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13/10/28

今のわたしは28才社長みならい。高校時代は・・・

Image by Olia Gozha


「自分を信じる」と書いて「自信」とするのなら

高校生のわたしは、あらゆる面において「自信」のかけらもなかった。


親の進めるまま、中学受験をし。これまた親の期待にこたえるべく進学校へ入学。

中学での勉強は、むしろ楽しく。ただただ勉強をして入った高校は

わたしの中でいつの間にか「ゴール」になっていて、

そこに入学してしまった私は、目標や本来のゴールも見失ってしまっていた。

(と思う・・・なんせ10年も前のお話だ)


周りはそれはもう、各校区でトップクラスの人たちが集まる学校だったこともあり

お察しの通り、わたしはぐれた(笑)

授業中は眠り。部活は辞め。テストでは0点もとり。

記入用紙を窓から紙飛行機にしてとばす始末。

髪の毛もものすごく明るかったし、制服の下にジャージなんてはいたりして

耳はピアスだらけだった。


今もし当時の同級生や担任に会う機会があったら、

是非謝りたいくらいちゃんとしていなかった。


そんな私の「堕落への一方通行」の将来に、ストップをかけたのは親だった。

見かねた両親は、なんと島国ジャパンから、娘を大陸(アメリカ)流しにした。

(つまり半強制的に留学に行かされたわけ)


当時のわたしの気持ちとしてはこうだ。

「ラッキー♥親と一緒にいなくていいし学校いかなくていいじゃん♥」


補足しておくと、わたしの父親は、絵に描いたような体育会系で。

それはもう、当時の私の友達もビビっちゃうくらいの怖い父親だった。

だから、その呪縛から逃れられる留学、というのは、当時の私からすると

「釈放」「自由への飛躍」といった輝かしい言葉で表現された。


ただ。留学は当時のわたしが思うほど甘いものではなかった。

わたしがとばされた地区は、差別もまだ残っていたし。

どちらかというとクローズドなコミュニティだった。

黒人も学年に2人。日本人も1人。アジア系っていっても4、5人。

そんな中で、当時ヤンキーといわれる部類に所属していたらしい私は

ちっともコミュニティになじめなかったりした。


最終的には素敵な仲間ができ、日本に帰国しないための

無駄な努力もしてみたのだけど、このお話はまたの機会にお話しようと思う。


日本から15時間離れた土地で、知り合いも1人もいない状況で過ごした1年。

その間に学んだことは、語学力なんていう簡易的なものじゃなかった。


「人間のつながりの大切さ」


1年も会わなければ、日本の友達ともやっぱり疎遠になってゆく。

当時アメリカで使用していたパソコンにはもちろんのことながら

「日本語入力機能」なんてなかったわけで、FacebookやTwitterだって

もちろんはやってもいなかった。

そんな状況で手紙も書いたり、ローマ字でメールもしたりしたんだけど

やっぱり半年も経てば、届く手紙の数もへっていった。


結局本当に仲のよかった友達数人と。

最後まで毎月仕送りをしてくれたのは「親」だったりしたわけだ。


「なんで、こんなに大切にしてくれる人たちを大切に出来ていなかったんだろう」


泣きながら日本にメールをした。


「お父さん、おかあさんごめんなさい。今まで自分があなたたちにしたことは

 許してといっても許してもらえるものじゃない」と。


この経験は今でもわたしの核となっている。



それから日本に戻り、美容師になりたいとか、家具のデザインを勉強したいとか

さんざんいろんな「いったりきたり」を経て、

結局親のすすめもあり家の近くの「外国語大学」へ進学。


高校時代あまり近くにいられなかったし、留学費用も負担してもらっていた

負い目もあり、家から5分のその大学に通うことに決めた。


高校で英語を勉強していたこともあり、大学の授業は「つまらない」の一言。

後に、きちんと「勉学」というものに興味が持てた4年生時には

「もっとちゃんと先生の話ききたかった」と泣きを見ることになったのだが

1・2年は適当に必須項目だけでて、毎日カラオケにいって、

その合間に家庭教師や塾の講師をしながら(意外にまじめ)

「あーなんか面白いことないかなー」と毎日を過ごしていた。


そんなある日、高校の親友(彼女は大学をアメリカに留学していた)から

1本の電話をもらった。携帯の料金も気になったが、1時間程長電話をした。


「変わりたい」


と彼女がいったその一言が、後にわたしの人生を

大きくフリップするきっかけとなった。


と進められて書いてみたら長大作になってしまった(笑)

もうすぐ出張先の大阪に到着するので、

いったん前編はおしまいにしたいと思います。

続きはまた帰りの新幹線の中で。

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