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13/11/7

僕がF1に興味を抱いたきっかけ

Image by Olia Gozha

F1に出会った中学生時代


【F1オンボードカメラ部】

そんなFacebookページを立ち上げてみたものの、これまでプロフィールらしきものを全く書いていませんでした。

僕がF1を好きになった過去や経緯を書いてみたいと思います。

まずはF1に出会った中学生時代を思い出しながら書いてみます。


■部活は卓球部。

ほとんどの部員が『遊べる』という理由で入部。

部活とは名ばかりで、日々体育館の半分を使い『卓球遊び』をしていた。

卓球=根暗のイメージは全くなかった。

上下関係もなく、自由な放課後を過ごしていた。

そんな自由な体育館はやはり、ヤンキー達のたまり場になっていた。

他の生徒からは恐れられているヤンキー達。

しかし僕ら卓球部はなぜか、いつも一緒にいる普通の友達として関わっていた。

問題児であるヤンキー達と、健全な僕ら卓球部員。この関係性のおかげか、校内には荒れた雰囲気は全くなかった。



■習い事は習字のみ。

両親は『勉強しろ』と口うるさく言うタイプではなく自由に育ててくれた。ただし、字だけは上手になって欲しかったようだ。

当時、書道のコンクールでは『金賞』や『特選』を取っていたので、親の考え通り字は上手な方だった。

しかし、今となっては変なクセがついてしまい『女の子みないな字を書くね』とよく言われる。

■勉強やテスト。

いつもテストの点数は中くらい。

得意な科目は社会。嫌いな科目は物理や科学。

全く理系ではなく、時には赤点を取ることもあった。

しかし、親に怒られるわけでもなく緊張感はなかったので、勉強はもちろんする事はなかった。


■F1との出会い

中学1年。1989年の事。

ある日、友達の家でファミコンのスターソルジャーをしていたところ、その友達の母親が隣の部屋で録画していたF1を見始めた。

そう。友達の両親は根っからのF1好きだったのです。

もちろんその友達も両親の影響で大のF1好き。

僕も、一発で虜になってしまった。そして友達の母親に頼み込み、録画してあったビデオを片っ端から借りた。

それからというもの、毎戦テレビで見て、翌週末発売される雑誌『GPエクスプレス』や『GPスポーツ』を両方購入し読みまくる。更に録画してあるレースを復習するかのように何度も何度も見返した。

レースのある日は、夕食後すぐに眠り、深夜にまた起きてフジテレビのF1中継を見ていた。隣の部屋で寝ている両親を起こさないように暗闇&イヤホン装着だったな。

ゲームもした。ゲームのお陰でコースを覚えることができ、知識も深まったのではないか。

本当にとにかくゲームの中で『走り込み』をしていた。

ヒューマングランプリやF1サーカス、エキゾーストヒートなどなど。

更にハマったのが、アーケードのスーパーモナコGP。フェラーリ640のセミオートマよろしく、ハンドルの裏にパドルシフトがついていた。当時としては驚きだったし、マンセルやベルガーになりきっていた。

■自転車レース

当時はセナやプロスト、マンセル、ピケなどスタードライバーの名前は誰もが知っていた。

F1ブームと呼ばれた80年代後半から90年代前半。

中学生だった僕らは、F1ドライバーになりきり、自転車レースをしていた。

近所の公道でコースを決め、ストップウォッチでタイム計測を行い予選を行う。予選結果でグリッドを決め、決勝レース。

本物のF1と同じく1位から6位まではポイント獲得。

自転車でも皆アウトインアウトのライン取りで凌ぎを削った。

僕は、7段式のチャリに乗っていたので、きっちりギヤを使いこなしコーナーの立ち上がりからストレートまで速く、どのコースでも最速だった。

毎週末、近所のあちこちでテクニカルコースから高速コース、バラエティにとんだコースを作り、20人位で走り回っていた。ところが友達の一人が近所のオヤジさんの運転する車にぶつかりそうになり大問題に発展。

