top of page

13/9/12

ひとり旅でフラフラしていたら、超偶然に、某有名旅雑誌のモデルに現地スカウトされてしまった話

Image by Olia Gozha

「キミ、ひとり旅かい?」


「え?はい、そうですけど・・・?」

「『旅の手帖』という雑誌の記者なんだけど、実は今書いてる記事のテーマが『ひとり旅』でねえ。キミ、良かったら、記事のモデルになってくれないかい?」

「・・・・!?」

超偶然に、こんな事が起こったのは、こんないきさつだ。

2010年当時、私はとある事情で大学を休学し、東京に住んでいた。

ある日時間ができたので、ふと自由にきままに、どこか遠くへ出かけてみたくなった。

理由も無く、とにかく北へ。

普通電車で、その日のうちに、行けるだけ遠くまで。

全くの無計画・無目的・無鉄砲なひとり旅。

行った先に何が待ち受けているのか、もちろん知る由もない。

朝5時過ぎに、東京の自宅を出る。

昨夜は豪雪。滑りやすい道の上を、注意深く駅まで慎重に歩いていった。


自宅の最寄り駅から、まずは東京駅へ。

それから京浜東北線で大宮駅へ。その後は順々に、東北本線を北へ北へと乗り継いでいく。


7時過ぎには、埼玉県の久喜に着いた。

途中下車して簡単な朝食を取る。

9時ごろに宇都宮駅へ到着。

その後は黒磯、郡山、福島、仙台へと、順々に電車を乗り継いでいく。


仙台では少し気分を変えて、山形方面へ針路を変えた。

この時既に、夕方の5時。

山形からも北に進み、最終的には夜9時前に、新庄駅に到着した。


しかしその日は、観測史上に残る暴風雪。

雪の中やる事も見つからず、翌日は仕方なしに太平洋側へ向かうことにした。


電車に揺られる中、ふとこんなことを思いついた。

「そうだ、気仙沼のフカヒレを食べに行こう!」

先日たまたま、テレビの特集を見たことがあったのだ。理由はたったそれだけ。



気仙沼には、午後2時ごろに到着。

港町でさっそくフカヒレラーメンを食べ、早くも旅の目的を達成。

後は一人でふらふら街を散策して、のんびり過ごせればそれで良かった。


街中を簡単に散策しつつ、港の近くの手頃な旅館に宿を取ることにした。

部屋で少し仮眠を取ってから、旅館に付属の割烹に夕食を食べにいく。

名物のもつ鍋を食べて、心ゆくまでひとりの贅沢を楽しんだ。


なんでもそこは、雑誌で取り上げられたこともある、名の知れた老舗割烹なのだそう。

そしてその日も、たまたま割烹の取材日にあたっていた。

自分の席の後ろの方で、カメラマンが何枚も店の写真を撮っていた。


でももちろん、自分は全く関係ない。

食事を済ませると、すぐさま自分の部屋に引き下がった。


なんと言っても、2日で優に12時間以上も電車に乗っている。

疲れていたので、もう早く寝たいと思っていた。


ところが部屋に行くと、ポケットに入れたはずのカギがない。

いろいろ探しても見つからず、とりあえず先ほどの割烹に戻ることに。

しかしさっきの席を探しても、全然見つからない。


「ひょっとして、これかい?」

そこには顔を少し赤らめた、陽気な中年のおじさんが。

カギを手にして、こちらに親しげに話しかけてくれていた。


「あ、はい。ありがとうございます!・・・どうもすみませんでした」

自分の後ろの席には、4人組の男性が、宴もたけなわな様子で陣取っている。

恥ずかしさもあり、邪魔をしたくない気持ちもあり、

簡単な挨拶だけしてそそくさと立ち去ろうとした。すると別の男性が、


「キミ、ひとり旅かい?」

「え?はい、そうですけど・・・?」


男性は素早く名刺を取り出し、こう言った。

「『旅の手帖』という雑誌の記者なんだけど、実は今書いてる記事のテーマが『ひとり旅』でねえ。キミ、良かったら、記事のモデルになってくれないかい?」

「え・・・っ!?」


雑誌の記者?記事のモデル??

