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子供がいれば、当然、20代や30代になり、自然の成り行きで、結婚して子供が生まれるケースがほとんどだ。
気がつけば、 私の場合、一人娘はいるが、 結婚して子供が生まれると言う単純な道筋を通らず、
私はあっと言う間に、後期高齢者の仲間入りをしている事に遅まきながら気がついた。 反応が遅い。
孫がいれば、自然と50代か60代には「おばあちゃん」と呼ばれるようになり、 自分が高齢者の仲間入りをした事実を直視しやすい。
25歳位の孫がいて当然である年齢に達しても、 まだ、本人は自分の年齢の現実感が少ないように思う。
60代の中頃には、退職者になる人々が多い時代、自由業と言う時間的に自由度の高い仕事であった関係もあり、また、我が家の経済的理由なども重なり、 75歳まで連続的に通訳業を続けた。
そのため、連続的に社会との接点があり、勉学を続けざるを得ない状況の下、誰からも「おばあちゃん」と呼ばれる事もなく過ごしてしまった。
そのためか、あと三か月で、満80歳になる自分が、何処かで、本当の自分の年齢を信じられない部分もあるから不思議だ。
人の話によると、「私は生まれた時は弱々しく、普通の幼児より、歩けるようになるのが遅かった。」とか。
小学入学時の身体検査で、小児結核と診断され、小学校低学年の時は、体操の時間は見学していた。
祖父は毎月、仙台市にあった、逓信病院に診察に連れて行ってくれた。 ペニシリンなどの抗生物質のお陰で、小学校3年生の頃から、健康を取り戻し、体操の時間も、お掃除の時間も、普通に参加できるようになった。
高校時代に、黄疸で二週間程入院、中学教師時代、盲腸炎で入院した。
カリフォルニア州サンディエゴ時代、カイザー病院で娘が産まれたが、 帝王切開、米国病院の細菌の総攻撃に会い、米国では珍しく、三週間と言う長期入院になってしまった。
振り返ってみると、それから半世紀近くの時が流れたが、 毎年の身体検査で病名がつく事もなく、 基本的に健康に過ごすことができた。
私が小学六年生の時、兄が14歳で病死した事実、また、私が二歳になる前に、母は32歳で病死した事を深く考え、「兄や母の分まで、地上で生き抜いてみよう。」と、人生の半ば、心の中で強く誓った。
それ以来、 普通以上に健康に注意を払うようになった。 その上、米国では医療破産という言葉がまかり通っているように、 「病気をすることが、一番費用のかかる行為である」と自覚、それ以来、 少なくても、今日まで、医者が病名をつけるほどの病気もしていないようだ。
最近は、家庭医に毎年診察を受けることさえ怠っている。 古いポンコツ車であるから、何らかの支障があって当たり前。
現代医学の進歩の結果、より精密に診断する事が可能な今、正式に病名を告げられる事で、心が砕けてしまうかもしれない。
もう、いつ死んでもおかしくない年齢に達したのであるから、 むしろ開き直って、 「死よいつでも来い。」ぐらいの気持ちで、断捨離も終了、日々、ハワイの自然に優しく包まれ、悠々自適の気持ちで過ごしている。


