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13/11/9

長野のド田舎を飛び出して、海外駐在員になるまでの話

Image by Olia Gozha

僕は長野のド田舎で育った。

どれくらい田舎かというと、

・近くのコンビニは車で20分かかる

・村内に信号がひとつしかない

・平成の大合併により今は、隣の市に吸収合併された

・小学校から中学まで1学年1クラスで9年間ずっと一緒

・しかもクラスメートは10人そこそこしかいない

とまぁ、田舎を名乗るには十分なスペックを兼ね備えている。


小学生の時は、登下校中に道端の草(食べれるもの)を食べたり、川で遊んだ。冬は雪が降るので、坂道でソリ遊びをして、近所のじいさんに危ないと怒られたりもした。


少し僕自身のことを話すと、1986年生まれで、いまはWEB系の会社に勤めている。高校までは実家で過ごし、その後東京の某大学に入学した。幼い頃から、新しい物好きですぐにいろいろと手を出しては長続きしないので、よく母親からはあんたは飽きっぽいにもほどがあると言われていた。

家族は両親が引き続き長野の実家に住んでいて、兄は東京で仕事をしている。今でこそ長野の田舎に住んでいる両親だが、実は2人とも長野出身ではない。父は横浜、母は新潟で大学時代に東京で出会い、その後結婚して田舎に移住したのだ。移住した理由は、田舎の自然の中で子育てがしたいからだったそうだ。そんな両親の期待に応えたかどうかはわからないが、すくすくと田舎で育った。


ただ、田舎というところは良くも悪くも、自分の世界が狭くなりがちだ。人が少なく、これといった娯楽などもないので仕方がない。しかし、僕はもっと広い世界をみたいと思っていた。そう思っていた理由は三つある。


一つは、田舎にいる必要性がないからだ。もともと他所からきていることもあり、両親はよく僕に田舎にいなくてもいいからと言っていた。確かに親戚が近くにいるわけでもなく、父の仕事も継げるようなものではないので、なんとなく将来は家を出て行くんだろうなぁと思っていた。実際、地元に残ろうとすると、仕事が限られるし到底興味のもてそうな仕事はない。結婚相手だって、子供の頃からずーっと知ってるような相手ばかりだ。そんなところで飽きっぽい僕が何十年も生きていくイメージが湧かなかった。

二つ目の理由は、埼玉に一年転校、アメリカに3ヶ月ホームステイした影響だ。僕は小学校四年の時に、一年だけ埼玉の小学校に転校した。新座市というところで、当時の僕からするとありえんくらい都会だった。正直クラスメート全員の名前を覚えられるか不安になったくらいだ。そして中1の時にアメリカのカリフォルニアでホームステイ。三ヶ月と短い期間だったが、向こうの学校にも通わせてもらったりいい経験をした。このように外の世界をみることができたのは、父が僕を外に出したいと考えてあれこれやってくれたからだ。この経験がなかったらきっと僕はもっと外をみてみたいとは思わなかっただろう。

そして三つめの理由で、僕に一番影響を与えたのは、

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