気がパッと消えた。

彼がわざわざ部屋に入らなくても済むかのように。

彼は怖いという思いより、神々しいものに出会ったという気持ちで鳥肌が立ち、思わずお辞儀してしまったと言う。

母のベッドに座りながらその話を聞いていたら、こらえていた寂しさが再び溢れ出す。

声を上げて泣きあげる俺をヒロは黙って肩を抱いてくれた。

以前母と話した約束を思い出した。

「自分が死んだら窓をノックするわ。じゃなかったら、陽の光となり風となり、いずれにせよ何かしらの合図を貴方に送るわ。そしたらそれが幽霊がいるかどうかの確証になるでしょ」

母は部屋で煙草を吸おうが、ヒロがベッド使おうが許してくれただろう。

たぶんヒロに「息子をありがとう」と言いたかったのだろう。

「息子をありがとう。これからもよろしく頼むわ」

母なら間違いなくそう言うだろう。

死んでも息子を想い、俺の友人に礼を言うため現れたかと思ったらもう泣くしかなかった。

なんという愛なんだろう。

オレハ オオキナ オオキナ アイ ニ ツツマレテイル・・・


そう感じた。

ありがとう。

ありがとう、母さん。

いつも、いつまでも、ありがとうね。。。

エピローグ・2(2003年9月12日~20日) 「巡り合わせ」


「巡り合わせ」

ここ1週間で良く出会う言葉だ。

全ては巡り合わせ・・・

ヒロが来てくれてるのも、訪問看護ステーションの所長に出会ったのも、今まで知らなかった母の友人に出会うのも、全てが「巡り合わせ」

ヒロのライブが終わった日に母が死んだ。

だから彼は函館に来れた。


ヒロが「お母さんは息子一人では大変だろうから、力になってくれそうな友人が来れそうな時を選んだんじゃないか」と話していた。


母は死ぬ瞬間まで自身で線引きをしたのかと思うと、見事だ。


母が死んでつながる縁がある。

母の友人らに会うのもそうだ。


友人らへ挨拶に回るのは本当に疲れる。

慣れないスーツで慣れない敬語、一人一人に誠意を伝える。

母が密葬を希望してたため、友人にも関わらず母の死に顔を見れないことはやはりつらいことだろう。


皆それぞれで母との別れをしている。

香典と一緒に手紙を添える者が多い。


母の携帯にメールを送って別れを告げた人もいる。

それぞれが死を受け入れようとするが、死に顔を見ていないため「死んだのが信じられない」という人も多い。

せめて息子として死に顔を見ることが出来なかった友人らに母の最期を伝えることが、誠意ある礼儀だと思う。

だから一人一人と会って、墓まで案内し一緒に手を合わせる。

多くの方をご案内したが、一人一人みな真剣に手を合わせてくれた。

その中には俺の友人のご両親も来てくれたりした。

母が死ぬ3日前に来た札幌の友人のご両親も墓参りしてくれた。


中学からの友人のお母さんは訃報の知らせを聞いてすぐに車で札幌から来てくれ、墓の前でお経を唱えてくれた。


これには感動した。


葬儀らしいことは何もせず、あっという間に火葬・納骨まで済ませてしまったが、まさか母の為にお経を読んでくれる人がいようとは。

俺もヒロも感動と感謝で胸がいっぱいになった。


本当にありがとうございます。

母の友人らは俺自身は初めて会う人が多い。

でも、不思議と皆俺のことをよく知ってる。

母が生きてる時、必ず俺の話をしてたそうだ。

「自慢の息子だ」と・・・

皆とても母を慕って、尊敬すると言ってくれる。

それぐらい覚悟ある生き様、死に様だった。

壮絶だった。

でも、すごかった。

そして皆「自慢の息子に最期まで側にいてもらって、本当に幸せだったでしょう」と言ってくれる。

不思議なぐらい皆そう言ってくれる。

母は幸せだったのか?

