2万4千年の恐怖と、45億年の悲しみ その10 〜音楽は俺にとって足枷せでしかない。
僕らを乗せた屋台カーは、一ノ関へ向かっていた。
そこが屋台カーのゴールで、そこからは別の車で東京に戻る予定だ。
いつも「愛の実現した世界」を目の端に捉えながら、「音楽は俺にとって足枷せでしかない」とTは言った。
音楽は決まって、愛の世界が実を結ぼうとするその瞬間に立ち現れる。
時に甘美なメロディとして、時に暴力的なリズムとして、時に機械的なハーモニーとして、 巨大な津波のように押し寄せては、愛の完成を阻む。
喉を枯らしてうたを歌い、泣きながらギターを弾き、身体を切り刻んで踊りながら、Tはいつも音楽から自由になる方法を考えている。
「君が『足枷せ』と呼んでいるものを、僕は『境界線』と呼んでいるんだ」
と、僕はTに言った。
自分をある限界に制約しつづけるもの、それが境界線だ。
境界線の上に立ったとき、ひとはその制約から自由になれる。
男女の区別から自由になりたければ、男と女の境界線上に立てばいい。
ナショナリティから自由になりたければ、国境線に立てばいい。
音楽から自由になりたければ、音楽と、音楽ならざるものとの間に横たわる境界に立つしかない。
小鳥の鳴き声は音楽だろうか。
赤ん坊の笑い声は音楽だろうか。
雨や風の音はどうだ。
工場や自動車のノイズはどうだ。
暗闇を照らす車のヘッドライトは音楽だろうか。
出来立てのラーメンの湯気は?
おばちゃんの笑顔はどうだ。
地震や津波や放射能は、果して音楽か。
音楽と非音楽の間にある境界線に立ち、両方をその眼下に見下ろすことができれば、きっと僕らは音楽から自由になれるだろう。
「それはいい考えだね」とT。
先日も、音楽の話で誰かとケンカになったと言う。
「音楽のためにケンカするなんて、完全に本末転倒なんだ」
Tは熱に浮かされたように呟いた。
一ノ関よりかなり手前のガソリンスタンド。
そこで給油したのを最後に、屋台カーは足を止めた。
それまでも停止中にエンストしたり、白煙を上げたり、かなり調子が悪かったのだが、ついにエンジンが掛からなくなってしまったのだ。
セルが空転する改造軽トラックに苛つき、「ちくしょう、この車、全然ダメだ」と毒づく僕に、Tは本気で怒った。
「馬鹿野郎、お前、自分のじいちゃんが死に掛かっているところを想像しろよ。『ちくしょう、全然ダメだ』なんて言えるか?」
愛の対象を、瞬時に無生物にまで広げられるTを羨みながら、 深呼吸して、
「じいちゃん、大丈夫だよ、もう少しだから頑張ろう」と声を掛けた。
たが屋台カーはそれっきり沈黙し、ある境界を越えることをやめてしまった。
バッテリーが弱っていたのかもしれないし、プラグの寿命かもしれない。
いずれにしてもその場で修理できるようなレベルではなかった。
境界に取り囲まれて自由を失った屋台カーはひとり、ディーラーの前で翌朝の修理を待つことになった。
「じいちゃん」に別れを告げ、僕らはもう一台の車へと乗り込んだ。
後部座席に腰を落ち着けた瞬間、僕の意識は背後の暗闇へと落ちていった。