2003年9月5日 last 5 day
今日ようやく訪問入浴サービスが来てくれた。
男女の若い介護士2名と訪問看護ステーションから所長も来てくれ、すごく頼もしかった。
すげーよな、あれ。
リビングの母のベッドの横にでかい浴槽を持ってきて、注水と排水をいっぺんにやって、みんなでわさわさ洗ってくれる。
母はもう自力での身動きも困難なので、お任せ状態だった。
すごいのは所長がちゃんとお湯の温度と入っている時間をメモって、体力の消耗を計算していたことだ。
次回入る時今回の状態と照らし合わせて、より負担が少ないようにするためとのことだ。
「すごいですね、さすが所長」と伝えたら「ふつーだよ」と返されてしまった。
母は弱々しく小声で「サイコー・・・」と言っていた。
介護士さんが「その一言がとても励みになります、ありがとうございます」と丁寧に接してくれたことが嬉しかった。
また、所長から「エアーマットとはいえ、寝ている時間が長いからパジャマのしわ一本が苦痛になってくる」とのことで、早速教えられたようにシルクのパジャマを買ってきた。
シルクのパジャマは確かにしわが出来にくく、伸ばしやすい。
母も快適なようだった。
さすが所長。
入浴はおそらく体力の落ち方からして今回限りだと思うが、所長と施設長が相談してくれ、入浴料を介護保険適応にしてくれ1100円ですんだ。
まじですげーよ、所長。
それに驚いことに所長から「家族の死を迎えるに当たっての心構えとして」と言う小冊子を頂いた。
そこには、在宅で家族の死を看取るうえでこうした方がいいって内容や、がんのターミナル期に起こる心身の症状について優しく書いてあった。
読みやすく、「これ、すげーわかる!あるある」ってことが書かれていた。
「あ!あれそうだったんだ!」みたいな。
精神症状は結構出るもんだというのを読んで、少し気持ちが楽になったりもした。
そうなんだーと。
これは俺よりまず祖母に見せてやりたい。
心構えが必要なのは祖母だからなぁ。
それにしても世の中には色んなもんがあるんだなあと改めて勉強になった。
札幌に帰ったら職場のみんなに見せよー。
母の望むこと、可能な限り叶えてやりたいがそろそろ希望も言えなくなるのだろう。
段々すでに言葉では伝えきれなくなってる。
何を望んでるか俺自身が心で感じとることが必要になってくるのだろう。
できる限り汲み取って、安らかな時間を増やしてあげたい。
2003年9月6日 last 4 day
最近ずっと寝不足だ。
夜中におむつ交換をするため起きなくてはならないし、母の声に対してすぐに行ける様常に緊張してるせいか夜も眠りが浅い。
体がそわそわして寝付けない日も多い。
日中だるくて午睡したらますます夜は寝付けなくなってしまう。
困った、辛い。
昨日はついに朝まで徹夜してしまった。
しかも朝方も全然眠くならない。
母も休んでいたので早朝にコンビニにビールを買いに行って、一人で公園で飲んでたら身体がすっかり寒くなってしまった。
でも、静かな一人の時間として悪い感じではなかった。
結構好きかも。
今日午前中珍しく母から祖母に電話をした。
「そろそろ来てくれ」と。
祖母も勘が働いたようで、そろそろ行こうとしてたようだ。
祖母は恐ろしく勘が良いからなぁ。
実際来てくれたら俺もいくぶん助かった。
少しの間母を任せて安心して眠れたし。
母も安心するのだろうか。
いまいちわからないが、自分から呼んだってことはそういうことなのかな。
もうベッド上で姿勢を保持する力が無くなってきている。
食事も相変わらず口にしてない。
もう2週間近く絶食している。
時折口に含んでいた氷もなめなくなってきた。
いよいよ尿量も少なくなり、尿の色もかなり混濁してきている。
まだ下血してないのでそこは大丈夫だろうけど。
唇の乾燥も痛々しい。
まさに「人間の死に至る過程」をまざまざと見せ付けてくれる。
文字通り「命がけ」で。
一人ではどんどん不安や恐怖心が募るなか、祖母がきてくれて良かった。
なかなか伝えられないけど、ありがとう。
2003年9月7日 last 3 day
札幌から俺の友人がきた。
2、3日前「母の状態を伝え札幌にある俺のアパートのポストをチェックして整理してほしい」と電話したら予告なくいきなりだ。
「先生に会いたい」と希望したが、申し訳ないがお断りした。
もう、母はすでに誰かに会える様子でも状態でもなくなってる。
考えて見ればそいつとは母の経営する塾で一緒に勉強してた時から付き合いだから、もう10年もの腐れ縁だ。
