学生時代から、自分の周りや雑誌、ネットなどで、「中絶」の話を見たり聞いたりするたびに、不快な気持ちになっていた。
同じ女性として、軽蔑さえしていた。
まさか自分が当事者になるなんて、思いもよらなかった……。
この話は、胎盤が1つにつながった三つ子を自然妊娠し、NICUが足りないこと等を理由に複数の病院から受入を拒否され、最終的に中絶を選んだ私が、その経緯、その後自分の身に起こった事です。
正直、書くべきかすごく悩みましたが、誕生すれば2億分の1の確率の妊娠という体験をしたからこそ、伝えられることがあるかもしれない、そう思い投稿しました。
【前篇の全文字数:約13,000字】
1.妊娠発覚、しかも双子!?
2.双子確定、しかし……
3.出産できる病院探し
4.2週間後、エコーに映ったもの
5.地域周産期医療センターへ
6.「うちでも受け入れられない」
7.元気な子どもが産まれる可能性は、ほぼゼロ
8.三つ子に会いたい
9.出産しても、死産でも学会もの
10.母体のリスク
11.「四つ子がいるんです」
12.帰っておいで
13.T産婦人科に戻る
14.現実は甘くない
15.2007年9月6日
16.追い打ち
1.妊娠発覚、しかも双子!?
妊娠が発覚したのは2007年6月。お互い27歳の時だった。
2006年に結婚し、1年が経っていた。
夫は調理師。調理師を派遣する会社に勤務し、ある病院で副主任を務めていた。
前に勤めていた職場の同僚の紹介で付き合いだした。
「いいやつなのに、女性に奥手すぎて、この3年彼女が居ないやつがいる」と。
彼は、朝6時から夜6時まで働き、休みはほとんどなく、給料は手取り15万円だった。
しかし、私もIT関連企業に勤めており、育児休暇の取りやすい職場なので、2人で力を合わせれば、何とかなると思っていた。
私が診察にいったのは、Iという産婦人科だった。
そこは駅から徒歩2分で、夜8時まで診察しているので、仕事をしながら通うのにぴったりだった。ネットの口コミで評判がよいのも決め手だった。
うちには車がないので、駅近という条件は外せなかった。
内診台に上がる。妊娠5週だった。
I医師「おお…たまごの黄身が二つあるねぇ」
私「き、黄身?」
I医師「一卵性の双子の可能性があります。」
エコーには、確かに白い丸が二つ、ちょんちょんと見える。

双子の可能性というのは、まったく考えたことがなかった。
夫の親族にも、私の親族にも、知る限り双子がいないからだ。
子供の頃、「ミラクル☆ガールズ」という双子が活躍する漫画が大好きで、双子に憧れていた私は、思わず「やったぁ」と笑顔になった。
念のため、1週間後にもう一度診察することになった。
これから子供が生まれて、保育園を探して、たまの夫の休みには遊園地にでかけて、いつか家を買って…。
そんな「あたりまえ」の未来が、確実にくると、信じていた。
2.双子確定、しかし……
1週間後、I産婦人科へ。
妊娠6週、やはり双子だった。
I医師「楽しみですねぇ!」
私「はい!」
I医師「でも申し訳ないですけど、うちでは出産できませんから」
私「え、ええっ!?」
一卵性双生児というのは、本来1人分の部屋に、2人入り込んでいる状態。
帝王切開の確率は約9割、早産の確率は約8割。
設備の整った病院での出産が必要とのことだった。
さらに、私の住む市には、それだけの設備がある病院は無い、ということもわかった。
一応、人口20万人の、そこそこ大きな都市なのに……。
紹介してもらった大学病院は、バスと電車を何度も乗り継がないと行けない場所だった。
双子はいいな、羨ましいと思っていたが、まさかそのようなリスクがあるとは……。
早くにわかってさえいれば、出産する場所なんてどこでも選べると思っていた。
夫は、
夫「まぁ何とかなるってー。てか双子やばいな。もうパチンコできないな。打ち納め行ってくる!」
と、のんきなものだ。ていうか、何度目の打ち納めなんだろう…。
3.出産できる病院探し
それから、私の病院探しが始まった。
念のため、市で一番大きな病院にも電話をかけてみる。
しかし、双子のキーワードを出した途端に、「もうベッドがいっぱいで」と断られてしまった。
