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二度停学になった不良高校生が、学年一位になった話

Image by Olia Gozha

はじめに

本書に書かれている話は、全て僕自身が経験した実話です。

 今回は、高校生時代にあったお話をさせていただきます!


筆者のあらすじ

小学生・中学生時代は全く勉強をしていない学生であったが、高校時代に入り、猛勉強をし、愛知大学法学部へ進学をする。勉強後、全国模試の偏差値が勉強前と比べ、30以上上げることができた。

 小学生までは、人の気持ちを考えない、いわゆるガキ大将で、小学4年生の頃に、その罰が当たったのか、紫斑性腎炎という大きな病気にかかり、半年間の入院生活を送る。

 

 その後、心は段々と弱くなり、中学生にして初めて『いじめ』に直面する。『死』を意識していたが、親友である友人に助けてもらい、徐々に仲の良い友達が増えていく。

 中学2年生の頃に両親の離婚が重なり、自分の人生がどうでもよくなり、不良(ヤンキー)となる。

 中学不良時代は毎日のように喧嘩の日々を過ごす。喧嘩、万引き、暴走族を立ち上げるなど、毎日好き放題に過ごしていた。

高校進学をするつもりはなかったが、父の説得により、名前を書けば入れるような底辺高校に進学することになる。

 

 高校進学をしてからも、ヤンキーを継続し、地元で最強の暴走族を潰す。

高校入学をしてから3ヶ月の間に、二度の停学処分をくらい、退学処分ギリギリのところで、ある一人の先生に出会い、勉強に目覚め、人生が180度変わる。勉強に目覚めた後、国際弁護士を目指し、愛知大学法学部に進学することになる。

 

愛知大学法学部に進学後、日本以外の世界を知るため、大学4年生の頃に一年間、休学をし、アジアとオーストラリアへバックパッカーの旅に出る。

 海外から帰国後、国際弁護士資格の壁の高さに大きく躓く。挫折を味わい、自分の目標を見失った結果、大学5年生の頃に、中途退学をする。

 

 その後、建設業界に就職するが、仕事がハードかつ人間関係に悩み、鬱病になり、二年を経て、離職する。

鬱病になった後、大学在学中にご縁を感じた長野県で心を癒そうと、なんのツテもコネも仕事もないまま、長野県へ移り住む。

 

 長野県へ移住、教育サービス業である塾運営会社に就職し、最速最短で課長職に就く。

 入社三年目に結婚をし、その後、三人の子を授かり、順風満帆な人生を送っていた頃、ある日妻がマルチ商法の商品にはまっていることに気が付くが、時すでに遅し。妻との関係がうまくいかず、離婚をすることになる。

 

 離婚後、子供達と会うために転職をし、現在に至る。


 目次

高校時代... 85

◇つっぱり... 85

◇恩師との出会い... 87

◇携帯事件... 89

◇心友... 92

◇文化祭... 95

◇無期停学事件... 101

◇愛情... 110

◇奇跡... 115

番外編じょーじ流勉強方法について... 118

〇国語の勉強方法について... 118

〇数学(算数)の勉強方法について... 121

〇英語の勉強方法について... 123

〇理科の勉強方法について... 125

〇社会の勉強方法について... 126

◇勉強覚醒... 131

◇ダンスとの出会い... 133

◇タイマン事件... 137

◇7股事件... 147

◇大学受験... 153


高校時代

◇つっぱり

 

 高校の入学式が始まり、僕は「初めになめられてはいけない」と、髪の毛を真っ赤に染め、襟足を肩まで伸ばしたウルフヘアーで登校した。

髪の毛の色が明るかったので、高校の先生に校門で止められ、「明日までに必ず染め直して来い」と言われた。

 

 

H高校には、I中学からは、れいな、水田、竹中が入学していた。

周りを見渡すと、ギャル男みたいな、髪の毛の色が真っ金々やら真っ茶々色の集団が、20~30名、リーゼントの眉なし集団が10~15名、アイパーやパンチパーマが数名いた。

 

 入学式が始まり、生徒達の後ろの方で大声で怒鳴っている先生がいた。

怒られている生徒は、『日野』というアイパーがかかった眉なしで、日野は先生に対して暴言を吐いていた。終いには、日野がキレて、先生を羽交い絞めし、複数の先生に止められていた。そいつはN中学のナンバー2で、喧嘩がかなり強かった。

 

日野は、入学式初日に無期停学処分をくらっていた。

 

「兄ちゃんが言っていたように、ここにはあほみたいなやつばっかいるな」と思っていると、日野が暴れている姿を、腕を組みながら冷静に、にらみ顔で見ていた男がいた。そいつは一際背が高く、眉毛が太く、ただならぬオーラを纏っていて、どこか気になっていた。

 

 

 クラス発表が終わり、教室の前に座席表が貼り出されていた。

僕の学年では、クラスは全部で6組まであり、一組から二組に上がるにつれて成績が上がっていた。僕は入試当日、外国人のトミーに問題の答えを教えてもらっていたので、一組ではなく、二組に入ることができた。れいな、水田、竹田は一組だった。

 

二組には、僕が知っている人は誰一人いなかった。僕は、「クラスの中でもなめられるわけにはいかない」と思い、「全員敵だ」と思わせんばかりのメンチを男女関係なく切っていた。

 

僕の席は、廊下側の後ろから二番目で、斜め後ろには、さっきいた、でかくガタイのいい男がいた。名前を『翔太』といった。

 

 

◇恩師との出会い

 

 しばらくして、担任の先生が入ってきた。先生は20代後半で、背が高く、どう見ても『体育の先生』というような、バキバキの体つきだった。

その先生は、教室に入るやいなや、関西弁で自己紹介を始めた。

 

「どうも!!僕の名前は、木村拓哉です。違うか!」

 

「・・・しーーーーーん。。。」

 

クラスの誰一人反応しなかった。というより、唐突すぎて、『できなかった』。

僕は、心の中で「この空気の中、この先生は度胸があってすごいなぁ」とひそかに思っていた。

 

先生は当時、本来であれば担任を持つことはなかったのだが、大人の事情で例外的に担任を持つことになった。先生は、大学卒業まで水泳に没頭していて、中学のときには、誰もが知る有名選手とオーストラリアの強化合宿の選抜に選ばれており、日本ランカー17位ほどの実力者であった。

 

僕が今まで会った先生は、「自分を守るために余計なことをしない」「僕のような面倒くさいやつとは関わろうとしない」「綺麗事ばかり言う」先生しかおらず、僕の先生のイメージはそういうイメージしかなかったが、この先生には、初めのつかみから、ほかの先生とは何かが違う印象を持った。

ただ、僕はどんな先生でも、しょせん『学校の先生』でしかないと思っており、僕は自分の都合しか考えなかった。

 

先生の名前は、はたや先生といった。

 

 

 高校入学後、僕は部活には入らず、竹中や水田、水田の知り合いの不良グループの『さとる』や『安藤』、れいなとその友達のギャル軍団と一緒に行動していた。

 

授業は寝る。休み時間になれば、屋上へ行き、飯を食ったり、ボールを家から持参して、遊ぶ。高校生になっても、中学のときと同じことをしていた。ただ、高校生ともなれば、騒ぎを起こせば停学になってしまうことは分かっていたため、明らかにばれるような悪事はしなかった。

 

 

◇携帯事件

 

 高校入学後、一回目の試験中、隣のクラスで携帯の着信音が鳴った。

試験官の先生は各教室にいたのだが、隣のクラスのおじいちゃん試験官は、僕の教室に入って来るやいなや、僕の方を見て、

 

「この辺で音が鳴った!!」

と言い出した。

 

近くの翔太の顔を見て、

 

「いや、明らかに隣のクラスで鳴ったよな?」

と言うと、翔太も

 

「明らかに隣で鳴ったって!俺らのクラスじゃないって」

と言ったが、おじいちゃん試験管は、僕のクラスに向けて、

 

「このクラスで携帯電話を持っている者は全員机の上に出せ!!」

と急に怒りながら、言った。

 

僕は、携帯を出すことで、「先生が携帯を確認して、着信履歴があるかどうかを見るだけ」だと思ったので、潔く携帯を机の上にたたきつけた。僕が携帯を出すと、携帯を持っていた他の生徒も同じように携帯を机の上に出した。

 

僕は、おじいちゃん試験管に、

 

「先生、鳴ったかどうか確認して、見てみてよ!着信履歴なんてないって!」

と言った瞬間、おじいちゃんは大声で、

 

「全員停学だー!!!!」と言った。

 