学校にチクられ、各クラスで学級会の議題になってしまった。

結果、校則で自転車レースは禁止になってしまったのだった。



■ラジコン

ウチはどこにでもある中流家庭。裕福でもなかったため、なかなかラジコンを買ってもらえなかった。

自転車レースを『卒業』した友達たちは、次々にラジコンに移行。

近所の潰れたファミレスの駐車場でパイロンを立てラジコンを走らせまくっていた。

僕も『ラジコン買ってー』『ラジコン買ってー』と毎日泣きながら親にねだっていた。

じゃあ、次の中間テストで学年順位が良ければ買ってやる。という事になり、普段は全くしない勉強をしまくった。

親も何か条件をつけたかったのだろう。

結果、許しを得た僕は、タミヤのウィリアムズホンダFW11を買ってもらった。ウィリアムズかロータスしか選択肢が無かった様な記憶がある。

中嶋悟のロータスはキャメルカラー。あまり好きではなかったのだ。

■高校受験

中学校3年生になっても、僕は相変わらず勉強嫌い。

通知表はどの科目も10段階中、4~6、何科目か7とか8もあったが、とことん平均的だった。

まわりの友達との空気を読み、塾には通っていたが、最後までロクに勉強もせず、偏差値『51』の地元の県立高校に合格し、無事中学を卒業した。


部活漬けの高校時代


■スポーツに打ち込む

偏差値『51』の地元の県立高校に入学した僕。

中学時代からの友達の誘いで入部したのは「アーチェリー部」。

日本の弓道とは違い、型や作法は関係ない。

ただただ的の中心を狙い点数を競う、れっきとしたオリンピック種目だ。もちろん的の中心が高得点。

ナンパなイメージだが、かなりの体育会系だ。

小学校の時にサッカー。

中学校の時に卓球。

それなりに部活としてやっていたスポーツはあったものの、どれも何となくやっていただけ。

ところが、このスポーツに何故か心惹かれてしまい、高校生活をスポーツ漬けにしてしまったのだ。

3年間、このスポーツ「アーチェリー」を中心とした生活を送ってしまった。

■マイナースポーツゆえ

この「アーチェリー」、確かにマイナーなスポーツだ。

殆どは高校生になってから始める人ばかり。

しかも県内には「アーチェリー部」がある高校はたったの13校しかない。

日々の練習の成果を発揮する試合は、いきなり県大会からだ。

「アーチェリー」は個人戦。僕のライバルは100名たらずだった。

そこで上位3位に入れば、関東大会に行けた。

さらに関東大会で5位に入れば、全国大会に行けた。

どちらかというと運動オンチな僕。球技は苦手、走るのも速い方ではない。

もしかして、この「アーチェリー」を極めれば、かなりの確率で上の大会に行けるかもしれない。

■新人戦

皆高校から始めた各校のライバル達。

始めての公式試合が10月に行われる「新人戦」だ。

的までの距離は50メートルと30メートル。それぞれ36本ずつを打ち、その合計点を競う。

それまで数々の練習試合に出場して実は気づいていた。

僕と僕をアーチェリー部に誘ってくれた友達。僕らはかなり上手い。

しかも圧倒的に他校のライバル達を凌駕する程の高得点。

これまでになく、一つの事に打ち込んだ成果があった。

迎えた新人戦。当然僕らは、ワンツーで優勝/準優勝を狙っていた。



しかし。



普段はチャリ通学だった僕。

試合会場までは慣れない満員電車。

なんと。

満員の電車内で腹痛を起こしてしまった。

友達には先に行ってもらい、ひとりトイレに駆け込む。

しかし、トイレは長蛇の列。朝の駅のトイレは混むのだ。始めて知った。

ようやく一人の空間に入れた。汚い和式のトイレ。

ずーっとしゃがんでいるが、なかなか腹痛がおさまらず立ち上がれない。

ようやく試合会場に辿り着いたが、時すでに遅し。

試合は始まってしまっていた。

顧問の先生には怒鳴られ、僕は放心状態。

人生で始めての屈辱を味わってしまった。

友達は、普段の実力を出し切り見事優勝。僕は、ただただ応援するしかなかった。



■新人戦後

その後は、これまで以上に練習に没頭。

たった一人で朝練をやり、放課後も夜遅くなるまで弓を引き続けた。

この「アーチェリー」、暗くなると全く打ち込みが出来ない。仕方なく毎日遅い時間まで筋トレをやり続けた。

2年生になり、6月から国体やインターハイの予選があった。

各予選では、満員電車の腹痛に襲われることもなく、無事に試合会場に到着。

結果は、圧倒的大差で優勝。何と2年生にして国体、インターハイに出ることができたのだ。



■国体やインターハイ

さすがに他県からは強豪校のツワモノ達が揃っている。