他の病院にも電話をかけるが、同じような理由で断られる。厳しい。
夫の学生時代からの友人は、隣の県で一番大きな病院を提案してくれた。
夫の友人M「日本一の病院だから! 俺の知人が妊娠したあとに難病にかかって、ここに通ってたんだ。」
そこは、夫の実家の市内にあった。
・多胎外来がある。
・母性内科というものもある。
・NICUだけでなくMFICU(母体胎児集中医療室)という施設もある。
・小児科も細かく分かれて10以上あった。
という、すごいところだ。
電話をしてみると、とにかくすぐに受診してくれという。
しかし、私はここで、躊躇してしまった。
結婚して1年、まだまだ夫の両親に頼るには、遠慮があったのだ……。
妹を取り上げてくれた産婦人科へ
そうこうしているうちに、実母が妹を出産したT産婦人科にコンタクトを取ってくれた。
そこは個人の小さなクリニック。
9歳差の妹を取り上げてくれた医師はまだ現役だった。
「うちの娘が、一卵性の双子を授かったんですが、なかなか受け入れてもらえる病院が見つかりません。先生どこか良い病院をご存知でしょうか」
母が尋ねると、
T医師「うちでも出産できるかもしれません。一度見せに来てください」
との、ありがたい申し出!
正直、個人の病院での出産は無理だと思っていた。
さっそく、診察を受ける。
T先生はすっかりおじいさんになっていたが、優しそうな雰囲気があり、私はリラックスして受けることができた。

写真は9週。大きさはどちらも18.2mm。心音も無事確認。
T医師「100%うちで面倒見るとは言い切れませんが、うちの病院でも出産可能です。今までうちで、双子で大学病院に搬送したことはありません。 」
私「本当ですか!? よかったぁ!!」
T医師「ただし、臨月まで持たせるために、子宮を縛る手術が必要です。2週間後にまた来てください。いつ手術をするか決めましょう。」
私「は……はい!(痛そうだけど、頑張らなきゃ!)」
T先生いわく、私は「二絨毛膜二羊膜双胎(にじゅうもうまくにようまくそうたい)」というパターンとのことだった。
・二絨毛膜二羊膜双胎…胎盤が2つ、赤ちゃんのお部屋が2つ
・一絨毛膜二羊膜双胎…胎盤が1つ、赤ちゃんのお部屋が2つ
・一絨毛膜一羊膜双胎…胎盤が1つ、赤ちゃんのお部屋が1つ
もし、胎盤が1つだと、栄養や血液を1つのルートで分け合わないといけない。
そして双体間輸血症候群といって、血液の供給のバランスが崩れ、片方の赤ちゃんに血がいきわたりすぎ、もう片方の赤ちゃんには血がいきわたらない…そんなことも発生するらしい。
また、片方の赤ちゃんが残念な結果になってしまった場合、もう一方の赤ちゃんも影4響を受けてしまう。
さらに、お部屋が1つだと、お互いのへその緒が絡まって危険らしい。
T医師「二絨毛膜二羊膜双胎は、一番リスクが少ないパターン。十分、うちでも出産可能です。」
とのことで、ひとまず安心した。
子宮を縛る手術というのは想像もつかないが、とにかく出産できる病院が決まり、私は安堵し、性別もわかっていないのに、名づけ辞典を買って名前を考え出した。
夫「お、この漢字、格好いい! あ、こっちもいいな! これにしよう、彪(ひょう)と羚(れい)!」
私「お、おう……」
まぁ、まだ出産まではあるし、ゆっくり考えよう。
とりあえず、胎児ネームは「とんきち・ちんぺい・かんた」になった。
この時点では、事態を深刻に捉えてはいなかった。
4.2週間後、エコーに映ったもの
2週間後、私はT産婦人科に足を運んだ。
私「先生、二人とも心臓ちゃんと動いてますか?」
T医師「うーん、動いてはいる。が…」
私「えっ、何かあるんですか? 成長してないとか?」
T医師「そういうわけではないんだが、これは……三つ子だなぁ……」
なんと、エコーには三つ子が映っていたのだった。

4.1センチ。
3.7センチ。
3.8センチ。
T医師「申し訳ないけど、うちでもさすがに三つ子は無理だ…」
私「そ、そんな…」
私の病院探しは、11週で振り出しに戻ってしまった。
先生は、隣の市にある、A地域周産期母子医療センターに指定された病院への紹介状を書いて私に手渡した。とりあえず来週もT産婦人科で検診を受けることに。
