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13/11/11

僕の人生を変えるきっかけとなった、オーストラリア旅行体験記。その3

Image by Olia Gozha

ケアンズからダーウィンまでの間、グレハンのバスにのり3日程(確かそうだった)をかけて移動した。


長い距離の移動で、若干くたくたになりながらもこれからする仕事” 真珠の養殖 ”がとても楽しみな気持ちでいっぱいでした。

仕事の場所は予想以上にサバイバルな所だった。


真珠の養殖は、日本人が経営する会社。ダーウィンから飛行機に乗り、養殖をを行っているアボリジニの島まで移動するとの事
友人と僕、それと時期を同じくして働くことになっている初めてあったワーホリの日本人女性との三人で行く事になった。

飛行機での移動は、経験が少ない僕なのに島までの移動はセスナ機を使うとのこと。

飛行機が飛ぶ事自体に疑いを持っている僕は、緊張の中、無事に離陸し島までの移動は長時間ではなかったが結局不安感は払しょくすることは出来なかった。


「・・あの・・・・・着陸する滑走路は・・・・どこですか?」


不安な僕に追い打ちをかけるように、更に着陸の際に目を疑った


そう、眼下に広がる地上には、広がる赤土の土地がみえるだけ。

僕の恐怖心は、一層増していった。

まあ、そこはね慣れたもんで何事もなく着地。

三人で飛行機を降りると、1人の男性が迎えに来ていた。

養殖の会社の人で、小柄で無口な方。簡単にいえば西部警察の大門のサングラスをかけた田中邦衛の様なひとであった。

車に乗せられ(僕は、ランクルの荷台)一路、養殖の場所へ。

移動の際も、所々が小川のようになっており、そこにはまらない様にうまい事乗り越えながら移動されていた。

海岸に着くと、養殖の作業をする海上ハウスに移動するため、小さな船に乗せられた。

会場ハウスに到着する挨拶を済ませ、対岸の従業員の生活をする長屋みたいな部屋に案内された。

生活するための文明はあるが、そこは今まで住んだことのないような環境。

3ヶ月間の生活がどんなものになるかこの時の僕には全く想像もできなかった。

意外と船酔いしない自分に驚いた。



意外と船酔いしない自分に驚いた。


記憶があやふやであるが、生活は至って単調であった。



・6時ごろに起床時、海上ハウスへ移動。

・朝食を済ませると、準備をし午前の作業に入る。

・昼食の準備をするものは、11時くらいから海上ハウスへ移動し準備をする

・12時過ぎに昼食。

・昼食後は1時間ほど休憩をし、午後の作業に取り掛かる。

・5時頃、仕事終了。

・夕食までの時間は自由時間で、6時半ごろから夕食。

・あとは自由にという感じ(かなりあいまい)




養殖の仕事の中心的な作業は、パールラインに下げた貝の網を引き揚げ、海上ハウスへと持ちかえる。


持ち帰った貝の網から貝を取りだし、周りについた藤壺などをそぎ落とし、網へと戻した後、再度パールラインに結び、海と入れる。


時期が来ると、真珠の元になる玉を入れる作業があり、それは、専門的な方が作業され、僕らは同じような作業の繰り返し。


時々、深く網を沈める作業があり、その時には大きめのバージと言う船で沖へと出て、船を走らせながらラインにつないだ網を流れに乗せながら海へと落としていく。

以前下ろしていた網を深い沖から上げる作業の時には、網と一緒に見た事もないような気持ちが悪い海洋生物が上がってくるので、生々しく動く姿を見ると気持ちが悪くなるのには、最後まで慣れる事はなかった。


海に出ない時の作業は、船の船底の藤壺をヘラで掃除する作業や、海に浮かべる黒くでかい浮についた藤壺等を取る作業。



これは、退屈ではあったが仲間とたわいもない話をしながら楽しく行っていた。




思いだせば本当に色々な事があった3ヶ月間でした。

作業の時には、慣れてくるとラインまでの移動などの船の操縦をさせていただけた事は楽しかった。結構上手になり、海上ハウスにどれだけスムーズに寄せれるかなど楽しんでいた。


休日には、近くに町等はもちろんなく、欲しいものがあると2週間おきに荷物を乗せた船が来るので、事前に連絡しておく必要があった。


そのような状況であり、主な楽しみは、海岸で魚やカニとりだったように思う。


養殖の仲間に、ソロモン諸島出身で、ニュージランドなどで、生活していた経験を持つ男性がいたが、彼は以前ホテルなどでバンドのショーなどの仕事をしていたとの事を話していた。



僕は、下手ながらアコギを持って行っていたので彼からご機嫌なブギ―を教えてもらったりすることもあった。又、彼は日本のエッチな本が非常にお好みのようで、日本のエロ本は最高だ!とよく言っていた。



又、僕はだいたい魚釣りはしないので、彼から魚釣りも教えてもらった。


つりざお等は持っていないので、ナイロン糸を巻いたリールからナイロン糸に直接針をつけ、そのまま餌をつけ海へと投げ入れる釣り方をしていた。


確か、「あかめ(?)」という魚をよく釣り、時々サメも釣り上げた。


サメは、小ぶりのものでも非常に引きが強く、僕の手なんかは糸で切れてしまう事ももあったが、彼はものともせず、鮫も釣り上げていた。



「サメを食べてはみたけれど、お湯で臭い抜きしないと臭くて、食べれる物ではなかったな~」


あとは、海岸沿いを散歩し、マングローブを見たり、遠くに見える岩場まで探検に行ったりすることもあったが、一度、砂浜を歩く途中に勢いよく目の前を走りぬけたワニに遭遇した事があった。

あの、ワニである。


あまりにびっくりして、立ち止り友人とキョトンとなった事は今でも鮮明に覚えています。

海に入ったワニが、目だけ出してこちらを見ている様子は恐怖でしたね。


あとは、一度だけ養殖場から25km程離れたアボリジニの街まで歩こうという事になり、歩いた事があった。


僕は途中で挫折してしまい、運よく通りがかった方に乗せていってもらい帰宅したが、他の二人は最後まで歩きとおしたから、僕の根性無しはどうしようもなかったな。



そんなこんなで、真珠の養殖と言う楽しい労働は3カ月を迎える頃になり、僕は渡豪した時には、89kgあった体重も、69kg程まで落ちてなかなか良い感じの肉体労働者と言う体になる事が出来た。


伸ばしたひげは15cm程まで伸び、まるで水戸黄門のようであり、自分や友人に切ってもらっていた髪はモヒカンという、上下どっちむきが正しいのか分からない風貌になっていた。




僕が3カ月も迎えるにあたり、一緒に来ていた友人はその後ホームステイの都合もあり、先にダーウィンへと戻った。




そして1週間ほどが過ぎ、僕が今度はダーウィンへと戻るばんになった。



出会い帳という、ノートにそれぞれに一言メッセージを頂き、荷物をまとめ、仲間に別れを告げ、あのいつか来た赤土の飛行場へ。



来る時は3人であったが、帰りは1人。




これからが本当の旅の始まりとなるのでした。






セスナになり、ふつふつとあの時の感情がよみがえってきた。




「飛行機、ほんとうに飛ぶのかよ・・・・ガクガクガクガク」



オーストラリアを車で旅するという、希望を持ちふるえながら、ダーウィンの街へ戻る僕なのでした。


続く。

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