「・・・はーーーーー!!??」

 

携帯を出した人数は17人。クラス全員で35人程だったので、二組はクラスの約半分が停学になった。その中には翔太もいた。

 

全員別室に移動になり、テストも途中から全員受験できず、その日に受験できなかったテストは全て0点になった。

 

僕に下された停学処分は「停学一週間」だった。

僕は、「試験中に携帯を触っていたわけでもないのに、携帯を持っていただけで停学になること」に納得がいかなかった。

 

 

 停学中は自宅待機が『絶対』だったが、そんなことはお構いなしに、夜中にバイクでふらふらと走ったり、レンタルビデオ屋の前で、高校の不良集団とタバコを吸いながらたまっていた。

するとそのとき、高校の先生とたまたまばったり会ってしまい、こっぴどく叱られた後、停学一週間を追加されてしまった。

 

 停学二週間になってしまった僕は、追加された課題を適当に終わらし、学校へ行った。

 

 

 僕の停学が解かれたときには、すでにクラス全員の停学が解かれていた。翔太もすでに停学が解かれていて、翔太から、

 

「停学最悪だったな。なんでじょーじだけ二週間だったの?」

と話しかけられたのをきっかけに、翔太とは仲良くなっていった。

 

 

◇心友

 

 翔太は僕の地元から、少し離れた場所に住んでいて、それまで僕が知らなかった地域に住んでいた。翔太の身長は高校1年生の時点で190㎝近くあり、腕の太さは尋常じゃないぐらい太かった。腕が太いくせに中学はサッカー部出身で、高校もサッカー部に入ったが、携帯事件で停学になったことと、部活のことで部活の顧問と意見が合わず、サッカー部をクビになったそうだった。

 

翔太とはヤンキー話がよく通じ、中学のときに僕が一度喧嘩をしてボコボコにした、いつも特攻服を着ながら、彼女とにけつをしている「特攻服チャリ野郎」を知っており、翔太も一度ボコボコにしたことがあったそうだった。

 

翔太とは当時流行っていた肩パン仲間になり、休み時間になれば廊下に出て、いつも本気で肩パンをし、「先に痛いと言ったほうが負け」という意味の分からない勝負をしていた。

 

 

 その頃、れいなと、あまりうまくいっていなかった。僕は、極度のやきもちやきだったため、れいなと会う度に「男と話すな」と怒っていた。僕が、学校内で、少しでもれいなが他の男子と話している姿を見ると、休み時間に、トイレにその男を呼び出し、説教をしていた。

そんなことばかりしているので、高校内では「じょーじの彼女に話しかけたら、じょーじに殺される」と噂になり、女子でさえも、れいなに話しかけることが少なくなった。そんな様々な僕の理不尽なことに、れいなは嫌気がさしていた。

 

 

高校入学後、二回目の試験。

 

前回の停学の反省の色など全く見せず、携帯で答えを調べながら試験を受けていた。

僕は、翔太と「秘技!ローテーション!」などとわけの分からない名前を付けた、「各自、問題を解き終わった後、お互いの解答用紙を回し、お互いの分からなかった場所をお互いの答えで埋めること」をしていた。

お互い『あほ』なので、結果は言わずもがな、二人共、全く同じ解答用紙で、二人とも全科目7点以上の点数は取ったことがなかった。

 

「クズは何をやってもクズなんだ」

 

 古典の先生が、授業中に、僕達のことをよく『クズ』と言っていた。

自分自身に価値を感じていなかった僕は、先生に何と言われようが、気にすることはなかった。

 

 

◇文化祭

 

 夏休み前に、夏休み後の文化祭で行う出し物を決めるホームルームがあった。

はたや先生が「二組の出し物はダンスにする」と言い、今まで『ダンス』というものに触れたことがなく、ダンスをあまり見たこともなかったので、僕には、「なんかいやだ」という感情しかなかった。

 

 

 夏休みになり、一番初めにしたことは、髪の毛の色を真っ金々にしたことだった。

 

夏休み中の予定は、クラスの文化祭の出し物であるダンスの練習がほぼ毎日強制的に入れられていた。練習初日は行く気がしたため、学校に練習しに行った。ただ、髪の毛を真っ金々にしたのがばれると怒られるので、頭にタオルを巻いて学校へ行った。

 

 

 遅刻して体育館に入ると、クラスのみんながダンスの練習をしていて、初めて見るダンスの講師の先生がいた。

その先生の名前は『ちあ』先生と言い、先生はセクシーな格好をしていて、声が大きく、とてもパワフルな印象だった。ちあ先生は僕の目を真っすぐ見ながら、

 

「あなたがじょーじくんだね。私は、みんなの文化祭を成功させるためにダンスを教える講師のちあです。よろしくね!」

と握手をし、僕に話しかけた。

 

女性の方にパワフルに声を掛けられたこと自体、初めてだったので、僕はとても緊張し、少し嬉しかった。

 

ただ、ダンスというものは「踊れる人は楽しいのだろうが、踊れない人は全く楽しくないものだ」と思っていたため、当然すぐにうまく踊ることができない僕は、「踊れない自分は格好悪い」と思い、二日目の練習からサボっていた。

 

この頃の僕は、『努力』という概念がそもそもなく、『できるかできないか』でしか物事を判断しなかった。元々色々なことに対しての能力も高くなかったので、そうやって考えることしかできなかった。

 

 

 僕はダンスの練習には参加しなくなり、久しぶりに矢田と遊んだり、どこかに喧嘩を売りに行ったり、中学のときの野球部の連中と夜中集まり、朝まで遊んでいた。

 

 

 ある日、朝目覚めると、携帯に着信が20件ほどあった。

 

「誰だ?」と携帯を確認すると、その20件の着信は全て「はたや先生」からだった。

「誰がダンスの練習なんか行くか。全無視してやる」と僕は思っていた。

ダンスの練習に一度も参加していなかった、同じクラスの荒井と翔太に連絡した所、二人とも同じようにはたや先生から連絡があったようだった。はたや先生の着信は毎日のように続いた。

『荒井』は、翔太と仲良くなり始め頃、翔太と話しているとき、荒井が僕達の方に近づいてきて、急に屁をこいて、その屁を自分でにぎりっ屁し、「いい匂い!」と言いだし、「こいつは普通ではない」と思ったのがきっかけで、徐々に仲良くなっていった。

 

 

 そんな夏休み中のある日、僕は、れいなと些細なことで喧嘩になった。喧嘩をする頻度はとても多かったが、このときの喧嘩の原因は、不良集団の一人とよく休み時間に、廊下で座り込んで話していて、それを僕が怒ったからだった。

 

その日、僕はれいなに「帰る」と一言言って、家に帰った。

 

 

 その次の日の夜中に、野球部連中とレンタルビデオ屋の前でたまっていると、れいなの話になり、その場にいた水田が、

 

「そういえば今日同じクラスの高森とれいなが、一緒に手繋いで、遊んでるとこ見たけど、じょーじ、れいなと別れたの?」

と聞いてきて、その瞬間、僕の怒りが頂点に達した。

 

『高森』とはH高校の中では世渡り上手な性格で、フットワークが軽く、どの集団にも属しておらず、僕はあまり好きではないタイプだった。

 

れいなと話しているときに、自分から怒って帰り、しかも理不尽なことで怒ってしまった自分も悪いと思ったが、四六時中、「高森とれいなが手を繋いでいたということ」が頭から離れなくなってしまった。

 

僕の頭の中では、「文化祭のダンスを成功させて、れいなにカッコいい所を見せてやる。れいなから仲直りをしようと言って来るまで待とう」と考えていた。

 

 いてもたってもいられなくなった僕は、荒井と翔太に連絡し、「三人でダンスの練習に参加しよう」と誘った。自己都合でしかなかったが、二人共「じょーじがそういうのなら」と承諾してくれた。真っ金々の髪の毛を黒くし、次の日からダンスの練習に参加することにした。

 

 

 ダンスの練習に途中参加した三人は、みんなとは別のメニューを別の場所で練習していた。下手糞ながらも、みんなで練習し、同じ目標に向かって取り組んでいる時間は、『青春以外の何物』でもなく、とても楽しかった。

 

はたや先生は、クラス全員に、「何か一つのことにきちんと取り組み、成功体験をさせたい」と考えて、厳しく指導していた。

 

 

 文化祭当日、僕達は体育館で全校生徒に向けて、ダンスを発表した。曲は二曲で、覚えた振付を必死に見せた。ステージ上で踊っているときは、初めて経験する何とも言えない高揚感に満ち溢れていて、「この感覚が『幸せ』というものなのか」と感じていた。