あまりに唐突すぎて、言葉が出ない。そして全く状況が呑み込めない。


話を聞いてくと、どうやら翌日の取材に同行して、写真のモデルになってもらいたいとのことだった。

太平洋を一望する露天風呂、普段は入れない魚河岸に、リアス式海岸からの絶景、特選レストランでの海鮮料理・・・。

費用はもちろん全て賄ってもらえるし、やることと言えば、写真の被写体としてたまにポーズを撮るぐらい。


「え、でも、僕なんかでいいんですか!?」

「今ちょうど、記事のストーリーをどうするか悩んでいてね。。。旅先でひとり旅の青年と出会って、一緒に旅を続ける。良いストーリーが書けそうだよ!」


最初はうますぎる話に、もちろん疑心暗鬼だった。

しかしそうこうするうち、刺身を勧められ、鍋を勧められ、お酒も勧められていく。

話も旅のことやら気仙沼のことやらで盛り上がり、気づけば遅い時間まで、全員ですっかり意気投合してしまっていた。


4人のうちで一人は雑誌の記者さん、一人は雑誌専属のカメラマンさん、あとの二人は気仙沼市の職員の方だった。その日4人は1日かけて気仙沼を取材していて、翌日は夕方ごろまで、南三陸町の方へ取材に行くスケジュールだった。


1日でも旅の予定がずれていれば、この出会いは全く無かったのである。

ましてや違う旅館や割烹に行っていたり、うっかりカギを落としたなんてことが無かったりしたら、なおのことだ。

結局その日は12時近くまで、ずっと一同で盃を交わし合っていた。

そしてもちろん、私は翌日の同行を承諾。

元より何も予定も目的も無い旅が、こんな偶然で、一気に様変わりすることとなった。



翌朝は魚河岸の取材のため、朝6時に港に集合。

氷点下の猛烈な寒さで、海からは煙のようなものが濛々と上がるほどだった。


魚河岸の中は、ボランティアの地元女性が案内をしてくれた。

記者さんは熱心に話をメモに取り、順序良く淡々と魚河岸の隅から隅へと案内が進んでいく。


私はと言うと、漁業の聞きなれない言葉が多く、また寝起きで極寒の中という事もあり、案内の言葉が半分も頭に入ってこない。


しかし四方八方には、自分のこれまで聞き知らなかった世界が騒然と広がっている。

早朝から活気に溢れる魚河岸に、大量に水揚げされてくるマグロ。

眠気まなこながらも、懸命に一部始終を記憶に留めようと、必死で目をこらし音に耳を澄ましていった。


その後は近くの食堂で海の幸いっぱいの朝食を取り、一行は海岸沿いを南三陸町へと車で向かう。


そこでは南三陸町役場の高橋さん(高橋という苗字は当地で非常に多いらしいので、個人の特定にはならないと思う)が、主に案内役を担ってくれた。


まず行ったのは、日本ホテル100選にも選ばれた、太平洋を一望できる高級ホテルの露天風呂。

湯船につかりながら、モデルらしくいろんなポーズを取って、何十枚もの写真を撮ってもらった。


撮影後はもちろんゆったりと温泉を満喫。

水平線のかなたまで広がる海を眼下に、これ以上ない至福なひと時を過ごした。



その後は高橋さんの案内のもと、南三陸町の海岸線をドライブ。

その途中の神割崎というところで一度下車し、しばらくの間太平洋の景色を満喫。



道中は高橋さんから、地元のいろいろな話を聞き知ることができた。

南三陸の海で、なぜアワビやホタテを養殖できるようになったのか。森と海の生態系がこれまでどのように発展してきたのか。神割崎の名前の元にはどういう伝承があるのか、などなど。


さらにカメラマンさんや記者さんからも、雑誌の編集の話やらカメラの撮り方の話やら、普段聞けない色々な話を聞かせていただくことができた。


興味津々で道中を過ごしつつ、お昼は近くの食堂に行き、海鮮フルコースのランチメニューをおいしくいただく。


その後は南三陸町志津川地区の、「おさかな通り」という場所に向かった。


南三陸町で目下開発中のエリアで、将来はここを拠点に、志津川地区の観光を盛り上げて行くプロジェクトが進んでいるところだった。


私が訪れた時もちょうど、地元の代表者や役場の人たちが、真剣な会議を開いていた。

おさかな通りではいくつものお店を訪れ、そしてその度に、店の人たちが親切にいろいろな話をしてくれた。


お土産に魚肉の燻製もいただき、さらに地元で評判のお店で、特産の「キラキラ春告げ丼」を食べさせてもらった。

(*この写真はhttp://www.miyagi-kankou.or.jp/wom/o-10019より。その他写真は、全て道中に私個人のカメラにて撮影)