母はそいつのことを「素直でいい子で私は好きだ」といつも俺に言っていた。
そんな母の気持ちが伝わったんだろう。
昔からとても良く慕っていた。
一緒に元町地区を散歩して、母の意識がはっきりしてる頃教えてくれたカレー屋で昼飯を一緒に食べた。
そいつにとっても最期の別れとなるので母に会わせてやりたかったが、やはり仕方ない。
母は親戚も自分の友人もずっと面会を断り続けてるぐらいだし。
やはり、伝えたいことは互いに元気なうちに伝えることが何より大事なのだろう。
いつまでも元気でいるというのは、あり得ない。
人間は、死ぬ。
それが痛いほど良くわかった。
死に至る過程の中では切ないほど、何も出来ない。
意識がある内にこそ、日頃から感じることを伝えないといけない。
なかなか難しいよなぁ。
でも、そうしないいけないということが今回よくわかった。
突然来た友人は散歩中に4つ葉のクローバを見つけた。

それをティッシュに包んで、「先生の枕元に」とくれた。
それに札幌からゼリーやヨーグルトを「もし食べられたらと思って」と、持ってきてくれた。
確かに優しいやつだ。
母の枕元に置いてその旨伝えるが、すでに母は返事も出来なくなっていた。
声も出せず、目を伏したまま時々苦痛に顔を歪めるのみだった。
2003年9月8日 last 2 day
全身の肌は乾燥し、上半身は骨と皮。
下半身は異常な浮腫で腰部まで腫れ上がってる。
骸骨のようなその顔で口と眼は常時半開き。
呼吸も苦しそうに大きく肩でしているが意識はすでにない。
唇はひび割れ濡れガーゼで湿らせても効果なく、半分開いた眼から覗く瞳は虚ろに宙を泳がせている。
問いかけにも返事はなく、時々痛みでうめくだけ。
それでも、うなずくときはある。
理解してくれているかは怪しいが。
けど、すぐにそんな反応すらも消える。
手を握っても握り返すことはない。
自力で身動きも出来ず、2時間おきぐらいに体位変換するがそのたびに痛がり、呻き声を上げる。
ずっと寝たきりなので腰が痛いようだ。
さすればうめき声がやむ。
しばらく口には殆ど何も含んでいない。
氷を入れても飲み込んだり噛めない為、気管に入る恐れもある。
意識がほんの少しあるとき、ストローで水を少量ずつ吸い上げて口に流し込むだけ。
尿量も1日200ml以下で、尋常な色じゃない。
赤紫というか、青紫、臭いもかなり強い。
尿バックに赤紫の色素が沈着するぐらいだ。
便も出なくなっている。
括約筋が弛緩して肛門は開きっぱなしでもだ。
もはやおむつ交換をしても、快・不快の反応もない。
苦痛を感じる感覚も麻痺してきている為か?
何も出来ずにただ側にいる。
眼を背けたくなるその残酷な姿をただ眺めていたら、無性に腹が立ってきた。
なんで母はこんなに苦しそうな姿にならなきゅいけないんだ。
ふざけんな、何なんだよ一体。
どうしてこんなになるまで苦しまないといけないんだよ。
何したってんだよ、母は。
それとも俺が何かしたのか?
まじで悔しい、だれに怒りをぶつけりゃいいんだ。
くそ、ちきしょう。畜生!
ばかやろう。
ちきしょう。
ちきしょう。
初めて運命というか、抗えない大きな力を呪った。
今までわかった風なこと言ったり、振る舞ったりしてきた。
「だって、皆通る道じゃん。親が死ぬのって」
「仕方ないじゃん、人間なんだもん」って。
そんなことは今だって百も承知だけど、俺は今までこの理不尽な怒りや思いをずっと見ないよう、気づかないようにしていた。
恐いから。
でもさ、やっぱり腹立つんだわ、もう偽れない。
なんでだよ、なんなんだよいったい!
って思ってたら悔し涙が出てきた。
悔しいのか、悲しいのかも、もうよく分からない。
ひとしきり涙が出たら、どっと何もやりたくなくなってきた。
疲れた。
もう疲れた。
休みたい。
でも、まだだ。
けど、訪問看護ステーションの所長がきたので一緒に母の身体的ケアをしていたら、もうちょいだけ頑張ろうと背中を押された気になった。
一緒に声をかけながら着替えさせたり、シーツを変えたり、顔や口拭いたり・・・
母はもうされるがままだ。
意識も定かではない。
「切なくてもしっかりしなきゃ最後まで」と所長は教えてくれた。
言葉ではなく、母をケアする背中を通じて。
そして、「なかなか自分の親のしもの世話は出来ないものだよ。辛いからね。あんたはよく頑張っているね」と言ってくれた。
その言葉を支えに最期まで看取ります。
神様、ここしばらく祈ったりしてなかったけど、お願いします。
どうか母に安らぎを与えてください。