ピピピっ!
たまごっちがうんこをした!
じゃーっと流す。
またピピピっとする。
狭い車の後ろの席は、
6歳の子どもが横になるにはぴったりのサイズだった。
カラオケボックスが空いていない日。
もしくは、お客さんが入らないといけない時は、
わたしは駐車場に止められた車の後部座席に寝転がりながら、
たまごっちと「コミュニケーション」をとっていた。
6歳、7歳とは言えども、
初めて来た国に、言語も文化も慣れやしない。
それに、学童は普通平日だけで、
土日に行くとなると、児童がわたしだけとなる。
たった一人の、しかも日本語もあまり喋れない子どもと
長時間二人でいることをしんどいと思うのが普通だろう。
そんな学童の先生を気を使って、
母は基本的に、私をカラオケボックスに一緒に連れて行ってくれた。
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そんなわけで、
「ひとり遊び」が得意技になっていったわたし。
これはもちろん、
色々な意味で私の人生に彩りを与えてくれた
一つの性質でもある。
痛さを感じたことも、冷たく感じたことも、
おかげで創り上げることが出来た世界があることも、
どれもまたかけがえのない事実なのだから。
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この頃の父と母との記憶は、やはり薄い。
1歳で離れた父とは6歳で再会したあと、
またすぐに単身赴任となってしまい。
小学校4年にあがるまで、私の中で
人間としての「父親」はいないものだとされていた。
自分を構成した人たちに対して
自分自身の意識がおぼろげだと、
「自分」さえもが、輪郭のぼやっとした存在に思えてくる。
父と母が当たり前にちかくにいた人にとっては、
その存在が当たり前のようなものであったとしても、
そうではなかった私にとって、
「父と母」の存在が「おぼろげ」であることは、
ちょっとした「恐ろしい」ことだった。
もちろん、それは今、
私がたくさんの「知識」をつけたからこそ、わかること。
でも、ずっとずっと、
あのくまのぬいぐるみを貰った日から感じていたのは、
「わたし、という存在のおぼろげさ」
逃げ出したいくらい、
開けた世界は逆に窮屈だった。
逆に、閉じた世界はわたしにとって安全、安心の象徴。
その代表が、母の連れて行くカラオケボックスの中だった。
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住んでいたベランダに、
いつしかお弁当を捨てるようになったの。
「わたし という存在」が自分の中で曖昧だったのに、
学校に行けば「がいこくじん」の子どもとして
同年代からも先生からも見られるという痛みは
言葉が通じない分、肌でよくよく感じたのだろう。
そんな中、母が慣れない手で作ってくれるお弁当は
当時のわたしにとって「自分を脅かすもの」の一種だった。
具材がまったく入っていない、
お弁当の一段目。
レトルトのハンバーグが一枚だけ入っている
そんな具材の日もあった。
チャーハンだけが入った
食材を入れるようなアルミのパックの日もあったし、
色とりどりのおかずが入った友達の目の前で、
ファーストフード店の照り焼きバーガーを食べることもあった。
「みんなと違う人間」であることが、
「個性」として認識できるようになるには、もう少し時間が必要だったのだろう。
私にとって、いくら母が慣れない文化で
頑張って作ってくれるお弁当であっても、
その中身はまるで、わたしと「それ以外の人々」とを
益々区別するような象徴だったから。
わたしは、よく捨てた。
ベランダの下が、草木の茂った一面だったから、
そこに捨てても上からは見えなかった。
ただ、母にはすぐバレた。
そして、とてつもなく怒られた。
それで泣くこともあった。
わたしたち二人とも、それはきっと別々の理由で。
今思えば、母なりに頑張っていたのだろうな、と
わたしだって目頭を熱くすることも出来る。
でもあの頃、
「自分のお母さん」である、ということも
「自分が、自分である」ということも分からなかった私にとって、
母が泣くことすら、心にとっては窮屈だったのでだろう。
『わたしは、わたしを強く感じたい』
そう思うようになる。
いつしか、自分自身を確かめたい、と思うようになっていった。
その感覚を言語化できたのは、
その事実を受け入れた今だから。
でも、あの時はとにかく、