何もかも至れり尽くせり、願ったり叶ったり、海の幸と絶景と人の優しさを味わい尽くした1日だった。


旅の記者さん・カメラマンさんは、その日夕方4時ごろ東京へ発つことになっていた。

振り返れば出会って24時間も経っていないのだが、非常に濃密な時間で、これまで何日もずっと一緒に過ごしたかのような感覚があった。

私は何度も何度もお礼を述べ、二人とお別れをした。

(ちなみに今回の旅の記事は、旅の手帖の2010年4月号にて掲載された)


お二人を見送った後、高橋さんから「良かったら、ちょっと町を案内しようか?」と言っていただけた。


私はこれまででも十分すぎるほど案内して頂いたと伝えたが、結局は高橋さんのお言葉に甘えさせて頂くことになった。

高橋さんには、南三陸町志津川地区を、一通り車で案内してもらうことができた。

志津川地区は南三陸町で最大の地区で、町の役場もここにある。

町の中をぐるっと回り、港の陸揚げ場と(その日の作業が終わり、機械などがしまわれているところだった)、町の役場の中にも案内していただけた。

案内の途中で、道に高さ3メートルほどの開閉式ゲートが長く続いていることに気が付いた。

これは何なのかと高橋さんに聞いてみると、地震の時の津波を防ぐ防波堤なのだという話だった。

大昔から津波の被害のある地域なので、こうして町を守る工夫を随所に凝らしているのだという。

私はその時、なんて周到な準備を至る所にしているのだろうと、すっかり感心してしまった。

自分の住む町に、そのようなものは無い。地域特有のそうした工夫の一つ一つが、その時は本当に新鮮に感じられた。


南三陸町役場に着くと、高橋さんは業務中にもかかわらず、遠慮なく私を中に通して色々な話をしてくださった。

まず出されたのは、町の特産品として目下商品開発中の、「お魚クッキー」。

これに限らず、今現在いろいろな方面で商品開発やらプロジェクトやらで、町を盛り上げようとしているのだということ。


「何かいいアイデア無いかな~」と首をかしげる高橋さん。

陽気でコミカルなところがあり、とても親しみを感じる人柄だ。


そして南三陸町に対する思いは、きっと、誰よりも強い。


高橋さんは道中ずっと、南三陸町と日本の他の市町村が共同で取り組む、青少年の国内交換留学プログラムの話をしてくれた。

南三陸の自然を、日本の青少年の教育に活かす術があるのではないか。

今とはもっと別の方法で、南三陸の資源を活かす方法があるのではないか。


しかし過疎の町村によく見られるような、お互いを削り合うような競争については、高橋さんは反対だった。

自分の利益だけを考えるのではなく、南三陸町が、広く日本のためにどう役に立てるかを考える。


「人もいない。町も小さい、地の利も悪い。だけど、プライドだけはある」


高橋さんの言葉で、私の胸に一番強く残っている言葉だ。



その後高橋さんは、「良かったら、今夜うちに泊まってきなよ!」とまで勧めてくださった。

しかし翌日が、たまたま高橋さんのお子さんの高校受験の日にあたっていたらしい。

電話口で、「『そんな日に何言ってるの!』って嫁に怒られちゃってね~」とおちゃめな返答。

本当に申し訳ないと何度も謝っていただけたが、私は元より気仙沼に宿はあるし、これまで十分すぎるほど様々なお気遣いをいただけた。

そして今日1日、快く色々な案内をしていただけて、本当に心から感謝の気持ちで一杯だった。


高橋さんに別れを告げ、私は一路気仙沼に戻る。



翌日は一人で気仙沼を悠々と観光。考えてみれば、ようやく一人旅らしく、悠々自適な時間を過ごすことができたかもしれない。



夕方に気仙沼職員の方から電話をいただき、「飲みにでも行こうよ~」とお誘いをいただく。

まずは気仙沼ホルモンの焼き肉店でご馳走になり、その後近くの寿司屋さんでもご馳走になる。その後は(人生で初めての)スナックにも連れていってもらい、一同でカラオケを一緒に熱唱したりもした。




なぜ、そこまで良くしていただけるのか?

