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二度目の渡米は、先に私の就職が決まった状態で始まった。 ジョージア州の水質が良い事、 労働組合結成率が至って少ない事、ジョージア州政府が、企業誘致に積極的で、 待遇が優遇されたので、 ジョージア州にでき始めたばかりの工場団地内に、日立マクセル社の工場建設が始まった。
西海岸のカリフォルニアに、6年近く住んだ経験はあったが、 米国の東海岸、しかも南部での生活は初めてであった。
始めは、会社指定のホテル住まい。 工場はまだ建設中。 州政府の諸機関との交渉に、社内通訳として社長と同行した。
正直、ビスネスの交渉等した事もない、ど素人であったが、 少なくても、英語の聞き取り能力と話す力は、社長より勝っていたので、 役に立つ事が分かり嬉しかった。
訴訟社会であるアメリカでは、企業を立ち上げる場合も 弁護士と相談する要件が多く、ジョージア州の大都会である、アトランタにある弁護士事務所に、何度も足を運んだ。
法律用語等、私は英語学校でも、 青短でも学ばなかった。 自助努力意外解決方法はない。日本語でさえ知らない。 英語でわかるはずがない。
とは言え、私は会社の通訳、空き時間を利用して、 知らない単語を、闇雲に辞書で引きまくり、単語帳に書き込み、 覚える努力をした。
仕事は朝から、12時間以上が毎日であったが、38歳は未だ体力があったし、毎日変化があり、学ぶ事が滅茶苦茶多く、興奮の連続であった。
9歳の娘は、近くの公立小学校に通い始めた。 夫はジョージア州にある新聞社に出掛け、経歴書を提出、新聞記者の仕事の可能性を打診したが、朝刊紙、夕刊紙から良い返事が貰えなかった。
私はすっかり仕事に夢中になりハッスルしていたが、夫の仕事が見つからないことに気を揉んだ。
そうこうする内に、5月中頃になり、アメリカの夏休みに突入した。 家族の世話をする余裕の無い私。 会社の車で、社長や同僚と出勤すると、夜まで自宅に帰らない。
夏休み中は、夫のご両親の元へ、娘を送り込んだ。 娘の祖父母は、喜んで引き受けてくれた。これで、9月の始めまで、娘のことを心配しなくて済む。 夫も就職に全力が注げる。
8月に入っても、夫の仕事が見つからない。 運悪く、1980年は、アメリカが不況に苦しんでいる時でもあった。 夫はアメリカの北部出身で、 ジョージア州は 南部。
色々事情があったと思うが、 今まで、直ぐに就職先を見つけられた夫が、無職のままである。あと、1ヶ月で娘も帰ってくる。
私は夫に言った、「就職先の範囲を広めた方が良いのでは.....」「よし」と夫。 ワシントンDCに住む、夫の叔母に電話を入れ、宿泊先をまず確保した。 夫は就職先を探すため、ワシントンD.C.に飛び立った。
娘はマサチューセッツ州。 米国に再度来たのは、家族がバラバラになるためではなかった。
一週間以内に、ワシントンD.C.にいた夫からの朗報。 新聞社に就職が決まった。 二カ月ほど週末に、夫はワシントンD.C.から、ジョージア州に来てくれた。
夫の給料と、私の給料を比較すると、彼の方が多い。 やっとアメリカで就職ができ、仕事の内容も面白くやりがいがあったが、 離婚だけは夢にも考えていなかった。 私にとっては初めての自分の家族、手放す等もってのほかだ。
バケツに一杯の涙を流し、 社長にはひた謝り、退職。
娘はマサチューセッツ州からワシントンD.C.に、私はジョージアからワシントンD.C.に。
先ずはアパートを借り、小さな家族の顔が全員揃いほっとした。 私は主婦に逆戻りだ。
ワシントンD.C. はアメリカの首都。講演会も沢山あるし、多種多様なパーテイーも開かれている。
日本人も出席するある立食会で、笹本さんにであった。 たまたま彼は通訳だった。 私はジョージア州で働いていた事、 夫の仕事の関係でワシントンD.C.に引っ越して来た事、 主婦に逆戻りしてしまった事をベラベラ喋った。
「国務省の言語課に、日系アメリカ人の福田氏がいる。彼に電話をして、国務省通訳試験の予約をとると良い。」と、勧めてくれた。
私が心配そうな顔をすると、国務省は、希望者にいつでも試験をしてくれるので、1回目は、「試験の傾向を調べるつもりで受ければいいのさ。」と笹本氏。 「誰にも話さなければ、落ちても問題無いよ。 これからの通訳のための勉強の指針が決まれば、 次回の試験の準備ができるだろう。」と、笹本氏は至って楽観的。
私は、兎に角、福田氏に電話を入れ、試験の予約をした。 米国人と福田氏が試験官だった。同時通訳で使うブースを見るのさえ、生まれて初めてだった。 簡単な操作の仕方を教わり、 試験開始。