 

ステージをはける際に、はたや先生とすれ違い際に、僕は、

 

「はたや先生、(こんな素晴らしい経験をさせていただいて)ありがとう」

と言ったことは今でも忘れられない。

 

はたや先生はこのとき、「これでじょーじは、今後悪さもせず、何か一つのことに打ち込んでくれる」と確信し、安心したようだった。「じょーじがそうなっただけでも、ダンスの練習は価値があった」と思ったようだった。

 

 

 ダンスは見事に成功し、ステージから降り、控室に戻る途中、れいなが体育館の外で泣き崩れているのを不良集団が囲んでいる姿が横目で見えた。

 

「ざまぁみろ。かっこいい俺に感動したんだろう。お前が違う男と遊んでいる間、俺は陰で努力をしていたんだ。俺の所に戻ってくるのは今のうちだぞ」と思っていた。

 

 

 文化祭が終わり、僕はクラスのみんなとの距離が縮み、楽しい毎日を過ごしていた。れいなと仲良くしていた高森は顔が広く、不良集団にも顔が利いており、不良集団と仲が良かったので、この頃から僕は不良集団に敵対心を抱くようになった。そのため、いつも翔太と荒井と学校生活を送っていた。

 

 

◇無期停学事件

 

 ある日、昼飯を買いに一階の購買にパンを買いに行くと、二階の階段で、気合の入ったギャル男がこちらを見て、ガンを飛ばしてきた。

僕はそいつに近づき、

 

「なんかようか?」

と言うと、そいつは、

 

「あっ!?お前誰に喧嘩売っとんのかわかっとんのか!」

と言うので、

 

「お前なんか知るか!お前こそ誰に喧嘩売っとんのかわかっとんのかコラ!」

と胸ぐらを掴んで、思いっきり壁にぶつけた。そうすると、そいつは「ふっ」と笑い、

 

「お前今日の17時に校門で待っとけ」

と言ってきた。

 

僕はワクワクしながら、その日の17時に翔太と校門前で仁王立ちをし、先ほどのギャル男が来るのを待っていた。

「仲間でも連れてくるのかな」と思っていたが、ギャル男は一人で現れ、僕に近づくやいなや、

 

「今日はごめんね。もう喧嘩は売らないでね」

と言い、頭を下げてきた。

 

意味不明の出来事だった。

 

このことはあっという間に、校内全体に広まった。

購買にパンを買いに行くときなどに、2・3年生の先輩と会う度に、「じょーじはやばい」「誰も手を出してはいけない」「君は既にH高校の番長だ」などと称賛の声を受けていた。

 

気合の入ったギャル男は当時高校3年生で一年留年しており、親がやくざなので、先輩の周りの誰一人として、「そいつに喧嘩を売ってはいけない」と恐れられていたようだった。そんなことはお構いなしに1年生にもかかわらず、喧嘩を売った僕に、ギャル男はビビったそうだった。

 

 

 ある日、昼飯前の授業終わり、廊下で翔太と肩パンをしていると、高森を含む不良集団8名が購買にパンを買いに行こうとしていて、こちら側に歩いてきた。向こうも、「僕が不良集団に敵対心を抱いていること」は気づいていたため、こちらにガンを飛ばしながら、歩いているのを僕達は気づいていた。

 

不良集団は、明らかに僕の方を見て、指をさしながら笑って、歩いていた。

僕は高森とれいなのこともあったため、そのことに無性に腹が立ち、「不良集団が購買のパンを買ってきて、帰ってきたら全員ボコボコにする」と決め、翔太に「俺、あいつら戻ってきたら全員殺すわ」と宣言していた。

 

僕は廊下で、一人で仁王立ちをして、不良集団を待っていた。

不良集団が、購買で買ったパンを手に持ちながら、僕の方へ歩いてきた。

 

僕は不良集団の一人、安藤に、

 

「おい、お前ら俺のほう見て指さして笑っとったろ?」

と聞くと、安藤は

 

「は?笑ってねーし」

とそっぽを向いたので、僕は安藤の胸ぐらを掴み、耳元で、

 

「お前らなんて全員俺一人でいつでもやったるぞコラ!」

と大声で叫ぶと、安藤は、

 

「ちょ、我慢できんわ」

と言って、不良集団の一人に購買で買ったパンを渡そうとした瞬間、僕の喧嘩スイッチがオンになり、安藤の腹を膝蹴りし、強烈な右フックをかますと、右フックが良い所に入ったのか、安藤はそのまま床に倒れこんだ。

 

倒れた安藤の腹をサッカーボールキックで蹴り、顔を2・3発踏んだ所で、僕は不良集団の方を見て、

 

「お前らも全員かかってこいよ!!」

と言うと、

 

「ごめん。じょーじ。俺らはお前とはやる気がせんから勘弁してくれ」

と謝ってきた。

 

安藤を見ると、ぴくぴく動いていて、口から血の泡を吹いて倒れていた。

廊下中血まみれだった。

 

久しぶりに喧嘩をして、すっきりしながらトイレで顔を洗っていると、顔に一発殴られていたことに気が付いた。当時僕は歯科矯正をしていて、口の中にその矯正の針金が突き刺さっていることに気付いたが、そんなことはお構いなく、口の中に突き刺さった針金を手で外し、針金を元に戻した。

 

 

 教室に戻り、何事もなかったかのように、お弁当に入っている、ちゃーちゃんが作ってくれた大好きな卵焼きを食べながら、翔太と話していると、はたや先生が鬼の形相をしながら、僕の方へ走って来た。

 

「じょーじ。ちょっと来い」

 

昼飯途中だったが、僕は、はたや先生に付いて行った。

 

まずは保健室へ行った。

はたや先生は真っすぐ僕の目を見て、

 

「今廊下であったことを全部話せ」

と言った。

 

僕は隠すことなく、廊下であったことを全て先生に話した。

 

安藤は意識がなく、これから救急車で運ばれるようだった。

 

 

 はたや先生のヒアリング後、父を校長室に呼び出され、校長先生、はたや先生、教務主任の三人から事情聴取をされた結果、僕に対して、退学処分を命じられた。

 

 

 その後、父の車で一緒に帰っている途中、父は、

 

「お前は悪ない。お前の好きなようにせぇ」

と僕に話し、僕も高校をやめる覚悟でいた。

 

その夜、翔太から連絡があり、「僕が高校を辞めるんだったら、翔太も辞める」と言っていた。

 

 

 次の日、学校から僕の携帯に着信があった。昼まで寝ていた僕は、起きて学校に電話を掛け直すと電話の相手は、はたや先生だった。

先生が言うには、どうやら僕は退学処分ではなく、無期停学処分で済むみたいで、「無期停学の課題を今すぐにをやれ」ということだった。

 

 

 父の仕事が終わり、父にそのことを話すと、

 

「お前の好きなようにしたらええ」

と言うので、僕は「俺が高校辞めたら翔太も辞めてしまって、翔太の親にも迷惑が掛かってしまう」と思い、課題をさっさと終わらせて、高校へ行こうと思った。

 

 

 無期停学の課題は、一回目の停学のときの課題量とは比べ物にならないくらい多かった。

国語・数学・英語・理科・社会はなぜか、教科書約100ページほどをノートに5回書き写す『作業』で、体育や家庭科、美術も同じような課題だった。

 

 一方、安藤は僕との喧嘩の後、救急車で運ばれ、3日間ほど入院した。安藤の親から僕の父に、「慰謝料や治療費を払え」と催促の連絡があったようだが、父は、「こどもの喧嘩に親が出てくるな!」とブち切れて、治療費や慰謝料など一切払わなかった。

安藤も僕と同じように無期停学処分をくらったが、安藤は、課題量を見て、「到底終わらない」と感じ、退院してから一週間後、自主退学をした。

 

 

 無期停学中、自宅謹慎で外にも行けず、前回の停学のときのようにバイクで走っている所を見られたら、今回ばかりはさすがに退学になると感じ、必死で課題を毎日20時間ほど進めた。寝る時間は毎日2時間程度で、トイレと風呂と飯以外は、全て課題の時間にあてた。

長い時間机に座って、字を書いたことや何か物事を考えたことなど、それまでなかったため、課題をやっているときは、すごく新鮮な時間に思えた。

 

 

◇愛情

 

 ある日、家で黙々と課題を進めているとき、インターフォンが鳴った。

 

玄関にいたのは、はたや先生だった。

 

先生は、学校の業務がとても忙しい中、先生自身の判断で家庭訪問に来てくれて、僕の部屋に上がり、僕のことを気にかけてくれた。

 

