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Young Americans for Freedom(自由を標榜するアメリカの若者達)が組織した反共団体が、1962年、 ニューヨーク市の有名なマディソン ガーデンで大々的に、自分達が後押ししている 未来の大統領候補者とみなされていた、バーリー ゴールドウオーター(Barry Goldwater)のもとに馳せ参じた。
この時すでに、極端な右翼派と陰謀論者が保守的共和党内で、入り混じってしまっていた。
ビーチ会員達や極端な保守主義者達が、ゴールド ウオーター大統領候補者のもとに結集してしまったのだ。
1964年、正式にゴールド ウオーター氏が大統領候補者に名乗り出ると、 極端な右翼派もいつの間にか政党の主流派に踊り出ていた。
反ユダヤ主義や人種差別を全面に出す事で、ゴールド ウオーター旋風が全米に吹き荒れ、もともと民主党であった南部の数州が、共和党に寝返ってしまったほどだ。
ゴールド ウオーター氏は選挙には敗れるが、 陰謀論者、極右翼派などに自信を持たせ、政治面に大きな影響を与える機会を与えてしまった。
1966年、ロナルド レーガン氏はカリフォルニア州知事候補になる事を検討中であった。
カリフォルニア州の富豪達や右翼の人達はレーガン氏こそが、自分達の適切な代表者であると意気込んでいた。
彼は1937年、ワーナー・ブラザース映画会社の映画に端役で出演した。
レーガン氏はもともと、ニューディール政策を実現した民主党で、フランクリン ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)派であった。
映画俳優組合の責任者に就任、ハリウッドの映画スターとして活躍するようになった。
第二次世界大戦後、 レーガン氏は映画俳優組合でも、 共産主義者がこっそりと組合組織に入り込む事を懸念した。
彼が何度も、「1970年は、自由を謳歌する世界到来か、全人類が奴隷に成り下がるかの過渡期である。」と、公言した。
この頃、共和党の主流派は、極右翼、陰謀論者やバーチ会から距離を置こうと努め始めたが、カリフォルニア州はバーチ会の活動が活発で、州内の共和党はバーチ会を擁護する傾向が強かった。
ゴールド ウオーター氏の政策表明と似たような政策を掲げていたレーガン氏が、カリフォルニア州知事に選出された。 全米の選挙結果も共和党が議席を増やした時期であった。
1968年に共和党候補者として、ニクソン氏が名乗りを上げた。 全米を見渡すと、この時期は市民権運動、大都市での暴動、黒人の権力要求、ベトナム戦争反対運動、大学構内での学生運動、労働運動、男女平等に対する強い要求等があった。
その上、麻薬問題、性の自由化、宗教上の対立、伝統的文化への反逆等、文化面全般に対する反目も起こっていた時期であった。
幾多の内紛の後、ニクソン氏はスパイロ アグニュー(Spiro Agnew)と組む事で、正式に共和党の大統領候補に選ばれた。
ニクソン氏は選挙演説で、「米国が二つの国、すなわち、黒人の国と白人の国に分断する危険が増している。」と訴えた。
時代背景を考慮に入れて、ニクソン大統領候補は「法と秩序」の重要さを強調し続けた。
僅かな差ではあったが、 ニクソン新大統領が誕生したが、 影では人種差別容認の態度を保持して、票の獲得に邁進したのだ。
米国内の問題である人種差別にガソリンをぶっかけるような演説も行い、極右翼の票も物にした。
1970年、ニクソン政権下、カンボジアに戦争の火の粉が広がって行った。
米国内の路上では反戦デモ行進が増え、その動きに対する弾圧も強化された。
民主党から労働者を引き離す戦略に出た共和党とニクソン大統領は、学生運動に反対する労働者の暴動には片目を瞑り、学生運動には厳しい制裁を加えた。
最終的に、ニクソン大統領の本当の狙い通り、共和党政権の目的は、無口で目立たない白人のアメリカ人を自分達の方へ引き寄せる事であった。
国税庁に命令を出し、 政治的反対派の重鎮の収入源等を極秘に審査する手段にでた。
このような裏の手に関しては、アメリカの一般市民全く無知であった。
再選を狙うニクソン大統領並びに共鳴者達は、どんな汚ない手段をも用いてしまったのだ。
例えば、1972年、民主党の政治事務局のあったウオーター ゲートにこっそり侵入した事件等、汚い手段も多々使用したのだ。
結果的に、ニクソン大統領は大統領職の半ばで辞任に追い込まれてしまった。
1975年に、カリフォルニア州知事であったレーガン氏が、大統領候補者として政治の全面に姿を現した。
参考文献、「American Psychosis」
著者 David Corn
出版 2022 年