1時間近い試験が終わり、その場で合格発表。呆気なく受かってしまった。 書類に自分の住所、電話番号、略歴、家族構成等を書き込み福田氏に手渡し、その日は終了。
8ヶ月近く、毎日13時間近く、社長に同行して通訳をして来たのが、 偶然、 図らずしも、国務省言語課の通訳試験準備になっていたようだ。
私は舞い上がった。 国務省言語課の試験は3種類あった。 エスコート通訳、セミナーでの逐次通訳、国際会議での同時通訳で、はじめての試験で、一番難しい同時通訳者として認められたのだ。
鼻をひくひくさせ、背筋を伸ばし、ただただ仕事の電話が入るのを待った。けれど、数ヶ月何処からも仕事関連の電話は入らなかった。
地元新聞の募集広告を読み、ジョージタウン大学で、事務職員を募集している事を知り、応募したところ、受け入れてもらえた。
歴史のある カトリック系大学で働けるとはありがたい。1890代に、神学校として創設された、古い石造りの学校であった。
びっくりするほど、 お給料は安かった。 大学側は、「大学の講座を聴講しても良いとか、 大学のプールや体育施設も利用して良い。」と。
でも、私は収入を求めて働きに出たのであるが、通訳の仕事も全然問い合わせが入らないので、取り敢えず、 毎日大学の事務局に通った。
遅まきながら、私は気がついた。国務省言語課の通訳試験は、受かった事実を、国務省が記録して置くだけで、就職の世話まではしないのだ。
ここはアメリカ。 自分を売り込む責任は飽くまで自分なのだ。 やっと事情が飲み込め、英文で経歴書をしたため、日系の旅行会社等へ送付した。
旅行会社は、主にワシントンD.C.近郊に来る、日本の観光客相手の仕事が大方であったが、 偶には、研修で来る小集団もあり、通訳を雇う事もあった。
少しづつ、私にも声がかかるようになり、 大学の事務職を辞めた。 自由業で何とかやっていこうと決心した。
国務省の試験に合格してから、半年ほど過ぎた頃から、米国省庁の仕事も少しずつ入り始めた。
国務省の仕事でエスコート通訳をいただいた。
仕事がしたくてうずうずしていた私は、渡りに船で、何でも勉強になるから、試してみる事にした。
日本から選ばれた、例えば、図書館の司書を1か月間、アメリカに招待し、 アメリカ人の司書と、図書館関連の話をする機会を与える企画だった。
米国の東海岸、中西部、南部、西部等幅広い地域を訪問、どの場所でも、同じ仕事をしている方と会談する。 その時の通訳役が私の仕事だった。
米国生活二度目とは言え、カリフォルニア州サンディエゴに6年近く住んだだけで、 旅行といえば、ロスアンジェルスへ数回、サンフランシスコへ一回、ヨセメティ国立公園へ一回行ったきりで、 カリフォルニア州以外の米国本土は全然知らなかった。 一年弱ジョージア州で仕事をしたきりだった。
国賓の意見も取り入れて、訪問先が決められたが、 多くの日本人招待客は、ニューヨーク市とサンフランシスコを、予定の中に入れて欲しいと要望した。 また、ナイヤガラの瀧とグランドキャニオンの希望も多かった。
結果的に、ナイヤガラの滝とグランドキャニオンへは、仕事に伴う旅行で、何度も訪れる幸運に恵まれた。
経済学部の教授は シカゴ大学、 ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学等を希望したので、 私も有名大学の校内を、歩き回る事もできた。
ワシントンD.C.は、米国の首都で、政治の中心だ。 それ故に、省庁が全て揃っている。 徐々に、 各省庁からの依頼も増え始め、通商代表部、農務省、労働省、商務省等、事前に勉強せねばならない場合が多く、準備に多くの時間を割いた。
逐次通訳や同時通訳をしている内に、 民間の通訳斡旋業者とのつながりもでき、少しづつ、民間の仕事も増え始めた。通訳料金は民間の方が良かった。
民間の通訳斡旋業者数社と繋がりが広がり、いつのまにか、民間の通訳の仕事が8割に増えた。
ある時、ヨーロッパでの仕事が舞い込んだ。 特許関連の仕事で、世界特許庁の本部があるオランダのヘーグに出張が決まった。
数ヶ月後、フランスのニースへ出張が決まった。生まれて初めてオランダに行き、 次はフランスを訪問できる。
ジョージア州の工場内での通訳より、仕事の内容に変化があり、旅行も伴う面白く有意義な仕事だった。
夫はワシントンD.C.内にある新聞社での仕事で、編集に関わっていたので、 出張が無いのが幸いだった。