はたや先生は関西人だったこともあり、父やちゃーちゃんは、先生をとても気に入っていた。父とちゃーちゃんが、

 

「飯でも食うていきーや先生!」

と言い、一緒にご飯を食べながら、先生の色んな話を聞いていた。

 

『先生』という存在が嫌いで嫌いで仕方がなかった僕だったが、はたや先生を見ていると、『先生』という概念が段々と変わり、はたや先生を『もう一人の兄』のように感じていった。

 

 

 普通の人間ならば、2か月は最低でもかかる課題を、僕は2週間で終わらし、学校に戻ることとなった。僕は、自慢のウルフヘアーを切り、丸坊主にして学校へ向かった。

 

 

 学校の入り口で、はたや先生が仁王立ちをしていた。

僕が学校に着くと、先生は無言で僕を校長室に連れて行った。

 

校長室には校長先生が座っていた。

 

はたや先生は真っすぐに僕の目を見て、

 

「じょーじ、よく覚えとけ。次はないぞ」

と言うと、先生は校長室から出ていった。

 

状況が分からず、僕も校長室から出ようとすると、校長先生が僕に話しかけてきた。

 

「じょーじ君。はたや君があなたのために何をしたか知っていますか?」

と言った。

 

「いえ、知りません」

と僕が言うと、

 

「あなたは、本当は今頃、学校に戻ることはできなかったのよ。初めは、私も、他の先生もあなたに退学という処分を下したの。ただ、はたや君だけが退学処分に反対していて、はたや君は全員の先生の前で、『じょーじは、あいつだけは退学にせんとって下さい。僕が必ずあいつを立派な人間に育てます。』と他の先生の前で土下座しながら言ったのよ。はたや君に感謝しなさい」

と言った。

 

その言葉を聞いた瞬間、僕の頬に大粒の涙が流れた。

当時の僕には「泣く」なんてことは、正直ありえないことで、喧嘩でも泣いたことなど一度もなかった。

僕は、はたや先生が僕なんかのために、周りの反対を押し切ってまで、周りの先生に頭を下げながら、退学を反対してくれたことに深い『愛情』を感じた。

 

中学のときに母親が家を出ていって、それまで父からはそういった『愛情』は感じたことはなかったため、先生の自分に対して思いやりのある、深い『愛』に心を打たれた。僕は、はたや先生には敵対心や反抗心しか抱いていなかったのに、そんな僕を無条件に信じてくれたことが、何より嬉しかった。

 

「先生のために、何か俺にできることはないだろうか。先生が学校内の人間全てに評価されるには、俺が勉強を頑張って、悪さをせず、結果を出すことができればいいのではないか」と思った。このとき、僕の中の何かが、はじけた。

 

教室に向かう途中、廊下で不良集団とすれ違ったとき、「なんでいんの?」と言われたときは、はらわたが煮え繰り返りそうになったが、もう一度喧嘩をしてしまったら、はたや先生に恩をあだで返してしまうと思い、怒りをぐっとこらえた。

 

不良集団の中に、れいなの姿はなかった。

どうやら、れいなは、安藤が僕にボコボコにされたのは自分のせいだと感じたらしく、学校に居づらくなったので、僕の退学期間中に自主退学をしたようだった。

 

 

 教室に入ると、クラスのみんなが、「じょーじ帰ってきたの?おかえり!」と声を掛けてくれて、とても嬉しかった。

 

 教室には、はたや先生もいた。

僕は先生に、

 

「先生。ありがとう。俺、先生のために次のテストで1位取るわ」

と宣言した。先生は、

 

「お、おう。頑張れよ」

と言った。

僕は、先生が「そんなんできるわけないやろ」と思っているんだろうなと、高校生ながら感じていた。

 

ここから、僕の第二の人生が始まる。

 

◇奇跡

 

 家に帰ると、高校に入学してから学校に内緒でしていたラーメン屋のアルバイトを辞めた。

 

小学校のときも、ろくに勉強なんてしていなかったため、小学校1年生から勉強をやり直そうと思い、教材を買うため、ラーメン屋で稼いだアルバイト代を持って、書店を回った。

 

当時、自分でも読めないぐらい字が汚かったため、国語は漢字からやろうと思った。

小学校1年生~6年生の漢字ドリルと漢検十~二級までの問題集を全て買った。

数学は小学校1年生~6年生の算数ドリルと「中学生のまとめ」という数学の基本的な問題しかない参考書を買った。

英語は、アルファベットのA~Zまで言えない&大文字と小文字も書けなかったため、アルファベットをなぞるものと、「中学のまとめ」という基本的な文法と単語が書いてある参考書を買った。それと、「英会話に通いたい」と父に言い、近所の英会話スクールに、英語の基本中の基本である『be動詞』から学べる一番下のクラスから通うことにした。

 

 

一日20時間、毎日毎日勉強していた。飯やトイレなどの生活時間以外は、勉強しながら済ませていたので、父に「飯食うときは、ちゃんと食え」とよく怒られていた。

 

睡眠時間は多いときで3時間、少ないときは1時間のときもあったが、「今まで自分が勉強していなかった分を取り戻してやる。他の勉強している奴らは、小さい頃から勉強しているのだからこれぐらい平気だ」と思い、眠くても気合と根性で耐えていた。

 

今まで授業中には寝る、携帯を触る、ダンベルを学校に持ってきて、筋トレをする、ひどいときには授業中にピアスをあける等、好き勝手やっていたが、急に誰よりも集中して、学校の先生の授業を聞くようになった僕の姿を見て、クラスのみんなは「じょーじの頭がおかしくなった」と思っていたが、僕は自分のことに集中しすぎていたため、そんなことを言える雰囲気でもなかったようだった。

 

 

 各科目の授業担当の先生も僕の変化に気づいていた。

数学の授業中に、先生が二項定理を進めている中、僕は分数の足し算や掛け算の違いも分からなかったので、先生に、

 

「先生!分数の掛け算と足し算の違い教えて!」

と話すと、先生は、

 

「ちょっと待っててなさい!後で教えてあげるから!」

と、授業が終わった後、親切に教えてくれた。

 

 

どんどん分からなかったことが分かるようになっていき、『わからなかったことが、わかる楽しみ』を毎日感じていた。

勉強に関して、以前の僕と同じように分からないことだらけだった荒井や翔太にわからないことを『教える』ことで、勉強するモチベーションを保っていた。荒井や翔太にも「わからないことが、わかるようになると楽しいんだぞ」と感じてほしかった。また、そのときに「人は自分のために頑張れることの幅は狭く、自分以外のために頑張れる幅は広いこと」を学習した。

 

~このときの猛勉強時代に、僕が得た主要5科目の勉強方法について触れていきたいと思う。

 この時に僕が得た勉強方法は、のちの塾の教室長になった際に活きることになる。

 

番外編じょーじ流勉強方法について

〇国語の勉強方法について

 

まず、全単元・全科目に共通して言えること。

インプット(覚える・暗記する)とアウトプット(覚えたことを問題演習で出す)の繰り返しをすることで、記憶は脳に定着していく。人間は必ず、覚えたことを忘れてしまう生き物なので、忘れないように何度も繰り返し行うことが必要である

 

〈文章読解力〉

文章問題を読む際に、ただ問題を解くだけではあまり効果はない。国語の読解問題で点数を取るには解き方のテクニックが必要になる。例えば、記述問題で「なぜですか?」と聞かれたら「~のため・~から」と答える。「~はどういうことですか?」と聞かれたら、「~のこと」と答える。問題に対しての答え方に合わせる。「答えの内容は合っているのに、答え方が間違えていたので、〇にならなかった・・・」という惜しいミスは誰しもある。書き抜き問題では完答が大前提なので、「惜しかったね」では済まない。

説明文であれば「接続語」の前後を確認し、小説・随筆であれば「登場人物に丸をつけ、文章中に出てくるセリフを誰が話しているのかをチェックし、登場人物の心情を表す言葉などに線を引く」。こういったことを確認しながら文章問題を解くと、文章全体の流れが理解でき、少しずつ点数が伸びていく。読解力を高めるのは一朝一夕では不可能に近い。国語の勉強は、体作りなどと同じ筋肉トレーニングだと思い、脳のトレーニングの一環だと思う必要がある。国語の文章読解の勉強は、問題を解くためのテクニックを覚え(インプット)、実際の問題で使う(アウトプット)ことを繰り返し行う必要がある。国語の文章読解能力が少しずつ定着すれば、数学や社会、理科の文章題の意味を理解することが段々ととできるようになる。

