top of page

ファーストリテイリング1991年

Image by Olia Gozha

僕はその頃26歳で全然儲からないバーを経営。前職は岐阜のアパレルメーカー
古い古い1972年製BMW520の左ハンドルに乗り年中金欠で睡眠不足、毎日エンジンがかかることを祈りながらイグニッションをひねる日々を送っていた

しかしそんな生活に終止符が打たれようとしていたのが1991年(平成3年)の冬の深まった11月のこと
家の近所にユニークロージングハウス岐阜店が開店しようとしていた
このページでいつか公開できればいいのだが摩訶不思議な求人チラシと時給900円に惹かれ早速店舗に出向いた、とにかく車のウォーターポンプの交換が必要だったのでお金が必要だった、ゆえに短期アルバイト狙いでこの摩訶不思議な求人チラシに食いついたのである
求人チラシの裏が履歴書になっていたため紙切れ一枚持って店舗の裏口を叩いた、何度も何度も叩きやっと人が出てきた
短期アルバイトを希望していることを伝えると反す刀で短期も長期も埋まってます
応募は終了しておりますと痩身長身の眼光鋭い男に言われ
諦めて帰ろうとするとその男が正社員はまだ余裕がありますと宣う
チラシの人事部に電話するように催されその日は終わり

翌日人事部に電話してみると平瀬という男性から明日名古屋へいく用事があるので名古屋で面接しましょうとこちらに有無を言わせぬ急展開
慌ててスーツを引っ張り出し翌日指定された松坂屋名駅の喫茶店へ
平瀬さんに履歴書を渡し雑談を10分ほどすると次の予定があるのでこれで失礼しますと伝票を掴み足早に席を立とうと身支度を整える
ふっとこちらを振り返るとふくよかなオールバックの笑顔でとまるで2人だけの秘密ですからねみたいな口調で結果は追って電話で連絡しますと言って去っていく

名古屋からJRで岐阜に帰る途中これは箸にも棒にも掛からなかったな
ろくに企業研究もせずによく面接に行ったもんだと自分のバカ具合に呆れながら帰途に着く

面接のこともすっかり忘れて3日ごろ経った寒い日そろそろプラグの番手でも変えるかとBMWのエンジンにプラグレンチを差し込もうとした時に電話が鳴った

ファーストリテイリングの人事部からで社長面接をさせていただきたいので来週の火曜日14:00に本社3階まできてほしいとのことであった
本社までの道順も丁寧に案内されそこで初めて僕は新幹線に「小郡駅」があることを知った本州の最果て山口県である。

その時の気持ちは今でも覚えている
あんな雑談で一次面接合格したのか?小郡駅どこだ?え?本社山口県?情報量が多すぎて処理しきれずプラグレンチを持ったまま古いBMWの周りを3周回ってボンネットを閉めた。

小郡商事ファーストリティリング

岐阜羽島から始発の新幹線に乗り新大阪で乗り換えて小郡へ、修学旅行以来の山口県。羽島から約4時間半本州の果ては思ったより遠い

小郡駅のプラットフォームを降りると駅の一階は昭和で時代が止まっているような土産物屋が目につく、少し時間があるのでブラブラしようと思ったがタクシーでどれだけかかるのかわからないのでとりあえずタクシーに乗ることにした

タクシーに乗り目的地の「宇部大和のファーストリテイリング」へお願いするとドライバーのお爺さんはわからないの一点張りでなんともならない
「何をやっているところなんだい」と聞かれたので洋服の会社ですと答える
するとドライバーさんが「ひょっとして柳井さんとこの小郡商事?」と怪訝そうな顔押して振り向く
そういえば人事の人に9月に社名を変えたばかりだという話を思い出して
「そうです小郡商事でお願いします」
と言うか言わない間にドライバーさんの態度が激変し
運転席のシートを直角に戻し帽子をまっすぐ被り直し「大変失礼しました柳井さんのところですね大塔興行ですか小郡商事ですか?」と少々パニックになっている
「小郡商事でお願いします」と言うと
「はい」と明らかに緊張気味の返事が返ってきた
このやりとりが何を意味するのかを知ったのはもう少し後になってのことである

社長面接

当時の社屋は地上3階地下1階の茶色の煉瓦づくりの建物だったと記憶がある
受付のようなものは覚えがないが社内の人間が全員忙しそうにしていた
その中の一人に面接に来ましたと伝えると「多分3階だよ」と返事があり
階段で3階まで行った記憶がある、社長室の全室に待合がありくたびれたソファーに3人座っていた。スーツを着ていたのは私だけで残りの3人はは見るからに砕けすぎたカジュアルでいかにもヤンチャそうな若者であった
私は一緒に座る気にはなれず立ったままでしばらくその場に佇むとしばらくして
「次のひと」と呼ばれた
僕は最後にきたので「次」ではないなと思っていたら全員が入るようで係の人に促され初めて社長室に入り柳井社長に初めて会った僕が26歳柳井社長が42歳の時であった。


←前の物語

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page