10、11、12、13歳と、年毎に娘は成長していたが、 自宅に家族の誰かが、夜少なくてもいる事は重要であった。 夫のお陰で、安心し切って、通訳の仕事のために飛び回った。
フランスのニース、豪華な海辺のホテル内で仕事を続けた。 最終日のお昼時、私の職場であるブースへ、一人のフランス人夫人が姿を現した。 スイスのジュネーヴに本部がある、AIIC (国際通訳者協会)の会員にとの勧誘だった。
協会のメンバーが、私の通訳ぶりを聞いていたようだ。 名誉な申し出に、私は喜んで承諾した。 後で申込書を送るとの事。 住所と電話を書いた紙をその方に手渡した。
協会では日英通訳者数が少なく、ちょうど増やす努力中だったそうだ。 良いタイミングでフランスに来た事になる。メンバーになれば、今まで以上に、ヨーロッパでの仕事も増える。
いつのまにか、売れっ子通訳が誕生していた。一つの仕事が終わると、その場から、次の仕事の場所へ飛ぶ事も多くなった。 家に帰る暇さえないほどの多忙さだった。
1980年代1990年代は、 日本も世界第二の経済大国と言われ、 あらゆる分野の日本代表が、世界大会に出席し、 基調演説をする場合もあった。 油の乗った私の40代、50代は、ただただ夢中で働き、勉強をした。
機密内容の仕事もあり、夫が新聞社勤めであるため、私の仕事を守るため、 仕事内容に関する質問は、家庭内で絶対に、お互いにしない約束をした。
また、編集以外に、記事を書けば受け入れられる可能性も多かったが、 大事をとって、彼は記事を書く事を完全に放棄、編集の仕事だけに専念した。
自動車二台の月賦払い、自宅購入の為銀行で借りたお金の返済と教育費等、これからも費用が嵩むので、 二人がそれぞれの分野で働き続ける事が、我が家にとって重要案件だったからだ。 問題になりそうな事は自主的に避けたのだ。
特に40代の10年は、選択せずに、入る仕事は皆引き受けてしまったので、 ぼろ切の雑巾のように、くたくたに疲れてしまった。
身体が資本である通訳業、張り切り過ぎていた自分を反省、仕事の合間を利用して、焼物教室に通い始めた。 口を動かし過ぎる仕事である通訳。
脳の中が疲労困憊している事実に直面、黙って粘土をいじる焼き物は、その時の私に必要な趣味だった。
粘土は器の厚さ大きさ等により、乾くスピードが違う。 自由業の通訳業は、いつ入るか自分でコントロールできない。
丁度削り時に、仕事が入り、終わって教室に戻ると、製作した器は乾き切ってしまい、削れない。 半乾きの時が一番削り安いのだ。
焼き物の粘土を随分無駄にしたが、 練習と位置づけ、余り気にしない事にした。
電動轆轤もあったが、私は静かな蹴り轆轤を気に入っていた。 グレンエコー焼き物教室は国立公園内にあり、森に囲まれた自然の美しい場所にあった。
ホテルを飛び回り、 通訳、に明け暮れ、心身共に疲れ果てていた私には、木の間隠れに見える、ヤート型(昔の原住民の家様式)焼き物教室が、とても気に入った。
焼き物教室に来る人々の中には、お喋りを楽しむために通っている人もいたが、 私は黙々蹴り轆轤を使い、色々な大きさの器を作り続けた。
焼き物教室の先生であるジェフは、 日本から来た焼き物師から学んだようで、釉薬も日本の物もあった。 例えば、高麗青磁、日本の有名な陶芸家浜田庄司氏に因んで、釉薬浜田もあった。
焼き物教室に通い始めても、通訳業は続けた。身体が潰れないように、 少し仕事量を微調整しただけだ。
1990年代は、まだ、インターネットが民間で使われていない時代だ。 自宅に仕事の電話が入ると、仕事から帰った夫が車で、焼き物教室まで知らせに来てくれる事もあった。
ギリシャのアテネでの仕事もあった。 ホテルでの仕事後、 ギリシャ神殿を見たり、 夜にはそのギリシャ神殿で、ギリシャの演劇を鑑賞した。
プエルトリコでの仕事も数回入った。 新サンホワンの立派なホテルで仕事をした後、 地元のスペイン語通訳と、歴史的に古い旧サンホワンまで、バスで見学に行った。 そのバスは貧しい人々が住む住区を通り抜けた。
フランスのマルセイユーでも仕事をした。 大きな古い港町で、 健脚を利用して仕事が終わってから、その港を歩き回った。海産物のワイン煮を味わった。
スペイン、イタリア、ポルトガル、スイスでも仕事が入った。 自分のお金では到底いけないような外国への出張が多かったのだ。 国際会議であるから、泊まるホテルも一流と来ている。 通訳とこじきは、一度味を締めると、辞められないのだ。
30代の中頃から、 半信半疑で片足を突っ込んだ通訳業も、40代、50代と順長に推移した。
40代の時程は忙しくなかったが、 定期的顧客も増え、割と安定したい仕事数をこなし続けていた。