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14/1/18

高慢チキ社長が、引きこもりの無職になった後で見つけた「10年後の○○は見えないが、18ヶ月先なら知っている」という話。

Image by Olia Gozha


社長(実父)「お前、今日から社長な。ほれ、これ名刺。」

「・・?・・・?・・・おっさん、起きてるか?・・・?・」


朝いつもどおりに出社したら、そう言われ机上を見ると

そこには新しい名刺が10ケースほど置いてあった。


【代表取締役】


それが新しい肩書きらしい。


「で、誰がよ?」


13年前、入社して3年の一現場監督の私は全く予告なく、

ある朝抜き打ちで、小さいながらも地域密着型企業の社長に。

先代社長は実父。私は二代目になる。


(写真はイメージです。)


就任直後は自分に何が出来るか分からず、途方に暮れてた。

当時私は29才。ただのハナタレ小僧に過ぎなかった。


当時の社長からは何の予告もなく、

真新しく、インクの香りも清々しい名刺が

私のものであると理解するのに多少時間を要した。


混乱とは多少の時差を伴うのか、本当に困ったのは、

それから後だった。


「社長がすべき仕事?すべきでない事?」

「昨日までみたいに普通に現場に行けばいいのか?」


とにかく分からないから動く。

ひたすら動く。

それでも分からないから、他社の社長に聞く。

「社長業って何すればいいんですかね?」

他社の社長「社長ってのは遊ぶのが仕事だって!」

別の社長「社内一の営業マンだよ!」

また別の社長「自分が寝てても儲かる仕組みを作る人。」

・・・・・・・・・

立ち止まって考える。

「なるほど・・・・さっぱりわからん。」



今となっては諸先輩方の言葉の真意は理解できるが、当時の私には

さっぱり意味不明だった。


聞いても分からないから、動く。


「この会社は先代が裸一貫から育てた会社。周囲は必ず先代と俺を比べてくる。絶対負けれん!」


父と息子とは、こういったプライドのぶつかり合いが見えないところで

常にあると思う。だから、比較されて恥ずかしい思いはしたくなかったから、

必死だった。



そんな事を繰り返して数年が過ぎた頃、気づけば青臭いながらも

そこそこ社長らしくなってたらしい。

【ただの高慢チキ勘違い社長】

「頑張っていれば、何とかなるもんだな。」

責任ある立場のプレッシャーを、楽しめる…そんなちょっとした

余裕も出来た頃、おごりが出てきたのかもしれない。


儲かる仕組み作りを追い求めていた私は、従業員に委任することを

過剰に進めていた。委任はいつからか、放任になりやがて無関心に。

そのときの自分の心理には、


「少しでも自分が楽が出来ないか?」

そんな考えがあったんだと思う。


そんな小さなほころびから端を発し、少しづつ本当に少しづつだったが、

自分のおごり・甘さも乗じて業績も下がり始めた。


一度ほころんだ物は簡単には修復されない。


時期は重なり、世は政権交代。

政権与党一年生へバトンが渡り、更に業績悪化は急加速した。



遠回しではあったが、銀行からは暗に首の据え変え(社長交代)を要求された。

この遠まわしな言い方が、胃液を喉まで持ち上げ、吐き気を誘う。

普段から険悪な間柄だった実父の相談役からは、激しい叱責。

それも従業員が一堂に会した場で・・・


その時、自分の中で細く張り詰めた糸が、切れてしまうのがわかった・・

「自分はこの会社を本当に本当に誰よりも愛していたのに・・」



その瞬間から会社に対する感情が無になってしまった。

人が感情を断ってしまった状態。

私は感情なきロボットになってしまったのだ。

・・・・

・・・

・・

そして私は退籍を選択した・・




18ヶ月前、梅雨明け前の湿度の高い日の事だった。

虚無との対話

体外的なことも考慮してか、会社に籍を置いて、形式上肩書きを会長に…


そんな案もあったが、そんな飾り雛(びな)はまっぴら御免だった。

同業他社でも異業他社でも、そんな形式を受け入れた人は見たが、

自分にはとても受け入れ難い形だった。


社長から無職へ・・・

私は全てを失った。


肩書き

報酬

信用

自尊心

希望


世間的に見れば、特殊な場面展開だと思うが、この場面展開が、

人間をどんな心理状態に追い込むのか?