特に不妊治療をしていたわけではない、自然妊娠だ。
なぜ、このようなことになってしまったのだろう……。
思わず涙ぐんでしまった。
夜、夫に説明したところ、
夫「お、俺、ちょっと外の空気吸ってくる……。」
と、ふらふら外に出て行ってしまった。すぐに帰ってきたけれど。
彼も、かなり動揺しているようだ。そりゃそうだ、いきなり3人のパパになるんだもの。
翌日、とりあえず母子手帳を3冊もらいにいった。

書く欄が3倍で大変だが、頑張ろう。
12週
翌週、夫と実母と3人でT産婦人科へ。
3人でエコーを見せてもらう。
3つ子のうちの一人の動きが弱いとのことだった。心配。
先生からは、A医療センターでの受け入れ体制が整ったこと、8月末に子宮口を縛る手術をし、9月から入院になるとのことだった。
ちょうどオーストラリアで一卵性の三つ子が生まれたニュースが流れ、私を勇気づけた。
オーストリアで一卵性の三つ子誕生、確率2億分の1
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-27290420070809
しかし、ニュースになるのは、成功するケースが極めて稀だからであり、その陰で泣いている人もたくさんいるのだということにまでは、私は思い至らなかった。
夫は
夫「事情を話して、給料を何とかあげてもらえないか、会社に相談してみる。」
と言ってくれた。頼もしい!
本当は、給料よりも、休める職場に転職してほしいとも思うが、そのつもりはないようだ。
夫曰く、「飲食はどこもこんなもんだ」とのことだった。
それに、夫なりに、現在の仕事にやりがいを感じているらしい。
13週
T産婦人科で検診。本来ならそろそろ検診も1ヶ月に1回になる頃だが、私の場合は毎週通う。
しかし、子供に会えるので苦にはならない。
今週は、動きが弱いといわれていた子も含め、3人とも元気で一安心。
しかも、二卵性+一卵性の三つ子の可能性もあるそうだ。
それならリスクも下がるし、性別も分かれるかもしれない。
もちろん、元気に生まれるなら同じ性別でも構わないのだが……。
しかし、尿検査の結果を見たT先生の顔が、急に曇った。
T医師「蛋白と潜血、両方とも++だな……」
私に妊娠中毒症の兆候が見られるとのことだった。
腎臓が弱ってきているらしい。
次週、いよいよA地域周産期医療センターに向かうことになった。
驚いたのは、夫が勤務中に電話をかけてきたことだった。
仕事に真剣な夫が、勤務中に電話をかけてくる事など今までになかった。
夫「元気ないって言われてた奴、どうだった!?」
よほど、心配だったようだ。3人とも元気だと伝えると、「おっしゃ!」とても喜んでいた。
まだ性別はわからなかった。早く知りたい。
5.地域周産期医療センターへ
14週。A医療センターへ。
そこは、職場からは1時間くらいのところにある。
朝9時に予約したので、午後から会社に行くつもりだったが、結局15時までかかってしまった。
血液検査はT産婦人科で受けていたが、検査項目に不足があるとのことで、結局やり直しになってしまった。
他にも、心電図をとったり、鎧みたいなものを着てレントゲンをとったりした。
検査後、若い女の先生から、手術についての話を受ける。
それから、出産後のこと……。
A医師「うちの病院では、一人の赤ちゃんしかNICUでお預かりできません。二人は別の病院のNICUに入ることになります。」
私「えっ、受け入れ体制が整ったって聞いたんですが……。」
A医師「それはお母さんの話です。これはどこの病院でも同じです。」
私「……。」
A医師「当院は緊急時の搬送先に指定されています。その時のためにNICUを空けておく必要があるんです。」
頭ではわかるのだが、なんだか自分たちが後回しにされているようで、納得できなかった。
県内でNICUがある病院は、ごく限られる。
遠く離れた病院に母乳を届けなければいけない。
もちろん、3人一緒に退院する可能性は低いだろうから、そしたら、退院した子の面倒を見ながら、母乳を届けなければいけない。
休みがほとんどない夫を頼ることは、できない。
私に、そんなことができるのだろうか。
