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14/1/16

会社の2代目になるまでのちゃらんぽらんな日々とそのツケ

Image by Olia Gozha

父親の会社に入るなんてそんなつもりは、全然なかった。

私の父は一流貿易船舶会社で航海士をしていたが、86年に船内でAppleⅡに出会い、パソコンの面白さにハマり、その3年後に退職して当時はまだ珍しかったパソコンスクールを立ちあげた。

先見の明アリアリである。自慢の父である。


父親が「社長」という響きは子供ごころながらにちょっと自慢で、友達に「社長令嬢」と言われるのもまんざらではなかった。

母親は別で保険の営業をしており、もともと商才のある人だったので父親の年収は軽く超えていた、年収2000万くらいは行っていたらしい。

そんな恵まれた環境で、一人っ子で何不自由なく自分の事だけを考えていればよかった。


ワガママ勝手な学生時代

父も母も忙しかったので、ほとんど家には帰ってこなくて(帰っては来ていたと思うけれど、たいてい私が寝た後)朝、起きて少し言葉を交わしたら二人共仕事に行く。そんな生活だった。

もちろんそんな環境で立派に育てるはずもなく、私は毎日のように自由気ままに時間を潰すために母が購入してくれたスーパーファミコンに興じていた。多分出ていたゲームはほとんど遊んだと思う。

一人っ子で友達付き合いも下手だったので、外で誰かと遊んだりというのは数えるくらいしかしていない。


ゲームの新作が出ると、母の声色を真似て学校に電話して、当たり前のように学校は休んだ。2週間休んで学校に行って、またつぎ2週間休んで…という感じ。


一応、押さえるところは押さえておいたので、県で3番目にあたるそこそこの高校に入学でき、高校でも特に変わらず同じような生活を送っていたけれど、高校2年の時にとうとう授業についていけなくなり、成績が落ちてきた。

なんとなく漠然と、父親の背中を追ってシステムエンジニアとか、コンピュータ関係の学部を希望していて、それ系の大学を考えていた私に、担任の先生は「いや、どうかんがえても理系はオマエに向いていない」と教えてくれた。


さてどうしようか


そんな時、大好きな友人が美術系の大学を受験すると言った。

それは、楽そうだし楽しそうだ。


母に相談したところ、二つ返事でOKが出た。


そんなわけで美術の予備校に通い、自分が受かりやすそうな推薦を探し、京都にある芸術系大学に無事に合格


ここで私の勝手気ままな人生が一回終わる。

一回目の挫折(軽度)

なんとなくでやって来た自分と、本気で取り組んできた周りとの能力の差をどうしても埋められなくて、今まで自分のやりたいように楽なように生きてきた自分はその時の努力の方法もよくわからずに、結局2年でその大学を辞めた。


父と母はあまり止めなかった

すべての決定を自分でしてきた私の決断に間違いなどないと言ってくれた。なんて理解のいい無関心な両親だ。未だに感謝しているけれど、母は未だに

「あの時本気で中退を止めていればよかった。『また変な娘がわけわからん事言い出した…めんどくさ』って思わなければよかった」

ってこの前教えてくれた。お母さん意外とひどいな。


さて次に、その時の彼氏が東京に行くという理由で東京の大学に行くことにした


同様に自分が受かりやすそうなコースを探し、無事に合格。そして1年で退学。これに関しては完全に自分が悪いのでもう詳しくは書かないけどただの登校拒否。


この時は深く考えずに「あー、もう無理だからやめよー」って思って辞めたけれども、これが30近くなってくると履歴書に中退2回と書かなくてはいけないプレッシャーはものすごい。履歴書書く度に「ダメ人間」と認識しないといけない


「継続は力なり」どんなに大変な状況でもある程度成果がでるまではやめない方がいいと言うのは本当だなと身を持って知る。


ココらへんくらいまでで学費とか生活費とかトータル考えると1200万くらい使ってると思う。自分の子どもだったらぶん殴ってやりたい。


東京でのその日暮らしと結婚という転機

東京ってちょっと移動するのにもお金がかかる。アルバイトで食いつないで、週末は彼氏(ちなみにさっきの東京に来る理由になった人とは別の人)と遊びに行く相変わらずの生活を送っていた私はあっという間にその日暮らしになり

すべて自分の考えのなさが原因にもかかわらず、私は両親をせめ、周りをせめ、うつ病みたいな状態になった。

彼氏だけが、唯一の理解者のように思っていた。


そんな折、長年働いていた母が精神を病んで会社を辞める。その後、父の会社に経理補佐として入るのだが、入ってみると驚くべき不正経理や、ざる勘定が浮き彫りになり、更に身体を壊してしまった。

気分転換に東京に遊びに来ていた母に、何の気なしに彼氏を紹介すると、今まで男友達すら紹介しなかった私が紹介した=これはもう結婚だと、もとより突っ走りがちな両親に乗せられて、特に断る理由もないしまあいいかと二人でなんとなくその波に乗り、結婚する運びとなる。

そして一言


帰ってきて、家業を継ぎなさい


なんとなくそんな気はしていた。でもやっぱり何も考えていなかった。言われるがまま相手の両親に挨拶をし、結納を済ませ、結婚式をすませた。もちろんすべて親の金である、ほんとね、どうにかしようこのダメ女。


