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14/1/22

ドッジボールで日本一になった小学6年生は「ビジネスにおけるチーム作り」のモデルを学んでいた

Image by Olia Gozha


だいたい15年くらい前の話です。私は地域の子どもたちで結成されたドッジボールチーム「ブラック・キャット・ボンバーズ」に加入していました。遊びではない「競技ドッジボール」です。

イメージできない方はお時間が許せば、2013年夏の全国大会決勝の動画をご覧ください。相手を負かすために本気でボールを投げ合うガチなスポーツです。私が記憶しているキャッチフレーズは「ドッジという名の格闘技」でした。


鬼監督のチームに入ってしまった


本題へ入る前に、ちょっと思い出話をします。

私がドッジボールをはじめたのは小学3年生のとき。友達に誘われるまま始めたのですが、その面白さにすっかり熱中しました。ところが1つ知らなかったことがあり、我がチームの清水監督は「鬼監督」として有名な人だったのです。いまよりも「体罰」などがもうちょっとゆるかった時代でした。

ビンタはされるわ、しょっちゅう怒鳴られるわ、もうほとんど「練習」と「しごき」の間のような、いうなれば「訓練」に近い日々が続きました。清水監督は、日中は交番に駐在するお巡りさんだったのですが、今は同じような指導はきっとできないでしょうね。

とはいえ、やっぱりドッジボールは楽しいから続けられましたし、なおかつ我がチームは結構な強さを誇っていました。東京都代表の常連にもなり、古豪と呼ばれていたのです。それも監督の熱心な指導の賜物だといまになって思います。監督の厳しさの裏にある優しさを、みんな小学生ながらにわかっていたのか、辞める人はほとんどいなかったと記憶しています。


小学6年生の時、全国大会出場。清水マジック、開幕。


いよいよ自分が最高学年の小学6年生になり、私はチームのキャプテンになりました。ところが、私の世代のチームは小柄な人が多く、豪速球を投げられるような選手もいませんでした。野球でもサッカーでも一緒ですが、体格が大きければそれだけ有利になるのは、ドッジボールでも同じこと。私たちは圧倒的に不利なチームだったといえます。

ところが、ここから清水監督のマジックが発動します。私がいまこのストーリーを書いているのは、そこから素晴らしい「仕事術」を学べるんだなぁと、ふいに思い返したからです。3つほど、エピソードを紹介させてください。


清水監督がやった3つのチームビルディング


1.監督は「お前らは全国で優勝できる」と言い続けた

今になっても根拠はわかりませんが、清水監督は口癖のように「全国で優勝するためには」「こんなところで止まっていたら全国では…」と、常に全国大会の話をしていました。東京都大会など優勝して当たり前といったくらいです。すると次第にチーム全員、「そうだ、全国大会で優勝するために頑張っているんだ」と何があってもまとまれたのです。結果、全国大会に出場できました。

【仕事で考えると】先陣を切るリーダーがブレずに大きな目標を掲げ、伝え続けることでチームの方向性を1つに絞っていた。そして、自信が足りないチームは「根拠のない自信」すら身につけて、前へ進んでいった。


2.監督は画期的な作戦をためらわずにやった

ドッジボールの基本作戦に「アタッカー」があります。投げるのがうまい子を何人か選んで、彼らに集中的に投げさせるのです。通常は1チーム12人中、2~3人くらいがアタッカーです。私のチームもアタッカー制度を導入していましたが、監督は全員にアタッカーをやるよう命じました。実力や球速の違いはあれど、チーム全員が誰とでもパスを回し、相手に当てられるように練習したのです。そうすれば、誰が投げても攻撃ができます。一応、試合ではメインのアタッカーが6人選ばれましたが、アタッカーがそんなにいるチームはありませんでした。当時では画期的な作戦だったといえます。

これが生きたのは全国大会。緊張からいつもより疲労が早い中、2人や3人でボールを投げ続けているチームは、当然にアタッカーが疲れます。ところが私たちは、うまくアタッカーを変えながら試合ができていたので、疲労を少なくできました。

【仕事で考えると】チームの総合力を見た上で、従来の戦い方ではない合理的な作戦を採用。意図を伝えた上で、全員が同じ動きができる代替性をもたせた。結果的に「誰かが抜けても穴ができない」状況を作り上げた。


3.監督は選手1人ずつに「手製の役割リスト」を渡した

ある日、監督に呼ばると、A4のコピー用紙の束を渡されました。中には「長谷川の役割」が書かれていました。監督が筆で書いたと思しき力強い文字です。その後、1人ずつ監督と面談。じっくりと「個人の役割」を試合のビデオを見ながら叩きこまれました。おそらく監督は、試合のビデオや練習の姿を見て、選手にそれぞれの役割を当てたのだと思います。

全員アタッカーから一転、今度は自分が試合でやらなければいけないことを守らせる。すると、責任感と共に「やるべきこと」が見えやすくなり、練習もその点を意識してやれました。


【仕事で考えると】戦力を適材適所に配置した上で、各々の作業を「見える化」した。基本のタスクリストを渡すことで、自分の役割を明確にさせ、チームとしてのあるべき姿に近づけていった。また、「一人ずつにオリジナルのリストを作った」ところから、リーダーへの信頼感がより強くなった。


第8回全日本ドッジボール選手権全国大会、優勝


迎えた全国大会。私たちのチーム1つずつ勝ち星を重ねていきました。どうにか決勝まで上り詰めると、相手は優勝候補と目されていた大分県のチーム。ここでまで、とてつもない豪速球を投げるエースアタッカーを武器に勝ち上がってきていました。

でも、試合をしてみると、その選手のボールはびっくりするほど速いとはいえませんでした。練習でOBの中学生や高校生が本気で投げる球を受けていたせいもあるかもしれませんが、明らかにそのアタッカーに疲れが見えました。

一方こちらは、変わらずの多人数アタッカー作戦。ボールもまだまだ生きていました。そして、ぎりぎりながらも戦いの末に勝ち、晴れて優勝を飾りました。監督を胴上げできて、本当によかった。

私の卒業後、チームは残念ながら入部が少なく、人員が不足して解散。監督も別の場所へお引っ越しをされました。でも、いま思い返しても、たくさんのことを学ばせてもらった、私の基礎になる体験だったなと思います。そしてその裏には、小学生だろうが大人だろうが関係のない、普遍的な方法論があったのだと感じるのです。

私が大好きだったチーム「ブラック・キャット・ボンバーズ」の名前をどこかに残しておきたくて書き始めたこのストーリー。まだまだ書けることはありそうですが、もうすっかり長くなったので筆を置きます。ここまでお付き合いくださり感謝です。

そして清水監督、本当に、ありがとうございました。

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