仕事は、続けられるのだろうか。
私に、3つ子を育てることは、できるのだろうか……。
初めて、私は自信を無くしかけていた。
手術の日は、夫が休みを調整して、付き添ってくれることになった。
その3日後、私はA医療センターに呼び出されることになる。
「明日病院に来ることはできますか? ご相談したいことがあります。」
いやな予感がした。そしてそれは当たってしまった。
6.「うちでも受け入れられない」
翌日の夕方、私は仕事を早退して、A医療センターに向かった。
そして、検査の結果、A医療センターでも、私は受け入れ不可と、告げられた。
私「なぜですか? 3つ子でもそちらで出産できるって話だったじゃないですか!」
A医師「あなたのケースは「一絨毛膜三羊膜品胎」です。非常に珍しいケースなんです。うちでは出産は出来かねます。」
私「前の病院で双子って言われてたときは、二絨毛膜って言われたんですが……。」
A医師「今のエコーでは限界があります。週数が進まないとわからないこともあります。」
そういって、担当の先生はさらさらと紙に図を描いた。

T先生は「品胎」という言葉を使わなかったため、ここで私は、3つ子のことを「品胎」と呼ぶことを初めて知った。
余談だが、四つ子は要胎、五つ子は格胎というそうだ。なぜかはわからないけど。
そしてWikipediaにも載っていないが、六つ子は「晶胎」らしい。
T産婦人科では二卵性かも、という話も出ていたが、結局は一卵性だった。
そして、私のケースでは、「品胎間輸血症候群」が起こる可能性もありうると。
T先生から受けた説明を思い出した。当時は、関係がないと聞き流していたが…。
治療法としては、レーザーで胎児の間をつなぐ血液を焼き、胎児の血液が偏るのを防ぐ必要がある。

そういった手術が、A医療センターではできないとのことだった。
私「どこの病院であれば、そのレーザー手術ができるんですが?」
A医師「H病院があります、県内で「唯一」のハイリスク妊婦専門の病院です。」
私「えっ、さすがにそこは遠すぎる……。」
A医師「そんなことを言っている状況ではないですよ! 子供のことを考えて!」
考えてるよ!! 私はそう叫びたかった。
考えてる、考えているけど……でも、こんなに選択肢がないなんて。
その病院は、私の家から車で一時間以上、夫の実家からだと、逆方向なので二時間はかかるだろう。
7.元気な子どもが生まれる可能性は、ほぼゼロ
H病院への転院を躊躇する私に対し、先生は、私がこれまで予想だにしていなかったことを口にした。
A医師「正直に言いますが……あなたが無事出産しても、普通のお母さんが授かれるような、大きくて元気な赤ちゃんを授かれる可能性は、ほぼゼロです。赤ちゃんたちには、何らかの障碍が残る可能性があります。」
私「えっ、そんな……。」
A医師「ですから、小児科も完備しているH病院をおすすめしているのです。」
愚かなことに、私はそれまで、何の疑いもなく「元気な三つ子」を授かれるとばかり考えていた。
だから、ベビーカーはどうしようとか、(双子用ベビーカー+抱っこ紐で考えていた)あと、名前はどうしようとか。
自分の子どもが障がいを持つという可能性を、まったく考えていなかったのだ。
混乱しながらも、私は小児科、というキーワードから、夫の友人のMさんに教えてもらった病院を思い出した。
あの病院も、確か小児科がたくさんあったはず……。
私「夫の実家が、隣の県なんです。あちらには病院はないですか? うちの県より大きいし……。」
食い下がる私。
誰にも頼れない場所に行くぐらいなら、夫の実家のそばで出産したい……。
先生は、その場で何か所か電話をかけてくれた。
しかし、その病院、それから隣の県の県庁所在地にある医療センター、国立の権威ある大学病院……。
すべて、受け入れを断られてしまった。
H病院よりは近い県内の大学病院にも掛け合ってくれたけど、だめだった。
絶望する私に、先生が尋ねる。
A医師「……どうしますか?」
そのとき、私の脳裏に浮かんだのは、最悪の選択肢だった。
でも、断られ続けることに、私はすっかり疲れてしまった。
一人でも育てられるか不安なのに、3人も育てられる?