「おぼろげなじぶん」がこの国で、この世で消えてしまわないように…
そう必死だった。
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そんな気持ちを背負って、
父のもとへと引っ越しをし、新しい3人での生活を三重県ではじめた。
「おぼろげな私、という存在を確かめたい」
という内なる衝動は、父との生活がはじまることで
拍車がかかっていく。
父はしつけが厳しい人だった。
家に帰ってからの一つ一つの行動を、
丁寧に紙に清書し、
字が少しでも汚ければ書き直し。
守らなければ、時には手や足を出されることもあった。
全てを捨てて異国にやってきたひとだから、
自分のストレスの管理方法さえ、掴む余裕も無かったのだろう。
エレベーターから降りた人が、こちらまで歩いてくる数十秒のうち。
最初の2秒だけで、わたしは父かどうか、はっきりと認識することが出来た。
そこまで、父のことを、
「私の存在を、脅かす人」だと思っていた。
カツ、カツ、カツ、カツ、、、、
あの音を聞くと、今でも身体がこわばる。
これはきっと、もう条件反射なのだろう。
あのマンションの、あの一室に今戻って、
父に歩いてもらうだけで、
わたしはきっと、一瞬にして
「12歳のわたし」に戻るに違いない。
躊躇の無いリズムでズカズカと歩いてくるその音は、
わたしの行動を一瞬にして変化させるチカラを持っていた。
全身の筋肉が、いっせいにしてこわばる感じだ。
まず、鞄を見る。
提出物は、全て机に出さないといけなかったから。
テレビの主電源を切る。
夜しかテレビを見てはいけなかったから。
机の上に、宿題を広げ、えんぴつを置く。
それこそが、「うちのスタイル」だったから。
約15秒ほどの時間の中でわたしはそれを全部こなす。
最後に確認するのは、
出口に並ぶ靴のそろい具合。
そして、扉がひらく。
あやしいから、ドアの前には立たないようにする。
父が帰ってくると、私は「こども」になった。
それ以外の一人の時間は、
「誰でもない、おぼろげな人間」だったから。
だから、私はとことん「演じた」
誰かの子どもである、という自分を。
良い子である、という自分を。
泣くことも、喚くことも無かったし、
子どもながらに「ルール」を覚えた。
感情を押し殺せば、ルールはへっちゃらだ。
その無意識のクセは、残念ながら、今にも引き継がれているようだが。
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このままだと何も変わらない、と思った。
変わる必要も無い、と思った。
ただあの日、目に飛び込んできた
「ある一コマ」は、
父の「足音」に匹敵するくらい私を突き動かした。
13歳のとき、わたしが盲腸で入院をしたときのこと。
その頃には、それなりに友達もしたし、
それなりに「普通の中学生」をしていたし。
恋もしたし、
いけないこともした。
泣いたり、笑ったりも、以前よりたくさんあった。
入院した私に、
誰かがある雑誌を持ってきてくれた。
いや、、、雑誌ではなく、
マンガの雑誌だったかもしれない。
それくらい曖昧な印象の一冊だったが、
あるページにこう書かれているのを見て
わたしは、病室で一人
時間が止まったかと思った。
『タレントオーディション開催!』
私を知っている人は、どう思うだろうか。
私を知らない人は、何か感じるだろうか。
ただ、今の私にとって、実はこの日のことは、
あまりにも大事なきっかけ。
恥ずかしながら、
テレビもほとんど見ない、アイドルなんて知らない、
スポーツばかりやっていたワンパクな少女が、
入院中に、「オーディションを受けた」のだから。
変な話だな、と今になって思う。
あの出来事は、本当に大切な思い出なのに、
23歳になる頃まで、忘れかけていたのだから。
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書類が合格するまで、
誰にも言えなかった。
こっそり書いた書類審査用のプロフィールと写真は、
看護婦さんに送ってもらうことにした。
書類は、無事合格。
次は、「歌」か「演技」で審査がある。
わたしはそのとき、初めて
「自分の意思」をそのまま父と母に伝えた気がする。
彼らは快く応援してくれたの!
…そう書けたらいいのだけど。
残念ながら、そうではなかった。
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