自分はたまたまふらっと町を訪れただけだし、何か特別なものを持っているわけでもなければ、何かができるわけでもない。


本当に、地元の方々の、人の良さなのだ。

ホスピタリティに溢れ、心から楽しい時間を過ごしていってほしいと思う、真心や気遣い。

そうしたものに心行くまで触れることができ、また始終様々な体験をさせていただけて、私は本当に幸せだった。


この旅で受けた様々なご恩を、いつか必ず、何らかの形で返したい。

そう心に誓い、私は3泊4日の後に、気仙沼を後にすることとなった。

1年半後、私は思いもよらない形で、同地を訪れることになる。


私は震災の知らせを、イギリスで受け取った。

津波が全ての建物を飲み込む、おぞましい光景。

見覚えのある景色が、波に飲み込まれ、炎に包まれ、瓦礫の下に崩れ去っていく。

そんな光景をひたすら、パソコンに嚙り付いて見守ることしかできなかった。

ただ自分の無力を感じ、そしてひたすら、1人でも多くの人命が救助されることを願った。


同年6月末に大学を卒業し、帰国した私は即座にボランティアで南三陸町を訪れた。

メディアで予め見たとはいえ、この目で直に見ると、変わり果てた街の姿は凄惨を極めていた。

実際に町を歩き、鉄骨だけになった役場にも訪れた。

2年前に訪れた港や町中も、建物が無くなっていても、自分が以前訪れた場所だとしっかり認識することができた。


しかし、当時お世話になった方々の、安否は確認できなかった。

というよりも、安否を確認する勇気さえが、そもそも起きなかったのだ。


震災から2年半が経つ今、被災地はまだまだ復興からはほど遠い。


そんな中、今の自分に何ができるのか。一人でも多くの人が幸せを感じ、元気になり、人の温かみを感じて生きられるために、自分は何を成すべきなのか。

そんな事を考えながら、今回この記事を書かせていただくに至った。


この記事を通して、気仙沼・南三陸町の魅力が一人でも多くの人に伝わることと、高橋さんの「プライド」が復興において一人でも多くの人に受け継がれていくことを、心から願っている。

またこの記事を読んでいただけた方には、今一度被災地の現状に目を向けて、その上で今の自分に何ができるか、少しでも考えを巡らせていただければ、幸いに感じる。

当時お世話になった方々に改めて謝意を奉げるとともに、震災で犠牲になった方々の御冥福を、改めて心からお祈りしたい。

←前の物語
つづきの物語→

PODCAST

​あなたも物語を
話してみませんか?

Image by Jukka Aalho

フリークアウトのミッション「人に人らしい仕事を」

情報革命の「仕事の収奪」という側面が、ここ最近、大きく取り上げられています。実際、テクノロジーによる「仕事」の自動化は、工場だけでなく、一般...

大嫌いで顔も見たくなかった父にどうしても今伝えたいこと。

今日は父の日です。この、STORYS.JPさんの場をお借りして、私から父にプレゼントをしたいと思います。その前に、少し私たち家族をご紹介させ...

受験に失敗した引きこもりが、ケンブリッジ大学合格に至った話 パート1

僕は、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ、政治社会科学部(Social and Political Sciences) 出身です。18歳で...

あいりん地区で元ヤクザ幹部に教わった、「○○がない仕事だけはしたらあかん」という話。

「どんな仕事を選んでもええ。ただ、○○がない仕事だけはしたらあかんで!」こんにちは!個人でWEBサイトをつくりながら世界を旅している、阪口と...

あのとき、伝えられなかったけど。

受託Web制作会社でWebディレクターとして毎日働いている僕ですが、ほんの一瞬、数年前に1~2年ほど、学校の先生をやっていたことがある。自分...

ピクシブでの開発 - 金髪の神エンジニア、kamipoさんに開発の全てを教わった話

爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこと...

bottom of page