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大丈夫という人ほど、大丈夫じゃない

Image by Olia Gozha

自分は、過去30年以上、”いい人”として生きてきた。

世間一般で考えられる”いい人”とは、いつもニコニコしていて愛想がよく、無理なお願いをしても殆どのことを頼めばやってくれる。ちょっかいを出しても笑い飛ばし、いじられキャラとして一見愛されているように見える。優しく人当たりは良いのだが、本人は意見を発しないのでその場にいてもいなくても分からない空気のようなそんな存在。

正に、私はこのタイプだった。

周囲からは、とにかく明るい人と言う印象を持たれていた。悲しい感情、辛い経験なんかしたことないでしょー、と言われることも度々あったし、過去に自分が書いていたブログを読み返してみても「ポジティブ・夢・人生謳歌してます」アピールが強烈に描かれている。今思うと綺麗事や夢、周りへの感謝や尊敬の言葉をつらつらと並べていて、どこか人間味に欠けている。それを既に見抜いている読者もいて”もっと本音で書いて欲しい”なんてコメントもあった。当時の私には、ネガティブなことを発信すれば嫌われると言う恐怖心から、常にポジティブな姿勢を保とうと必死だった。

八方美人で周りに合わせすぎてしまう人というのは、誰しもそうなりたいからそうしているのではなく何らかの原因があって、そうなってしまっている現象だろう。

幼少期


私は承認欲求が誰よりも強い人間だった。5人兄弟で育ち、一番上の姉は自閉症。どうしても親は姉の面倒を見ることで必死だったし、私はそんな姉が凄く羨ましかった。子供ながらに親の愛情を独り占めにしたいと思うことは、普通だろう。”一人っ子だったら良かったのに・・・”とボソッと母親の前で呟いたこともあるが、大抵そう言えば”姉は弱者なんだから、周りが面倒を見てあげることが大事だ”と教えられた。勿論正論ではあるし、姉の存在があったからこそ障がい者への理解も深まった。だけれど、やっぱり自分の一部は愛に飢えていたし、甘えられるのであればもっと親に甘えたかった。

他人軸の幸せ

そして姉は、兄弟の中でも特に私のことを慕ってくれていた。姉と一緒にお出かけをしたり、養護学校や施設のイベントで親の代わりに私が姉の同伴者として参加することもあった。6−7歳ほど離れた年下の妹だったが、姉の世話をする時にはいつも母親は褒めてくれたし、周りの人からも”本当にしっかりしてて偉い妹さんね
〜”と言われ、そう褒めちぎられることが嬉しくて堪らなかった。自分という存在を認めてもらえる、そんな瞬間だった。

そして気づいたら、自分は条件付きでしか自分の存在を認められない状態に陥っていた。理不尽なことがあったり、やりたくもないお願いことをされても、NOと自分の感情を表に出すことが決してできなくなっていた。

もう自分は完璧な”いい人”になっていったし、そんな自分に嫌気が差してはいるものの人に嫌われたくないから我慢をしていた。

自己犠牲

ルームメイトから金品を盗まれたり、クラスの子が私の作曲の宿題を完全にコピーしても、誰にも相談しなかった。というのも学校にそのことを言えば、彼らクラスメイトは退学になる=自分がチクったことを恨んでくるという恐怖心から。またピアノのコンクールや試験で自分が焦っている時でも、友人が私と遊びたいと言ってくればその誘いには乗ったし、相談役として自分の時間を犠牲にしてまで付き合った。遊び終わってから、睡眠時間を削って夜中練習室に籠もったことも何度かある。

他の人が私のことを頼ってくれた。ちょっとくらい私が犠牲になっても他の人がちょっとでも幸せになったのであればいいかな・・・といつも無理をしてしまっていた。

どんなことをしても文句も何も言わないし、頼めばなんでもやってくれる。多くの人にとって非常に都合の良い利用のできる人だったわけだ。友人と遊ぶときは、聞き役に徹し、自分のことは殆ど話さない。なので第一印象は非常に良くてもそこから深い関係の仲にいたる友人は少なく、広く浅い付き合いが殆どだった。