2代目のアウェイ感

そして父の会社に入るが、もちろん歓迎なんてされない。

すぐに取れたOfficeの試験と違い、入社に必要とされるコンピュータサービス技能評価試験2級の試験は恐ろしく難しく、他の講師に質問するが「こんなことも知らないで会社に入るの?」という反応もあり、資格取得にとても苦労した。


社長の娘は帰ってこないと思って、自分が会社を継ぐことを考えていた上司、受付事務、経理事務、一般事務、そして外部の講師…すべての信頼関係を築くところからのスタートだった。


結論から言うと、経理事務以外の社員はすべて辞めていった。本当は経理のおねーさんも辞めたかったに違いないと思うけれど、この人が未だに残って私を支えてくれていることは本当に感謝している。ちょっと間違うとすぐ舌打ちして呪ってくるけど本当に感謝している。


時期的にもうパソコンの講座需要は減少傾向に有り、今までふらふらと勉強もせずにいた馬鹿娘が会社を継ぐなんて、常識的に考えれば辞めて当然だ


今まで何も考えないでやってきた自分にとって、味方がだれもいない環境で働くというのは非常に苦痛だった。でももう行くところなんてない、自分がそうやって選択肢を狭く狭くしてここにたどり着いてしまったのだから、諦めるしかない。


ある日突然そう思った。

2回目の挫折(次は遠慮したい)

とりあえず、他の講師と違うスキルを身につけなければ認めてもらえないと思い。京都の大学にいるときに少しだけ習ったIllustratorを引っ張り出し、中学時代に趣味でやっていたHTMLの技術を引っ張り出し、サーティファイ主催の資格を取り、その講座を担当した。

もともと、人に教えるのは好きで、どう伝えれば理解してもらえるのかを考えるのは好きだったことが功を奏し、受講生からはちょっと変わった講師としてある程度の指示を得て、事務補佐→事務・テキスト担当→職業訓練担当→外部訓練担当→広報担当→人員配置担当…と、経理以外の業務はひと通り携わるようになり、新しい部下も入り新体制が整ってきた頃


会社が倒産の危機に見舞われた


パソコンのスキルはそれなりに培ってきたが、経営のことなんて一つも勉強してきていない。できることが一つも見つからない。会社を守るために自分と、社長の給料を半分以上減らして、必死に会社をなんとかしようと思って、日々の生活をやりくりしていた時に


旦那がやらかした


何をやらかしたかはご想像にお任せします。とにかく多額の借金を抱える形になってしまった。給料は半分になっているのに、月々の支払だけが増え、旦那を責められたくない一心で両親に相談することも出来ず、自分と子どもの貯金を泣きながら切り崩して、なんとか生活していた。


「因果応報」ってあるんだなぁ…いろんな柵(しがらみ)会社の人間関係とか、私の両親と旦那の関係とか、仕事のこととか、ちょっとずつ「めんどくさいな」って手を抜いた結果がこうなったんだ。

私は毎日死にたい気持ちで教壇に立っていた。でも生命保険にも入っていないから死ぬことも出来ないから生きていた。明日の朝ごはんは子どもたちに何を食べさせたらいいんだろうとばっかり考えていた。


結果、旦那とは離婚した。


色々な手続きが(やっぱり)面倒だったので、離婚はしたくないなーという気持ちだったけれど、そうも言ってられないくらい生活が困窮していて、両親がとうとう助け舟を出してくれる形になった。本当に両親いなかったら私生きていない。


「あの人と、ちゃんと離婚して、きちんとするなら手伝ってあげる」


3人いる子どもたちには、ゆっくり説明をして「このままだとご飯が食べられなくなるから、パパにはお外でお仕事をしてもらってきます」という説明をした。

小学生になった長男には、後から詳しく聞かれたのできちんと事情を説明したけれど、5歳で唯一の女の子で旦那にとても可愛がられていた娘には、パパの理想的な姿を残しておこうと思って何も話はしていない。3番目はまだ1才だから、まぁ、そのうち。


離婚を条件に両親から子育ての支援をしてもらって、会社の立て直しとかに専念する日々が始まった。


自分にはいざというときに頼れるツテがない。支援をうける銀行に説明する能力もない。何か合った時に自分一人だけでも社員全員を食べさせていける覚悟も、能力のなさも痛感した。

これじゃいけない。名前を売らなくては。こちらから営業をかけるだけではなく、向こうからオファーが来る会社にしなくてはいけない。

そう思い、もとよりファンであったLIGがタイミングよくライターを募集しており(本当はLIGライターは募集を締め切っていて、エンタメウスのライター募集に応募する形になったのだが)LIGで記事を書かせてもらうことになった。


まだLIGにはちゃんと恩返しできていないけれど、自分の中の自信に繋がった。いい出会いがたくさんあった、東京に7年ぶりに行くこともできた。


これからもっと広いところで仕事をするために、いくつかの資格試験の勉強も始めた。


挫折しても人生は続いていく

挫折なんかしたくないし、きつい思いもしたくない。だから無理せずやっていこうとちゃらんぽらんな生き方をして来たけれど、それじゃやっぱり限界があって。

どっかで腹くくるタイミングっていうのがあるんじゃないのかな。


いまはなんとなくそう思ってる。



できればもうしんどい思いしたくないから、今頑張る。

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