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13/11/1

えにしつむぎ 第2縁 『爺と曾祖母』

Image by Olia Gozha

ー現在(いま)を織り成す歴史の糸/手繰り寄せれば重なる人/源(もと)を辿れば溢るる音/胸に掲げし己のこと/此処に息づく曾祖母の魂/粋と気っ風の辰巳の芸者.... 自作曲「Back To My Roots」にある一節にございます。根源なる縁はまずはご先祖から、ということで今回の縁紡ぎは、祖父と曾祖母のお話より。いわき市合併より市の発展に精魂を注いで来た祖父橋本渡は、後に昭和50年よりいわき市助役として10年間就任。子供心に自慢の祖父でありました。「爺ちゃんはな、本当は深川の人なんだよ」の口癖。そう、彼の母親ヤスさんは芸者さん。「辰巳の芸者ってな、純粋に三味線と唄の芸事で暮らす粋なスタイルさ」「お前はヤス母さんそっくり」私、その度に茶の間のモノクロ写真を見上げる。ふうん。

 武家の出身という橋本家の先祖は、関西の摂津の所属(大阪との縁は既にここより?)、武蔵の国(関東)を経て流れ流れて、磐城の国、湯長谷藩(内藤公)に所属。慶応より明治の移りに、武家掃討の追撃で命からがら辿り着いた先は鹿島村...現在の鹿島町下蔵持に土着する事となる。渡爺様のお父様、寛(カン)氏は、やり手の実業家であったらしい。爺様の母君、江戸っ子のヤスさんは小名浜のかつて賑やかであった中島という街で、三味線の師匠として多くの弟子養成にあたったと云う。爺様は子供の頃、周囲から「お師匠さん」と敬愛されるヤスさんを自慢に思っていた。三味線と端唄のお弟子さんが昼夜出入りする家で、自然に覚えた唄も、ヤスさんの前では「ああ、駄目だよ。訛っていてお話にならないね」と一蹴されたと嘆く。深川で産まれた爺様は、実際生粋の小名浜ッ子。ともあれ親譲りで、爺様の声は色気があり、歌は上手いのだ。そう思うと、先祖から受け継ぐDNAも、立派なエニシだなあ...なんて思いませんか。今、この話を綴るにあたり、参考にしている爺様の原稿用紙の最後には「そのヤスさんの芸の美学が、やがてひ孫にあたるひろみに継承されることとなるから不思議なものだと思う」との結び。”芸は身を助く”と口癖のように聞いていた言葉も、私自身、今となって時に身に沁みて、そして感謝するのであった。

余談だが、明治•大正•昭和を跨いで愛された映画館が小名浜には在った。芝居小屋から始まった「磐城座」から「いわき座」へ、そしてグリーン劇場とローズ劇場が併設されたイワキ会館へ。大正の終り、小名浜に娯楽施設が無い頃の話、この磐城座の設立に寛曾爺さん、一役買ったとのこと。爺様の記憶が薄れる前に色々書いておいて、と頼んだ歴史話は想像以上に、小名浜と共に在った人生が描かれていた。さあさ皆様、小名浜のザ•生き字引とは、94歳のこの橋本渡さんの事でございます。...先祖代々、紡ぎ紡がれのエニシ話、第2話結びます。

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