しかも皆3年生、先輩たちだ。

結果は、惨敗だった。

■全国選抜大会

2年生の3月。すでに3年生は引退しているシーズン。

僕は、同学年のツワモノ達と互角に戦い、5位入賞。

もちろん県内には敵なしの状態だった。

あの忌まわしい新人戦の過去もようやく吹っ切れた。

■ヒーローはセナ

「アーチェリー」に没頭している中でも、F1は欠かさず見ていた。

1992年までは最強のホンダエンジンを積むマクラーレン。僕はセナのファンだった。

翌1993年、雨のドニントン。マクラーレンはホンダの撤退により非力なフォードV8にスイッチ。

スタート後の1コーナーは5位で通過。2コーナーからが伝説の走り。

シューマッハ、ベンドリンガー、ヒル、プロストと10コーナーのメルボルンヘアピンまでに、トップに立っていた。その強烈な走りは20年後の今見てもシビれてしまう。

■セナの死

あれは忘れもしない1994年5月1日。

その年から最強ウィリアムズに移籍。

FW16でイモラを走行中、単独でクラッシュし死亡してしまった。

フジテレビのF1放送では、今宮さん、川井ちゃん、三宅アナ、涙を堪えながらセナの死を伝えた。

■バイクとの出会い

セナの死により、毎戦F1は見ていたものの、以前ほどの情熱は傾けていなかった。

「アーチェリー」に没頭しながらも、実はバイク少年だった。

きっかけは中学時代、共に体育館で放課後を過ごしたヤンキー友達。

彼は中学卒業後、進学せず就職の道を選んだ。

そして就いた職は「新聞配達」。

かなり真面目に働いていたようで、毎朝毎夕、カブにまたがり新聞を配達していた。

バイクにも興味があった僕は、彼のカブに乗らせてもらいスピードの虜になっていった。

校則では免許をとる事は許されなかったし、バイクに乗る事もできなかった。当然見つかったら停学だ。

しかし僕は、どうしても誘惑に勝てず、免許を取り、先輩から3万円で売ってもらった「NSR50」に乗っていた。

■NSR50

このバイクは、通称「走り屋」が好む走りの良いバイクだった。

先輩から売ってもらった時点では、既にリミッターカット、チャンバー交換、エンジンからブレーキに至るまで「フルチューン」されていた。

交差点ではエンジン回転を合わせながらシフトダウン、膝を擦りながら曲がり素早いシフトアップ。どこでも楽しめた。

しかし僕は「走り屋」の世界を知らず、峠などで本格的に走った事はなかった。


■F1から二輪の世界選手権WGPに浮気

セナやプロスト、マンセルのF1に熱狂していた僕だったが、自分がNSRに乗るようになると、二輪の世界選手権(当時はWGPと呼ばれていた)に興味が移ってしまった。

WGPでは、ホンダやヤマハ、スズキといったメーカーのエントリーが大多数。

また、日本人ライダーがF1と比較すると圧倒的に活躍していた。

ポールや優勝はもちろん、坂田和人や青木治親などは125ccで毎年チャンピオンを獲っていた。

その他のクラスでも日本人は強かったし、外国人ライダーもドゥーハンやシュワンツなどのスーパースターが大勢いた。

F1以上に感情移入し、バイクにのめり込んでいった。

■大学受験

勉強面は全くダメというか勉強しなかった。クラスでは常に「ワースト3」。大学受験など考えもせず、整備士になるため専門学校に行こうと決めていた。

けれども幸運なことに、アーチェリー部で圧倒的な成績を叩き出していたこともあり、いくつかの大学から誘いが来た。

「スポーツ推薦」としての誘いだ。

僕はその中で最も強豪校に進学を決断。「アーチェリー」に打ち込めるのであれば、専門学校には行く必要はない。そう考えていた。

そして、その大学に対して、顧問の先生経由で回答してもらった後、形だけの入学試験を受ける事になる。結果は決まっているのだか、形式上だ。

高校時代の試合の成績を顧問の先生に一覧にして大学に提出してもらい、実技試験は免除。あとは形だけの筆記試験。

そこには、既に顔見知りだった全国のツワモノ達も受けにきていた。

皆、形だけだと知らされていたこともあり、入学後の話に花が咲いた。

こうして、クラスで「ワースト3」を常にキープしていた僕も、高校3年生の夏には進学先の大学を決めることができた。



■バイクを買うためにバイト

既に大学進学を決め、部活も秋のインターハイ後に引退。

結果は良くなかったが、腹痛により出場できなかった新人戦を思い出すと、よく立ち直り3年間の部活動をまっとうした。

さて部活を引退後、NSR50からNSR250への乗り換えをたくらんでいた。というのも高校2年から3年になる春休みに合宿免許に参加。既に「中型免許」を取得していたのだ。