愛の飢え、食の飢え


そして恋愛に関しても、甘えられる人が欲しくて恋人にはどっぷり依存した。昔から自分の存在を認められたい欲求が人一倍強かったため、恋人から求められることが何よりも嬉しかった。大学時代4年間付き合い、ほぼ結婚しそうなところまでいった彼には、長年の間理想の彼女像を押し付けられていた。着ていい服装、履ける靴の種類、遊んでも良い友人のリスト、また守るべき体重の数値も決まっていた。その上、毎日彼の前で体重計に乗ることを命じられていた。

身長163cmある私だが、50kgを越えれば肥満とレッテルを貼られ、ダイエットを強要させられた。毎食バナナ一本と水だけを摂取する食生活を1週間続け、一気に5kg以上落としたこともある。一度38kgにまで落ちたときは、肋骨がくっきり見える状態になり、生理も一時期止まった。

”痩せている君は本当に可愛い、一生愛するから”

その言葉を聞きたいから。愛されたいから。そんな一心で、自分は相手の理想に近づけるよう努力したのだ。恋は盲目というが、正に自分はその状態だったと今になってから思う。

カウンセリングへ

恋愛や対人関係をこじらせている自分に嫌気が刺し、勇気を出して、初めて心理カウンセリングに行った。もう既にこの時、二十代後半だった。そこでまず私がセラピストに言われたことは、

”何十枚もの笑顔と言う名の仮面を着けている”

ということ。

そして、その仮面を装着していることに慣れてしまい、負の感情に対して麻痺してしまっていると言うことに気づかされた。自分の肌は、呼吸することさえも忘れてしまっていたのだろう。

”何でもいいから、話してみて” 
”怒った感情の時のことを思い出せる?”

と聞かれても、”まあ、こんなことはあったけど結局大丈夫ですよー”なんてセラピストの前でも愚痴を言えなかった。でも回数を重ね、やっと自分の負の感情を言葉にして他人に伝えられるようになった時、心の中にずっとあった重い空気のような塊が自分の中からフッと抜けるような感覚を覚えた。本音で話してもいいんだ。逆に本音で話さなければ他人には、何を考えているか分からない人になってしまって逆に悪印象なんだということにも気づいた。

嫌われる勇気を持つこと

結局だいぶ大人になってから、このことに気づいた自分だがここ最近は自分の幸せを軸に行動ができるようになった。勿論ここまで至るには、長い時間がかかったし、この記事を家族や友人に見られる可能性があることも承知している。今までの自分だったら、相手のことを非難するようで傷つけたくないという思いから、このようなことをオンライン上に書く勇気もなかった。

どんなことも始めは小さな一歩から。

私の場合は、まずは気兼ねなく話せる関係にある婚約者から始めてみた。自分が食べたいもの、週末に行きたいところなど相手に頼らず自分から率先してプランを提案することから始めた。

人から頼まれても、できないことはできないと断る。
遊びの誘いも、気分が乗らない時には行かない。

結果、自分は無理しない関係で友人と付き合え、相手も本音で向き合ってくれていることをわかってくれるので信頼してくれるWinーWinの状態になる。

他人は、変えられない。変えられるのは、自分だけだ。

自殺に関するニュースを見れば、大抵インタビューされている側の人たちは”全くそのような素振りは見せてなかった”、”いつも明るくて、人当たりの良い人”、”まさかあの人が命を自ら断つなんて想像できない”というのが大半だろう。きっとその人たちも負の感情を発散する場所を見つけられず、必死に我慢をしていた”いい人”達ではなかったのではないだろうか。子供の頃、悲しい時に悲しいと言える人が自分にとっては、すごく羨ましかったのだから。

大丈夫そうに見える人ほど、意外と大丈夫じゃないと思う。

もしこれを読んでいて、ちょっとでも思い当たる点があったら今日から脱”いい人”を目指そう。本音で話して、嫌われたのであればそれは貴方にとって無理してまでキープしていく必要の無い存在。

”全人類に好かれる必要なんて無いんだよ。まずは自分のことを好きになってあげよう”

と子供の自分に言い聞かせてあげたい。

ここまで長い文章を読んでいただいた方には、心から感謝を。そして自分が今こうして生きていられるのも家族や友人、たくさんの人の支えがあったからこそである。

少しでも共感していただけたのであれば嬉しいですし、誰かの励みになれば幸いです。長い間海外生活をしており誤字脱字、おかしな表現が多々あるかもしれませんがお許しください。

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