「ねえ、母さんは幸せな人生だった?」

しかし、その答えはもう聞けない・・・




エピローグ・3(2003年9月12日~20日) 「許されざる行為」



どうしても許せないことが3つあった。


とても許しがたく、そして後に祖母を含めた親戚一同と縁を切った直接的な原因だ。


祖母の妹の一人に俺の母の死を伝えるために電話をした。

俺が名前を名乗るといきなり「必要ありません!」と切られた。

唖然としながらもきちんと伝えるべきことは伝えようともう一度電話をする。

「お話を聞いて頂けるだけで結構です。この度9月10日に私の母が亡くなりまして、その旨をお伝えしたくお電話致しました」

「なんですか?関係ありません!」

再び一方的に切られる。

とても傷ついた。


後で祖母と兄弟の別の親戚に聞いたら、その人は祖母を含めた一族皆が嫌いで、連絡をとらないようにしていたそうだ。

だから、なんだってんだ。


母が何をしたって言うんだ。

何かを欲しいわけではない。

ただ一言ご愁傷様の一言も言えないのか・・・

祖母の一族に対する恨みと母の死は何にも関係無いはずだ。

祖母の兄弟・姉妹はみな何をやってたんだ一体。

本当に傷ついたが、連絡はきちんとした。


なぜ母が死んだ後まで俺は傷つかなくてはならないんだ。


でも、休んでる暇はない。

自分の務めを全うするべく、仕事を続ける。

そして、もう一つ。


家を引き払うに当たり、とてつもない程大量のごみなどが出てきた。

粗大ゴミも燃えるごみも燃えないごみもすごい量だった。

一人ではとても片付かなかったが、ヒロが一緒にいてくれたから短期間で整理ついたのだろう。

ヒロは黙ってても率先して床の拭き掃除もしてくれた。

親戚は母の死後3日目に来たが、荷物を整理しにきたのか、欲しい物を物色にきたのかわからない感じだった。

俺は母のものは母のもの、基本的に全て捨てるか売りたい。

俺も母も物に執着しない性質だから。

祖母は母のものを全て持って帰りたかったようだ。

思い出に浸りたいらしい。

親戚らはあれこれ片付けるふりして物を物色して持って行った。


「これ、いる?貰っていい?」

「電子レンジ貰っていい?娘が今度家を出るから。」

「これ売るなら頂戴よ」

「これ捨てるなら私が貰ってあげる」


どうせ捨てるものとは言え、なんという浅ましい姿だろうか。

死んだ人間のものを漁って恥ずかしくないのか。

生き方として無様だ。

「欲しけりゃ店で買えよクソやろうどもが!てめえらが死んでみろよ!墓荒らしの畜生共が!」


喉まで出かかった。


本当に必要なものはすでに持ってるはず。

母が死んだら渡して欲しいものは、既に母から聞いている。

渡すべき人にはもう渡している。


しかし、それでも母が世話になった人達だ。


そう思い、「どうぞご勝手に」と返事をしたら、終いには俺に一言の断りもなく母の遺品を持っていった人もいる。


しかも、それは後日母の友人に渡す約束をしている品物だったのに。


勝手に遺品を持って入った人の家に行き、すでに母からの遺言があるので返してもらえないかと伝えたら、「いらないものだと思って」としぶしぶ返却していた。


そして、親戚らは欲しい物を貰っていった後、家を引き払うまでの間、誰一人片付けの手伝いなんかには顔を出さなかった。


最期まで家の掃除を手伝ってくれたのは、ヒロだけだった。


心底失望した。


祖母も祖母の兄弟姉妹、皆本当にクソだ。



そして3つめ。



母は貯金に80万円だけ残していた。

葬儀屋その他の後始末代として息子の負担を軽減しようと残していたのだ。


俺は全額もらうのが忍びなく、祖母に半額の40万円を渡した。

葬儀屋や親戚への食事代、交通費その他の後始末代で俺の分40万はすでに足が出ていたが、それはもうどうでも良かった。


喪主の勤めを果たしているだけだったから。



しかし、祖母は現金を受け取った後日こう言った。

「貰った40万円は家で失くした。いや、妹が盗んだ。いや、あんたが全部持っていったんだ!あの80万円を返せ!」



・・・もう、残念だった。



もう、この人達とは一緒に時を重ねていくことは出来ないと悟った。


自分と悲しみを共有できない浅ましい親戚達や、認知症が進み妄想を抱く祖母。


近い未来、世界中を旅するために俺が日本を発つとき、もう二度と連絡は取らないだろう。



昔、映画ゴッドファーザーで「血は水より濃い」というセリフがあったが、残念ながら俺には


「水(自分が一緒に汗を流して得た友人)は血(血縁)より濃い(絆)」だった。


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