しかも、3人とも障碍を持つ可能性があるのに、育てられる?
幸せにしてあげられる自信はある?
それなのに、私は産むの……?
心の声「まだ27歳じゃない。次はきっと単体の、元気な赤ちゃんを授かれるよ!」
悪魔のささやきが聞こえる。
でも、中絶すると、妊娠しづらくなるという話もある……。
そのとき、私は、夫の結婚前の言葉を思い出した。
夫「もし、俺たちが子どもを授かれなかったとしても、二人で楽しくやっていこう!」
帰って夫と相談する……そう、先生に伝えて、私は病院を後にした。
8.三つ子に会いたい

私は、そのまま、電車に乗って夫の職場に向かった。
誰もいない家に、帰りたくなかった。
今までになかったことなので、夫は驚いていたが、私のただならぬ様子を察知したのか、何も言わなかった。
家に帰り、私は夫に、私はもう頑張れない、という話をした。
夫は、私の話を黙って聞いていた。
いつもは、「お前の好きなようにしたらいい」というスタンスの夫。
しかし、その日は違っていた。
夫「俺は、三つ子の顔がみたい。」
私「……」
夫「週1ぐらいしかお見舞いに行けないし、お前にばかり苦労をかけて、自分は何も出来なくて申し訳ない。」
私「……。」
夫「でも今、子どもを諦めると、俺たち二人は一生苦しむことになる。それより、俺は生きてみんなで苦労する道を選びたい!」
私「……ありがとう……!」
子供のために、休みを調整して検診に付き添ってくれた夫。
仕事中に電話で様子を確認するなど、いつも気にかけてくれた夫。
やっぱり、頑張って産もう。そう思った。
翌日、私はA医療センターに足を運び、H病院への紹介状を書いてもらった。
さらに次の日、H病院病院へ行くことにした。
夫と義母が車で連れて行ってくれた。
しかし、私はそこで、今度は医者から直接「中絶」を勧められることになる。
9.出産しても、死産でも学会もの

H病院で私を診てくれたのは、初老の男性だった。
名札には「周産期医療センター長」とある。偉い人のようだ。
H医師「当院では、一絨毛膜三羊膜品胎の強い疑いを持つケースを扱ったことはありません。」
そう切り出す先生。
県内最大の病院で初、つまりそれは、県内で初、ともいえる。
出産しても、死産でも学会もの。
先生はそう言って、プリントアウトした2つの資料を私に見せた。
「一絨毛膜品胎に発生した胎児間輸血症候群の一例」とあった。
http://jsog-k.jp/journal/pdf/041020206.pdf
それは、23週で一人目が亡くなり、緊急帝王切開になったけど、残り二人も助からなかった、というケースだった。
もうひとつは、19週で二人が亡くなり、一人は生存したものの、重度の脳性麻痺が残った、というケースだった。(インターネットでは見つからず)
彼女たちも、妊娠した当初は、元気な子供を抱けると考えていたのだろうか、私のように……。
私「先生、何か治療する方法はないのでしょうか?」
H医師「とにかく安静にし、何事もない事を祈るしかありません」
私「それだけ……!?」
H医師「こども達の血液の量、羊水の量に差異が生じても、治療する手だても薬も何もありません。もし1人が亡くなったら、凝固した血液が、胎盤を通じて他の子に流れ込んでしまいます。とにかく、週数にもよりますが、何か異変があったら、もう外に出すしかありません。」
週末に、禍根を残さないよう、もう一度話し合い、来週月曜日に結論を聞かせてほしい、出産するつもりなら入院の準備をしてきてほしい、とのことだった。
そして、いったん帰ることになった。
帰り際、
夫「俺は、前に言った気持ちは、変わらないから」
夫はそう言ってくれた。義母も、できる限り力になると言って私の手を握った。
子どもたちは、15センチになっていた。
日曜日、戌の日のお参りに行き、腹帯をもらってきた。
話し合う必要など、ないと思っていた。
10.母体のリスク
月曜日、入院の準備をして私は再度夫とH病院に行った。
大部屋を希望したが、個室に通された。
しかも、ナースステーションの隣。
すぐそばに新生児室や分娩室があるため、携帯電話は一切禁止。そしてテレビもなかった。