NSR250の中古車相場は、当時35万円程度から。

その資金を稼ぐためにバイトに明け暮れた。

高校からは進路が決まった生徒のバイトは許されていた。

選んだバイト先は、スーパーのお惣菜コーナー。学校が終わった後は、毎日毎日お惣菜を作り続けた。

その甲斐もあり、高校卒業直前には、憧れのNSR250を手に入れることができた。

この2ストマシンは鬼のような加速で、コーナーでもペタペタ倒れ良く曲がる。そのままレースに出られるようなマシン。気分はGPライダーだった。

■彼女には寂しい思いをさせてしまった

部活動「アーチェリー」に、「F1」「バイク」「バイト」と濃密な高校生活をエンジョイしていた僕。

さらに「アーチェリー部」の後輩とお付き合いもしていた。

背の低いショートカットでボーイッシュな可愛い子だった。

今思えば思春期の頃、もっと彼女とたくさんの時間を過ごすべきだったのだろうが、優先順位は「アーチェリー」→「バイク」→「バイト」→「F1」→「彼女」だった。

帰り道が同じ方向だったので、部活帰りの自転車デートくらい。彼女には寂しい思いをさせたまま、高校卒業と同時に自然消滅の様な形でお別れしてしまった。

■卒業

卒業式の日の朝。担任の先生から声をかけられた。

「お前バイクに乗ってるだろ。ずっと前から知ってたぞ。でも部活に打ち込むお前を応援していたし、進学も決めたお前を停学にさせなかった。感謝しろよ」

そうだったのか。先生は知っていたんだ。勉強も出来なかったが、先生は僕を応援してくれていたんだ。いつか恩返しをしなければと思った。

本当に感謝しつつも、少し複雑な気持ちだったが、無事に高校を卒業した。


体育会全開の大学時代


■スポーツ推薦で入学

大学に入学!これからはお気楽な学生ライフ!

・・・・とは残念ながら行かない。

何せ大学には、受験勉強などは一切せずに、形だけのテストと面接のみの「スポーツ推薦」で入学してしまったのだから。

■体育会下っ端人生のスタート

昨年までは高校3年生。

悠々自適な生活から、辛く悲しい体育会1年生。

その下っ端生活を「体育会用語とルール」として書きつづってみます。



■体育会用語とルール

挨拶:

後輩は遠くにいる先輩を発見した場合、どんなに離れていても「チェッ!」と大声で言わなければならない。そしてその先輩が近づいてきたら、その場を動いてはいけない。先輩が去って行く時は「シマッ!」と大声で言わなければならない。



しでかし:

部内の下っ端の立場において、様々なミスや失敗をしてしまう事。

「しでかし」をすると先輩の指示で何らかの判決が下る。



集合:

1年生の誰か一人でも「しでかし」をすると「集合」の号令がかかり、連帯責任として全員部室に呼び出される。そして冷たいコンクリートの床に正座させられ、永遠叱られる。ときにはグーやキックが飛んでくる。



タバコ:

誰か先輩がタバコを口にくわえたら、1年生は火をつけなければならない。しかも、自分の足元でライターの火を付け、風で消えないようにもう片方の手をかざし、そのまま上に持ってきて先輩のタバコに。火がついたら、また消えないように足元まで戻し火を消す。先輩が口にくわえるのを見逃してしまったり、万が一、火が消えてしまうと「しでかし」の対象となる。

ごっつぁん:

先輩が食事や酒をおごってくれる事。

先輩より後に食べ始め、先に食べ終わらないといけない。

箸を使う時、醤油などを使う時、必ず断らないと行けない。

「◯◯先輩、箸を使ってもよろしいでしょうか。」「◯◯先輩、醤油を使ってもよろしいでしょうか。」と。

さらに、先輩がこれ食うか?のポーズで差し出してくれたものは、それがたとえ「ワサビの塊」だろうが「魚の骨」だろうが「ごっつぁんになります」と言って、先輩の差し出した箸で食べなければならない。