それまで、「どうにかならないか?」と、常々感じていた携帯への

鳴り止まない営業コールはパタリと止まった。


今まで機嫌を取るように接してきた出入りの営業マン。

街で偶然遭っても、それまでの最上級の挨拶から、

手のひらを返したように愛想程度の会釈。

なかば相手の嘲笑を感じたのは、気のせいではなかったと思う。

それは腹立たしかったのだが、まあいい。

でも同世代の仲の良かった社長や、仲間からの通常のコールも

鳴る事はほぼなくなったは想定外だった。

そして私は気づいた。


「私は【代表取締役】という、肩書きの上にだけ、形成された

 哀れな存在だったのだ。」

ただただ情けなかった。

悔しさよりも情けないという感情が、数十倍上回っていた。

「自分は頑張っている。青二才ながらも、会社を、

 従業員を引っ張っているんだ!」

そんな唯一のプライドは妄想に過ぎなかった。

それから私は人と接することを避けるようになった。

知人と顔を合わさないように。

知り合いと合う事が、蔑(さげす)まれているようで怖くなった。

遥か南の島で、波と風が気づかせてくれたこと

希望せず無期限の時間を手にしてしまった私は、誰とも会わなくなった。

外出を避けているのだから、誰とも会うはずがなかったが・・・



それでもこのまま腐っていく自分を体感するのも嫌気がさしたのか、

しばらくして母とゴルフに行った。

典型的な亭主関白な我が家では、母は何も文句を言わず寡黙に日々を

過ごしてきた。何度か影で泣いているのも見たこともある。


ゴルフはそんな生真面目で倹約家な母の、唯一の趣味だった。



それにあまり外出せず、内に篭るようになった自分を

ひどく心配している様が分かっていたから。



人生初の母と息子のゴルフで、母がどう感じたかは、私には分からなかった。

ただラウンド中の茶店で仲良しの店員さんに、


「今日は息子とラウンドなんよ。こんなんはじめてなんよ。」

とか言った時に、私は表情に困ったのは覚えてるが・・



その後私は何を感じたのか、車で9時間半かけて静岡まで行き、

日本一の霊峰の極みにも立った。7時間半かけて御来光と対峙しながら

自分と向き合いもした。


霊峰の極みでは、やりきれない気持ちを持った自分という、

人間の価値を良い意味で再発見された。

下山中に目撃した白い大草原のような雲海が、ゆっくりと、

しかし大きな周期でうねる様には、天地のうめきが聞こえてきそうで

無抵抗に驚嘆するだけだった。

自分の存在・悩み・思考はなんと小さいのか!と思い知らされた。

またずっと何処かで気になっていた地、沖縄も旅してみた。


沖縄本島や八重山諸島では現地の方々や、例えようの無い青すぎる空、

透き通る青と白の二色を併せ持った大海、また自分と同じような旅人を通じて、

閃きに似た感情を産み落とす事が出来た。




気づけば沖縄では3週間を超える時間を共にしていた。


「いつかまたこの地へ還って来たい。」

漠然とした思いではあったが、沖縄という地は私にとって

生涯特別の地になった。

【自分の10年先の姿は見えないが、18ヶ月先は明確に見える】


「社長から無職の放浪者。」


良くも悪くも、こんな経験出来る人は多くはいないと思う。

自分は今何処に居て、10年後どうなって、誰と何処にいるのだろうか?


そう考えたとき、頭に浮かんだのは・・・


雷鳴とどろく暗雲のうねりのような破滅的な映像と、

わずかではあるけどその奥、遥か彼方に射す一筋の光明の絵図。




選ぶべき道は決まっていた。


「進むのだ。ただ進むのだ!苦しく険しい、お前が避けたいと感じる道を!

 お前にはもうこの道しかない。そしてそれは避けようがなく、

 後退は地獄への道しるべとなるのだ!」


誰の叫びかはわからないが、地の底からうめく様な啓示。



今思えばそれは自分の内なる声だったのかもしれない。

【無ければ創ればいい!】


そして現在、私はまさに裸一貫。

一から出直すべく、自営業の義兄の元で社会に従事している。

そして片手間ではなく、ダブルワークとして別の分野でも、

一から起業中でもある。


全く未経験、未知の業種で…



18ヶ月前のあの夏の事は、社会からの逃亡だったのか?

それとも、僅かばかり残った自尊心の抗い(あらがい)だったのか?



今となっては正直、どうでも良い。


今気になるのは、


「10年後、自分はどうしているのだろうか?」

ではなく、


「10年後、自分はこうなっているだろうな!」



ただそれだけ。

ネガティブな映像しか見えなかった脳内スクリーンには今、

フルカラーのフォーカスの合った一枚のクリアーなフォトが見え始めている。


そして私のスケジュール帳。

『2015年9月5日、事業を軌道に乗せ、石垣島にて次期構想を展開中。』


ちなみに次期構想もほぼ決まっている。

自分をきっかけに人と人をコネクト(つなぐ)する事。

全てを失ったあの日から、今ここまで登ってこれたのは、

自分一人の力ではありえなかったから。

この先自分が機動力を身につけた時に、pay it forward.


10年後はおぼろげだが、18ヶ月後は見えるらしい。(笑


そして遥か南の地の後は、一路最北端へ飛ぶ予定。

そこからこの【日出づる国】を知るため、PCを小脇に縦断する。

世界に飛び出すのに、この国のことを自分は何も知らない。

もっともっと自分が知らない現実・自分がまだ知らない誇るべき点を知る。

それが縦断の理由。

時期的には最初から北から南下する旅が妥当だろう。

だが、私には沖縄しか頭にない。

全てを捨てて、全てを失って訪れたあの遥か南の地。

私はそこからまたスタートするのだ。


そうそう、沖縄に発つ前に最近にわかに小さく見える母と、2年振りに、

カート1台で18ホール回るスケジューリングを…

いや、カート1台なら3人乗れるか…中年一人と老夫婦で・・・(笑


最後まで読んで頂き、ありがとうございます。


このSTORYは、以前書きかけだった

「自分の10年後って考えたことある?」というタイトルに、

1名の方が「続きを読みたい!」との要望を頂き、

思い出しながら、そして将来の自分の予定表を見ながら書きました。

(F本さん、ありがとうございます。)


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