夫と私を待っていたのは、センター長を含む、5名の医師だった。
そして、ついて早々に、また中絶の話。
先週は、胎児の危険に関する話がメインだった。
しかし、今度は「母体」に関する話だった。
まず、私の腎臓の機能が悪化していること。腎炎を起こしていて、このまま進行すれば、最悪、腎不全に陥るケースもあるとの説明を受けた。
また、子宮破裂し、子宮全摘出に至ったケースがあるとのこと。
正直、27歳で、まだ一人も出産していないのに、子宮全摘出のリスクを負う決断は難しかった。
そして、これから身体に3人分の重圧がかかることにより血栓ができる可能性の話も出た。
もしその血栓が、肺に入った場合は…。
手渡された資料には「致命的」とか「母体死亡」といった不穏な言葉が並ぶ。
さすがの夫も、一言も言葉を発することはできなかった。
H医師「同じ状況で、3人とも無事に生まれた学会資料を探しましたが、見つかりません。……この問題には、正しい答えなんてありません。」
医者の一人は、そう言った。
あなたは、間違ってはいませんと。
それから、診察を受けた。
3人とも、動いているのが見えた。
先生が、何かの機械を私の腹にあてた。すると、
「ポコン……ポコン……」
音がした。
それは、初めて聞いた、子供たちの心音だった。
私は声を殺し、肩を震わせて泣いた。
大粒の涙が、後から後からあふれて止まらなかった。
夫は黙ったまま、じっとエコーを見つめていた。
11.「4つ子がいるんです」
夫と病室に戻る。
夫はすぐに、「何件か電話をかけてくる」と言って携帯を片手に出て行った。
私も起き上がり、ふらふらと外へ出て行った。
渡り廊下に公衆電話があった。
私が電話をかけた先は、Mさんが教えてくれた病院だ。
先日、A医療センターで問い合わせてもらい、駄目だった病院。
私は、事情を説明し、何とか入院させてもらえないか頼んだ。
週末に、自宅にあるネットで調べたところ、その病院は、双胎間輸血症候群のレーザー治療の実績があったのだ。
しかし、やはり、結果はNO、だった。
私「どこにも行くところがないんです。どうしても、どうしても駄目なんでしょうか!?」
受付「……あなたとほぼ同じ週数の、四つ子の赤ちゃんの妊婦さんが入院しているんです。ですから、あなたの受け入れはできないんです。」
私は絶望し、無言のまま受話器を置いた。
そこから、どうやって病室に戻ったのかは覚えていなかった。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
救ってもらえる命と、誰にも救ってもらえない命。
その差はいったい、どこにあるのだろう。
もっと早く、あの病院に行けばよかったのかもしれない。
私はできるだけのことをしたつもりだが、全然足りなかったのかもしれない。
もちろん、そんなのは結果論にすぎないのかもしれない。
まさか、双子だと言われていたものが、いきなり三つ子になるとは思わなかった。
まさか、受け入れてくれるという病院に、やっぱりうちでは無理ですと言われるとは思わなかった。
まさか、県内で一番大きな病院に、中絶を勧められるとは思わなかった。
でも……重い後悔が、私の肩にのしかかった。
もちろん、日本全国を探せば、私を受け入れてくれる病院は、あるかもしれなかった。
しかし、もう期待して、断られるのは怖い。
それに、誰も頼る人のいない土地で、たった一人で入院し、重い障碍が残る可能性の高い子どもたちの出産を待つ勇気も気力も、私にはなかった。
夫を放って、何か月間も入院するなんてできなかった。
それに、もし生まれても、どうやって生きていけばいいのだろう。
一気に障碍を持つ三つ子を抱えて暮らすだけの余裕など、我が家にはなかった。
重度の脳性麻痺となると、寝たきりというケースも出てくるそうだ。
もしかしたら、寝たきりの子どもを3人抱え、生涯世話をしなければいけないかもしれない、ということだ。
普通の子育てみたいに、どんどんできることが増えてくることもない。
一生、私に笑いかけてくることは、ないかもしれない。
共に成長を喜び合うことは、一生できないかもしれない……。