 

〈漢字〉

覚える必要がある漢字は最低でも3回は書く。ただ、3回書いて覚えることができた漢字をそれ以上書く必要はないが、3回書いて忘れてしまった漢字は書けるようになるまで書いて練習する。漢字の読み仮名は書く必要はなく、読めるようにするだけでいい。漢検も同じ方法でクリアできる。漢字ができるようになる真の目的は「覚えること」なので、だらだらと何度も何度も同じ漢字を書くことはお勧めしない。だらだらと何度も同じ漢字を書いたところで、腕が疲れ、字がうまくなるトレーニングにしかならない。一問一問集中をし、「次のテストでこの漢字が出るかもしれない」と意識しながら覚えることが必要だ。

 

〈暗記単元〉

問題集の答えを全部覚えるまで丸暗記。寝る前に覚えるべき範囲を決め、問題を見て、答えを全て空で言えるようになるまで覚えた後、翌朝起きた瞬間に、昨晩覚えた範囲の問題を見て、もう一度答えを全て空で言えるようになったことを確認し、日々の生活を送る。そうすると、ふとしたときに、覚えた知識や問題の答えを思い出し、「なぜあの答えはあぁなるのだろう」などの疑問点が生まれてくる。その疑問点を解決するために、先生に聞き、さらに知識が増えていく。

〈学生時代まとめていた国語用のノート〉

問題の解き方・答え方・考え方をまとめることが多かった。

 

〇数学(算数)の勉強方法について

 

〈数学的思考能力〉

数学の問題を解くにあたって、文章を読み取って、まずその文章の意味を理解し、それを計算式に直して問題を解くためには国語の読解力が必要になるため、まずは文章読解力のトレーニングが必要になる。

数学(算数)の難しいところは、文章から計算式に直す工程の文章が何を求めているのかを理解することである。ただ、計算式さえ作れれば、解ける。

読解力を上げる以外の数学の問題が解けるようになる方法に、文章から分かる情報を「図や表にしてまとめる」方法がある。文字を図や表に表すことで問題が何を聞いているのか理解しやすくなる。家庭学習では、まず単元ごとの基本的な問題を解き、自分がどの単元が苦手なのかを確認をし、「この問題ではこうやって解く」というような、その問題で何を聞かれていて、どうやって求めるのかを頭の中、あるいは書き出して解けるように練習する。

 

〈暗記単元〉

公式は問題を解くための過程にすぎない。国語と同様に、日々、空で言えるようになるまで、丸暗記をする。

 

〈計算力〉

各単元の公式(解き方)をまず覚えて、公式を使った基本問題を完璧に解けるようにする。問題の読み間違い、マイナスのつけ忘れ、字が汚くて読めなかったなどのケアレスミスは気をつけて書けばすぐに直る。気をつけて書くことを意識する。

〈学生時代まとめていた数学用のノート〉

暗記用の公式や、公式の証明をまとめることが多かった。

 

〇英語の勉強方法について

 

〈単語〉

単語練習は漢字練習と非常に似ている。同じ単語をだらだらと書く必要はなく、真の目的は「覚えること」なので、この単語が次のテストで出るかもしれないと毎回本番を想定しながら単語練習をする。漢字と同様に、何度も何度も同じ単語を書いたところで、字がきれいになるだけである。脳は少し先の未来が簡単すぎる作業だと認識すると、思考が停止し、眠たくなってくる。単語練習は必要以上にしない。

 

〈長文読解力〉

長文問題では文法や連語、単語のような知識問題、さらに本文読解力が問われてくる。ただ、英語の長文読解が、もし日本語で書かれてあった場合簡単に考えられる。長文を読むためには、やはり単語と文法が必須なので、必要以上の単語練習はせず、長文を読みながら単語を覚えていく。また、長文読解の答えは、本文にそのまま書かれていることが多いため、『よく読む』ことができれば間違いが少なくなる。

〈学生時代まとめていた英語用のノート〉

暗記用の構文や日本語だけではわからない、英語の考え方をまとめることが多かった。

国語・数学・英語用のまとめノートは、各科目50冊以上まとめていた。

 

〇理科の勉強方法について

 

理科は覚えたことがそのまま問題の答えになるいわゆる知識問題が多いので、基本丸暗記だが、単語の暗記だけでは平均点以上の点数は簡単には取ることができない。単語の暗記は記述問題に必要なので、記述問題を解くために必要な知識としてとらえる。単語の暗記+記述問題に知識を使って説明をする、また、グラフや図、表の読み取りや文章読解と数学的思考が必要となる。

家庭学習では、まずは単元ごとの基本的な単語の暗記+どういうワードと同じ場所に使われるのか、そのワードがどういう意味を持ち、どういう問題に出やすいのかを結び付けながら覚える必要がある。

グラフの読み取りなどは数学の知識があれば数学的に考えることもできることがある。

 

〇社会の勉強方法について

 

社会も理科と同様、基本丸暗記だが、暗記だけでは平均点以上の点数獲得は望めない。ただそうはいっても用語を覚えないとその先の応用問題に取り組むことができないため、暗記は欠かせない。暗記+その用語を使って文章にし、さらに多数ある表やグラフから読み取り(情報処理能力・グラフの読み取り)や、自分の意見や考えを織り交ぜながら、文章をまとめる能力(記述問題)が必要になる。記述問題での文字数は10~100字とまだまだ多くなる傾向が考えられる。自分の考えや、文章をまとめるには、やはり国語の記述対策をする必要があるため、どの科目にも国語の勉強は欠かせない。~

 

 

ここで、僕のエピソードに戻る。

 

 

 高校入学後、二回目の試験日がやってきた。

 

「この短期間、やれることは全部やった」

 

 

テストは無事終了し、今回はもちろん携帯は持って来ず、全て自力で解いた。どのクラスでも携帯の音は鳴らなかった。

 

 

 テスト結果返却日。

 

テスト結果が返却されるとき、二組では、いつもはたや先生が一人ずつ名前を呼んで、テストの成績表を返していた。

 

僕はテスト結果が気になりすぎていて、心臓がどきどきしていた。

今まではテスト結果など自分にとってはどうでもよく、低い点数を周りに自慢している程、頭が悪かったが、今回は違った。成績返却時に、こんな経験をするのは初めてだった。

 

 

はたや先生がいつもより真剣な顔をしながら、ずかずか教室に入ってきた。

先生が、教室に入って来るやいなや、クラス全員にこう話した。

 

「今日ははどえらいことが起こった。みんなに伝えておきたいことがある。二組の中で『学年一番』を取ったやつがおる!」

 

はたや先生がそういうと、ドキドキしている僕の方を見て、大きな声で、

 

「そうや。・・・じょーーーーじ!!!」

と名前を呼んだ。

 

「はい!」

と僕が言うと、はたや先生は涙を流しながら、

 

「お前や!前に来い!」

 

教室の前に行き、テスト結果を見ると、本当に僕が学年一番の成績を収めていた。

中でも、数学と保健体育の点数が100点だった。他の教科も全て90点以上だった。

前回のテストでは、携帯事件で3科目のテストの点数が0点となり、その他の科目も全て1桁で、学年順位は240人中240位のドベだったので、順位で言えば、239位上がった。

 

先生が泣いている姿がとても嬉しく、僕も泣いてしまった。

 

「先生ありがとう!!!!」

 

僕がそう言うと、教室の一番前でクラスのみんなの目も気にせず、二人で抱きしめ合った。

 

はたや先生は、クラス全員の前で、僕に、

 

「ええか、じょーじ。一位を取ることは実は簡単なんや。一位を『取り続ける』ことが難しいんやで。じょーじならできる。これから高校卒業まで、一位を取り続けてみろ」

 

「わかりました!!」

 

僕はそう返事をし、「次のテストも同じ努力と要領でやれば絶対に一位を取れる」と思い、自信に満ち溢れていた。

この頃から、目標に対して、どうすれば目標達成できるのかどうかを逆算し、今何をすればいいのかを段々と考えられるようになっていった。

 

 

僕が学年で一位取ったことは、先生、生徒の間中で瞬く間に広がり、すれ違う先生全員に「じょーじ!今回テスト頑張ったらしいな。聞いたぞ!」と声を掛けられた。

そのとき僕は、「先生は、結果を出した生徒にしか、褒めたりしないんだな」と感じていた。

 

◇勉強覚醒

 

 勉強モードに切り替わった僕の生活は、面白いほど変わっていった。

 