しかも、食べるに至るまでは、3回断らなければならない。

先輩「これ食うか?」

後輩「いえ、結構です」

先輩「食えよ」

後輩「いえ、結構です」

先輩「遠慮すんなよ」

後輩「いえ、結構です」

先輩「いいから」

後輩「ごっつぁんになります」

おごってくれるのはありがたいが、面倒くさ過ぎる。

アカペラ:

大学生ともなると、新人歓迎会や試合の打ち上げ、卒業式後など飲みの席も多々ある。

1年生は、やはり上記の「ごっつぁん」ルールを守らなければならないが、それと同時に、アカペラで歌わなければならないという仕事がある。部屋の一番下座で起立し、大声&アカペラで歌う。そしてその横には必ず2名正座して次に歌う準備を待たなければならない。

「ごっつぁん」ルールは、酒の席にも適用されるため、「アルコール度数の高い酒」だろうが「ちゃんぽん状態の酒」だろうが、3回断り一気飲みする。これを守らなければならない。

ただし、酒に弱い1年生は、歌を歌い続ければ逃れる事ができる。

ということは、酒を飲まされ続けるか、歌い続けるか。どちらかである。

僕はいつも歌い続けていた。

上記は数あるルールのほんの少し。・・・今考えると、よくそんな事に耐えられたな、と思ってしまうが、人間慣れると意外と出来てしまうのが不思議だ。


■大切な時期に事故、骨折

高校1年生の新人戦当日、僕は腹痛により欠場となってしまったが、大学ではもっとヒドかった。

毎年夏にはインカレの予選が始まるが、スポーツ推薦の僕らは、試合に出場しながらも下っ端1年生なので先輩方のお手伝いや試合の準備をしなければならない。

休憩中に先輩方が飲む冷たい麦茶や試合会場に立てる校旗の準備、得点表の書き込みなど。多岐に渡る。

そんな超重要な予選を前に、僕は半年前に購入したバイク「NSR250」で単独で転んでしまったのだ。さらに最悪な事に右手首を骨折。全治2ヶ月。

折れた右手以外も体中が痛い。しかし、そんな痛みも何処かに行ってしまうほどの恐怖。そう。先輩に報告をしなければならないのだ。

事故をした日は部活はオフ。先輩に電話をしようにも手が震えて電話がかけられない。電話の前で立ち尽くすこと1時間。ようやく報告を行った。

「大丈夫か?」

いや、そんなに優しくはない。

「テメー!なにかんげーてんだー!」が第一声。

「今すぐ来い!」

電車に乗り継ぎ先輩の家に到着。なぜか他の先輩方も集まっている。

「どんな仕打ちが待っているのだろうか」

ところが、キプスを巻き、片足を引きずる僕の姿を哀れに思ったのか、少し怒られただけ。

ただし「卒業までバイク禁止」の判決が下ってしまった。



■試合会場にて

さすがにインカレの予選ともなると、高校時代から知っている他校の有名選手も多数出場している。

皆僕の姿を見て、なぐさめの声をかけてくれる。

片手を骨折し足をひきずりながら、先輩のお茶をくみ、永遠と校旗を片手に掲げ、先輩方の荷物運びをする。

もちろん試合での入賞を狙っていた僕は、惨めで惨めで仕方がなかった。しかし自業自得。全力で部の仕事を行っていた。

■ケガから完治

秋になると僕のケガの痛みも治まり、後遺症もなく以前のように練習に打ち込むことができた。

2年生から卒業まで、昼は部活。生活費を稼ぐために夜はコンビニでバイト。試合の成績も良く、忌まわしい事故から立ち直り、先輩や同期からの信頼も得られて、日々充実していた。

だがしかし、下っ端でコキ使われたこと。バイクで自爆したこと。

あまりにも変化の激しい1年生の記憶が濃すぎて、今はあまり覚えていないのだ。

1年生という下積み生活、今となっては本当に良い思い出だ。



■再度F1に熱中

セナ亡き後、F1から2輪に興味の大半が移っていたが「バイク禁止令」が出たこともあり、またF1に熱中しだしていた。

ベネトンを駆るシューマッハ、ヒルやハッキネン。

やはりF1は面白い。その後のフェラーリ最強時代へと続いていく。

当時から特定のドライバーは応援していなかったが、世界に通用する日本人を待ちわびていた。

■就職

大学生活もアーチェリーがメインだったが、残念な事に時代は不況の始まり。そして就職氷河期。実業団でのアーチェリー部は殆ど廃部になってしまっていた。

その為、卒業後は普通のサラリーマンの道を歩むことになる。

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