正直なところ、私には具体的なイメージは沸かなかった。
しかし、おそらく、私は仕事を続けられないだろうことはわかる。
そして、夫の給料だけで生活していくのは無理だということも……。
2億分の1の確率にかけることは、私にはできない。
12.帰っておいで
しばらくして、夫が戻ってきた。
私はベッドから身体を起こし、話を切り出した。
私「あのね、私ね……」
夫「おろすんだろ?」
私「まだ、何も言ってないよ?」
夫「だから、さっき泣いたんだろ?」
反論、できなかった。
心音が、聞こえる。
普通の妊婦さんなら、喜んでしかるべき場面で、私は泣いた。
それが、すべての答えだった。
夫「うちの親と、お前の親に、俺から全部説明しておいた。」
私「ありがとう……。」
夫「両方とも、意見は一致していたから。お前の身体が一番大切だから、お前を優先しろと言っている。」
私「そっか……。」
夫「俺も、同じだ。」
私「ごめんなさい……。」
夫「謝る必要はないよ。じゃあ俺、今日はもう帰るから。」
私「うん、気を付けてね。」
夫は背を向けて、出て行った。
しばらくして、看護師の女性が、体温計やカルテ等を持って、部屋に入ってきた。
血圧を測るためのバンドを私の腕に巻く彼女に、私は彼女に中絶する旨を伝えた。
私は、まったく胎動を感じていなかった。
もし、胎動を感じていたら、どうなっていただろうか。
お腹に手を当ててみたが、返事はなかった。
退院
翌日、中絶の旨を伝えた私に対し、医者はこう言った。
H医師「一日も早く退院し、手術をしてもらってください。」
私「え? ここで手術してもらえるわけじゃないんですか?」
H医師「うちでは中絶手術はできないことになっています。」
中絶できない病院なのに、中絶を勧めるの!?
怒りでかっとなり、手が震えそうになる。
私「さんざん中絶しろと言っておいて、いざ患者が中絶を決めたら手術はできない? また自分で探さないといけないんですか?」
H医師「いえ、探す必要はありません。こちらから、あなたが受診していたT先生に連絡を取りました。引き受けてくださるそうです。明日にでも来てくれとのことです。」
2つめに受診したT産婦人科の先生が、私の中絶手術を担当することになったとのことだった。
私は、妊娠16週に入っていた。
私は中絶について、保健体育の授業程度の知識しかなかったのだが、手術方法は、12週を境に大きく変わるそうだ。
95%の中絶手術が、この12週までに行われる。
その後は、中期中絶と言って、お産と変わらないやり方になるそうだ。
そのため、中期中絶を断る病院は多く、できる病院はごく限られるらしい。
T産婦人科も、本来であれば引き受けないが、事情が事情なので、ということだった。
H医師「今回は、ごくごく稀なケースでした。あなたの母体には以上はありません。次に妊娠するときは、きっとリスクのないお産ができるはずです。もしどうしても不安であればうちでも検診しますので、来てください。」
私は、H病院をあとにした。
13.T産婦人科に戻る
翌日、私は自分の両親に付き添われ、T産婦人科を訪れた。
T先生は、いつにもなく暗い面持ちだった。
T医師「昨日、H病院から連絡を受けたあと、私もいくつかの病院に電話してみた。しかし、受け入れてくれる病院はなかった。」
私「そうでしたか……。」
T医師「本当に、中絶するのか? それで納得しているのか?」
私「……」
答えない私を見たT先生は、ひっつかむように受話器を取った。
そしてH病院に電話をかけ、私の対応をしたセンター長の男性を呼び出した。
T先生は、しばらく電話をしていた。
だんだん、T先生の声が荒くなるのがわかった。
T医師「この人は、出産を希望しているんだ!! 日本には、彼女を救える病院はないのか!?」
T医師「何とか……何とかしてあげられないのか!? どうにもならないのか!? どうなんだ!?」
T先生の声は、震えていた。
私は泣いた。
母も、そして普段は涙を見せない父も、泣いていた。
私「先生、もういいです! お気持ちだけで十分です!」
私は叫んで、T先生の電話を遮った。
T先生は、諦めて受話器を置いた。
父は、涙ながらに、T先生に取り上げてもらうことはできないのかと尋ねた。