以前は、学校に持っていくカバンの中にはダンベルや筋トレグッズしか入っていなかったが、その頃から、学校で使う問題集や教科書、辞書、自分で買った問題集を置き勉せず、毎日家に持ち帰っていた。カバンの重さはダンベルを持っていっていたときと変わらず30キロほどあった。そのカバンをダンベル代わりに筋トレをしながら、登下校していた。

 

勉強する前は、隣の人から苦情が来るほど、毎日、洋楽やレゲエをウーハーが効いたスピーカーで、耳が千切れるほど大きな爆音で聞いていたが、勉強にのめりこんでから、洋楽やレゲエの爆音が英語のリスニング音に変わっていった。

父は、その英語のリスニング音を聞いて、「じょーじ大丈夫か?何があったんや?」と逆に僕を心配した。

 

 

 進路面談の時期がやってきた。

僕の面談時間が近づくと、父がピカピカのタンドラに乗って、学校にやってきた。父は、学校内の駐車場の場所が分からず、校門から真正面に学校の中に入ってきた。

いかついサングラスをかけた、作業着姿の父が車から降りると、職員室の入り口から入っていった。そんな目立つ入り方をした父の姿を見て、翔太やクラスのみんなや父を見ていた生徒が、「あの人は誰?」「えっ?じょーじの父ちゃん?!かっこえぇ!!」と窓から叫んでいた。

 

面談の際、はたや先生は僕のテストの結果を父に伝え、父ははたや先生に、「ほんまにうちの子か?」と冗談を交えて、話しており、先生も「たぶんそうだと思います」と笑いながら、答えていた。

 

 

 学校の中で喧嘩をし、不良集団を絞め上げ、先輩からも恐れられ、学校一恐れられていた問題児が、急に学校一の成績を収め、学校一期待される優等生になってしまった事実に、学校内全員が困惑していただろう。

 

僕は、僕自身がどう変わろうが、周りへの接し方は以前と変えなかったが、周りの自分への接し方が変わっていることには気づいていた。

ただ、翔太と荒井とはたや先生だけは、僕への接し方は全く変わらず、以前のままだった。

 

 

◇ダンスとの出会い

 

 ある日、ホームルーム中に、はたや先生から「文化祭以外でダンスをやりたいやつはおらんか。やりたいやつは、学校終わりに武道館に来い」という話があった。

 

先生は、「じょーじと荒井は強制や。必ず来い」と言って、クラスを去っていった。

 

このダンスは、正式な『部活』ではなく、『同好会』という形で行い、普段あまり使っていない学校内にある武道館で、ダンスの練習をしてもいいという許可をもらったそうだった。

 

はたや先生が僕達に『ダンス』をさせたかった理由は、『はたや先生が個人的にやりたい」という理由の他に、『僕や荒井などが今後悪さをしないために、力の出し所にさせたい』という思いがあった。

 

 

 先生に言われた通り、集合時間に武道館に集まると、荒井の他にクラスが一緒だった2人がおり、僕を含めた計4人が集まった。

 

先生が来るやいなや、ダンスのDVDを見せてきた。そのダンスは、当時『モータルコンバット』というグループの『ブレイクダンス』で、とても人間業とは思えない程、超かっこいいダンスだった。

 

心の底から、「やりてぇ!!」と思った。

 

先生は、

 

「どうや。これをできるようになるまで、一緒にダンスの練習せえへんか?うまく形になってきたら、来年の文化祭で披露しようや。おまえらがやるんやったら、武道館を使ってもええと他の先生達から許可をもらっとる。その代わり、やるんやったら、半端なことは許さへんで。休むときも必ず事前に連絡すること。途中でやめることは絶対に許さへん。どうや、できるか?」

と言い、僕はすぐさま、

 

「やる!やらせてください!」

と言った。

 

先生のおかげで、学年一位を取ることができたし、先生がいなかったら、僕はこの学校にいなかったので、「先生の言うことは何でも聞く」と腹に決めていた。

 

他の3人もやるということで、ダンスの練習が始まった。

 

 

そこからのダンス練習は、DVDでダンスの動画を何度も何度も見て、独学で練習していた。その中でも『ウインドミル(床でくるくる回る技)』という技ができるようになるまでが一番大変だった。元々運動能力が高いわけでもなかったので、習得するのに半年間ほどかかった。当時の僕はただのデブで、体重は楽に80キロを超えていた。ダンスを始めて、一か月で20キロ痩せた。ダンス練習は土日も含め、毎日、朝練と昼休憩のときと、学校終わり後に行っていた。

 

 

 それからはダンスと英語と筋トレの3つの軸で、毎日毎日、自分の成長のために時間を使っていた。睡眠時間は相変わらず、一日1~2時間ほどだった。睡眠時間は、僕にとってはもったいなく思えた。

 

 

 そんな毎日を過ごしていると、ある日、朝起きると、目の前がぐるぐる回り、まっすぐ歩けなくなり、救急車で運ばれた。日々、ダンス、筋トレ、英語や他の科目の勉強をしている中で、僕の体は限界を迎えたようだった。

 

 

病院の先生からは「メニエール」という病気を言い渡され、僕は二週間ほど入院することとなった。

 

「メニエール」とは三半規管に異常をきたす病気で、平衡感覚がなくなってしまい、己を追い込みすぎる一流アスリートや、ホルモンバランスが崩れやすい妊婦になりやすい病気だった。入院中の二週間は、トイレにもフラフラになりながら自力で行くしかなく、目をつぶれば目ん玉がぐるぐる回り、吐いてしまい、一日中何も飲めず、食えず、寝れず、と地獄のような入院生活だった。この病気をきっかけに、僕は「一生このままのやり方で続けていたら、いずれ死んでしまう」と感じたため、『努力の方法』を考えるようになった。

 

量よりも質の努力に切り替え、高校1年生の2回目以降の全てのテストで、学年一位を取り続けた。毎回毎回、同じ要領でテスト勉強をしていた『年・月・週・日』のおおまかなスケジュールを立て、一度スケジュールを立てたら、どんなことがあってもスケジュール通りに行動していた。家族で旅行に行っても、旅行先で勉強をしていた。僕には、「まぁ今日は疲れているから休もうか」のような『甘え』は一切しなかった。

 

 

◇タイマン事件

 

 高校2年生の夏になり、ある事件が起こる。

 

翔太とアピタの駐車場裏で話していると、急に6人ほどの暴走族に囲まれた。

二人とも「いつでも来い」と言わんばかりの姿勢を取って笑っていると、暴走族のボス的な存在の一人がタバコを吸いながら、僕達の方に歩いてきた。よく見ると、そいつは中学1年生のとき、僕が野球部の連中とアピタで遊んでいたときに喧嘩を売られた、大男の後ろにいた背の低いやつだった。名前を『原田』と言い、当時、N中のトップで中学を卒業していた。原田は、ニッカを履いていたので、高校には行っていないように見えた。原田は、柳をバックにした地元の不良の中では知らないやつがいないほど大物だった。

 

「おぉ、お前らどこの族?俺らの族に入らん?」

といきなり族に勧誘してきた。翔太と僕は、

 

「このタイミングで勧誘かよ!ふざんけな!誰がお前の族なんかに入るか!」

とキレ気味で答えると、原田は、

 

「なんだお前、今度お前の高校に行ってぼこしたるから覚えとけよ」

と言って、バイクで「ブンブン」と去っていった。翔太と僕は、

 

「おう!俺らはH高校だからな!いつでも相手にしたるからいつでも来い!」

と言った。

 

『先生に恩返しをする』と誓った僕だったが、「校外で喧嘩をし、学校にバレなければ大丈夫だろう」と思い、久しぶりに、喧嘩ができると大喜びしていた二人だったが、その日は喧嘩にならず残念がっていた。

 

 

 それから三日後の学校終わり、いつものように帰宅しようとしていると、高校内でパシリ的な存在のギャル男が僕の所にやってきた。

 

「じょーじ!なんか俺のツレが校門で原田っていう族の総長に声掛けられたみたいで、そいつが言うには、じょーじに、『今日の夜9時にアピタでタイマンはるから来い』って言っとけって言われたらしいよ!」

と僕に言ってきた。

 

学校内の不良グループでは、「じょーじもとうとう原田に目をつけられたか。さすがにじょーじでも原田には勝てないだろう。」と思っていた。原田は、『狂心』という100人程いる暴走族の総長で、素手で車のガラスを割ったり、相手がやくざだろうと、相手が何人だろうと構わず喧嘩をし、今まで誰にも喧嘩で負けたことがないらしかった。

 

原田が、僕にタイマンを申し込んだことは、学校中に瞬く間に広まった。

 

原田のバックには柳がいることは分かっていた。原田に柳をバックに取られると僕が不利になるので、バックにはバックをと、このことをすぐに兄に連絡した。

 

兄は、「おう!わかった!柳が出てきたら、色々とめんどくさいと思うから、兄ちゃんが仲介に入ったるわ!」と言ってくれた。

 

 

 この日は通っていた英会話レッスンもなく、ダンス練習もなかったので、僕は翔太と夜の8時頃にアピタに向かった。

 

二階のフードコートに行くと、兄の友達のけんた君を含む兄の友人達10数名がアピタのフードコートを占領していた。「中一のアピタ事件の頃のようだ」と懐かしんでいると、兄達の輪の真ん中に作業着を着た一際目立つ人がいた。

 

なんと、作業着を着た人は、僕の父だった。

 

一見怖そうな兄の友人達も、父の前ではさすがに頭が上がらず、全員父にへこへこしていた。父の周りは最強の軍団になっていた。その光景を見て、僕は、「やはり、父には勝てない」と感じていた。

 

父に歩み寄り、僕が、

 

「父さん、どうしたのこんなところにいて」

と聞くと、

 

「じょーじが心配やから、来てもうたわ!じょーじがやばそうになったら、相手トラックで引きづり回したるからな!はっはっはっ」

と大声で笑っていた。僕は内心とても嬉しかったが、その反面、なんだか恥ずかしかった。

父は、「また結果連絡して!」と言い残し、フードコートから去っていった。

 

 

 しばらくして、タイマン指定場所の駐車場へ行くと、外には20~30名ほどの暴走族が集まっており、あっという間に僕や兄の友人達を囲んだ。バイクに乗っている暴走族は、「ブンッブンッ!」と吹かしていたり、甲高い声で騒いでいた。

 

暴走族の中心には、やはり柳がいた。

柳には弟がいて、柳弟は当時地元では、「喧嘩がとにかく強い」と知れ渡っている超有名な不良だった。

 

けんた君と兄達は、柳やそこにいる不良達全員に、「この喧嘩はタイマンだから誰も手出すなよ!手出したら、お前ら全員どうなるかわかっとるだろうな!」と言い、柳も以前兄が中学生だった頃の『ブラ連事件』で一度痛い目に遭っているので、兄達の言動には逆らわず、そこにいる不良達に同意を得ていた。その中で柳弟だけは壁を殴って、怒りを抑えていた。

 

 しばらくして、複数の爆音を上げた単車が駐車場に入って来た。

そこには原田の姿があった。

原田は、その場に柳や他の不良達がいた状況を理解していない様子だった。柳から話を聞くにつれて僕が、以前兄と『一悶着あった、兄の弟』だということを理解していた。原田は、僕が中学1年生の頃の『アピタ事件』で、大男が、けんた君や兄に土下座をさせられたことは知らなかったようだった。原田は、今回のことをその瞬間まで『普通のタイマン』だと思っていたようだった。

 

原田は族車らしい装飾のあるピカピカのヘルメットを被っていた。

兄から「ヘルメットに気をつけろ」と助言をもらい、暴走族30名ほどに囲まれながら、僕と原田のタイマンのゴングが鳴った。

 

 

 先手を仕掛けたのは僕だった。

僕が、原田の顔面にハイキックを当てようとすると、原田は左手でガードしようとしたので、途中でハイキックをやめ、右ストレートに切り替えた。見事右ストレートが原田の顎にクリーンヒットした。右ストレートを食らった原田はふらつき、僕は、追い打ちをかけるように左フックを顎にかました。

 

原田が、膝から崩れ落ちた。

かまわず、サッカーボールキックで顔面を蹴ると、横目で柳弟が「俺も行かせろ」と言わんばかりに、柳兄に止められているのが見えた。

原田は既にのびていたが、三回ほどサッカーボールキックを顔面に食らわせた。

「じょーじやめろ」という兄の声に反応し、蹴るのをやめた。

 

頭に血が上っていた僕は、柳弟に

 

「お前もやるんか!来いよ!」

と言い、翔太がそれを見て、笑っていたのが見えた。

 

兄が、

 

「はい。終了!解散!」

と言うと、その場にいた暴走族達は、速やかに解散した。

 

 

帰り際に父に、「勝ったよ!」と報告すると、「当たり前や!お前は俺の子や!」とよく分からない返事が返ってきた。

 

 

 次の日、学校に行くと、僕が原田とタイマンをしたことが、噂になっていた。

不良集団の中には、以前、僕が安藤をボコボコにしたことで、僕に恨みを持っていたやつもいたが、今回のタイマン事件で、誰一人そう思うものはいなくなり、先輩を含む不良全員が「原田に勝った、じょーじには勝てない」と感じていた。その瞬間、僕は「校内で一番強く、一番成績の高い、圧倒的な一番の座を手に入れた」と感じた。

 

ただ、それと同時に、全国模試などの結果を見ると、「根性と気合があれば、喧嘩の強い一番になることができるが、勉強の一番は根性と気合だけでは足りず、まだまだ努力が足りない」と感じていた。

 

 

 その日、学校が終わり、校門へ行くと、単車が三台止まっていた。その中には柳弟と顔がパンパンにはれ上がっていた原田がいた。僕は「さっそく仕返しか」と思ったので、

 

「やるなら場所変えようや」

と柳弟に話しかけると、柳弟が、

 

「昨日はごめんね。君のことよく知らなくてさ。今後君には誰も手を出さないようにするから、昨日のことは許してね。じゃっ!」

と言い、走り去っていった。

 

僕は「は?」と思い、状況がよく分からなかった。

 

家に帰り、兄に事情を話すと、柳弟は以前の『ブラ連事件』の話を知らなかったらしく、柳弟は、『ブラ連事件』のことを聞いてから、僕への対応を考えたようだった。

 

このタイマン事件があってから、僕は地元の不良共から、例外的に顔パスになった。

 

高校内の不良集団の中で、このこともあっという間に広がり、僕が地元で伝説的な不良の柳弟と普通に会話をしていることさえもあり得ない光景だったらしく、原田とのタイマン事件のとき以上に、「じょーじに手を出したら大変なことになる」ということが不良集団の中で浸透していった。

 

 このことがあってからは、コンビニでたまっている暴走族やヤンキーに「じょーじ」という名前を出すだけで、誰も僕に手を出したり、喧嘩を売るものもいなくなってしまい、僕は事実上地元では最強になってしまった。

 

 

◇7股事件

 

 誰とも喧嘩にもならなくなってしまった僕は、より一層、自分がやりたい勉強や筋トレ、ダンスに励むようになった。

 

 

 高校2年生になり、全校集会の中で、部活動紹介をしていた。

僕達のダンス部は、正式な部活ではなく、同好会のような形で行っていたので、部活動紹介の権限は、与えられなかった。

 

体育館のステージの上で、色んな部活のメンバーが高校生のノリで盛り上げ、笑わせようとしているのは感じていたが、僕はあまり面白味を感じなかった。

 

「俺だったら、ステージの上でダンスを踊って、新入生に部活に入りたい!俺・私もこれをやってみたい!と思わせるようにするぜ」と思っていると、茶道部の紹介が始まった。

茶道部は、着物姿を着ながら、部活動の内容を紹介していて、茶道部の中に、とんでもなく綺麗な子が一人いることに気づいた。

 

「こ、こんなかわいい子がこの高校にいたのか・・・。あの子は誰なんだ??」

 

一瞬で恋に落ちてしまった。

 

茶道部の部活動紹介が終わった後、色んな人に茶道部の女の子が誰なのか聞きまくった。

彼女の名前は、『あやちゃん』と言って、学年は僕の一つ下だった。あやちゃんは、僕と同じ中学校出身だということも分かった。

 

 

 ある日、学校でのダンス練習の帰り道に、荒井といつものように家に帰っていると、部活動紹介の茶道部で着物姿だったあやちゃんが、一人で下校していた。

 

「ピキーン!!!」

 

ダンスで疲れ果てていたが、僕の脳内スイッチが一瞬でONになった。

 

「荒井、よく聞け。俺、あの子のことが好きになって、あの子と付き合いたいから、協力してくれ。作戦がある。俺は、あの子と自転車でにけつをして一緒に帰る。そして、連絡先を交換する。そのためには、荒井。お前は一人で帰ってくれ、頼む」

 

荒井は、

 

「ちょ、俺駅まで歩くのにどれだけ時間がかかると思っとるの!・・・っまぁ、じょーじがそこまで言うなら協力したるわい!」

とぶつぶつ文句を言いながら、協力してくれた。

 