T医師「出産だけなら、私のところでもできます。しかし……産まれた赤ちゃんを受け入れる先がないんです。」
T医師「それに、腎機能の低下も心配です。腎炎を起こしています。私も取り上げたい気持ちはありますが、母体に危険が迫っているのは事実です。」
そして、T先生は力不足で申し訳ないと言って頭を下げた。
私も、こちらこそお世話になりますと頭を下げた。
翌日、手術することが決まった。
14.現実は甘くない
私は、中絶のやり方について、「普通のお産と同じようになる」と聞かされていた。
しかし、出産経験のない私には、それが具体的にどんなものなのか、よくわかっていなかった。
普通のお産と同じということは、16週の自分の身体に、無理やり陣痛を引き起こさせるということだ。
もしそのことをイメージできていれば、私は中絶を断固拒否したに違いない。
それくらい、その一部始終は、強い痛みを伴うものだった。
まず、すぐに、陣痛を引き起こすための前処置が行われた。
陣痛を促進させるための錠剤と、それにラミナリアという棒を子宮口に入れた。
白い、煙草みたいな棒。水を吸うと膨らむそうだ。
これが、合計8本入れることになった。
もちろん、出産経験のない私に、すんなり入るはずもない。
額に脂汗がにじむ。
まだ入れるの? え、もう無理! 入らないってば! やめて! と私は叫ぶ。
T先生には「力を抜け!」と言われるが、うまくできるはずもない。
一番辛いのは子供たちに違いない……。
子供たちは今、もっと痛い思いをしているかもしれない……。
そう思う余裕もないほどの痛みだった。
出血
処置が終り、私はベッドに横になった。
T病院は3階建てで、一般の入院病棟は3階だが、私は2階の個室に案内された。
お腹が痛い。
移動もままならないほどの痛みに、横になるしかできなかった。
陣痛促進剤を入れたので、その影響もあるそうだ。
ショックだったのが、分娩手術において、いっさい麻酔を使わないとのことだった。
私「え……麻酔なしなんですか……。てっきり麻酔を使うものだと……。」
T医師「麻酔をしてしまうと、いきむ事ができないだろう。麻酔を使うのは、初期中絶の場合だけだ」
今思えば、T先生は、次の妊娠・出産に影響を与えないよう、最大限の配慮をしてくれたのだと思う。
しかし、当時の私には、「初期中絶の場合は、麻酔で痛い思いをしなくて済むのに、なぜ望んで授かった私がこんな思いをしなければいけないのか」としか思えなかった。
初期中絶の痛みは経験したことはないが、年間何十万件もあると聞いたことがある。
繰り返す人もいる位なのであれば、そこまで痛くないのではないだろうか……。
と考えていると、ふと、トイレに行きたくなった。
立ち上がり、壁伝いにトイレに向かう。
そこで私は、自分が出血していることに気付いた。
思わず、立ちすくんでしまう。
それまでは、一度も出血はしたことがなかった。
なんだかんだ言って、それまでの順調だった、ということなのだ。
これは、私の流した血なんだろうか?
それとも……。
目の前が、真っ暗になる。
もしかしたら、問題なく出産できたのかもしれない……。
しかし、私の身体は、既に動き始めているのだ。「出産」に向かって。
もしここで私が中絶をやめます! やっぱり産みます! そう主張したとしても、もう後戻りはできないのだ。
もう、どうしようもない。
ベッドに戻った。
お腹が痛い。
痛くて眠れそうもない。
でもこの痛みは、きっと子供たちの主張なのだろう。
自分たちが、ここにいる、(もしかしたら「いた」かもしれない)ということの主張。
最初で、最後の主張。
そして、この痛みが消えるとき。
それは、子供たちとの「お別れ」のときなのだ。
そして、私にはこれからの人生があるが、この子たちにはもうないのだ。
痛くないはずがない。
痛くて当たり前なのだ。
私は、この痛みを、忘れないでいようと決めた。
※ 2/4に、後篇の下書きが消えてしまった事について、フィードバックから問い合わせさせていただいたところ、その日のうちに迅速にご対応いただけました!
素晴らしいサポートに感謝いたします。!