後ろから、あやちゃんに声掛けた。

 

「やぁ!一人で帰ってるの??よかったら、送ってこうか?」

ダメもとで、声を掛けてみた。あやちゃんは、

 

「はい、いいんですか??ありがとうございます!!」

と爽やかに、OKをしてくれた。

 

近くで見ると、より一層かわいく、おとなしい印象もありながら、自分のことはしっかり話してくれる、まさに僕のドストレートなタイプの女の子だった。

 

 

あやちゃんとの帰り道に、部活動紹介のことや、普段の茶道部の活動内容や、あやちゃんのことをたくさん聞いて、楽しく会話をしながら帰った。

あやちゃんの家に着くと、勇気を振り絞り、「連絡先を交換しない?」と声を掛けたところ、あっさりOKの返事をもらうことができた。

 

その後、登下校の時間が合うときは、一緒に帰り、何度か遊びに行き、僕達は付き合うことになった。

 

 

 あやちゃんと付き合うことになって、一ヶ月が経った頃、夜中の2時頃に兄が帰ってきて、僕に、

 

「ただいま、そういえば今日じょーじの彼女のあやちゃん?だっけ?兄ちゃんの友達と一緒に遊んでたよ!バイクの後ろ乗って、走り回ってから、二人でカラオケ行ってたよ!」

と言った。

 

「えっ?夜中の2時に兄ちゃんの友達と遊んでる?やばくないか?」

僕はいろんなことを考えた。

「兄の友達に何か言うのか?いや、兄の友達はあやちゃんが僕の彼女だと知らない可能性がある。まずは、あやちゃんに連絡をして直接聞いてみよう」と思い、すぐに、あやちゃんに電話をしたが、電話は繋がらなかった。

 

 

 次の日に、学校であやちゃんのクラスに直接会いに行った。

 

「ちょっと、話があるんだけど、今日時間あるかな?」

 

あやちゃんは、

 

「うん、いいけど、どうしたの?」

といつものように、普通に接していた。

 

ダンス練習が終わり、あやちゃんと会って話をした。

 

「昨日の夜中二時頃、何してたの?」

「ずっと家にいたよ」

「そっか、いや昨日俺の兄ちゃんから、『夜中の2時頃に、あやちゃんが兄ちゃんの友達と一緒にいるところを見た』って聞いてさぁ」

僕がそう聞くと、あやちゃんは急に下を向いて黙りだした。

 

「やっぱりそうなの?俺のこと嫌いになったの?俺に不満があるなら、努力して直すから一緒にいてよ!」

僕が何を言っても、それからあやちゃんは、黙って下を向いて何も話さなくなった。

 

そのことがきっかけで、僕達は、自然消滅になった。

兄が、兄の友達からあやちゃんのことを聞いたところ、あやちゃんには、僕の他に彼氏が6人いたらしい。

「僕は一週間の間で、どの曜日の彼氏だったのだろうか。日曜日だったかなぁ」

 

人生初めての7股をされた経験をした出来事であった。

 

 

◇大学受験

 

 高校3年生になり、進路を気にするようになっていた。

進路は、「将来、弱い立場にある人の手助けになれれば」と漠然に考えており、英語が好きだったので、国際弁護士になろうと決心していた。そのため、大学では、法学部に進学したいと思っていた。法学部は、いわずもがな文系だが、高校の先生から「君は論理的に思考できるから、理系に行くべきだ」と強く勧められ、理系選択をしながら、法学部を目指していた。

 

志望している大学に本気で進学したかったため、学校の勉強だけでは物足りなくなり、予備校に通うことを決意した。「予備校に通わせてください」と、父に頼み込み、「お前の好きなようにせえ」という一言で予備校に通う了承を得ることができた。その予備校は、家から電車を使って、片道一時間程度かかる場所だった。

 

予備校では、学校では絶対に教えてくれないような受験校特有の問題傾向や、対策方法を教えてくれて、予備校に通い出してから、より一層、勉強に励んだ。

予備校に通っている生徒達は、みんな目がキラキラしていた。その子達は、今まで『ヤンキー』とか『ギャル』とか『喧嘩をするようなやつら』とは無縁の生活を送ってきたことが、話をしていてすぐにわかり、自分が、この子達とは真逆の生活を送ってきたことにアウェイ感を感じていた。実際、その子達に、僕の過去の話をしても、信じてもらえることもなかったので、自分の過去を誰にも話さずにいた。

 

予備校に通っている生徒達の勉強の出来具合や、知識量は半端ではなく、予備校での授業中の発言内容やテストの点数に圧倒されていた。僕は、高校1年生から勉強に本気で取り組んだが、予備校の生徒達は、僕なんかよりも、もっともっと前から勉強していたのだから、予備校の子達と僕との間に、知識量の差があることは、当然のことだった。

僕はこのとき、「僕が遊んでいる間、この子達はずっと頑張って勉強してきたのだから、その分、普通の学生よりも5倍も6倍も勉強しないと追いつけるわけがない」と思い、勉強のモチベーションが爆上がりしていた。

 

 大学は4校受験することにした。一番の志望校であった南山大学を目指し、いつものように毎日18時間以上勉強をしていた。勉強中、気合が入りすぎると鼻血が止まらなくなることがよくあった。

予備校で受験した全国模試の結果は、面白いようにどんどん上がっていった。中でも英語が一番伸びた。国語は全科目の中で一番時間をかけて勉強をしていたが、思うように伸びなかった。

〈当時の全国模試成績表〉

 

高校1年生のときに強制的に受験させられた全国模試の偏差値は、英数国で25だったので、全国的に見ても偏差値が、30以上は上がっている。構内偏差値はあてにならないので、割愛する。

 

 

当時は、大学受験にセンター試験があったため、第一希望以外の大学は、センター利用で受験しようと決めていた。

 

 

 ある日、予備校が終わり、N駅でふらふらしていると、路上でダンスをしているグループがいた。とてもかっこよかったので、ダンスをしているグループの一人に

 

「僕も混ぜてください!ダンス教えてください!」

と声を掛けた。

 

「お前よく声掛けたな!根性あるな!いいよ!俺ら、火曜と木曜日に21時ぐらいから、終電まで踊ってるから、来れるとき自由に参加しなよ!」

と心優しく承諾してくれた。

このことがあってから、火曜日と木曜日は予備校帰りに、N駅でダンス練習に参加することにした。たまに、終電に乗り遅れるときがあり、そのときは駅から3時間ぐらいかけて家に歩いて帰ることもあった。

 

 

高校2年・3年の文化祭で、ダンス同好会で練習したダンスを全校生徒の前で披露し、2年連続で、最優秀賞を受賞することができた。1年生の文化祭を合わせると、3年連続、地元の文化ホールでダンスを披露した。

はたや先生が言うように、高校1年生の2回目以降から卒業するまで、全てのテストで、学年一位を取り続けた。そして、高校2年生中に、英検準1級を取得し、TOEIC800点を取得した。英検は、5級から順番に取り続け、TOEICは初めの点数が100点しか取れなかったので、初めの点数から700点上がった。

 

 

 センター試験当日、僕はセンタープレテストよりも高い点数を取ることができたため、第一志望校以外の大学に合格することができた。

 

 南山大学受験当日、今までやってきたことを全て信じ、受験に臨んだ。気合が入りすぎて、試験中に両方の鼻の穴から鼻血が止まらなくなってしまった。

 

 受験が終わり、完全燃焼しながら帰っていると、父から急に「迎えに行く」と電話があった。

帰りの車の中で、父は、「受かっても受からなくても、俺はじょーじの父さんや」と涙ながら語り、車の中で二人でわんわんとマジ泣きしたのを覚えている。

 

 

 南山大学の合格発表日、合否結果をパソコンで確認した。

 

結果は『不合格』であった。

 

しかし、気持ちは清々しかった。もちろん受かるに越したことはなかったが、「自分の努力の限界を超え、最大限発揮し、その実力での結果だった」と納得していたので、正直結果はどっちでもよかった。

 

僕は第二志望の愛知大学に進学することにした。

 

愛知大学には、柔道やラグビーなどのスポーツで実績を残している生徒が多くいた。

~「バックパッカーに憧れて海外に行ったら、殺されかけた話」へ続く~

 

 

最後に

最後までご覧いただきまして、有難う御座いました!!


高評価が多ければ、私の小学生や中学生時代を含めたお話の書籍化も検討しております。

皆様の高評価をお待ちしております!!


 

 

 

 

 

 

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